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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

柱を立てるということ

書籍『山に立つ神と仏 柱立てと懸造の心性史』(講談社2020年)ISBN978-4-06-519899-5

オビ文:
柱を立てるとはどういう行為だったのか。神を祀り天地の通路を探った古代人の憧憬は、高く太い柱を求め、さらに神仏の近くへと山に分け入る。山中の聖なる岩座に建てられる堂舎は懸造(かけづくり)と呼ばれ、人々が観音や顕現に伏し、籠もり、修行する拝所となる。山中の岩、窟、湧水に神仏を感じ霊験を求める日本人。形としての山岳建築に、浄所への畏敬と崇拝の心性を読む。


●古代の祭祀所

『書紀』神代巻:「吾は則ち天津神籬(あまつひもろき)及天津磐境(あまついわさか)を起こし樹(た)てて、当(まさ)に吾孫(すめみま)の為に斎(いわ)ひ奉(まつ)らむ」

⇒「神籬」と「磐境」がどのような構造物なのかは明らかではないが、幾つか歴史遺跡の事例はある。特に「懸造」は信仰対象の岩(磐座)に関係する。

古代の事例=沖ノ島(福岡県・宗像大社沖津宮)
=4世紀後半~5世紀半ば「岩上祭祀」巨岩上部の平らな部分に小石を正方形に並べて祭壇とし、銅鏡や碧玉、滑石製祭具などを置いて祭祀を行なった。
=5世紀後半以降~「岩陰祭祀」巨岩が軒のように突き出た岩の陰に祭祀場所が移る。
=8世紀ごろ~巨岩と祭場が分離、岩から離れた露天の平坦地に定着。

縄文遺跡の事例=真脇遺跡、チカモリ遺跡
=紀元前1000~紀元前350年「環状列柱」タイプ。柱を立てて山を遥拝する形式だったと考えられる。それ以前はトーテムポール状彫刻柱、ついで大型の石棒を立てる形式。

●神と人の境を示す「柱」

『常陸国風土記』

古老(ふるおきな)のいへらく、石村(いはれ)の玉穂の宮に大八洲(おほやしま)馭(しろ)しめしし天皇(継体天皇)のみ世、人あり。箭括の氏の麻多智、郡より西の谷の草原を截(きりはら)ひ、墾闢(ひら)きて新に田に治(は)りき。此の時、夜刀の神、相群れ引率て、悉尽(ことごと)に到来たり。左右に防障(さ)へて、耕佃(たつく)らしむることなし。(俗(くにひと)いはく、蛇を謂ひて夜刀の神と為す。其の形は、蛇の身にして頭に角あり。率引て難を免るる時、見る人あらば、家門を破滅し、子孫継がず。凡て、此の郡の側の郊原(のはら)に甚(いと)多に住めり。)是に、麻多智、大きに怒の情を起こし、甲鎧を着被けて、自身仗(ほこ)を執り、打殺し駈逐らひき。乃ち、山口に至り、標の梲を堺の堀に置て、夜刀の神に告げていひしく、「此より上は神の地と為すことを聴さむ。此より下は人の田と作すべし。今より後、吾、神の祝(はふり)と為りて、永代に敬ひ祭らむ。冀くは、な祟りそ、な恨みそ」といひて、社を設けて、初めて祭りき、といへり。即ち、還(また)、耕田(つくりだ)一十町余を発(おこ)して、麻多智の子孫、相承けて祭を致し、今に至るまで絶えず。其の後、難波の長柄の豊前の大宮に臨軒(あめのしたしろ)しめしし天皇(孝徳天皇)のみ世に至り、壬生連(みぶのむらじ)麿(まろ)、初めて其の谷を占めて、池の堤を築かしめき。時に、夜刀の神、池の辺の椎株に昇り集まり、時を経れども去らず。是に、麿、声を挙げて大言(たけ)びらく、「此の池を修めしむるは、要は民を活かすにあり。何の神、誰の祇(くにつかみ)ぞ、風化(おもむけ)に従はざる」といひて、即ち、役の民に令(おほ)せていひけらく、「目に見る雜の物、魚虫の類は、憚り懼るるところなく、随尽(ことごと)に打殺せ」と言ひ了はる応時(そのとき)、神(あや)しき蛇避け隠りき。謂はゆる其の池は、今、椎井の池と号(なづ)く。池の回に椎株あり。清泉出づれば、井を取りて池に名づく。即ち、香島に向ふ陸の駅道なり。

