忍者ブログ

制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

読書メモ『シンボルとスキエンティア』~ピーコの形而上学

『シンボルとスキエンティア』―近代ヨーロッパの哲学と科学
エルンスト・カッシーラー著(ありな書房1995年)
訳者…佐藤三夫、根占献一、加藤守通、伊藤博明、伊藤和行、富松保文

ピーコの自然哲学と占星術批判/ジョヴァンニ・ピーコ・デッラ・ミランドラールネサンス観念史の一研究

ピーコの教説の重要で興味深い点は、それが個々の観念の在り方において含意しているものよりも、或る意味で彼がその後のルネサンスの自然哲学者すべてが属すことになる自然観の〈タイプ〉を決定したということにある。

彼が通用すると思った原理は〈宇宙的生命主義Universal Vitalism〉の原理と特徴づけることができる。

自然は諸部分から構成されているのではなく、また実体によって相互に異なる、存在物のさまざまな部類に分けられるのでもない。それは単一の大きな相互に関連ある生命を形成しており、この生命は、全体の運動が各々の部分において見い出されうるような種類のものである。此処においては、空間的に一点から次の点へと連続する諸作用の間断の無い連鎖があるだけではない。

独特の全面的な「共感sympathy」が支配しており、その力によって個々の出来事は出来事の全体系と結び付けられているのである。宇宙は一本の張りつめた糸のごときものであり、そのある点に触れると、その波紋はあらゆる方向へと伝わり、その糸のあらゆる部分において感知されうるのである。

この教説は、歴史的にはストア派、とりわけポセイドニオスにまでさかのぼり得るものである。この世界観によれば、自然についてのあらゆる〈認識〉とは、生命のこの宇宙的秩序と共感することだけを意味し、より高次のものへと向かうことはできない。我々が自然について形成している概念はすべて、もしそれらが単なる抽象にとどまらないとするならば、この感情から生じるのである。

*****

こうした形式の、自然についての「人間中心的な」考察をピーコは決して否定できなかったし、また否定しようとも望まなかった。ピーコの基本的な自然哲学観からシェリングの世界=霊魂論にまで、あるひとつの思潮が流れている。

ピーコにとってもまた、世界=霊魂は、世界をその最奥の存在において繋ぎとめるものであった。それは宇宙の多様な運動すべての源泉であり、それらに秩序と調和を与えている。したがって、ピーコにとっては確かに、シェリングにとってそうであったように、自然は霊的な第一段階としてだけ考えられ解釈されうるものだったのである。

精神においては自己意識の形式として現れるこの原理は、自然においては無意識的な力として作用している。自然は理性である。しかしそれはまだ隠されており、自己認識に到達していない理性である。つまり「隠され混乱した理性」である。

ピーコの類比にしたがえば、自然と人間性と神は、色と眼と光のごとく関係している。

色は可能性においてのみ、可能態においてのみ現存する。それは、それを見る眼を通して、初めてその現実化を受け取る。もしそれを可視的なものとする光源が無ければ、眼はそれを見る事が出来ない。

ピーコが此処で、プラトン的主題に、知性界の太陽としての「善のイデア」というプラトンの概念に訴えていることは明白である。そして同時に、彼にとっては自然哲学のための特別の場所が無いことも、それが彼にとっては「精神の哲学」の全体性においてのみ意味を持つことも明らかとなる。自然哲学の構造は、ピーコにとっては、『人間の尊厳についての演説』で展開された諸概念と不可分のものである。

ここにおいて人間はまた、「世界の眼oculus mundi」として、宇宙において離れて存在している物を自己自身の中で結合し、単一の視覚の中で把捉するものとして特徴づけられている。「…もし我々が知性を、自己自身からではなく光の分有によって見る眼のようなものであると理解するならば、神は光―光は真理だから―であり、見ることは眼が光を受け取る行為であるので、光自体である神は、この作用を必要としない」。

*****

このことはまた、ピーコの自然観において〈魔術マギア〉が持っている支配的な影響にも光を投げかけている。何故なら、彼にとって魔術は、超自然的な力の使用ということでは決してなく、自然の領域内に完全にとどまっているからである。

