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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

読書ノート『賭博の日本史』(2)

『賭博の日本史』増川宏一(平凡社1989)

・・・中世の賭博・・・

【右京の行政長官であった藤原明衡が11世紀半ばに記した『新猿楽記-雲州消息』より】
大君(おほいきみ=長女の意)の夫は、高名の博打(ばくちうち)なり。筒(どう)の父(おや)、傍(あたり)に擢(ぬ)け、賽の目、意(こころ)に任す。語条、詞を尽し、謀計術を究む。五四(ぐし)の尚利目、四三(しそう)の小切目、錐徹(きりどほし)、一六の難(だ)の呉流(くれながし)、叩子(おおいこ)、平賽(ひやうさい)、鉄賽(かなさい)、要筒、金頭(かながしら)、定筒(じようどう)、入破(いれわり)、康居(たらすえ)、樋垂(えいひれ)、品態(ほうわざ)、賽論(さいろん)、猶、宴丸(えんくわん)、道弘(みちひろ)に勝れり。即ち四三、一六の豊藤太(ぶとうだ)、五四(ぐし)、衝四(しうし)の竹藤掾(ちくとうじよう)の子孫なり。字は尾藤太(びとうだ)、名は伝治(すけはる)、目細く鼻扁(ひら)にして、宛も物の核(さね)の如し。一心(しん)、二物(もつ)、三手(しゆ)、四勢(せい)、五力(りき)、六論(ろん)、七盗(とう)、八害(がい)、欠けたる所なきか。
【意味】
伝治という名の長女の夫は、目が細く鼻が扁平で容貌の良くない男であるが、雙六賭博の名人である。それで、賽の目の四と三、一と六を自在に出すことの出来る豊藤太や五と四、四と四の目を望むままに出す竹藤掾という有名な博奕打の子孫と称して、字を尾藤太という。尾藤太も五と四、四と三、一と六などの目を自在にあやつり、宴丸や道弘のような博奕の上手より勝れているという。(一)心をゆったりと持ち、(二)賭物は十分に用意しておき、(三)技術的な修練を積み、(四)勢いのある打ち方をして、(五)力づくでも勝ち通そうとし、(六)言葉でも相手を言いくるめ、(七)相手の賭物を盗み取り、(八)相手を殺してでも賭物を奪い取る。勝つためには、これで不足は無いであろうか。
『梁塵秘抄』
●博打の好むもの、平賽子(ひょうさい)鉄賽子(かなさい)四三賽子(しそうさい)、それをば誰にうち得たる、文三刑三月々清次とか[17]
●我が子は二十歳(はたち)になりぬらん、博打してこそ歩くなれ、国々の博党に、さすがに子なれば憎かなし、負かしたまうな、王子の住吉、西の宮[365]
●媼(おうな)の子供のありさまは、冠者は博打の打ち負けや、勝つ世なし、禅師は早(まだき)に夜行(やかう)好(この)めり、姫が心のしどけなければ、いとわびし[366]
●拘尸那(くしな)城の後(うしろ)より、十の菩薩ぞ出でたまふ、博打の願ひを満てんとて、一六三とぞ現(げん)じたる[367]
●法師博打の様(やう)かるは、地蔵よ迦旃(かせん)二郎寺主(てらし)とか、尾張や伊勢のみみづ新発意(しもち)、無下に悪(わろ)きは雞足(けいそく)房[437]
【鎌倉幕府・寛喜3年(1231年)6月6日「関東御教書侍所沙汰篇」】
田地所領をもって雙六の賭となすこと/右、博戯の科は禁制これ重く、しかも近年、ただ制符に背くに非ず、あまつさえ田地をもって賭となす由があるときく、自今以後、停止たるべし。もしなおも違反せしめる者は、はやく重科に処すべし。その賭を没収せしむべし。

賭物にした田地所領は没収すると命じている。このように下知しなければならないほど雙六賭博が蔓延していて、かつ田地所領の賭物が頻繁だったのだろうと推察される。御家人の土地喪失は政権の不安定を招くので、支配者層にとっては、放置することの出来ない重要な問題と認識されていた。土地が賭物になることは、貧富の差を拡げる要因というだけでなく、鎌倉政権をゆるがす政治問題に直結するものだった。