「標の梲」=「大きな杖」の意味。小ぶりながら「柱」と理解する事も可能。開発に伴って、神と人の境界に柱を立てて標識とした事例が増えていた。

●「遥拝」+「神の領域の象徴として一本の柱を立てる」

諏訪大社=6年に1度、巨木の柱を立てる「御柱祭」=山を遥拝する場所に拝殿だけが存在し、それに巨木の柱を立てる神事が付属する。

地鎮祭の時に建てられる祭儀用の柱「大極柱」。屋内の柱「大黒柱」。柱を立てることが諸霊を鎮めることにつながると観念されていた。

神社建築「心御柱」(伊勢神宮)、「岩根御柱(いわねみはしら)」(出雲大社)。

●天と地をつなぐ「柱」

天武天皇七年条、十市皇女の急死事件「新宮(にひみや)の西丁(にしのまつりごとどの)の柱に霹靂(かむとき)す」

「柱に霹靂(かむとき)す」という記述は「柱に落雷した」という意味になる。過去記述、推古天皇二十六年条、舶(つむ)を造るための大木を伐ろうとした時、或る人「霹靂(かむとき)の木なり、伐るべからず」

「霹靂」=雷神が地上に降臨する神聖な事、と考えられていた。「霹靂の木」とは、天地をつなぐ聖なる道筋(※天照大神を天に送り上げた天柱を想起)。天地をつなぐ媒介としての「柱」観念の文脈上に、十市皇女を葬送する前文の「霹靂」があると理解できる。

●修験の行場/懸造建築の変遷

「かけづくり」=平安末~室町(中世)にわたって、山間に造られる寺社や僧房、隠棲の為の建物など、とくに宗教的な性格を持つ建造物に対して使われた用語。つまり、この言葉は山岳信仰(神仏習合)に関わって造成された建築を特に示していた。床下の柱を長く伸ばして支え上げられた建物、工法を示す様式的用語。当時、修験が駆ける険しい山道を「懸け路(かけじ)」と言った。

中世の修験関係の礼拝殿や礼殿は信仰対象の岩山前面に建ち、内部の間仕切がほぼ無い等、基本的な構成は共通している。

信仰対象の根底には岩や湧水などの自然物があった。懸造の作られた巨岩が古代の磐座である事例は多い。懸造という造形が日本の山岳における宗教建築の成立と展開に深くかかわると共に、その土着的な側面と重層性を体現する造形である事を示す。

歴史的に眺めれば、懸造の成立とその形式の変遷については、奈良時代以来の観音霊場で9世紀半ばに広く信仰を集めた石山、長谷、清水寺の礼堂・舞台が最も早く、平安時代の前半頃と考えられる。

9世紀後半~主に京畿周辺の建物、天台・真言系寺院の修行地や、平安後期の「聖の住所」として急速に発展した新興霊場に、懸造が見られるようになる。これら平安期の懸造では、岩などの信仰対象を内陣部分あるいは内陣床下に包摂する形式をとり、創建当初は平入(平正面)であったと考えられる。

平安後期~鎌倉初期=三仏寺投入堂など、地方も含めて、岩窟内や、険しく屹立する大岩の上・側面に、岩に取り付くように建てられた懸造(小規模な建築)が現れる。平安前期のものと同じく平入(平正面)。行場の険しい場所に建てられた懸造は、引き続き中世末まで数多く認められ、遺構の総数からみて鎌倉・室町時代がその盛期。

鎌倉中期以降~妻入(妻正面)形式が圧倒的に多くなる。造形的に見ても、妻入の方が、垂直性が際立って表出される。立地条件に応じて正面三間ていどの建物が立てられる場合が多い。特に不動寺本堂などに見られる、屋根が岸壁に直接接続するなど、大岩や岩窟に密着・密接した形式が顕著。

総じて、特に平安末から鎌倉初期に聖と呼ばれる行者が険しい行場に造成した物は、床下の柱も長大で力強く、それ以前の時代の懸造様式に比べて、垂直性が非常に強調されるようになっている。平地における摂関期浄土教の俗化や享楽主義に反発して山岳に入った験者や聖の信仰的態度と対応しており、山岳の修行者に対する摂関院政期の人々の期待から造り出されたと考える事が出来る。