真正の魔術は悪魔的な力の援助を用いるような妖術では無い。それはむしろ、自然に内在する生命の相互連関の理解から、すなわち自然の諸部分を支配している関係と共感全体の認識から生じる物である。

真の「魔術師マグス」とは、自然の諸力を認識し、いかにしてそれらを固有の目的へと向けるのかを理解し、分離しているものを結合し共通の作用へともたらす者のことである。この意味で葡萄の蔓を楡の木と結び付ける農夫は「魔術」を行なっているのである。

…この統一化は、もっとも相容れず、きわめて隔たっていると思われる諸要素さえも包含することができる。何故なら、自然の中のいかなる要素も、全体の外に、すなわち諸活動すべてを内包している偉大な体系の外には存在しないからである。「魔術師が現実化し結合しえないような力は、天においても地においても、種子的にであれ分離的であれ存在しない」。

*****

以上のことすべては、自然についてのいかなる直接的観察からも、自然「科学」のいかなる形式からも、なお隔たっている。そしていかなる点についても、思弁的形而上学と神学の圏内を突破するものではない。

ピーコのいたるところに見られる二つの領域の混合は、単に自然科学の見地からだけではなく、また宗教的認識の見地からも対立を引き起こす運命にあった。

ピーコは、キリストを最高の魔術師と見ようとするまでにいたった。何故なら、キリストは真の「世界の絆vinculum mundi」として、諸事物の隠された結合をすべて知っているからである。

もし我々が、ピーコの思想のこの限界に留意するならば、彼が『予言占星術駁論』においてとった歩みは、より強力で驚嘆すべき印象をもたらす(だろう)。

(中略)

今一度、ピーコの思想を構成する様々な部分の内的分節化という問題にとって本質的な意味を持つ観点のみを選び出してみる。

占星術に反対する著作において、ピーコは純粋に象徴的な認識と経験的な認識との間に、明確な区別を設ける。

彼は、我々が自然の中に表徴(シンボル)の単なる体系を見ないように要求している。そして、未来の出来事の予測をこうした体系の上に基礎づけることが無益であると説明している。

我々は、諸事物の諸力を洞察し、それらを単に抽象的な図式によってだけではなく、またそれらの個々の本性と具体的な働きにおいて把握しなければならない。占星術師たちの言う意味で「天」を地上の出来事すべてを支配し制御しているものとみなす事は、我々にとっては何も語らない、無益なゲームでしか無い。我々が天の想定された働きに対する「手段」を指示しそこなう限り、それは単なる言葉に留まる。しかしそれは、諸惑星の「合」の内にも、占星術が夢中になる他の空想的な結合の内にも見いだされ得ないのである。

此処で実際に論証しうる、実際に確実な結合とは、秘められた関係では無く、公の、或る意味で日常の現象に存在するのである。星辰の位置や占星術が発明した天の「家(ハウス)」ではなく、光と熱の力こそが天の真の影響に対する原因とみなされなければならない。「共通の運動と光の影響以外に、天にはいかなる固有な力も存在しない」。

*****

ここで注目に値するのは、ピーコが占星術からだけでなく、また実体的形相と隠された性質と言う形而上学全体から一挙に解放され、自然についての経験的で因果的な説明の基盤の上に自らの立場を置いているように見える事である。

だが彼は、この形而上学に、無数の絆によって結び付けられていなかったであろうか。また、「象徴的」認識がピーコの認識理論全体の中心と核を形成していなかったであろうか。この象徴的認識に、それ自身の独自の基礎に依拠しなければならない別種の認識を対立させることを、何が引き起こし、何が可能にしたのであろうか。

ピーコは自らの神学と宗教哲学において、寓意的解釈の原理の無際限の誇張されたとも言いうるような使用を行なっている。聖書においても他の聖なる記録においても、字義通りの意味で解釈しうる文章は、彼にとっては存在しない。

(中略)この理由によって、カバラはピーコにとって支配的で中心的な意味を獲得するのである。何故なら、それは神的な本性の秘密を第一に真に解き放つ鍵だからである。

(中略)ピーコは論題のひとつで述べている。「真の占星術が神の書物において学ぶことを我々に教えるように、カバラは律法の書物において学ぶことを我々に教える」。

此処で、「真の占星術」が、カバラのすぐ傍らに置かれている。しかし、もしそうであるならば、カバラ的解釈が常に採用している象徴的で寓意的な思考の使用が、なぜ占星術に対しては否定されなければならないのだろうか。この思考は、宗教においては全真理の源泉であるのに、自然へ適用された際には、なぜ誤謬へと導くことになるのだろうか。

