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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

華夏大陸:分裂と統合の末の完結

五代十国時代:後梁初期における各地自立勢力の出自

華北地方

  • 晋:李克用:突厥沙陀部族長⇒河東節度使(太原府)⇒895晋王:5藩23州
  • 燕:劉仁恭:廬竜軍軍校⇒廬竜軍節度使(幽州)⇒909燕王:2藩12州
  • 岐:李茂貞:神策軍軍校⇒鳳翔節度使(岐州)⇒901岐王:8藩20州(のち2藩7州に後退)

四川地方

  • 前蜀:王建:塩賊⇒軍卒⇒剣南西川節度使(成都府)⇒903蜀王:9藩48州

江南地方

  • 楚:馬殷:木工⇒軍賊⇒武安軍節度使(潭州)⇒907楚王:3藩22州
  • 呉:楊行密:群盗⇒廬州軍卒⇒淮南節度使(揚州)⇒902呉王:5藩9州
  • 呉越:銭鏐:自衛団首領⇒鎮海軍節度使(杭州)⇒907呉越王:2藩11州
  • 閩:王審知:軍賊⇒武威軍節度使(福州)⇒909閩王:1藩5州
  • 南漢:劉隠:広州軍卒⇒静海軍節度使(広州)⇒909南海王:3藩32州
  • 荊南:高李興:商家下僕⇒朱全忠部曲⇒荊南節度使(江陵府)⇒924南平王:1藩3州

《以上、資料は『世界歴史体系 中国史3 五代-元』(山川出版社1997)より》


北魏以来、鮮卑系の遊牧騎馬民族の部族連合体としての勢力図を強く残していた隋唐帝国には、中央直轄の軍隊、つまり近代的な意味で言う「国軍」が存在しませんでした。軍閥・節度使といった、地方有力者の軍事力に抑止力を依存したため、反乱や外敵侵入に対応する際、指揮系統が混乱していた事が指摘されています。

五代十国時代は、中央の権威の弱体化に乗じての、節度使の群雄割拠の時代とも言えます。五代政権は、唐の中央官制と節度使の権力構造とを折衷した物となりました。

節度使の政権運営は、各地方における、軍部(軍閥)による政権掌握であると言う事も出来ます。多極化などの時代変化に伴い、多くの令外官が設けられました。禁軍(中央直轄の軍・親衛隊)の編成は、この変化に伴う物でした。

傭兵中心の軍が禁軍その他の軍部組織(≒国軍)に繰り上がったため、兵士は「民間からの徴用」では無く、給料を出して雇う、公務員的な存在となりました(『水滸伝』に出て来る兵士は、国家から給料をもらっている存在と語られています)。

必然として、国家財政における軍事費(人件費を含む)の割合は、唐帝国のシステムに比べると劇的に増大しており、重い負担となったという事が指摘されています。

なお、五代政権の中央官制と禁軍編成は少しずつ改編しながら宋代に受け継がれましたが、宋代になると武人の権限は大きく縮小され、再び「皇帝」の下、文人支配体制に移行して行きました。

この五代十国時代に起きた重要な変化は、華北・華南の人口分布が、古代とは様相を異にしていたという事、そして共通通貨としての銅銭の重要性が増していたという事です。

華北地方は、ユーラシアとつながる西域(シルクロード)を通じて襲来して来た数多の異民族の間で揺れ動き、綱渡りのような不安な政情が続いたため、人口流出が続きました。それに対して、長江デルタにあって水運が発達し、大量の人口を支える肥沃な土地が広がっていた華南地方では、群雄割拠があったものの経済的繁栄が続いたため、更なる人口流入が生じていたのです。

代々の帝国の戸籍からの推測ではありますが、以下のような変遷であったようです:

  • 前漢末(2頃)…北90%弱、南10%強
  • 晋代(280頃)…北60%強、南40%弱
  • 隋代(606頃)…北77%、南23%
  • 唐代(742頃)…北57%、南43%
  • 北宋(1080頃)…北35%、南65%(おそらく史上初の1億人超という推測がある)

五代十国時代における十国の国境線は、宋の統一後も広域行政区である「路」として継承されました。その後、元の中書行省(元帝国の独自の地方行政区画)を経て、現在の民族自治区を除く地方行政単位である「省」の境界にそのまま引き継がれます。

現在、この「省」が、地理的条件、風俗・習慣・言語(方言)、広域経済ブロック単位として機能していますが、それは、五代十国時代に由来を求める事が出来るのです。

五代十国時代は、特に華南地方(江南地方)の経済的躍進の時代でありました。各地方に分裂した勢力が、おのおの地元の経済振興策に集中したという側面があり、各地で地場産業が成長するきっかけになりました(特産品の創出など)。生産力の南北格差の始まりです。

