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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

西洋中世研究3中東の学芸文化

※中東エリアの話ですが、こちらも「西」なので、西洋カテゴリに

【ジュンディー=シャープール学派の成立/5世紀-7世紀】

当時のキリスト教神学は、ギリシャ哲学を使っていました。従って、各地にキリスト教を布教する場合、必然として、ギリシャ哲学も一緒に紹介する事が必要になってきました。

431年のエフェソス公会議で異端宣告を受け、追放されていたネストリオス派は、東ローマ帝国に迫害されていた事もあり、ギリシャ語を積極的に捨てて、土着のシリア語で布教を行なっていました。彼らは、シリア語に訳された聖書、神学書、哲学書を用いて布教していました(北方ではアルメニア語・グルジア語への翻訳運動がさかんに行なわれていた事が指摘されています)

その結果としてネストリオス派は、シリア語訳されたアリストテレス哲学や新プラトン主義、それにヘレニズム科学技術の各種を、西アジアに普及するという事になったのです。

シリア化された各種の科学・学術は、ササン朝ペルシャの冬の離宮のあった都市、ジュンディー=シャープール(スサ近郊)に集中し、洗練されてゆきます。

元々ジュンディー=シャープールとは、ササン朝ペルシャ初期の王シャープール1世が、260年エデッサの戦いでローマ皇帝ウァレリアヌスの軍と戦い、これを徹底的に撃破し、皇帝を含めたローマ捕虜を収容したところです。「シャープールのキャンプ」という意味ですが、このときローマ技術が相当に流入したと言われています。

このような経緯から始まったジュンディー=シャープールの町でしたが、早くからネストリオス派の学者を招聘して、シリア語訳を通じて、ギリシャ=ヘレニズム文化が盛んに学ばれていたのであります。

特にこのギリシャ=ヘレニズム文化の愛好者でもあったホスロー1世(在位年:531-579)が即位すると、この町にアレクサンドリアのムーセイオンを模した立派な研究所が作られました。付属病院や天文台も設置され、医学、天文学、数学などの研究が奨励されました。

※ホスロー1世は、首都クテシフォンにも学問の都を作りました。ジュンディー=シャープールがローマ風建築だったのに対して、クテシフォンは純粋なオリエント・イラン建築だったと伝えられています。ちなみに、クテシフォンの宮廷を彩ったペルシャ人貴族たちは、夏の避暑用に膨大な量の氷を保存していたそうです

ジュンディー=シャープールでの教育は、エデッサやニシビス同様に、当時のリンガ・フランカ(共通文化語)であったシリア語で行なわれました。カリキュラムの必要に伴い、当時最先端の学術のシリア訳が、大量に作られる事になったのです。

525年に東ローマ帝国ユスティヌス1世(在位年:518-527)がアテナイの学校を閉鎖した際にも、ギリシャ本土の学界から追われた第一線の学者たち―シンプリキオス、ダマスキオス、プリスキアノス等―も、ジュンディー=シャープールに受け入られています。

更にインドの学者も多く招聘されています。このようにして、ジュンディー=シャープールにおいてシリア・ヘレニズムの頂点が築かれたのであります。シリア・ヘレニズムとは、ギリシャ、インド、ペルシャ各地から到来した最高の伝統文化の、統合の試みに他なりませんでした。

アレクサンドリアが衰退した後の時代においては、シリア・パレスチナ・ペルシャが、世界随一の学芸文化の先進地帯でありました。シリア・ヘレニズムを通じてジュンディー=シャープールに花開いた一大総合文化こそ、後のアラビア科学の成立と発展の基礎となったものなのです。

実際、アッバース朝の科学文化の大きな支柱となったものの中に、ジュンディー=シャープールの学派がありました。アラビアの高い文化は、ジュンディー=シャープールに結集したペルシャ文化を、アッバース朝の時代になってバグダードに移転する事によって、初めて可能になったのです。

【ペルシャ・ヘレニズム&アラビア・ルネサンス/7世紀-9世紀】

ジュンディー=シャープール学派を育てたオリエントの強国、ササン朝ペルシャは、642年ニハーヴァンドの戦いで、新興勢力の正統カリフ=イスラーム軍と衝突し、敗退・滅亡します。