鎌倉・室町時代の懸造=引き続き強い垂直性が強調されている。信仰対象の岩や岩窟といっそう密着して造成されている
⇒自然との一体化や捨身苦行を理想とした修験的な宗教観が反映。

近世期(戦国期~江戸期)、山岳修験が里に定着し、里修験・里山伏が増える。庶民向けの布教活動が盛んになる。それと共に、懸造も形式化してゆく。

近世期の懸造の構築の例:
石垣積と縁通りの柱のみが懸造形式(知恩院勢至堂など)。
大岩や岩窟から離れた平入の懸造形式(広島県尾道市千光寺本堂、石川県那谷寺本堂、岐阜県日龍峯寺本堂など)。
岩に関係しない懸造と本堂(兵庫県豊岡市観音寺宝楼閣、赤穂市妙見寺観音堂など)~建物の大部分は、整地され石垣の積まれた平坦地に建ち、前面一間通りあるいは最前列の縁束柱だけが懸造で造られている。

古代・中世の懸造の在り方から見れば、整地され石垣の積まれた地盤上に建ち、前面一間通りあるいは最前列の床束柱だけが懸造の形式は、古代・中世のものを形骸化して模倣した形式と言える。立地も、山岳から平地への移動が多くなる。それに伴い「舞台造り」という用語も現れる(懸造の前面吹き放ち部分を、単に「舞台」と呼ぶ捉え方が増えて来ていた)。

近世における懸造の垂直的な表現の退行には、中世の巣直的な意匠を水平的な意匠へ変容させようとする志向がはたらいていたように見える。(中略)市中や庭園の懸造は、産学の自然と険難で信仰的な関係を持っていた中世までの懸造を、鑑賞的で優美な水平的に展開する平地の諸建築へと融合する試みであり、その結果、山岳の垂直的な意匠には、平地の水平的な意匠に対する好みが反映する事になった(中略)このような経緯は山岳に建てられた懸造でも同様で、山岳とは言っても、中世までの懸造が人里はなれた山間にあったのに対して、近世の懸造は集落の近辺に建てられたものが多くなり、そこでは中世に見られた行場の厳しさは姿を消してしまう。すなわち、そこでも平地の鑑賞的な態度が支配的になったのであり、それによって中世の垂直的な意匠は退行し、平地の水平的な志向が反映するようになったとの考察が有効であるように思われる。

●象徴としての垂直性、柱の象徴性/柱を立てる行為は魂を揺り動かす

柱と梁で構成される日本建築はまず、一本の柱を立てることから始まる。立てられた柱の垂直性は、おそらく山の神と人をつなぐ象徴と捉えられ、その造形は縄文時代の巨大列柱から「岩根御柱」「心柱」「心御柱」へと引き継がれる。
そして修験者が山に入り、常設の建築を造ると、建物は自然の信仰対象に密接密着して床下柱が長く伸びる懸造をつくる、その柱の垂直的表現は自然と一体化しながら見る者、使う者を魅了する。懸造の代表的な遺構である三仏寺投入堂が見る者を引き付けて離さない理由はここにある。
険難な行場を登り、はじめて投入堂に出会った人々が涙を流す訳は、懸造という造形の中に、緑深い山への信仰、柱立てから始まる日本建築の原像が反映しているからである。

【柱立てが関わる修験道の神事の例】

◎「柱松」=屋外の儀礼。高い柱を立てて山伏がこれに駆け上り、火打石で火を付けて人々の煩悩を焼き尽くす。山伏の験力を競う験比べとしての側面があった。おそらくお盆の頃の儀礼。

◎「柱源」=屋内の儀礼。供養法、護摩とも。口伝で伝えられる秘法中の秘法とされる。十界修行の後、最後に正灌頂と合わせて授けられる。中央の壇板の上の奥に鼎状の水輪を置き、その中央の穴に閼伽札(修法者自身を示す)、その両脇に黒布に包まれた乳木二本(柱、金剛界・胎蔵界)を立てて儀式を行う。

柱源の「柱」は宇宙万物の柱を指す。「源」は天地陰陽和合の本源を指す。宇宙の形成や修験者を、天と地を結ぶ柱として、生命の再生を表している。つまり修験者自身が天と地を結ぶ柱になることを意味する儀礼と考えられる。