地場産業(塩、茶、絹、綿、製紙、陶磁器、木工・竹工雑貨等)の生産物や物資は、 新興都市である「鎮(商業の拠点となる都市)」に集荷され、付加価値のついた商品になって広域流通圏の販路に乗り、 国境を越えて流通しました(大陸全土で起きた変化ではありましたが、華北よりも華南の方が活発でした)。

このような広域流通の発達は、必然として、共通通貨としての貨幣を、より強力に必要としました。銅銭は古代の頃から、高額商品を金や絹で決済すると言う実物経済の補助として使われていましたが、安定した唐の時代を経て、華夷秩序が及ぶとされるアジア圏(朝貢諸国)での、国際決済通貨(朝貢諸国におけるハードカレンシー)としての圧倒的なパワーを持つに至っていたのです(銅本位制)。

この「共通通貨」は、後の時代、イスラム諸国を降し世界帝国となったモンゴル帝国(元)の下で、ユーラシア諸国の経済活動と更に深く結び付きました(当時の西洋はイスラム経済の影響を大きく受けており、金銀複本位制。なお、イスラム諸国では銀鉱脈枯渇・精錬用の木材の減少のため銀不足が起き、アフリカ産の金貨が多くなりました。経済発展に伴う貨幣が十分に供給できず、小切手が一般化し、銀行業が発展していたと言われています)。そして更に後の、いわゆる大航海時代においては、スペイン・ポルトガルが主導した「銀」が、グローバル経済の基準となっていました(銀本位制)。

五代十国時代の群雄たちは、財政を左右する銅銭の確保に必死になった事が指摘されています。富国強兵政策を維持するため、群雄たちは様々な経済振興策を図り、商品作物を輸出して銅銭を輸入したり(後の時代、日本が宋から大量の銅銭を輸入したのも、この銅本位制の流れを受けたため)、ライバル国の交通網を封鎖したりしていました。

自国発行の銅銭の改鋳によって貨幣価値を切り下げ、この差から生じる対外的な利(輸出有利&為替有利)を得るという事も、商業経済が成長し続ける華南の諸勢力の間では、盛んに行なわれていました(より低品位の貨幣、つまり鉄銭・鉛銭の併用もありました)。対して華北勢力は、経済規模が小さい割に傭兵への俸給は大きい(軍の規模も、華南諸勢力に比べ相対的に大きいものだった)という条件があったため、商業振興よりも農業振興に集中し、銅本位制にこだわったと言う事が指摘されています。

五代十国の間に通貨は地域ごとにバラバラになり、租税の制度や流通手続きは煩雑になりました。この過度の貨幣市場の分裂が、群雄割拠を終わらせるきっかけともなりました。あたかも古代の秦帝国のように、統一政権による共通通貨の一元化が求められたのです。宋が天下統一を成し遂げたのは、地域差を容認しつつ着実に均一化を進めたためという指摘があります。

都市の光景もまた、大きく変わりました。唐代の間、平和が続いたため商業が発展し、それまで政治中心であった謹厳な古代都市は、「不夜城」とも呼び習わされるような娯楽を含んだ商業都市へと変貌を遂げていました(特に「揚州」が有名)。

古代においては長安・洛陽が即ち首都であるという認識がありましたが、貨幣経済の発達、流通の発達に伴い、富が通過する場所も移動していました。流通の大動脈たる大運河を擁する場所、即ち「開封(汴京)」が、機能的な面から新しい首都として認識されるようになりました。

伝統的な都市構造から見ると、「開封(汴京)」は、中心部が妙に傾斜し、内城・外城の至る所に商業施設が進出した異例なタイプの都市と言えますが、同時に、今日の都市に随分近い雰囲気でもあったろうと思われます。五代十国時代から宋の滅亡まで首都であり続けた都市でしたが、金の侵攻により運河が荒廃し南北分断されると、富の集積地としての機能を失いました。その後は運河の再建はあったものの、再び首都の座に返り咲く事はありませんでした。

宋代には既に、商人活動を制限する古代の「市制」が崩壊していました。特に「瓦市(がし)」と呼ばれる歓楽街があり、酒楼、演芸場、飲食店などの店が出ており、白話文学(後の『水滸伝』や『西遊記』の元となる)や戯曲(『西廂記』、『琵琶記』)などの都市文化が育まれました。

都市の商人たちは「行」と呼ばれるギルドを作り(手工業者の場合は「作」)、多くの場合は同郷単位で団結していましたが、仏教や道教といった伝統的な民間信仰を通じて団結したり、媽祖信仰や白蓮教のような新興宗教を通じて団結したりする場合も多かったようです。これらの組織は、それぞれ固有の守護神を持っていました。

農業に関わる民衆の仲間内の団体の場合は、「社」と呼ばれていました。例えば水利施設は元々国家管理下にありましたが、おおむね唐代末期の頃、国家のあり方が古代の頃から変容すると共に、民衆が組合を作って施設を管理するようになったのです。