実際には、中世における土地問題ははなはだ不明な部分が残っており、土地を賭物とした場合の法的処分は、地方によってまちまちだったことが指摘されている。しかし、賭博による質入れとして田地が取引されていたことは厳然たる事実であり、当事者双方が所有権を主張する財産として認識していたことは明らかである。

★公家の賭博・・・高度な教養が必須の賭博。『看聞御記』『権記』『花園天皇宸記』他
●連歌・連句●碁●賭弓(のりゆみ)●香合(十種香)●貝覆●回茶(闘茶)●闘酒
●闘鶏●競馬(くらべうま)●蹴鞠
●目勝(めまさり)=賽を振って出た目の多い方を勝とする
●初音=郭公の初鳴きをどちらが早く聞けるか勝負
●根合(ねあわせ)=根の部分を繋ぎ合わせた長さを競う。菖蒲の根を使ったらしい?金や銀で偽の根を作って競争した?
●文字書(もじがき)=別称「文字合(もじあわせ)」=偏や旁から文字を創ってゆく賭博
●掩韻(おおいいん)=別称「韻掩(いんおおい)/韻塞(いんふさぎ)」=詩句の韻をふむ部分を伏せ、伏字を当てる賭博…etc
>>「二条河原落書」(建武元年・1334年)…連歌賭博を揶揄>>
京鎌倉をこきまぜて一座そろわぬえせ連歌、在在所所の歌連歌、占者にならぬ人はなき

★下層民の賭博・・・神人が多かったらしい。例:春日社

春日社は8世紀後半に建てられた古い神社で、後に本宮と若宮に分かれた。神事や儀式に関わる社司・氏人と、社務や雑用に従事した多数の神人がいた。本宮の神官中臣氏は代々の神官が記録(『春日社記録』)を残している。この記録には神事だけでなく様々な記録があり、大便や小便で社頭を穢す者がいた事や、最高位の執行正預職にあった遠忠が死人を喰べて解職された(建久9年/1198年)…等の内容がある。

春日社には雑役や警固の仕事に就いていた神人たちが数多く居て、「平郡の良順房の許に神人百人を差下す事」(文永9年5月8日/1272年)の例のように、想像上に多数の人間が勤務していた。神人たちは低い地位や苛酷な労役への鬱憤のゆえか、粗暴な振る舞いが多く、しばしば乱酔し喧嘩や刃傷沙汰が絶えなかった。賭博に耽って処罰されているのも神人たちである。

>>文永9年・神主中臣祐賢宛ての手紙>>
近頃、神人たちの間で博奕があると聞いています。(勝った者は負けた者の)住宅に打入り、子に淋しい思いをさせ、あるいは負けて衣装を奪われ、出仕する事が出来ない者もあるといいます。四一半を打つ者は、氏により重科に処せられ、神の怒りに触れるでありましょうか。博奕が露見した者は全て罪科を蒙り、法皇御中陰以後は、博奕の党を捜し出して御沙汰の由あるべきと存じます。恐々謹言/三月九日/謹上-若宮神主殿
>>祐賢(=中臣氏は若宮神主を兼任する場合もあった=)の回答(請文案)>>
近日、神人の中では四一半を打つ者があり、露見した場合は罪科に処すようにとの御書状謹んで承りました。速やかにこの旨を徹底したいと存じます。ただし、若宮の神人たちが四一半を打っている事は、まだ聞き及んでおりません。よくよく尋ね明かして、もしそのような事実があれば沙汰に及びます。この旨を披露いたします。恐々謹言/若宮神主-祐賢-請文
>>回文>>
今日、衆徒より、去る一日、社頭で山賊等と氏人や神人等の間で博奕があったと聞くが、両条は罰文をのせ、落書をするようにと御命令になった。来る九日に件の状などを集められるという事である。恐々謹言/四月四日/謹上-正預殿並びに権官氏人御中/追伸-若宮の神主殿はご存知になっているのだろうか。若宮の神人へ(本文にあるとおりの)沙汰を下知して下さい。

この回文は、正預・権官・氏人(=社司の子弟)宛てとなっており、全ての社司、社家をあげて一大賭博取締り運動を実施する事になったのだろうと推測される。それほど春日社全体に賭博が蔓延していたらしい。