◎峰入りの通常の儀式
修験者が集まって儀式を行う建物(長床など)では、修験者の最高位である大先達は必ず、祭壇に最も近い柱を背に座る。

※修験道と建築の柱、懸造の柱との関連についてはまだ研究の段階ではあるが、山岳信仰における「柱」の重要性は疑いを入れない。

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中世日本海の水運と交流

『海と列島文化2 日本海と出雲世界』(小学館1991年)ISBN4-09-627002-4


【日本古代国家成立前の日本海航路(~7世紀)】

縄文時代から続くヒスイ交易、黒曜石交易など、自律的な海上交易が活発。弥生に入ってからは土器や金属の交易も進んだと思われる。地域間の文化交流。古事記・日本書紀でも、日本海を通しての交流を暗示する記述が多い。

日本海沿岸に自然の地形のままで良港になる潟港とよばれるものが多く分布することがあげられる。潮の流れでつもった砂州がよくのびて防波堤の役目をつとめるのが潟港である。そして、淀江潟が出雲氏の拠点、神西湖と波根潟が神門氏の拠点になっていたと考えられる。
出典:「日本の海上交易は瀬戸内海航路より日本海航路が先に発達した」
https://japanmakes.com/course.html

※瀬戸内海は「瀬戸」と呼ばれる難所が多く、潮流も複雑なため、航海技術が一定以上に発達する前までは、航路が定着しなかったという説がある。

風待ち・潮待ちの港を整備する必要もあり、瀬戸内海航路の立ち上げは、おそらく古代国家の能力を超える事業であった。水先案内人の技術向上なども急がれていた。

国家事業という意味での瀬戸内海航路の本格的な整備は、雄略朝に手が付けられている(~6世紀)。

・宗像海人族をベースにして宇佐や厳島で訓練して水軍(漁民の船団)を編成
・倉橋島(広島)に渡来系・秦氏の技術による造船所の建設
・呉人(中国江南の人々)の持つ水路や港湾を作る技術を導入

⇒播磨国・吉備国・安芸国・九州諸国の繁栄につながる(宗像・宇佐・住吉など)

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【律令国家の成立(7世紀以降~11世紀・12世紀)】

国家は、新たに山陰道などの都(奈良/京都)~各地方国衙とを結ぶ官道=陸上交通路を整備。これを基幹的な交通手段とする方針を掲げた。

⇒『延喜式』「主税上」、「諸国運漕(うんそう)雑物功賃」=海路運賃の記録があるのは山陰道諸国では因幡国のみ。その因幡の事例も、陸路・播磨に出て内海水運によって京に輸送する事となっている(伯耆国の場合も海路輸送国としては記されていない=平城京出土の木簡)。

⇒出雲の美保関(中世日本海の水運で繁栄し、中心的な位置を占めた)=史料上、「美保関」の名前が初めて出て来るのが「宝治二年(1248年)12月日蔵人所牒写」(「真継文書」)の事例。古代の美保エリアには、海関などのような特別な港湾機能は無かったと考えられている。すなわち、「美保関」は、中世日本海の水運の成立と時期を同じくしたと考えられる。

8世紀半ば以降、官物輸送手段としての海上交通の重要性が認識され、瀬戸内、東日本海などにおいて、海上交通路が整備される(例:平清盛)。

しかし、西日本海の海上交通については、国家的な方針がハッキリと示される事は無かった(おそらく、荘園や寺社勢力による整備が進んだ)。

『小右記(しょうゆうき)』(藤原実資の日記、長元四年=1031年、八月十二日の条)

「先日、関白の消息に云ふ、隠岐の使い華洛を経ず、便路を取り遣はすべきとの由伝え示さる。もし状に随(したが)ひ海路罷(まか)り向ふべくんば、尤も枉道(おうどう)の宣旨を給ふべし」
意味=隠岐国への使者派遣に際し、海路(若狭小浜を経由?)を採る場合は、特別に「枉道の宣旨(道を曲げ、別の道を行く事を認めた天皇の命令)」が必要である

※律令制のもと、正規のルートは山陰道経由の陸路とされていた。しかし関白(藤原頼通)自身が、これを無視し、あくまでも便宜的・非公式な西日本海航路を採ろうとする意向を示していた。古代の律令制的な交通方針が終わっていた事を示唆する。