こうした「行」「作」「社」といった民衆の団体は、王朝交代の混乱期に際し、強力なカリスマ指導者を得ると容易に秘密結社と化し、自分たちの土地を防衛するために、或いは混乱に乗じて利を確実にするために、しばしば反乱に加わったと考えられます(勿論、情勢によっては、その逆のケースもあったと思われます)。

隋の時代の大運河の建築に始まる交通網の整備、及び流通の進展が、貨幣(共通通貨)経済の普及拡大と共に大陸の各地方を重層的に結び付け、国家そのものの変容、都市と地方のあり方の変容を促していたのです。

この変容は、「古代そのままの中華(華夷秩序)世界観の拡大」に強固に裏打ちされていた事もあって、大陸の分裂混乱期を劇的に短くする方向に作用しました。

実際、古代における分裂混乱期としての魏晋南北朝&五胡十六国時代は、300年から400年も続きましたが、唐宋変革期における分裂混乱期としての五代十国時代は、ほんの50年ほどにしかならなかったのでした。

地域ブロック単位の群雄割拠としては、五代十国・宋の時代が最後と思われます。この分裂の時代を最後に、華夏大陸は、国土としては分割不可能な広域ブロック単位として完結し、遼・金といった、陸続たる征服王朝の帝国となったと考える事が出来ます。

偶然かどうかは不明ですが、帝国の名乗りの由来や解釈も一変しました。従来は地名に由来する帝国名を名乗りましたが、新たな征服王朝である「元」の国名は、『易経』の「大いなるかな乾元」に由来していると言われています。そして、続く「明」は火徳とされ、「清」は水徳とされています。

いささかオカルト的な話になりますが、五行説で言えば、「元」から新たに始まった征服王朝の並びは、「相剋」の関係になります。この関係に従うと、どうやら「中華民国」は土徳、「中華人民共和国」は木徳のようです。古代の帝国が、王朝交代に際して「相生」の繋がりをこじつけた事と比べると、実に対照的ではあります。

「文明におけるパラダイム・シフトという側面から見ると、如何な物か?」という疑問は、無きにしも非ずです。唐宋変革において分裂と混乱の時代が続いたにも関わらず、知識人(≒士大夫)の定義や、科挙に伴う社会的・人生的成功に相当する「富貴のレイヤー」がいっそう固定された事は、重要です。中断の期間はあったものの、1000年を超えて、清帝国の末期まで強固に続くという伝統的な社会構造。それはやはり、「大いなるかな乾元」が示した、〈後シナ文明〉の文明的完結の姿であり、「一つの終わりと始まり」であったと申せましょう。

〈中華の投げ網〉に呪縛された帝国。古代都市の時代から続く、強固な華夷秩序に憑依されている世界観(及び宇宙観)と、都市に集中する富貴(或いはエリート文化)志向。

中国史上の反体制運動の指導者となった知識人として、唐末期の黄巣、清末期の洪秀全などが有名ですが、彼らが科挙試験の優秀な落第者であった事実は、「華たる者のプライド」という心理的コンプレックスと合わせて、様々に考えさせられる物があると申せます。

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華夏大陸:北魏:支配民族の交代と確執

〈後シナ文明〉の第一原理を「シナ化都市化」とすれば、第二原理は「正史の編纂」と言う事ができます。異民族による王朝乱立が続いた事は、「正史の編纂こそが中華王朝の正統な後継者の証である」と言う認識を強固にする方向に作用したのです。

(魏晋南北朝における王朝の乱立は、後々まで続く「正閏論」の争いを生み出しました。「正閏論」が最も隆盛を見せたのは宋の時代の事ですが、いずれにせよこの「正閏論」を制する事が、〈後シナ文明〉における中華王朝のアイデンティティを左右するようになったのです)


439年、鮮卑の拓跋氏族が建てた北魏が華北を統一し、135年続いた五胡十六国時代は終わりました。鮮卑の天下が確定した華北では鮮卑系諸族が定着し、鮮卑系の農耕も始まりました。その過程で多くの亡命漢人、ひいては漢の文化習慣をも受け入れてゆき、有力者層の中でも混血が進んだのです。

しかし、このような急激な民族シャッフルは、鮮卑諸族と漢族との対立を先鋭化し、情勢を不安定化させる要因でもありました。漢族が勧める儒教や道教だけでは、多くの鮮卑諸族と漢族の連合体であった北魏を安定させる事は極めて困難だったのです(北魏は、鮮卑を上位とする国家運営を望んだ)。