ここにある「落書」は、無記名投票か匿名投書のようなもので、これによって犯人を摘発する手筈となった。バックで何者が動いたのかは判明しないが、この賭博事件に関しては、非常に迅速で組織だった法的処置がおこなわれようとしていた。

>>同月13日、御八講座から「神人の間で四一半を打っているのは顕然とした事実」と断定、速やかに社司評定をして犯人摘発の落書をおこなうよう要請。

>>同月14日、寺家から「社司、氏人、神人が先に罰文を載せた置文を提出し、その後に落書を差出させて、15日の般若会の場で落書の内容を発表する」と提案。

>>4月30日、回文案と置文の写しが記録された>>
神人が博奕をしているので置文を提出させます。詳細でなく、各々便宜に従って書名と判を押すようにすべきかと存じます。恐々謹言/四月三十日-神主泰道/謹上-正預殿並びに殿原御中/追伸-若宮の神主殿にも同様にお知らせ下さるように。謹言
>>定置>>
神人などの間で四一半を打つ者は落書に任せてその結果で罪科を加えること。右は御八講の満座をもって御評定された趣である。寺家より社家に触れられたものである。近頃、神人等のなかで博奕が盛んになっていると聞く。それゆえ、落書をもってその名前を注進させ、罪科を加えるものである。但し、このようにして名前があらわれた者が、朝夕の勤めを励んでいるからと言い、或いは有力な縁故をたよって博奕をしたことを潤色して罪を逃れようとするならば、後代まで断絶されるであろう。かねて定められた罪科に限り、多数の落書に名前を書かれた者は、一番多い者から六番まで罪科に処す。それは住宅を破却し神人職を解任することである。このように定めた上は、社司等はえこひいきしてはならない。もし判形をしながらこの状の主旨に背く社司等があれば、嬌□の沙汰がある。尊神の御罰は不空の者に定まる。よって寺家の御定に任せ、定置するところ件の如し。/文永九年四月□日…(以下、代表者の連名連判が続く)
>>5月5日、御節供の儀式の後で集会があり、集められた神人たちの落書が発表された>>
春熊四通、春松五通、石王五通、北郷の虎王四通、南郷の虎王四通、延命二通、春日一通、亀寿一通、延命一通(南郷または北郷か)、高薬師一通
>>祐賢の日記より>>
すでに五人は罪科の執行を終えた。置文にあるように六人を処罰するところであったが、延命は寺家に申し開きしたので、罪科は免除になった。解職された者は寺家から御沙汰があって、公人により住宅を破却された。若宮の神人のうち、今度の落書に名前を書かれた者は一人もいなかった。神妙である。

少なくとも11名の賭博常習犯が摘発され、この時の賭博取締りの一件は落着した。摘発されたのがわずか11名であるという状況は、実態を反映していない。実際には、もっと広範囲の人々が賭博遊戯に関わっていた。

落書で罪科を蒙るため、神人たちは互いに庇いあい、隠しあったと推察されている(=下層に位置する者ほど処罰が厳しくなった。上層部の者も賭博に関わっていたが、上層部は罪科を免れ、下層部の神人たちは上層部の罪科のしわ寄せを受ける立場に居たのである)。

また、「若宮神主にも伝えよ」という繰り返し伝達があるのは異様なことで、何らかの政治的意図が隠されていたと見ることもできる。上記の博奕事件が権力争いの道具として利用されていたという可能性を考えると、若宮神主であった祐賢が「若宮の神人で名指しされた者は一人もいなかった」と記録したのも、そういう状況の中では、深遠な含みがあったと言わざるを得ない。


【中世のサイコロ賭博】
「七半」・・・2コのサイコロの目が合計7の時、賭金の半分をやり取りできる
「四一半」・・・2コのサイコロで1と4の目が出た時、賭金の半分をやり取りできる
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読書ノート『賭博の日本史』(1)

『賭博の日本史』増川宏一(平凡社1989)

・・・賭博の起源・・・

古代の人々は――そして今なお原始的な暮らしをしている民族も――神を祭り、その意思を問う儀式をおこなった。神意を問い神託を受ける行為は「賭」の萌芽であった。未来を予知することによって何らかの利益を得ることは、賭の最も初期からの理念であろう。したがって、原始の賭は神の意思を知るための神聖な行事であった。

