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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

研究:中華経済の近代史(前篇)

中華経済圏の歴史について、もう少し詳しく見てみる事は、「21世紀の中華」がどのように動くかを予測する上でも参考になるかと思いますので、チャレンジです。

《プレ近代(18~19世紀)の中華経済:明&清》

中華帝国の経済構造の基礎は、明・清の時代に確定しました。

宋・元(モンゴル)の後の大陸を支配した明帝国の、最初の課題は、まず何よりも、南北の経済格差であったろうと思われます(経済構造そのものも、異国レベルと言って良いほどに異なっていた)。

実際、前王朝であったモンゴル帝国も、華北・華南で同一の統治を行なっていません。 華南から発生した明は、華北を、自らの地元でもある華南(江南)の経済構造の中に同化しようとしました。

初期は、王朝交代に伴う激しい戦乱が収まっておらず、現物主義の決済システムとなりました。モンゴル帝国が保持していた紙幣制度の崩壊という事情もあり、貨幣は余り重視されなかったのです。

華北経済圏と華南経済圏…生産力も経済システムも全く異なる2つの経済圏を「中華経済」として統合し、なおかつ南北格差を解消するため、明は現物主義を取りました。初期の明政権の江南に対する弾圧・収奪は、過酷なものとなったのでした。

※土地・人民を調査した資料として、「魚鱗図冊」や「賦役黄冊」が有名です(太閤検地みたいなものでしょうか)。それに基づいて、物納や徴発という形で物資・労働力を直接に取り立てました。明朝の貨幣「永楽銭」が知られていますが、鉱山資源の枯渇もあって、実際には現物決済の補助的な役割しか無かったようです。

明の経済は、貨幣の流出を防止するため、モンゴル時代のグローバル経済とは違って、朝貢経済の復活と共に厳しい海禁(鎖国)政策を伴うものとなりました。「万里の長城」が明の時代に完成したのは、この鎖国政策の固持という理由によっています(実際、モンゴルも清も、万里の長城を越えて侵入する事は困難でした)。

一方、江南デルタでは、土砂堆積作用によって主要河川の流路が変化し、広大なエリアで水不足が起き、米作を断念せざるを得なくなりました。稲作メイン地帯は別地方に移りました(「蘇湖熟すれば天下足る」から「湖広熟すれば天下足る」へ)。

江南デルタの中央部では桑、木綿、麻、麦といった多様な商品作物が増え、いっそうの労働力の集約とマニュファクチュア(工場制手工業)の分業化が進みます。

江南経済は貨幣決済を強力に必要としましたが、明は現物決済主義です。そこで、江南地方では私鋳銭が増加しました(違法ではあります)。近隣の取引では様々な質の銅貨が一定の双方合意のもとに流通し、遠方の取引では広く共通価値が付与される貴金属=銀が使われました。

遠方取引(海外貿易)においては、ヨーロッパ大航海時代を迎えた事もあって、大口取引(絹・茶・磁器などの中華ブランド品)の需要が爆発的に増加しました。江南エリアでの付加価値生産力の上昇と商業発展に伴い、銀需要は飛躍的に高まります。

倭寇などの密貿易集団(海賊)が活躍した時代でもあります(※台湾の鄭成功が有名)。

※外国資本の流入による、この江南エリアの経済ビッグバンもまた、「量の問題」に帰結すると言えます。ヨーロッパ科学革命のような、将来の産業革命に連結してゆく「質における革新&革命」は、遂に発生する事はありませんでした。これは中華帝国の世界観や哲学史・科学史を考える上で、非常に興味深く、また厄介な問題でもあります

こうして明が保守した現物決済主義の経済システムは、グローバル的な時代変動の圧力の前で、立ち行かなくなりました。鎖国政策を続ける政府と、自由貿易を求める民間。相反するベクトルの中で、双方の距離は拡大し、身分や貧富などといった社会格差、大きくは南北格差も巨大になって、明は内乱で疲弊します。その明に取って代わったのが、清でした。