この王朝(北魏)の創設から終焉までを始終彩っていた歴史人類学的な主題――その都市化と文明化とシナ化との三位一体の歴史現象の展開過程に絶えず顕現していた中国農耕文明と北方遊牧文化あるいは都市的文明と放牧原野の文化との対立、端的に文明と野性との鋭い対立拮抗が、(晋・洛陽の都での抑留・滞在の間に急激にシナ文化に染まってしまっていた)太子拓跋沙漠汗殺害の伝承のうちにほぼ象徴的な形姿で物語られている/大室幹雄・著『干潟幻想』三省堂1992
(北魏・太武帝に重用されていた漢人官僚)崔浩は漢-シナ教養人の誇りにかけて仏教を嫌悪した。彼の妻は太原の郭逸の女(むすめ)だったが、生家の宗教として仏教を信仰して釈典を好んでときおり読誦することがあった。すると崔浩は怒って釈典を取り上げて焚き、その灰をご丁寧にも厠中(かわや)に捨てるほどだったと伝記は語る。仏教嫌悪に理由はそれが「胡神」、化外の異国の野蛮な神だというので、この明快単純な理由によって、妻や親戚縁者の信仰に神経質な反感をつのらせ野鄙な嘲弄を加えるのを信条としていた。 /大室幹雄・著『干潟幻想』三省堂1992

華北を統一した太武帝の曾孫にあたる孝文帝は、494年に、北魏の首都を平城(大同)から洛陽に移し、遷都と同時に遊牧民の服装を禁止し、朝廷で遊牧民の部族語を話す事も禁止して、漢人の服装と漢語の使用を強制します。また、遊牧民と漢人の融和を図るため、遊牧民に漢字一文字、二文字の姓を名乗らせ、漢人有力者の家を指定して遊牧民の貴族と同格に扱い、遊牧民と漢人の婚姻を奨励しました。

鮮卑系のシナ化・中央集権化は、皇帝の「中華宇宙論的な意味での権威を高める」という目的のもと、「憑依」的な過程を辿ったという事が、大室幹雄氏によって指摘されています。中華宇宙論の魅力に「憑かれた一革命家」としての孝文帝の姿の部分を、大室幹雄・著『干潟幻想』三省堂1992より引用:

太和20年(496)正月丁卯、皇帝家の姓拓跋を漢-シナ風に元と改め、同時に平城から移住した功臣や旧族の複姓もまた漢-シナ式に改めよとの詔が発せられた。その詔はいう、「北人は土を呼んで拓といい、后を跋という。わが魏王国の祖先は黄帝から出て、土徳を以って王となった。故に拓跋氏というのである。夫れ土は宇宙の時間と空間の中心の色であり、万物の元〔根源〕である。宜しく姓を元氏に改めるべきである。また諸功臣旧族の代〔平城〕より移住した者で、姓が重複しているならば、全員それを改めよ」

北魏の新しい価値観として導入されていたのが仏教です。最初は鎮護国家などの呪術的効果が期待されていました。歴代の鮮卑系の皇帝は、「漢族による〈シナ文明〉の世界観を超越し、なおかつ鮮卑上位の胡漢複合を支える世界観としての仏教」への期待の元に、仏教を篤く信奉し続けたのです(三武一宗の法難を除く)。

北魏には「皇帝即如来」という国是があり、当時の都・平城(大同)の郊外にある雲崗の石窟に彫られた大仏(弥勒仏)は、皇帝に擬せられていたという事です。華北仏教は、クマラジーヴァ(鳩摩羅什、亀茲出身)などの影響を大きく受けていました。

漢族の「儒教(北シナ的・大陸的)-道教(南シナ的・海洋的)」が構成する中華世界観に対して、仏教とは即ち、中原の〈シナ文明〉を、新たに覆い尽くそうとする上位的な文明的世界観として解釈することができます。しかし、華北仏教は、中原において特権的な地位を打ち立てようとする鮮卑系諸族の王権神話に変貌を遂げて行ったと言う側面もあったのです(こうした華北仏教の複雑な性格は、後の唐・武周革命において、奇妙にねじれた影響を与える事になります)。


◆以下、大室幹雄氏の著作からの、とても長い引用になりますが(汗)、異文化間の衝突・確執の歴史として、余りにも興味深いので記録しておくのです。北魏の後、同じ鮮卑系王朝たる唐帝国の天下のもと、則天武后の時代に起きた仏教イデオロギーの席巻と比較すると、「シナ化都市化」の進行度合いも含めて、なお興味深く思えてきます◆