偶然によって勝敗の決まる賭博が神の意思の表れとみるならば、賭博は神を媒介とした勝負であった。ギリシア神話や『ユリシーズ』等に見られるように、競技や決闘の勝敗は常に神によって定められた。勝者は神の加護によるものであった。それゆえ、競技の賜物は神の恩恵によって勝者に授与されるものと見なされていた。賭は祭儀から始まったことを反映して、広くおこなわれるようになった賭博でも、長きにわたって超自然的な力の作用が考えられていた。

【宝貝】=極めて古い時代から用いられた祭儀用アイテム。
表裏が明瞭になっているのが特徴。少し高い場所から貝を振り、落ちて着地した際に宝貝が表向きになっているか裏向きになっているか、その各々の数によって神託を占った。宝貝は原始的なサイコロとして、祭儀に利用された。ここでは、祭儀と賭の萌芽が一体となっている。

◆古代インドの神を祭る儀式=「犠牲を奉納する神官か婆羅門やその他の(祭礼を司る)者は、北に雄牛の皮を広げ、そこに開封した真珠の容器を置き、それから手に五つの宝貝を持って抛(ほう)る」。この儀式では五つの宝貝を四回振ることによって神意をおしはかる(神託を受ける)ことができるとされた。

◆古代ギリシア・古代ローマ=犠牲として捧げられた動物の踝(くるぶし)の骨をサイコロとして用いた。踝(くるぶし)の骨の形状が四角四面に近く、振ると四面のいずれかが上向きになった。

◆ハンムラビ法典=容疑者を裁くために、五種類の神意による審判の方法が記されている。

◆古代インドの神判=抽籤審という偶然の正邪判別の所作が定められていた(モーゼ法も偶然によって正邪判別)。

◆古代エジプト=死後の世界を描いた壁画に、王or貴族が独りで盤上遊戯(おそらくサイコロを使った遊戯)をおこなう姿が描かれている。神に対して自己の運命を占っているか、賭けている行為を描いたものだと言われている。やがて神の代行者として具体的な相手(実際の人物)が設定され、対戦相手ありきのゲームが成立するようになり、祭儀から遊戯への分離が起きた。

《わが国の場合》
◇次の年の吉凶を占う=年占、粥占、竹伐会(たけきりえ)、神社の射礼(射的)、競馬(くらべうま)、相撲・・・伝統行事となった。
◇路上の占い=夕占・夕卜(ゆふけ)、足卜(あうら)、路行占(みちゆきうら)・・・賭博に発展する要素があった。

《覚書》古代インドの頌歌(しょうか)と祭礼賭博

月が星宿プールヴァ・アーシャーダに宿るとき、賭場となるべき場所に穴を掘る。月が星宿ウッタラ・アーシャーダに宿るとき、ヴィビーダカの実を集める。賭場に草を敷き詰め、所定の期間牛乳と蜜とに漬けて保存した後、賭博に勝利を得るための呪文をささやきつつヴィビーダカの実を撒く。・・・『アタルヴァ・ヴェーダ讃歌』

※ヴィビーダカは熱帯性の巨木で無数の実をつける。ここで述べられている賭博は、賭場とした窪地にヴィビーダカの実を多数入れておき、手でつかんだ実の数が4で割り切れるのを最上とする方法となっている。おそらく紀元前10世紀ごろからおこなわれてきた方法であろうと言われている。

※古代インドでは賭博を司るのは女神アプサラスで、「賭博に勝利を得るための呪文」は、アプサラスを称える内容になっている。


わが国の歴史における最古の賭博の記録
●『日本書紀』天武天皇14年(685年)条=天皇が紫宸殿で諸官を集めて博戯を催した
●持統天皇3年(689年)条=雙六を禁断す

博戯は中国古代の盤上遊戯「六博」に由来する。駒を進めるレースゲームのタイプか、駒を取り合う囲碁将棋ゲームのタイプかは分かっていないが、お酒を飲みつつ、大騒ぎしながら行なう賭博だったと伝えられている。三国志の時代には、無頼漢の間で大いに流行していたと言う逸話がある(劉備や関羽、張飛も、道すがら熱中していた筈ではある)。