*****

この問いに対する回答は、ピーコの思想の特徴的な構造を明らかにすることで得られる。

この構造は、ピーコが必然の領域と自由の領域の間においた厳密な区別に基づいている。各々の領域には異なる法則が立てられており、その結果、異なった認識様式が存在する。自然学的なものはすべて、厳格な必然性に従属している。霊的なものはすべて自由に基づいており、その言葉によってのみ理解することができる。

ピーコが占星術に対して行った断固とした反駁は、占星術がこの区別を見損なっていることに基づく。

物体の世界と霊の世界という二つの領域の各々を、それに固有の意味で理解する代わりに、またその各々に適切な認識方法を適用する代わりに、占星術は区別をすべて、故意に抹消している。それは人間の存在を天から引き出し、人間の運命を星辰の中に読み込もうとする。しかしピーコにとって、人間の運命は自己自身に存している。

それは自らの意志と自らの行動によって決定されるのである。そしてこの意志は、外的な物質的強制に還元しうるものではない。何故なら、もしそうであるならば、物質は霊の支配者と宣言される事になるからである。

*****

こうして、「霊の卓越性」と「自由の卓越性」の原理は、ピーコの占星術批判において真の推進力となっている。

人間によって創造され、自由を通して生み出されたあらゆるものにおいて、我々は単に象徴的解釈に依拠することができるのみならず、またそれなしには済まされない。

何故なら、人間の世界、科学の世界、芸術の世界、宗教の世界は、話す事と書く事においてのみ、絵画と象徴においてのみ自らを顕すことができ、それらにおいてのみ確固とした実在を獲得するからである。

しかし、物体的世界の本性は「意味」の総体ではない。それは原因と結果との結合した連鎖である。我々はこの連鎖に、ひとつの鎖から別の鎖へと、異種のものや別の秩序に属するものを導入させずに従って行かなければならない。

方法論的観点からは、占星術は混成物であり、非-存在物である。何故なら、それは常に二つの探求方法を混在させているからである。それは、原因と結果を求めるべきところで、暗示と前兆を求める。

このことを根拠として、ピーコは「真の占星術」と「偽の占星術」とを明瞭に区別するに至った。

数学的な自然科学としての星辰の科学を、彼は「予言占星術astrologia divinatix」として実践される予言の術から厳密に区別した。一方が他方から遠く隔たっているのは、光が闇から、真理が虚偽から遠く隔たっているのと同様なのである。

*****

占星術は「自然的」という意味を「霊的」という意味から厳密に区別しなかったので、ピーコにとっては、それが適用する個々のカテゴリーにおいてさえも、いたるところで曖昧さに陥ることになる。

霊的な、したがって超感覚的な諸関係の叙述においては、それは、あらゆるところに空間的な感覚的なイメージを押し付ける。それは、「より上位のもの」が「より下位のもの」に対する支配力を行使するという基本的な考え方と教義から出発する。

これら二つの言葉を「価値の対立」として理解する代わりに、それらを空間的対立とみなす。占星術にとって、より上位のものは「上方に」あるものであり、より下位のものは「下方に」あるものである。

しかしピーコにとって、これが多義的誤解を犯しているのは明らかである。

霊的な意味において人間は、この自然を理解し、その秩序と法則を知る事が出来るほど、真に星辰の「上方に」に、そして物体的自然全体の上方に立っている。これが人間の真の偉大さであり高尚さである。

自然的存在としては、人間は消滅する無である。思考する存在として人間は天を理解し、この理解作用によって天を凌駕する。

*****

知的歴史の見地から、この議論の最も注目すべき点は、それが自然科学の進歩にとって決定的な異議を持つ結果に達していながらも、この達成は精密な科学的思考とはまったく異なった基盤の上で展開したと言う事実である。