北魏の中で進行した異文化間の確執…シナ・イデオロギーと仏教イデオロギーの衝突/『干潟幻想』中世中国の反園林都市/大室幹雄(三省堂1992)より

北中国の統一に成功した440年、太武帝は太平真君と改元したが、この道教風の元号の選定は、即位当初は父祖以来の習俗として仏教を尊崇していた皇帝が、崔浩および彼と親交を結んだ道士寇謙之を政事と軍事に重く用いる過程で道教に深く染まっていったことを表している。つとに皇帝は崔浩たちの勧説によって天師道壇とか静輪宮とかいった、道教信仰を直接に表象する一連の建築を平城に建設してもいたのである。
崔浩は漢-シナ教養人の誇りにかけて仏教を嫌悪した。彼の妻は太原の郭逸の女(むすめ)だったが、生家の宗教として仏教を信仰して釈典を好んでときおり読誦することがあった。すると崔浩は怒って釈典を取り上げて焚き、その灰をご丁寧にも厠中(かわや)に捨てるほどだったと伝記は語る。仏教嫌悪に理由はそれが「胡神」、化外の異国の野蛮な神だというので、この明快単純な理由によって、妻や親戚縁者の信仰に神経質な反感をつのらせ野鄙な嘲弄を加えるのを信条としていた。その崔浩に仏教を徹底的に叩きつぶす絶好の機会がやってきた。
太平真君6年(445)9月、廬水の胡人蓋呉(がいご)が杏城(陝西省中部県)で民衆を集めて叛乱を起こした。翌月、長安の鎮副将元紇(げんこつ)が討伐に向かって逆に殺され、意気あがる蓋呉と民衆は渭水を渡って南山へ走ったのである。叛乱は拡大して、年末には蓋呉が天台王を自号し、百官を署置するほど強大になるのだが、翌る7年2月、自ら西伐に向かった太武帝が長安に滞在した。そのとき、ひょんなきっかけで長安の仏教寺院に弓矢矛盾といった武器が大量に蔵されているのが発見され、皇帝に報知され、皇帝は沙門たちが蓋呉と通謀している証拠であると激怒、その寺院の捜査を命じたところ、醸酒用の道具だの近辺の大官や富人による寄蔵物が夥しく現われ、屈室つまり穴蔵式の密室をつくって高貴な家の妻や女たちと沙門が淫乱を行なっていることまでが露見した。皇帝の憤激。崔浩はそれをとらえて、長安の僧侶を誅殺し、仏像を破壊焚焼する詔を発せしめ、ついで全土一円、長安の例に従って仏教を禁圧する詔を出させた。曰く「彼の沙門は、西戌の虚誕に仮り、妄りに妖孽(ようげき)を生み、政化を一斉して淳徳を天下に布(し)く所以に非ず。王公より已下、私に沙門を養う者有れば、皆く官曹に送りて隠匿するを得ざれ。今年2月15日を限り、期を過ぎるも出さざれば、沙門は身死し、容止する者は一門を誅す」――妻や知人たちの仏教信仰に向けられた崔浩の反感、嘲弄、嫌悪といった個人的な感情が皇帝の権力と権威を通過したことだけによってそっくりそのまま全領土内に拡充していった次第が理解されるであろう。
そしてこの翌月に再度下された詔も、仏教排斥のはなはだ単純な論点のうちに、崔浩の神経症的な国粋主義の心情がほぼ肉声のまま露呈している。「昔 後漢の荒君(明帝)は信じて邪偽に惑い、妄りに睡夢に仮り、胡の妖鬼に事(つか)え、以って天常を乱す。古より九州の中に此無きなり」とまず詔は宣言する。すなわち(一)仏教はもと九州=中国土産の教えではなく、(二)異国の妖鬼の幻惑であり、社会秩序を乱し、(三)その教説は誇大放誕で非現実的であり、(四)末世の闇君乱主がそれに眩惑され、 (五)結果として中国固有の伝統たる「政教は行なわれず、礼義は大いに壊れ」、「王者の法」は廃れてしまった/しまうであろうというのが批判の主論点であった。
論旨は単純きわまりないけれど、それを現実化するのは現存の国家の権力だったから、その単純明快にもかかわらず/ゆえにこの批判の効果は巨大だった。この詔が発布されるや、王国全域にわたって「胡神」撲滅が断行された。すなわち地方行政組織を駆使し、軍隊まで出動させて、沙門は少長となくすべて処刑し、仏像や仏典は焚焼し、寺院や僧房や仏塔を破壊し尽くしたのだった。
【別の章より、崔浩の人となりについて説明する文章は以下の通り】
…太武帝に仕えて仏教撲滅を敢行した崔浩である。「経史」を博覧し、卜易やオカルトにも精通して、戦略家としての己れの才能を過大に評価していた崔浩はつねづね自身を漢の張良に比擬し、学識においては彼を凌駕していると自負していたのではなかったか。加えて、これもまたすでにわれわれの知悉していることであるが、崔浩は彼が学者として古代の馬融や鄭玄らに卓越しているという、孝文帝が堯・舜より秀れているとする咸陽王の讃辞と同一の論理と心性に発する追蹤的な讃美に呪縛されもした。すなわち、太武帝の宮廷官場に、北中国残留の漢-シナ人官僚の勢力を拡張することに熱心だった崔浩は、当然彼の周辺に漢-シナ学者-官人の閉鎖的な利益集団を形成した…
この異国文化撲滅の運動にむける崔浩の位置は明白であるだろう。仏教が彼にとって憎悪の対象であるのは、それが胡神の信仰、外来の文化だったからであり、彼のうちにはそれに対抗し、それを凌駕する絶対的な文化として「政教」「礼義」「王者の法」への確信、つまり儒教の伝統があった。仏教対儒教の対立は崔浩の時代の社会にあって、漢-シナ人たち、とりわけ彼のような士大夫文官つまり知識分子にとっては多かれ少なかれ意識せざるをえない問題に違いなかった。前述のように、太平真君元年あたりを漠とした境として崔浩の現実理解に失調が生じたのは、仏教対儒教の対抗関係において、彼が儒教の側に彼自身や寇謙之など漢-シナ人だけを置くことに限定せず、もともと鮮卑族の胡人で胡神を信仰しており、現にそのライフスタイルは依然として遊牧的であり、また征服異民族たる皇帝太武帝までを儒教の側――漢-シナ人の少数者が信奉する残留博物館化の著しい中国文化の中へ取り込んでしまったことである。反対に皇帝からすれば、仏教弾圧の一事に関する限り、本来彼にその必然性はまるでないのに全国規模の大弾圧を断行してしまったのは、彼が崔浩の偏執的エスノセントリズムの中へあまりに深く引き込まれてしまったことを意味した。記録に残された太武帝の二度の詔というのが、どちらもほとんど崔浩の肉声というべき仏教嫌悪に彩られているのはその証明である。このことは早晩太武帝が崔浩の自民族中心主義の国粋的心情から自らを分離し、従前の我から望んだのでもない崔浩との強い一体化にたいする反動として、彼自らの鮮卑拓跋族の草原文化とそのエートスに回帰して、終局的に崔浩にたいして復讐的な打撃を加えることを予測させもするだろう。歴史の現実はこういうわれわれの予測を裏切りはしなかった。
全国的な仏教弾圧が行なわれた4年後、太平真君11年(450)6月、崔浩は太武帝によって誅殺された。