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《廻船ルート》

(1)山陰~北陸ルート=例:隠岐~美保関~小浜
(2)山陰~山陽ルート=例:美保関~赤間関(下関)&門司、「便商船」
(3)山陰~九州ルート
(4)九州~北陸ルート=例:筑前博多~小浜、「筑紫舟」(『太平記』、恒常的な廻船が就航)
(5)大陸との交流ルート

※陸路で、若狭小浜~九里半街道(若狭街道)~琵琶湖~京と結び付く

若狭小浜に次ぐ第二の重要拠点(中継基地)として機能したのは、地理的にも西日本海沿岸部のほぼ中間点に位置する出雲美保関であった。美保関は、隠岐との至近距離に位置し、かつ、背後に伯耆大山を控える。西日本海地域に設けられた唯一最大の海関として、中世の西日本海水運全体を統括する位置にあった。

美保関で西日本海の航路は東西に区分されつつ、複合的に結びつけられた。東側=北陸若狭方面、西側=九州・山陽方面。

『本福寺旧記』(『堅田本福寺旧記』)

「昔、堅田に有得の人は、能登・越中・越後・信濃・出羽・奥州、西は因幡・伯耆・出雲・岩見・丹後・但馬・若狭へ越て商(あきない)をせしほどに、人にもなり経回(けいくわい)もせり」

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【中世日本海の水運の発展/鎌倉~室町~南北朝~戦国期(12世紀以降~)】

戦乱の広域化、大規模化に伴い、軍事的な要因にもとづく水運の需要が著しく拡大。従来とは異なる活況を呈する。

出雲攻略=美保関や安来・馬潟津(まがたづ/松江市)をはじめとする中海、宍道湖沿岸部の諸港を制圧する事がポイントとなった。※永禄五年(1562)~永禄九年、毛利軍による出雲富田城攻め

因幡攻略=賀路湊(かろみなと、鳥取市)をはじめとする千代川河口部沿岸の諸港の制圧がポイントとなった。※天正八年(1580)~天正九年、織田軍による因幡鳥取城攻め

兵力や軍需物資などの調達・移動=中世における商業活動と表裏一体の関係。出雲富田城の攻略の際は、安来の港を抑えた。若狭から商人らが米・麦などを持ち込み、富田城がこれら物資を購入するのを止める為。

◆中世の海賊

西日本海エリアの海賊活動は、史料上は主に戦国期に出現するが、その実態は鎌倉末~南北朝期には成立していたと推定される。商品・貨幣経済の発展に伴って活発化。

特に因幡~但馬、丹後にかけて活発。丹後の海賊活動が特に顕著で、大永六年(1526)以降10年間ほど、丹後の海賊が若狭の浦々を襲い、資材を奪って放火した記録がある。(『羽賀寺文書』、『大音(おおね)文書』、『秦文書』など)

◆中世港湾都市の成立

いずれも、平安末~鎌倉期以来の津や市の発展の上に、内陸交通との新たな結節点として成立。

出雲国:安来、白潟、平田、杵築/石見国:波根(大田市波根町)、温泉津、浜田、長浜、三隅、益田

これら中世港湾都市は、いずれも内陸交通と一体となった地域的経済圏の中心として機能していたと考えられる。西日本海沿岸部の諸地域が、それぞれ独立した地域的経済圏としての自立性を高めると同時に、各地域間の交流が増大していた。

◆隔地間交易の発展

16世紀半ば~【北国船(ほっこくぶね)】=中世末から近世の前期、日本海海運の主役となった廻船。船底両側に刳出材のおも木を配した造りで、丸い船首、波除けの蔀(しとみ)、垣立(かきたつ)を設けない点などに特徴があったと言われる。また櫂を操る多数の水夫(かこ)を必要とした。

従来のような米・麦などの日常的、一般的な商品ではなく、主として地域の特産物が交易対象になって来た。例えば出雲・宇竜港に北国船が来航した時、奥出雲産の鉄が取引された。特に、出雲鉄と石見銀の需要が増大し、空前の活況を呈する。

西日本海地域の特産物:伯耆・出雲…鉄/石見…銀、銅/隠岐…海産物

石見銀山周辺の港:波根、刺鹿(さっか、大田市久手町)、大浦(大田市五十猛町)、仁万(にま、邇摩郡仁摩町)、鞆(とも、邇摩郡仁摩町)、温泉津etc.