雙六は六博の後に流行した。盤上の二列に並んだ12個の升目の中を、白黒15個づつの駒を進める競争ゲームの一種。筒に入れた二個のサイコロを振って進めるので、偶然に左右されることが多く、賭博の用具となった。わが国では長い間、この雙六賭博が主流であった。

・・・平城京の時代・・・

『万葉集』
●一二(ひとふた)の-目のみにあらず-五六(いつ・うむつ)-三四(みつ・よつ)さへあり-雙六の采(さえ)[3827]
●吾妹子(わぎもこ)が-額(ぬか)に生(お)ひたる-雙六の-牡牛(ことひのうし)の-鞍の上(へ)の瘡(かさ)[3839]
『催馬楽』
大芹(おおぜり)は-国の禁物(さたもの)-小芹(こぜり)こそ-ゆでても旨し-これやこの-せんばん-さんたの木-柞(ゆし)の木の盤-むしかめの筒(どう)-犀角(さいかく)の賽(さい)-平賽(ひやうさい)頭賽(とさい)-両面(りやうめん)-かすめ浮(う)けたる-切りとほし-金(かな)はめ盤木-五六がへし-一六(いちろく)の賽や-四三賽や
『続日本紀』孝謙天皇の天宝勝宝6年(754年)条
冬十月十四日、(天皇は次のように)勅した。官人や百姓が憲法を畏れず、秘かに徒衆を集め、意に任せて雙六を売って淫迷に至る。子は父に従わず、ついには家業を亡ぼし、また、孝道をけがすだろう。これにより遍く京・畿内・七道の諸国に命じて、固く(雙六)を禁断させる。これに違反した者で六位以下は男女を論ずることなく杖(じょう)百の刑に処し、財をもって罪を逃れることは許さない。五位の者はその位を解き、位禄と位田を奪う。四位以上の者は封戸(ふこ)を給うことを停止せよ。職(しき)の官人、及び諸国の国司、郡司が(博奕の徒に)おもねり許して、禁じなかったならば、皆解任せよ。もし(博奕の徒)二十人以上を告発する者があれば、無位の者は位三階を叙し、位田のある者には絁(あしぎぬ)十疋、布十端を賜う。

※8世紀の中ごろには、高位の者も賭博に熱中していたことがうかがえる。

延暦3年(784年)10月20日の天皇の勅『類聚三代格』
この頃京中に盗賊が多く、街頭で物を掠め取り、人家に火を放つと聞く。職司がこれらの者を粛清できないので、凶徒の賊害が生じている。今後は隣保をつくって非違を検察する条をつくる。これら遊食博戯の徒は、陰顕を論ぜず杖一百と決め、放火略奪をする者は法に拘らず、懲らしめるのに殺罰をもってし、搦め取って姧□を渇絶せよ。

※賭博に負けた者が盗賊になるという発想は、長い期間、支配者側(取り締まる側)の意識として定着していた。実際には、平城京においては、災害や飢饉・地方の苛政によって都に流れ込んだ流民や、大仏や寺院の建設のために上京して、そのまま都に住み着くことを余儀なくされた貧民も多かったと言われている。

・・・平安京の時代・・・

【長元8年=1035年、12月13日、検非違使庁より京都全域に出された賭博取締令に対し、各地の役人であった刀禰からの復命文】『平安遺文』554-569
近年、京都中の邪でみだらな連中が集まって徒党を組み、雙六賭博をおこなっています。以前に禁じられたいましめも、今ではまるでなかったに等しい状態です。最もはなはだしい博打は制止するようにとの御達しは、仰せの如くいたします。また、隣近所のうち、禁止の御命令をはばからない者は、確実にその名前を記し、すみやかに申し上げます。
【左京三条三坊四保の刀禰からの報告】
賭博をおこなっている者たちは高家の雑色や牛飼の輩で、役人が禁止しても聞き入れず、それどころか放言して制止を無視する有様で、私たちが止めようとしても、とても従いません。
権中納言藤原定家『明月記』-嘉禄2年(1226年)2月14日条
近日、前宰相中将信盛卿の家の門と築垣の辺に、京中の博奕狂者が群をなして集まり、雙六の座をもうけて(賭博を)おこなった。(信盛卿の家の者が)自家のうちなので制止しようとしたが、(雙六の徒は)承引しなかった。家主はこの由を河東(の警固所)に連絡したので、(河東は)武士を派遣して(博奕の徒を)一人も残さずことごとく搦め捕った。(武士たちは博奕の徒の)鼻を削ぎ二指を斬った。隆親卿の小舎人の冠者も(捕まった博奕の徒の)なかにいたが、一人だけ特別に放免されることはなかった。