――中略(歴史編纂において鮮卑族を侮辱したことが原因で、崔浩は皇帝の怒りを買って殺されたらしい?)

(けれども)北人鮮卑人の反感の歴史的かつ文化的な諸要素はほぼ明らかといってよかろう。端的にいって、それは崔浩と彼が宮廷官界へ呼び込んだ漢-シナ人の廷臣による都市化、文明化、この場合ならとりわけシナ化に向けられた土着の草原遊牧文化の反動であり反撃にほかならなかった。歴史家たちが指摘するように、漢-シナの士大夫の出自を絶対とする崔浩は、たとえば国史撰述を総監した2年後に、笵陽の廬玄、博陵の崔綽、趙郡の李霊、河間の邢穎、勃海の高充、広平の游雅、太原の張偉など、彼同様に北中国の漢-シナ人社会で高門著姓として認められている貴族たちを太武帝の宮廷に引き入れた事実が示すとおり、魏・晋の時代に彼らの父祖が享受していた門閥貴族が支配する社会と政治の復興を企図したのでもあろう。だが、こういう崔浩の願望や企図は、主君太武帝が国家建設にかけた意志とは当然食い違っていた。皇帝の意図は漢-シナ文化を摂取しつつ、鮮卑拓跋部族が主人であり、彼らを中心に構成された独自の新しい国家を作り上げることにあったらしいからである。これもまた歴史家たちが指摘しているように、けれども老年に入って、崔浩は自分が魏王国の牧童頭の倅に過ぎなかったこと、功績を挙げて王国の頂点近くに攀じ登りはしたものの、彼が招致した同胞の高門貴族たちとひとしく、彼自身も騎馬遊牧民の制服王朝にあっては宿生木でしかなく、宿生木が大輪の花々をにぎやかに樹冠のあたりへ咲かすわけにはいかないことを失念してしまったのに相違ない。さきに崔浩は彼の教養と文化によるシナ化の効力を過信するあまり、北魏王国の文明化や平城の都市化をただちにシナ化と思いなして絶対視したと記したゆえんである。拓跋族北人たちの崔浩たちへの反撃が数年前の、崔浩の発議にかかる仏教弾圧にたいする怨恨によって助勢されたであろうとは容易に想像される。こうして太武帝に見捨てられた崔浩は、70の高齢で彼の一族、清河の崔氏一門ともども誅殺された。崔浩一族の誅滅が彼個人に向けられた怒りや怨みの直接的な帰結だったのはむろんだが、それ以上に、彼を代表とする漢-シナの士大夫たちとその文化にたいする北人たちの反感と敵意の表出であったことは、皇帝により族誅されたのが崔氏一族に限定されなかった事実によって知られる。すなわち崔浩と婚姻の縁があるという理由で、笵陽の廬氏、太原の郭氏、河東の柳氏といった大姓が族滅され、また崔浩の勢力下で働いていた属官や下級吏員までが五族に及んで夷滅されて、記録は、こうして粛清されたものは128人に達したと伝えている。
だが、歴史の可笑しさというべきか。崔浩による崔浩風のシナ化を圧しつぶした皇帝、太武帝も無事では済まなかったのである。父明元帝、祖父道武帝と同じように、その王国の文明化の過程で、彼もまた文明の害毒によって生命を奪われてしまった。ただしその害毒には、父祖を中毒死させた寒食散が文明の腐敗の一小部分でしかなかったのと違って、中華の文明の堕落であるのか、それとも精粋であるのか、いちがいには判定しがたいようなところがあったのである。すなわち、彼の王国もシナ化の一環として王宮制度の内部に宦官組織を組み込んだのだが、太武帝は自身が寵愛して中常侍に引き立てた宦官宗愛に弑殺された。崔浩を粛清した翌々年(452)、そのとき皇帝は45歳であった。