清は、明帝国の後裔という立場上、明の経済政策を概ね敷衍していました。

近現代の財政(国庫スタイル)とは、非常に異なったスタイルです。プレ近代の中華帝国には、「国庫(大蔵省・財務省)」という一括的な財務処理機関の概念がありませんでした。

理論上、国富はすべて皇帝の下に集結するのですが、実際の「国レベル税収項目」は「国レベルの支出項目」と一対一で連結していなかったのです。地方ごとに、(国庫的な)負担項目と負担レベルが決まっており、地方は中央の裁定に従って、個別に全額を納入しなければなりませんでした(差額による相殺は無し。つまり国税&地方税、国家財政&地方財政、という統一的な概念も無かった)。

このようにバラけた国富管理(歳入/歳出)を、限られた政府役人メンバーのみで正確に把握する事は不可能です。ゆえに、清は、定額管理財政を志向しました。

しかし実際の行政支配においては、国家予算の額が通年平均を超える事もままあります。このような事態に、定額管理財政は対応できません。そこで、不足分の予算を確保するために、臨時の追加徴発や付加税という形での収奪が、不定期に、かつ頻繁に行なわれました(国債という概念は生まれなかった)。

ここに、官僚汚職(私的かつ不法な収奪、および差額の着服)の基盤が、強固に確立し定着する余地がありました。

清は、共通決済通貨として「銀」を公認しています。銅鉱山の開発を進めたため銅貨も増えましたが、明スタイルを引き継ぐものとなったため、貨幣管理に国家権力が介入する事はありませんでした。

そのため地方では多種多様な私幣(現地通貨)が弾力的に運用され、専門の金融業(銀行業、信用投資、保険業、帝国内部の共通の株券・証券など)が発達しませんでした。

「関税」の扱いもまた同様です。それは、清の海禁政策の実施において、帝国の内と外を峻別する「国境」概念と結びつくことはありませんでした。内地の交通・流通を、国境および国境外(客家・華人経済圏の及ぶ限り)にまで延長したものとして、取立てが行なわれていたのです。

※この「国境」「関税」に対する定義の曖昧さは、現代にまで持ち込まれているようです。中華帝国の版図の野放図な拡大現象は、これで説明できるかも知れません。ボンヤリとした定義の都合上、「中華帝国」における「国境」は、無制限に膨張する性質を持っていると言えるでしょう

さて、清の時代に、領土の膨張を遥かに凌駕する勢いで、激しい人口増加があった事が知られています。この人口増加は「パイ(限られた土地・資源)の奪い合い」を激化させ、社会における貧富の格差をいっそう拡大しました。昔に比べると、働いても働いても収入が増えない…すなわち人件費(賃金)の著しい低下という形で、「量の問題」がここにも発生していたのです。

こうした社会は、必然として摩擦や紛争(械闘)が増えます。これらを中心になって処理したのが、民間結社、つまり地縁・血縁を基盤とする中間団体でした。こうした団体は、私幣(現地通貨)運用に関して強い権限を持っており、その価値を保証するため、しばしば密貿易にも関わったと考えられます。

以上のボンヤリとした国境概念、華人(私幣)経済圏の増加、膨大な貧民の発生といった変化が、緻密に張り巡らされた密貿易ネットワーク(地下経済)を発達させました。密貿易を専門とする秘密結社は、星の数ほど存在した事が知られています。

《近代化直前(19世紀アヘン経済発生~アヘン戦争とその後)の中華経済》

清における国家と民間の経済の巨大な乖離の故に、アヘン経済は成功しました。

清はアヘンを禁じていましたが、無数の秘密結社が、国内需要にこたえて大量のアヘン取引を行なったのです。塩の密輸市場を遥かに超える勢いで、アヘン市場が急成長した事が知られています。

元々、海外貿易における大口取引では、国家公認の少数大手の貿易商がメインでした。外国商人の注文に応じて、清の商人が国内から商品を買い付けるという形です。イギリスの場合、発達した株式や銀行によって巨大資金を集め、大口発注を増やすことが可能でした。それに対して清公認の商人は、各地方から資金を集める事が不可能でした。貿易量の増大と共に、金融処理の限界が来てしまったのです。