真の科学的天才であるケプラーにとって、占星術的な思考様式の桎梏から逃れ出るのがいかに困難なものであったかを考えることは興味深いことである。

ピーコの自由についての思弁的教説は、此処ではケプラーの数学的自然観よりも効果的であったことは明らかである。

そしてケプラー自身はおそらく、彼が明らかに依拠していたピーコと言う先行者がいなかったならば、最終的な一歩を踏み出す事はできなかっただろう。

この点で桎梏が破られたのは、科学的基盤に基づいた純粋に合理的な議論によってでは無かった。世界に対する新しい態度と新しい感覚が必要だったのである。(中略)

*****

ピーコは多分、当時において、悪霊の恐怖と星辰の有害な影響から完全に自由であった唯一の人間である。

この点でピーコが、彼に親しいサークルの人々からさえもいかに異なっていたかは、フィチーノとの比較によって示すことができる。

フィチーノは、その努力にも関わらず、彼の生活からこの恐怖を払いのける事が決してできなかった。

ピーコは、こうした恐怖を知らなかった。なぜなら、それは彼が人間存在の真の意味と感じていたもの、すなわち自らの偉大な教説において「人間の尊厳」として称揚したものと矛盾したからである。

彼にとってこの尊厳は、人間の業は自己自身の意志の表現であり、星辰の影響や高次の力の賜物でないという事実に存している。

PR

読書メモ『シンボルとスキエンティア』~ルネサンス科学概観

『シンボルとスキエンティア』―近代ヨーロッパの哲学と科学
エルンスト・カッシーラー著(ありな書房1995年)
訳者…佐藤三夫、根占献一、加藤守通、伊藤博明、伊藤和行、富松保文

アリストテレスの運動論は、16世紀までには、それにしばしば帰せられてきた、議論の余地のない権威を有していないことが明らかとなった。

われわれがいま知る所では、ガリレオよりはるか以前に、多くの点でガリレオ力学の基盤を準備した「インペトゥスimpetus」という新しい理論が存在していた。ガリレオの方法論の先行者についてもまた完璧かつ徹底的に調べられている。

(ザバレッラは著書の中で、「合成的方法」と「分解的方法」との相違について明白に述べている。これはガリレオの概念に著しく類似している。ザバレッラは、此処では大いなる連鎖の単なるひとつの環に過ぎない。つまり彼は、パドヴァ学派の歴史全体に及ぶ1世紀間の伝統に従っている)

ガリレオの動力学のような仕事は、ゼウスの頭部から完全武装したパラス・アテネが現れたように、いきなり生じることは不可能であった。それには論理的かつ方法的にと同様、経験的にも時間のかかる準備が必要であった。だがそれでもガリレオは、これら所与の要素にまったく新しいものをつけくわえた。

ガリレオ以前には何人といえども、彼が落下物体の法則の証明あるいは弾道のパラボラ曲線(放物線)形状の発見に際しておこなった、「分解的方法と合成的方法」の〈活用〉の類をなしえなかった。

これらすべてはまったく新しく独自なものである。独自であるというのは、単に特殊な発見としてではなく科学的な態度と性向の表明としてでもそうであった。なぜなら、15世紀に勝る明白な変化を導くのは、数学的方法に結び付いた意義と価値であって、その単なる内容では無いからである。

*****

数学が、カントの表現を使えば「人間理性の誇り」であることについて、プラトンの時代以来、真剣に疑義を差し挟まれたことなど一度も無かった。アウグスティヌスも同様に大きな情熱をこめて、数学と数学の「永遠なる真理」について語っている。それは叡智界への直接的な入り口を開いてくれているという訳である。

それに数学的な自然科学の概念さえも、15・16世紀にはじめて生じたのでは決してなかった。

光学を数学的に厳密に取り扱わなければならないことについては、たとえばロジャー・ベイコンが認識しているところであった。「作用する力と質料の力は、算出される諸結果そのものと同じく数学の偉大な能力なしには知られえない」。

またオッカムのウィリアムが、「ある原因それ自体が定立されて他の原因が取り除かれると結果の生じることが、あるいはむしろ、その原因が定立されないで他のすべての原因が定立されると結果の生じないことが、経験によって明らかに実証されえないならば」、いかなる出来事も別の出来事の原因とみなされえないと説明する時、ガリレオの因果律の概念を先取りしているように思われる。