華夏大陸:隋唐帝国を襲う〈投げ網〉

人間が自身を都市の内部へ囲い込んだ長大な歴史はついに人間の卑小化、矮小化を産みだしたのである。それと同時に都市的世界も銭の孔にまで萎縮した。・・・(中略)・・・そして、 古代以来の都市文明が銭の孔の中の虱にまで衰え果てたとき、北方から侵入した騎馬遊牧の異民族に世界の中心を明け渡した、その文明の創造者は江南の長江流域へ移住し、そこで文明の再生を図らなければならなかった。

これが、大室幹雄氏が『桃源の夢想』にて描く、古代の漢族による都市文明の終末、南方へと亡命して行かんとする、かつての中原を支配した帝国の終末の姿です。続く『園林都市』で、歴代南朝の都市の変容が描かれていますが、その都市の姿は、漢代バロックから遥かに遠くなった物として言及されています。

世界の神話的な中心から地理的に大きく逸脱し、城壁の欠如を初めとして従来の漢族の都の古典的な造形モデルからも逸脱した、歴代南朝の都市―― 交通エンジンは馬ではなく牛であり、牛歩の如く緩やかな歩み、清談に表現されるような細部に囚われた精神が、ロココ的とも言える園林世界像を現出しました。

そしてこの「園林都市」の中に興亡した南朝の文化遺産が、「干潟幻想/反園林都市」たる隋唐帝国の中に染み込み、 銭の孔の形をした〈投げ網〉よろしく、新興帝国をジワジワと呪縛して行ったと考える事が出来ます(=華北の人々は江南文化に憧れており、いわば江南コンプレックスを抱いていた)。

かつて、絢爛たるロココを現出した江南文化は、その富貴の文化的完成性の故に、 恐ろしい腐蝕作用の力を蔵していたと言えます。 この「反都市理念」をまとった園林の夢想、永遠普遍の腐蝕は、隋帝国のみならず、唐帝国にも作用したのです。

同じく、『桃源の夢想』より、引用

端的にいって、戦国期的な渾沌と自由の再来にも関わらず、世界解釈の枠組みが伝統として完成されすぎていたのである。そのため世界を初め、国家、社会、人間をめぐって未来を展望し、それらの新たな諸関係を構想し、世界解釈全体を構成しなおす想像力の潑溂はどこにも湧き起こらなかった。

唐帝国が完成した都市・長安は、〈後シナ文明〉の完成形、或いはその後の宋・元・明・清といった歴代帝国の都のロールモデルとして理解する事も可能です。その都市・長安は、これまた、やはり時の変遷と共に変貌した都市でした。最初は、城壁によって厳格に内/外を仕切る「檻獄都市」として登場したと言う事が、大室幹雄氏によって語られています。