※近世に活躍した廻船問屋の多くが戦国期に操業を始めたという伝承を持っている。

※小浜の商人などを仲立ちとして、西日本海と京・畿内の商人とが、商業活動における信用関係を広範に成立させ、結合を強めた。⇒商取引の際に割符(さいふ)が組まれた。割符は為替を組む時に用いる手形。

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【中世日本海の水運の繁栄/中世から近世への転換~17世紀ごろ】

◆西回り航路の成立、北前船の就航=江戸、大阪への幕府諸藩の年貢米輸送を目的として開発される。中世の枠組みを超え、東北、北海道、九州、瀬戸内、畿内を結ぶ恒常的な水運ネットワークが成立する。

◆隠岐の焼火(たくひ)神社信仰の広がり

宮城、岩手などの東北地方太平洋沿岸の漁船の間で、19世紀後半まで、沖で夜を迎える時の作法として「日の入りのオドーミョー」と呼ばれる儀式が行われていた。

儀式の時の呪文「お灯明(どうみょう)!お灯明!お灯明!隠岐の国タクシの権現様にたむけます。よい漁に合わせ、よい風(アラシ)に合わせてくれなはれ。千日の上日和!」

「タクシの権現様」=海上の守護神として、古来、大きな信仰を集めて来た焼火神社の事であり、元は弁財船(北前船)の伝統儀式だったとされている。

焼火神社が、古代以来の伝統の上に改めて海上の守護神として明確に出現して来るのは、中世末~戦国期の頃。戦国期における水運の飛躍的な発展の中で、隠岐の焼火(たくひ)神社信仰が盛んになり、北前船の就航に伴って東北地方まで広がったと考えられる。

※天文九年(1540)「焼火山雲上(うんじょう)寺造営勧進帳」(「焼火神社文書」)、沙門良源は、海上の船が闇に迷った時、焼火山に灯がともり船を安全に浜辺に導いてくれると、その神力を称え、勧進を行なった。

◆海賊の消滅

近世水運の発展=航海技術、造船技術、航路整備、特に「海賊消滅」が大きな要因。

西欧中世の数ゲーム「リトモマキア」

数学の歴史の一コマ、西欧中世を席巻した"数のゲーム"「リトモマキア」について…チェスと同じくらい流行していたのですが、廃れてしまったという話。

用意するのは8×16のマス目があるボード。

チェスと同じように、2人のプレイヤー「奇数プレイヤー」「偶数プレイヤー」がボードを挟んで対戦します。各プレイヤーは、24個の駒を持ちます。

*****

★セットアップ

「奇数プレイヤー」が持つ24駒(黒い駒、x)

円形の駒(4個)[3]、[5]、[7]、[9]――[駒ナンバー]=x(※1~9のうち奇数)
円形の駒(4個)[9]、[25]、[49]、[81]――[駒ナンバー]=x2
三角形駒(4個)[12]、[30]、[56]、[90]――[駒ナンバー]=x(x+1)
三角形駒(4個)[16]、[36]、[64]、[100]――[駒ナンバー]=(x+1)2
正方形駒(4個)[28]、[66]、[120]、[※190]――[駒ナンバー]=(x+1)(2x+1)
正方形駒(4個)[49]、[121]、[225]、[361]――[駒ナンバー]=(2x+1)2

※特別数:190=82+72+62+52+42

【奇数プレイヤー(プレイヤー視点から見た盤面)】

↑対戦相手(偶数プレイヤー)の方向↑

●9 ●7 ●5 ●3
▲100 ▲90 ●81 ●49 ●25 ●9 ▲12 ▲16
190 ■120 ▲64 ▲56 ▲30 ▲36 ■66 ■28
■361 ■225 ■121 ■49

※特別数「190」はピラミッドを模した駒になっている事があるようです

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「偶数プレイヤー」が持つ24駒(白い駒、y)

円形の駒(4個)[2]、[4]、[6]、[8]――[駒ナンバー]=y(※1~9のうち偶数)
円形の駒(4個)[4]、[16]、[36]、[64]――[駒ナンバー]=y2
三角形駒(4個)[6]、[20]、[42]、[72]――[駒ナンバー]=y(y+1)
三角形駒(4個)[9]、[25]、[49]、[81]――[駒ナンバー]=(y+1)2
正方形駒(4個)[15]、[45]、[※91]、[153]――[駒ナンバー]=(y+1)(2y+1)
正方形駒(4個)[25]、[81]、[169]、[289]――[駒ナンバー]=(2y+1)2