当時のイスラームは「大征服の時代」のさなかにあり、アラビア半島を中心に急速に領土を拡大。第2代カリフ、ウマル・ブン・アルハッターブ(634即位-644没)は中東の広範な地域を征服していきました。

イスラーム=アラビア語圏の著しい特徴は、その急激な拡大速度にあります。

イスラームという新興宗教がもたらした情熱は、『コーラン』によって特徴付けられたアラビア世界をアラビア半島部に留めるものでは到底なく、たちまちのうちに多くの世界を巻き込んでいったのであります。その極大期のイスラーム世界は、東はシナに達し、西は地中海沿岸、南はアフリカ、北はハザールに達するものでありました。

アラブの大征服に伴うイスラームの急激な拡大は、必然、イスラーム圏に壮大な思想潮流を巻き起こさずにはおきませんでした。それはまず、マホメット死後の『コーラン』の法的解釈の分裂を引き起こし、次いで、思弁神学の分派(スーフィズム等)を生み出してゆく事となります。

またビザンツ帝国と接触した折、輝かしいビザンツ文化も吸収したのであります(初期のモスクは、征服した土地の東方キリスト教の聖堂を借用したものです。それを祖にして、モスク建築が生まれました)。

やがてイスラームはウマイヤ朝(661-750)の時代を迎えます。そして、重要な事件が起こります。ヒジュラ暦61年(西暦680年)のアーシューラーの日に、シーア派の第3代イマームとされるフサインが、カルバラーのムスリムと共にウマイヤ朝軍に虐殺された、いわゆる「カルバラーの悲劇」が発生したのです。

これによって、スンナ派がイスラーム世界における覇権を確立する事になりましたが、シーア派との深き対立の始まりでもありました。ちなみに、スンナ派イスラームのウマイヤ朝そのものは、次第に世俗化してゆきました。

ウマイヤ朝は、「征服王国」という性格上、強烈なアラブ至上主義の王国であり、イスラームに改宗したペルシャ人含む外国人(マワーリー等)は疎んじられる傾向にありました。アラブの伝統的な文法や韻律、コーランに伴う法律といった「固有の学」は研究されたものの、いわゆる「外来の学」である哲学や科学には殆ど関心が払われなかったと言われています。

さて、シーア派の主力は、ペルシャ東方のホラーサーン地方にありました(ちなみに、ウマイヤ朝の首都はシリアのダマスカスです。故に、当時のスンナ派の主力はシリア・パレスチナ方面に集結していたと考えてよいだろう、と思われます)。

イスラーム世界における反体制諸勢力を含めてウマイヤ朝の支配に不満を抱く人々は数多く、750年、ホラーサーン地方のシーア派の反乱に始まる「アッバース革命」が発生します。

「アッバース革命」と同時に、イスラームの中心を担うカリフの都も、バグダード、コルドバ、カイロの三都市に分かたれたのだ、といっても過言では無いようです。このアッバース朝(750-1258)の成立を以って、イスラーム世界に大きな転回点が形成されました。

転回点とはどういう事かといいますと、「アラブ人による征服王朝」から「普遍的世界帝国(イスラーム帝国)」への拡張が起こったという事です。その中で、イスラーム世界のペルシャ化が急速に進行しました(751年、タラス河畔の戦で唐の軍隊を撃退し、中央アジアへのイスラーム拡大も同時に進行しました。ちなみにこの時に、シナ人捕虜を通じて、製紙技術が西方に流入したのは、有名なエピソードです)

初期アッバース王朝の歴代宰相を輩出したバルマク家は、ホラーサーン地方の都市メルヴの出身ですが、都市メルヴの古名は「アレクサンドリア・マルギアーナ」、即ちヘレニズム諸都市の1つでありました。アッバース朝の有力な豪族であったバルマク家のギリシャ文化愛好は、やがてアッバース朝の中枢にペルシャ・ヘレニズム運動を巻き起こすまでになったのであります。