西洋中世研究3中東の学芸文化

※中東エリアの話ですが、こちらも「西」なので、西洋カテゴリに

【ジュンディー=シャープール学派の成立/5世紀-7世紀】

当時のキリスト教神学は、ギリシャ哲学を使っていました。従って、各地にキリスト教を布教する場合、必然として、ギリシャ哲学も一緒に紹介する事が必要になってきました。

431年のエフェソス公会議で異端宣告を受け、追放されていたネストリオス派は、東ローマ帝国に迫害されていた事もあり、ギリシャ語を積極的に捨てて、土着のシリア語で布教を行なっていました。彼らは、シリア語に訳された聖書、神学書、哲学書を用いて布教していました(北方ではアルメニア語・グルジア語への翻訳運動がさかんに行なわれていた事が指摘されています)

その結果としてネストリオス派は、シリア語訳されたアリストテレス哲学や新プラトン主義、それにヘレニズム科学技術の各種を、西アジアに普及するという事になったのです。

シリア化された各種の科学・学術は、ササン朝ペルシャの冬の離宮のあった都市、ジュンディー=シャープール(スサ近郊)に集中し、洗練されてゆきます。

元々ジュンディー=シャープールとは、ササン朝ペルシャ初期の王シャープール1世が、260年エデッサの戦いでローマ皇帝ウァレリアヌスの軍と戦い、これを徹底的に撃破し、皇帝を含めたローマ捕虜を収容したところです。「シャープールのキャンプ」という意味ですが、このときローマ技術が相当に流入したと言われています。

このような経緯から始まったジュンディー=シャープールの町でしたが、早くからネストリオス派の学者を招聘して、シリア語訳を通じて、ギリシャ=ヘレニズム文化が盛んに学ばれていたのであります。

特にこのギリシャ=ヘレニズム文化の愛好者でもあったホスロー1世(在位年:531-579)が即位すると、この町にアレクサンドリアのムーセイオンを模した立派な研究所が作られました。付属病院や天文台も設置され、医学、天文学、数学などの研究が奨励されました。

※ホスロー1世は、首都クテシフォンにも学問の都を作りました。ジュンディー=シャープールがローマ風建築だったのに対して、クテシフォンは純粋なオリエント・イラン建築だったと伝えられています。ちなみに、クテシフォンの宮廷を彩ったペルシャ人貴族たちは、夏の避暑用に膨大な量の氷を保存していたそうです

ジュンディー=シャープールでの教育は、エデッサやニシビス同様に、当時のリンガ・フランカ(共通文化語)であったシリア語で行なわれました。カリキュラムの必要に伴い、当時最先端の学術のシリア訳が、大量に作られる事になったのです。

525年に東ローマ帝国ユスティヌス1世(在位年:518-527)がアテナイの学校を閉鎖した際にも、ギリシャ本土の学界から追われた第一線の学者たち―シンプリキオス、ダマスキオス、プリスキアノス等―も、ジュンディー=シャープールに受け入られています。

更にインドの学者も多く招聘されています。このようにして、ジュンディー=シャープールにおいてシリア・ヘレニズムの頂点が築かれたのであります。シリア・ヘレニズムとは、ギリシャ、インド、ペルシャ各地から到来した最高の伝統文化の、統合の試みに他なりませんでした。

アレクサンドリアが衰退した後の時代においては、シリア・パレスチナ・ペルシャが、世界随一の学芸文化の先進地帯でありました。シリア・ヘレニズムを通じてジュンディー=シャープールに花開いた一大総合文化こそ、後のアラビア科学の成立と発展の基礎となったものなのです。

実際、アッバース朝の科学文化の大きな支柱となったものの中に、ジュンディー=シャープールの学派がありました。アラビアの高い文化は、ジュンディー=シャープールに結集したペルシャ文化を、アッバース朝の時代になってバグダードに移転する事によって、初めて可能になったのです。