清公認の商人は、イギリス各国に借金して運転資金を捻出する羽目になりましたが、返済能力が無いため倒産する商人が多く、商取引は滞りました。

そこに非公認の華人貿易商、つまり秘密結社が進出する余地があったのです。非公認の華人貿易商は、外国から資金を提供され、貿易商品の買い付けを担当しました。いわゆる買辦企業の始原です。非公認であるため、私利を追求しての密輸も脱税も、日常的に行なわれていたと推察できます。

アヘン貿易もまた、このような密貿易の容易な構造の中で、発達したのです。更に言えば、アヘンは銀に代わる高額決済通貨としての価値があったため、国内流通においては、大きな混乱は無かったと言われています。

※清帝国から大量の銀が流出しましたが、アメリカ西海岸やオーストラリアのゴールドラッシュにより、新たな中華ブランド商品の消費市場が生まれたため、銀は再び清帝国に流入し始めました。その様相を見ると、総じて、買辦企業(華人商人)の方が取引の主導権を持っていたとも言えます。それゆえ、不満を持った外国企業との間で、しばしば紛争が起きました。アヘン戦争は、その拡大版として理解する事が可能です。

買辦企業を運営する華人商人と外国商人は、アヘン戦争などの大きな紛争を重ねながらも、結託の度合いを増します。アヘン戦争後に条約が結ばれ、その結果、爆発的に増加した貿易取引は、外国商社と華人商人がメインです。そこには、条約によってより参入の度を増した外国商人による、現地銀行の設立がありました(新たな金融業の発生)。

外国銀行は、外国商社に対する融資や、華人との貿易取引における送金決済を処理すると共に、外国通貨建ての現地通貨を発行しました。清にとっては、従来の、国境を曖昧とする華人(私幣)経済圏の拡大版と言えるものであります。

対して、清国内の金融業務を担当したのが、土着金融機関の「票号」「銭荘」でした。「票号」「銭荘」は、業務拡大にあたり、やはり清国内から資金を集める事が出来ず、外国資本の融資に頼っていました。

海外・外部からの資本流入によって貿易量が増加し、江南デルタを中心とする流通経済が(地下経済も含めて)極度に活性化するという、現代中国でも見られる他力的な経済発展スタイルは、明・倭寇(ヨーロッパ大航海時代)の頃から既に存在していたと言えます。そして、その発展の有様は、常に「質の革命」を伴わず、「量の増大」のみの現象となりました。

「量の問題」は、ここにも共通して見られるものであります。

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読書覚書『古代の都と神々』

『古代の都と神々』榎村寛之・著/吉川弘文館2008

古代の大和朝廷は、その直接支配下に(王権の機能を各地に分散させた上で)、王権を支える祭祀施設を幾つか有していた。三輪、石上、大倭(大和坐大国魂)、住吉など。

畿内周辺には朝廷を支える氏族ごとの有力社(氏族ごとの祭祀施設)があったが、こうした神社は、氏族の没落や断絶と共に消滅するものが少なくなかった。藤原氏以外の氏族、すなわち、石上(物部)氏、石川(蘇我)氏、大伴氏、阿倍氏、多治比氏などの神は埋もれてしまった。

古代の神は、王権によって体系的な国家祭祀として組織されたものではなかった。有力神社を公認し、一定の補助を与える代わりに緩やかな統制を加えるような体制であり、古代の朝廷は、氏族ごとの信仰の中身にまで立ち入ってはいなかったのである。

一方、考古学的知見から、次のような内容が指摘できる。

原始的国家(大和朝廷)から律令国家へと移り変わる時代、一定の価値観のもとに祭祀道具が配布され、或いは作られる例があった。鏡や滑石製品などである。

5世紀ごろから一般化したとされる滑石製の勾玉は、翡翠製や瑪瑙製とは違い、何処にでもある石から作られるものなので大量生産も可能であり、誰かによって一定の価値を保証されなければ、タダのガラクタでしかない。