762年からバグダードに新都マディーナ・アッ=サラーム「平安の都」が造営され始めると、イスラームの学問の中心となりつつあったバスラやクーファから著名な学者が集結しました。シリア・ヘレニズムの頂点を形成していたジュンディー=シャープール学派もまた、多く移り住みました。

ペルシャ・ヘレニズム運動における文明移転に際して特に重要な役割を果たした、翻訳の巨人として有名な学者が、フナイン・イブン・イスハーク(808頃-873頃)とサービト・イブン=クッラ(826-901)です。

フナインは多言語に通じたネストリオス派キリスト教徒の学者で、母語はシリア語でした。サービトは、シリア北部の町ハッラーン生まれのサービア教徒(独特な星辰崇拝を持つグノーシス派)で、同じく多言語に通じた学者でした。彼らの仕事は、優れた次世代翻訳家を多く生み出します。

ペルシャ・ヘレニズム…、その驚異的なまでの翻訳活動を通じて、砂漠を横断する通商の民が使う単純な言葉に過ぎなかった貧弱なアラビア語は、急速に語彙を豊かにし、あらゆる学芸文化を包含しうる程の近代的なアラビア語に成長していったのです。

以上のようなペルシャ・ヘレニズムの興隆を経て、アッバース朝第5代カリフ、ハールーン・アッ=ラシードの下で、遂にアラビア・ルネサンスが開花したと言われています。アラビア‐ペルシャ融合文化の確立でもありました。

11世紀頃、アラビアの学術は頂点に達します。それは、高度成長を遂げたアラビア語の語彙力を以って、メソポタミア、エジプト、ペルシャ、インド、シナ各地から流れてきた文明を融合させ、発展させる事に成功した「イスラーム文明圏」の黄金時代に他なりませんでした。

イスラーム科学や哲学の発展は、ペルシャ文芸復興期(9世紀-15世紀)と進行したという側面を持っています。ここでなされた業績は、後にコルドバを通じてヨーロッパに流入し、11世紀-12世紀のスコラ学に始まる革新、および15世紀-16世紀の西欧ルネサンスの原動力となったのでありました。

・・・超・駆け足でまとめ

ここまでで、一応、「中世」の確立(すなわち諸国の暁闇の時代)の記述はオシマイです。


◆その後の西洋史に関する私見◆

自分の理解するところによると、文明的には大体似通ったコースを並走していた、中東エリアと欧州エリアの運命は、この後、大きく分かれてゆきます。

その原因となったのが、アレクサンドロス大帝国の発生ならぬモンゴル大帝国の発生だったと考えられます。 モンゴル帝国の衝撃は、欧州と中東との間で、壮大な「東西のねじれ」を発生します。それは、欧州にかつて発生した「ゲルマンとスラブのねじれ/カトリックと東方正教会のねじれ」よりも、遥かに巨大で深刻な影響を、西洋の時空にもたらすものでありました。

西洋史(欧州&中東)は、モンゴル帝国以前と以後とで、全く様相が変わっていると言えます。 特にロシア(=当時の呼称はルーシ;キエフ公国の力が衰え、分裂状況にあった=)は、モンゴル帝国の支配下に置かれ、その状況は、「タタールのくびき(1240-1480)」と表現されるものでありました。

モンゴル帝国の時代を挟んで、ロシアの歴史は決定的に分断されています。実際、ルーシは「帝国」を名乗らなかったのですが、「タタールのくびき」の時代が終わった後は、「ロシア」という呼称を使い始め、「ツァーリ(ロシア皇帝の称号)」も発生しました。強烈な専制政治(ツァーリズム)の試みもありました。

この辺りの流れは、詳細を無視すれば、東洋における殷周時代から秦漢時代への歴史的プロセスを連想させるものではあります。そしてモスクワ公国を経て、17世紀には、モスクワを都とするロマノフ朝が始まるのであります(後に、サンクト・ペテルブルグへ首都移転)。

そしてオロシャは、大モンゴル帝国の再来よろしく、際限なき領土拡大に邁進する「恐るべき巨大ランドパワー国家」として振舞うようになるのであります… そして江戸時代には、カムチャツカ半島までやって来て、わが国を驚かせるのでした

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