*****

しかしこれらすべての類似は、これらの類似にさらに多くのものが付け加えられるにしろ、なにも証明していない。

数学はルネサンスのはるか以前に文化の中の〈一要素〉であった。だが、ルネサンスにあってはレオナルドあるいはガリレオのような思想家とともに、それは新しい文化的〈力〉になった。

われわれが無視できぬくらい新しいとみなすべきものは、この新しい力が知的生活全体を満たし、内側からこれを変えていくその強烈さである。

レオナルドは、「数学のまさに大いなる正確性を軽蔑する人は、自分の精神に混乱を与えており、永遠なる言葉の戦いに帰着するだけの詭弁的教説を決して沈黙させられないだろう」と述べている。これはまたガリレオの確信でもある。彼にとって数学は知識の〈一分野〉ではなく、知識の唯一で正統な〈基準〉、それにより知識と呼ばれる他のすべてが測られなければならず、その面前で受ける試験に合格しなければならない規範である。

*****

このような数学的自然学の新たな価値評価は、根底に存在する別の観念に依拠している。

中世哲学では〈知が二又に分岐〉しており、最初それはアウグスティヌスに現れ、次いでスコラ学史全体を通して赤い糸のように貫いている。

それは「スキエンティアscientia」と「サピエンティアsapientia」との分離である。

「スキエンティア」は「自然的な」事物の知識であり、「サピエンティア」は「超自然的な」事柄の知識である。スキエンティアは「自然の領域」に、サピエンティアは「恩寵の領域」に関与している。

単なるスキエンティアに勝るサピエンティアの疑問の余地のない優越、「卓越性」が中世の思想家すべてにとって動かぬものとなる。

アウグスティヌスは述べている。「それゆえ、もし永遠な事柄の知性的認識がサピエンティアに、反対に現世の事物の理性的認識がスキエンティアに関わるように、サピエンティアとスキエンティアが正しく区別されるなら、何をいずれより優先すべきか、あるいは軽視すべきかを判断することは難しいことではない」。

この識別によれば、自然についての数学的科学はいかなるものでも――そのような科学があるなら――創造された世界についての学である。それゆえ、それは形而上学や神学と言った永遠なものの学と等しい地位を決して求め得ないのである。

「認識は、サピエンティア側では普遍性で、スキエンティア側では不可謬性でなければ、確実でありえない。他方において、つくりだされた真理は端的に不変であるのではなく、仮定上不変であり、同様に被造物の光はそれ固有の力により不可謬ではまったくない。両方とも造られ、非存在から存在に移るがゆえに」。

*****

このすべてが、ガリレオにおいては、すっかり変わってしまう。数学的自然学は彼にとって単に「科学」の特殊な分野では無く、道具に、つまり真理のいかなる認識にも必要な条件にして手段となった。

それが無ければ、人間にとり真理はまったく存在しないだろう。自然科学の結論に矛盾したり、あるいはこれに制限を設けようとしたりする「超自然的」真理は、すべて単なる見せかけに過ぎない。

これはガリレオがそのために格闘したところの新しい理想であり、この戦いこそが、彼に対する非難理由を結局呼び覚ますことになったのである。彼にとって数学的自然学は彼の人生観と世界観に、彼の宇宙解釈に必要な要素となった。

ガリレオが導入し確立したものは新しい〈解釈学〉である。中世の神学的解釈学では、聖書および教父により施された聖書解釈の中に真理は保有されていた。人文主義的解釈学は古典作家の権威以上に高い権威を知らないし、認めなかった。テクストの比較が真理を与え、真理と「なった」。

これをガリレオは二、三の警句的表現でことごとく簡単に処理している。彼はケプラーに宛てて次のように書いた。

「この種の人々は、哲学は『アエネイス』あるいは『オデュッセイア』のような書物であり、その真理は宇宙または自然の中では無く、テクストの比較(これは彼ら自身の言葉である)に見いだされると信じている」。

読書メモ,トマス・アクィナスの「徳」

『トマス・アクィナス―理性と神秘―』山本芳久・著(岩波新書2017)