【ペルシャ・ヘレニズム&アラビア・ルネサンス/7世紀-9世紀】

ジュンディー=シャープール学派を育てたオリエントの強国、ササン朝ペルシャは、642年ニハーヴァンドの戦いで、新興勢力の正統カリフ=イスラーム軍と衝突し、敗退・滅亡します。

当時のイスラームは「大征服の時代」のさなかにあり、アラビア半島を中心に急速に領土を拡大。第2代カリフ、ウマル・ブン・アルハッターブ(634即位-644没)は中東の広範な地域を征服していきました。

イスラーム=アラビア語圏の著しい特徴は、その急激な拡大速度にあります。

イスラームという新興宗教がもたらした情熱は、『コーラン』によって特徴付けられたアラビア世界をアラビア半島部に留めるものでは到底なく、たちまちのうちに多くの世界を巻き込んでいったのであります。その極大期のイスラーム世界は、東はシナに達し、西は地中海沿岸、南はアフリカ、北はハザールに達するものでありました。

アラブの大征服に伴うイスラームの急激な拡大は、必然、イスラーム圏に壮大な思想潮流を巻き起こさずにはおきませんでした。それはまず、マホメット死後の『コーラン』の法的解釈の分裂を引き起こし、次いで、思弁神学の分派(スーフィズム等)を生み出してゆく事となります。

またビザンツ帝国と接触した折、輝かしいビザンツ文化も吸収したのであります(初期のモスクは、征服した土地の東方キリスト教の聖堂を借用したものです。それを祖にして、モスク建築が生まれました)。

やがてイスラームはウマイヤ朝(661-750)の時代を迎えます。そして、重要な事件が起こります。ヒジュラ暦61年(西暦680年)のアーシューラーの日に、シーア派の第3代イマームとされるフサインが、カルバラーのムスリムと共にウマイヤ朝軍に虐殺された、いわゆる「カルバラーの悲劇」が発生したのです。

これによって、スンナ派がイスラーム世界における覇権を確立する事になりましたが、シーア派との深き対立の始まりでもありました。ちなみに、スンナ派イスラームのウマイヤ朝そのものは、次第に世俗化してゆきました。

ウマイヤ朝は、「征服王国」という性格上、強烈なアラブ至上主義の王国であり、イスラームに改宗したペルシャ人含む外国人(マワーリー等)は疎んじられる傾向にありました。アラブの伝統的な文法や韻律、コーランに伴う法律といった「固有の学」は研究されたものの、いわゆる「外来の学」である哲学や科学には殆ど関心が払われなかったと言われています。

さて、シーア派の主力は、ペルシャ東方のホラーサーン地方にありました(ちなみに、ウマイヤ朝の首都はシリアのダマスカスです。故に、当時のスンナ派の主力はシリア・パレスチナ方面に集結していたと考えてよいだろう、と思われます)。

イスラーム世界における反体制諸勢力を含めてウマイヤ朝の支配に不満を抱く人々は数多く、750年、ホラーサーン地方のシーア派の反乱に始まる「アッバース革命」が発生します。

「アッバース革命」と同時に、イスラームの中心を担うカリフの都も、バグダード、コルドバ、カイロの三都市に分かたれたのだ、といっても過言では無いようです。このアッバース朝(750-1258)の成立を以って、イスラーム世界に大きな転回点が形成されました。

転回点とはどういう事かといいますと、「アラブ人による征服王朝」から「普遍的世界帝国(イスラーム帝国)」への拡張が起こったという事です。その中で、イスラーム世界のペルシャ化が急速に進行しました(751年、タラス河畔の戦で唐の軍隊を撃退し、中央アジアへのイスラーム拡大も同時に進行しました。ちなみにこの時に、シナ人捕虜を通じて、製紙技術が西方に流入したのは、有名なエピソードです)

初期アッバース王朝の歴代宰相を輩出したバルマク家は、ホラーサーン地方の都市メルヴの出身ですが、都市メルヴの古名は「アレクサンドリア・マルギアーナ」、即ちヘレニズム諸都市の1つでありました。アッバース朝の有力な豪族であったバルマク家のギリシャ文化愛好は、やがてアッバース朝の中枢にペルシャ・ヘレニズム運動を巻き起こすまでになったのであります。