以下に、大室幹雄・著『檻獄都市』の緻密な語りを引用

長安の外郭城は規模の大小に些少の差異はあれ、高さ3m、厚さ2mを越す土牆によって防禦され、画然と横長の矩形に区画された、蓋の無い巨大な平べったい箱に似た夥しい都市都市の集合にほかならなかったことが判かる (※補足=長安の外郭城=「坊」と呼ばれる街区によって構成される。「坊」全体の概数は110区)。感受の仕方によっては、これは戦慄的な恐ろしい光景、それ自体としては荒涼たる不気味な景観、権力の専横と倨傲だけが実現すること可能な反自然の構築、醒めて眺めれば壮大な奇観以外の何ものでもなかったといってよかろう。・・・(中略)・・・もうひとつ、景観の印象の表現を。高宗の代に完成された大明宮の前殿、龍首原頭の高みに建てられて大明宮の「外朝」だった含元殿からの眺望である。「天晴れ日朗(て)る毎に、終南山を南望すれば掌(て)を指さす如く、京城の坊・市・街陌は、俯視すれば檻の内に在る如し。蓋し其〔含元殿〕の高爽なればなり」・・・(中略)・・・相対的に天に近い含元殿の高所に立って、げに昊天上帝のご機嫌もうるわしい青天白日のもと、脚下に拡張する京城を俯瞰すれば、縄直の街路を挟んで、高く厚い黄土の直立する堆積に囲まれて碁盤目状にびっしりと詰まっている街区と市場の集合は一個一個が巨大な「檻」の群だというのである。それらの「檻」の内部に生きているのは羊たちであろうか?昊天上帝の愛息子と彼の忠良な臣下たちの富貴に眩んでいる遠眼には、それが牛羊の群であれ、人の男女老幼の群集であれ、現実にはさしたる差異はなかったといってもよかろう。少なくとも権力の高みから俯視した、この景観はわが巨大都市の殺伐を歴歴と具象化してはいた。
首都長安は世界を天下的に所有し支配する皇帝と、彼に禄仕する官僚たちが繫縛されていた底のない富貴願望の実現に奉仕する目的で設計され建設された檻獄都市であった。

唐帝国を彩った帝都は、長安と洛陽。 長安が「檻獄都市」だったのに対し、洛陽は「仏教的トポス」としての姿を見せました。

唐・第三代皇帝・高宗の代、宮殿の増改築による都市・長安のいびつな変形、「象徴性の深層において、この巨大都市は頸骨が折れて、頭部が異様に脱臼してしまったと見立てるほかはない」と言う有様に乗じて、唐帝国を大いに揺るがし、〈シナ文明〉に代わる新たな文明の予兆を見せた時代がありました。

それが則天武后の時代、武照革命(大周革命)とも記される時代です。しかし、これもまた、あの江南の園林都市の影が差した結果なのか、政治文化の拠点としての洛陽を徹底的に破壊した事実の他には、文明的な意味合いは無かったようです(江南コンプレックスの呪縛、恐るべし!)。

大室幹雄氏による、武照の大周革命論評(『檻獄都市』大室幹雄・著/三省堂1994):

武太后の専政と革命とが、辛辣で覚醒的なリアリズムと夢想的な理想主義と壮麗広大なシンボリズムとのアマルガムによって神都を光被し尽した、すなわち現実と夢想と象徴が混融する妖しげな巨大趣味(メガロマニイ)の実現によって、東都洛陽を万象の秘儀が顕現し交響する場として文字通りに神秘な都に変成することに成功した
(中略)…宇宙の神秘が示現した聖母神皇の都をあげての壮大なカーニヴァル、20年間ぶっつづけに興行された世界芝居、あるいはこの文明の開始以来最初の女性として、世界の中心に聳立する宇宙軸を祀る単一至尊の天子-皇帝に再生した彼女自身の生の浄福をことほぐ祝祭、 それが大周革命の本体であった。…
さして広くもない神都洛陽にこれほど多種莫大な天下=世界の力が凝集して、その力のたぎりの中心から断乎として集中的に強烈に、壮麗誇大に多彩な表現として現前したこと――顧みれば、本書の前篇『干潟幻想』で、天下=世界のほぼ全域に拡散して遊ばれた、始原児皇帝煬帝の世界遊戯を、彼の独自な心情をも勘案して、江南ロココ崩れの擬似バロックと呼んだのだが、それとの対比において、われわれは武照の支配した世界、より適切には閻浮提における彼女の「化城」に現前した精神と物質のメガロマニィ的な創造をバロックと呼ぼう。

(※当サイトにおける解釈&補足=もっぱら天空のみに定位された、垂直的な力の上昇の意思をバロック的な精神と呼ぶ。武照が力の限り破壊し変成した天上志向の帝国が、すなわち神都洛陽であった。その支配の下、洛陽は、弥勒下生のバロック・ユートピア、あるいはバロック都市として展開した。しかし、その実態は、秘密警察組織が活躍する「(恐怖政治)テロル都市洛陽」でもあった)

則天武后が押し通した仏教革命は、 シナ・イデオロギー都市を仏教イデオロギー都市に改造するという形で進行しましたが、〈後シナ文明〉の第一原理――「シナ化都市化」そのものを変容させると言う事態には至りませんでした。 その代わり、〈後シナ文明〉を彩る事になる、新たな革命思想が定着しました。

つまり、 従来の「儒教・道教(陰陽五行説)を基にしたシナ・イデオロギー的な革命思想」に対して、「弥勒下生信仰イデオロギーによる救済としての革命思想」が加わったと考える事が出来ます。このニュータイプの革命思想は、20世紀の文化大革命にも及んだ事が指摘されています。

武照の弥勒信仰という外部思想を利用した革命は空前ではあったが、しかし絶後ではなかった。彼女の仏教革命は後世に深甚な影響を及ぼす事になったのである。/【シナの変容】革命の変質