※特別数:91=62+52+42+32+22+12

【偶数プレイヤー(プレイヤー視点から見た盤面)】

↑対戦相手(奇数プレイヤー)の方向↑

○8 ○6 ○4 ○2
△81 △72 ○64 ○36 ○16 ○4 △6 △9
□153 91 △49 △42 △20 △25 □45 □15
□289 □169 □81 □25

※特別数「91」はピラミッドを模した駒になっている事があるようです

*****

【ゲームのルール】

  • 円形の駒(○、●)はマス目を1つ移動
  • 三角形駒(△、▲)はマス目を2つ移動※
  • 正方形駒(□、■)はマス目を3つ移動※

※昔の数え方では、現在のマス目を1つ目として数えた。なので、昔の言い方で言うと△▲は3マスを動き、□■は4マスを動く

@「遭遇/捕獲」…動けるマスの範囲内に相手の駒があり、同じ数字が書かれていた場合、自分の駒は相手の駒を取って、その位置に移動できる

@「突撃」…小さな数が大きな数を取る。
「自分の駒ナンバー」×「間にある空白のマス目の数」=「相手の駒ナンバー」の時、捕獲できる。この場合、移動できるスペース数に限界は無い
(例:[●9]×9コマ移動で、[□81]を取れる)

@「待ち伏せ」…小さな数の駒を2つ配置して、大きな数の駒の「遭遇・突撃」を防ぐことができる
(例:[●3][○8]の並びの所へ、待ち伏せしていた[●5]が1スペース動いて、全体で[●3][○8][●5]と並んだ場合→●3+●5(総合8)=○8となり、○8を取れる)

@「攻囲」…敵の駒に前後左右のスペースを塞がれた場合、自分の駒は死ぬ
小回りの利く[○2]、[●3]、[○4]、[●5]、[○6]、[●7]、数合わせの難しい[□153]、特別数[■190]は、「攻囲」方法でしか取れない。
同じく特別数[□91]も取りにくい駒で、「攻囲」または「待ち伏せ[●25]+[■66](総合91)」という方法でしか取れない。

【勝利判定は、現代から見るとかなり変わっていた】

例:勝利条件=「スコア160、捕獲駒5、桁数9」の場合
⇒奇数プレイヤーから奪うべき駒リスト=●5、●25、▲30、▲36、▲64
⇒偶数プレイヤーから奪うべき駒リスト=○2、○16、○36、△42、○64

ツウの人が「素晴らしい勝利!」とした駒並びの例
…勝負判定タイミングで、盤上で以下のようなナンバー並びになり、なおかつ「負け」側の駒が動けない

  • 2-3-4-6(4/2=6/3、等比の組)
  • 3-5-15-25(15/3=25/5、等比の組)
  • 4-6-8-12(8/4=12/6、等比の組)
  • 5-9-45-81(45/5=81/9、等比の組)
  • 5-25-45-225(45/5=225/25、等比の組)
  • 6-8-9-12(9/6=12/8、等比の組)
  • 12-15-16-20(16/12=20/15、等比の組)

勝利条件が変わるたびに数の組み合わせが一変するので、チェスと同じような「定石を記憶する」という備えは、難しいそうです。

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★参考論文(PDFファイル)http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81001248.pdf
『リトモマキア:中世西欧の数学ゲーム』三浦伸夫,著(2002年3月)@国際文化学研究:神戸大学国際文化学部紀要,17:113*-143*

★iPhoneアプリ「リトモマキア(Rithmomachia)」、英語版、有料ゲーム
https://itunes.apple.com/jp/app/rithmomachia/id544328265

★参考書籍『数秘術大全』(青土社2010年)アンダーウッド・ダッドリー,著(アメリカ数学者)/森夏樹,訳

〈訳者あとがきより抜粋&引用〉…著者のダッドリーは数学者でありながら、というべきか数学者としての使命感のためなのだろうか、30年以上にわたって数秘術の研究を続けて来た。 ここではピュタゴラスに始まる数の神秘主義から、数秘術と呼ばれる数多くのジャンルまで、人間が数に託したあらゆる夢の数々が語られている。そしてダッドリーは次のような感想を抱いた。「数や数字には確かに力がある。が、その力は世間の出来事や人間の運命に影響を及ぼすものではなく、あくまでも人間の心に影響を与えるに過ぎない」