【アリストテレスに由来する徳概念】

「徳」という概念は、古代ギリシアの ἀρετή (アレテー)という語に由来するものである。アレテーという語は、「徳」と訳されることもあれば、「卓越性」とか「力量」と訳されることもある。この語は、何らかの事物が、その本来の機能を優れた仕方で遂行することができる状態へと高められていることを意味する。

たとえば「馬のアレテー」は馬がより速く走ることができる状態になっていることを意味し、「ナイフのアレテー」はナイフがよく切れる状態になっていることを意味する。

それと同じように、人間一人一人もまた、「徳」という「力量」を身につけることによって、人間としてより充実した幸福な人生を送ることができるようになる。

古代ギリシアの徳論を代表するアリストテレスは『二コマコス倫理学』においてこのような論を展開している。

トマスの徳論は、その基本線においてアリストテレスが展開した特論を受け継いでいる。「賢慮」「正義」「勇気」「節制」というアリストテレスが重視した四つの徳は、「枢要徳」という名のもとに、トマスの特論においても重要な役割を果たしている。

★賢慮prudentia=理性そのものが直されることに基づいて成立する。

今ここの具体的な状況や事柄の真相を適切に認識したうえで、為すべき善を的確に判断し、その判断を実践に移していく力である。これらは単に「頭が良い」という性質に由来するものではない。バランスの良い人柄や賢明さが結びついて初めて成立する。

★正義=この世界において共に生きている他者たちの善を的確に配慮する意志の力である。

自分自身にとっての善を意志することは誰にでもできる。だが、自分とは異なる他者や、自らが所属する共同体全体の善をふさわしい仕方で配慮することは、必ずしも誰にでもできることではない。そのために必要とされるのが「正義」という徳なのである。

★勇気=立ちはだかる何らかの困難ゆえに、理性に即したものから意志が押し戻されること(怯むこと)を防ぐ役割をする。困難に立ち向かう力である。

★節制=理性の直しさが要求するのとは異なるものへと惹きつけられることを防ぐ役割をする。自分の欲望をコントロールする力である。

【節制temperantiaと抑制continentiaについて】

嫌々ながら欲望を我慢する在り方は「抑制」である。

それに対して、節制という徳を有する人物の特徴は、バランスよく欲望をコントロールすることに喜びを感じるところにある。

そのようなことが可能になっているのは、節制ある人においては、欲望すべきものを欲望するという積極的な在り方が実現しているからだ。

「節制」という徳の本質は、やりたいことを我慢するという点にあるのではなく、真に欲望すべきものへと自らのエネルギーを方向付けて行く事、別の言葉で言えば、欲望自体をよい方向へと変容させていく点にこそあるのである。

【節制に対立する悪徳「無感覚」】

「自然の秩序」に反するものは全て悪徳的な物である。

自然の秩序は、個体の保存に関しては飲食の喜びを、種の保存に関しては性の喜びを用いる事を要求している。これらの快楽は生きるために必要な事柄であり、これらを放置するほどに「無感覚」である事は、悪徳である。

【節制に対立する悪徳「不節制」】

最も非難されるべき奴隷的な悪徳である。

不節制が幼稚な悪徳と言われるのは、それが「欲望の過剰」に基づいているからであり、それは3つの点で子供に似ているからである。

第一に、子供も欲望も理性の秩序付けに従わずに醜いものを追い求める。

第二に、子供が好き放題なままに放任されると我儘が増長していくように、欲望も満足させるとより強くなっていく。

第三に、矯正法についても類似している。子供が教育者の命令によって矯正されるように、欲望も理性の命令に基づいて初めて節度づけられうる。

不節制は「抑制」「無抑制」という2つの現れ方をする。この意味において「抑制」「無抑制」も、徳では無い。いずれも欲望を「意志の力」で抑えているか否か、という違いでしかなく、抑圧された欲望、或いは抑えきれない欲望は、より悪しく激しい欲望へと突進していくからである。

※節制においては、「抑制」に見られる葛藤状態・緊張状態から解放され、理性によって、自らの欲望を、喜びを抱きつつ適切にコントロールすることが可能になっている。


参考:ロシアの「道徳」

異端者を火刑に処すものを私は道徳的人間と認めることができない。――『ドストエフスキーの詩学』ミハイル・バフチン(ちくま学芸文庫)