762年からバグダードに新都マディーナ・アッ=サラーム「平安の都」が造営され始めると、イスラームの学問の中心となりつつあったバスラやクーファから著名な学者が集結しました。シリア・ヘレニズムの頂点を形成していたジュンディー=シャープール学派もまた、多く移り住みました。

ペルシャ・ヘレニズム運動における文明移転に際して特に重要な役割を果たした、翻訳の巨人として有名な学者が、フナイン・イブン・イスハーク(808頃-873頃)とサービト・イブン=クッラ(826-901)です。

フナインは多言語に通じたネストリオス派キリスト教徒の学者で、母語はシリア語でした。サービトは、シリア北部の町ハッラーン生まれのサービア教徒(独特な星辰崇拝を持つグノーシス派)で、同じく多言語に通じた学者でした。彼らの仕事は、優れた次世代翻訳家を多く生み出します。

ペルシャ・ヘレニズム…、その驚異的なまでの翻訳活動を通じて、砂漠を横断する通商の民が使う単純な言葉に過ぎなかった貧弱なアラビア語は、急速に語彙を豊かにし、あらゆる学芸文化を包含しうる程の近代的なアラビア語に成長していったのです。

以上のようなペルシャ・ヘレニズムの興隆を経て、アッバース朝第5代カリフ、ハールーン・アッ=ラシードの下で、遂にアラビア・ルネサンスが開花したと言われています。アラビア‐ペルシャ融合文化の確立でもありました。

11世紀頃、アラビアの学術は頂点に達します。それは、高度成長を遂げたアラビア語の語彙力を以って、メソポタミア、エジプト、ペルシャ、インド、シナ各地から流れてきた文明を融合させ、発展させる事に成功した「イスラーム文明圏」の黄金時代に他なりませんでした。

イスラーム科学や哲学の発展は、ペルシャ文芸復興期(9世紀-15世紀)と進行したという側面を持っています。ここでなされた業績は、後にコルドバを通じてヨーロッパに流入し、11世紀-12世紀のスコラ学に始まる革新、および15世紀-16世紀の西欧ルネサンスの原動力となったのでありました。

・・・超・駆け足でまとめ

ここまでで、一応、「中世」の確立(すなわち諸国の暁闇の時代)の記述はオシマイです。


◆その後の西洋史に関する私見◆

自分の理解するところによると、文明的には大体似通ったコースを並走していた、中東エリアと欧州エリアの運命は、この後、大きく分かれてゆきます。

その原因となったのが、アレクサンドロス大帝国の発生ならぬモンゴル大帝国の発生だったと考えられます。 モンゴル帝国の衝撃は、欧州と中東との間で、壮大な「東西のねじれ」を発生します。それは、欧州にかつて発生した「ゲルマンとスラブのねじれ/カトリックと東方正教会のねじれ」よりも、遥かに巨大で深刻な影響を、西洋の時空にもたらすものでありました。

西洋史(欧州&中東)は、モンゴル帝国以前と以後とで、全く様相が変わっていると言えます。 特にロシア(=当時の呼称はルーシ;キエフ公国の力が衰え、分裂状況にあった=)は、モンゴル帝国の支配下に置かれ、その状況は、「タタールのくびき(1240-1480)」と表現されるものでありました。

モンゴル帝国の時代を挟んで、ロシアの歴史は決定的に分断されています。実際、ルーシは「帝国」を名乗らなかったのですが、「タタールのくびき」の時代が終わった後は、「ロシア」という呼称を使い始め、「ツァーリ(ロシア皇帝の称号)」も発生しました。強烈な専制政治(ツァーリズム)の試みもありました。

この辺りの流れは、詳細を無視すれば、東洋における殷周時代から秦漢時代への歴史的プロセスを連想させるものではあります。そしてモスクワ公国を経て、17世紀には、モスクワを都とするロマノフ朝が始まるのであります(後に、サンクト・ペテルブルグへ首都移転)。

そしてオロシャは、大モンゴル帝国の再来よろしく、際限なき領土拡大に邁進する「恐るべき巨大ランドパワー国家」として振舞うようになるのであります… そして江戸時代には、カムチャツカ半島までやって来て、わが国を驚かせるのでした