この事から、滑石製勾玉の分布は、王権の及ぶ祭祀の分布を示す可能性が指摘される。

権力の側から、各地の様々な「神」に一定の情報やルールを押し付ける事は可能であり、滑石製勾玉は、そうした地方の祭祀で権力者のルールの下に扱われるか否かによって王権との関係を規定する物であった、と推察できるのである。

つまり滑石製品の類の祭祀道具は、王権のルールに従うか否か、という「踏絵」だった可能性があるのである(例えば、紙幣はタダの紙であるが、一定の領域の中で、経済の一定のルールに従って扱われるが故に、領域内の経済取引において、有効な道具となる)。

「記紀神話」の成立は、律令国家の確立をも示唆する、歴史的な事件であった。「記紀神話」成立より前の時代の「神」観念は、実はハッキリしない物であったと言われている。現代のような人格神や血縁関係が語られるようになったのは、「記紀神話」成立より後の時代になってからである。

日本においては、体系的な漢字受容期に、道教における「神」より上の概念である「仙」の用法が明確に定められなかった。これは、中国における「神・仙」セットが直接に流入して来なかった事を意味している。

「神」は「仙」より身分が低いという事から、漢字文化圏の周縁に位置する人々(華に対して夷と呼ばれる人々)が祀ったモノを示す文字として使われたであろう事は充分に考えられる。朝鮮半島で祀られたモノは、日本列島に先駆けて「神」という文字で表現されており、それが列島に流入したのである。

これは、日本における「神」の概念に、複雑な事情をもたらした。

  • 中国大陸における正統派の、「仙」の下位概念としての「神」概念
  • 渡来系氏族の祭祀対象の「神」
  • 古来の列島の「カミ」

これらの成分が混合して新たに立ち上がってきたのが、現代につながる「神」、すなわち「記紀神話」という形で体系的にまとめられた神話群の神々である。「新しく出来た《神》観念」は、渡来系知識人を取り込んだ王権によって、列島各地に一定のルール(祭祀における踏絵)を伴って、普及したと言う事が出来る。

「神」の祀り方のマニュアルを作り、その理解を普及させる事で、中央権力は「正義正統の神」と「淫祀邪教」を区別できる。中央から発信された新しい知識・思想などの情報に基づいて、「秩序を乱す神」を討伐する物語は、数々の神話として再編集された。

例:ヤマトタケル神話、夜刀神話、スサノヲ神話、高天原神話

律令時代の祭祀はこのような事情の下に成立し、律令時代の王権を支えて来たのである。

◆都城の形成と王権祭祀

《飛鳥京と藤原京の違い》

飛鳥京は、6世紀後半頃から次第に大きくなってきた「大王の宮殿のある所」+「関係者の住む所」である。斉明天皇の頃、国際的政権を強調するため、新羅的な苑池施設や迎賓施設などの都市的な装飾を付属させ、周辺地域と隔絶したイメージを押し出して成立。

このような都市計画は他に類例がなく、飛鳥京を飾った装飾品は、その意味が早くに忘れられ、二面石、猿石、酒船石、須弥山石など、「謎の石造物」になってしまった。

藤原京は、「大王の集落」の意味を超え得なかった飛鳥京に比べると、律令国家体制を体現した中国風の計画都市として成立していた。

それ以降の平城京や平安京は、藤原京を敷衍した都市となっている。この意味では、「京」イメージの歴史的大転換であったとも言える。

《都市住民の発生》

藤原京には、律令体制を維持するための、貴族層から労働者層に至る様々な定住人員が集められた。彼らは、「京戸」=京に本貫地を持つ者として掌握され、諸々の義務やそれに対応した税制優遇など、周囲の一般公民とは異なる待遇をされた。

「京戸」は「氏」を基本とする集団ではなく、「家」を基本とする集団であった。「隣人は、血縁関係の無い他人である」という、都市住民の有様を形成したのである。

《都城と神々》

京の中心である「宮」には様々な神々が祀られた(平安京の場合は、地主神、高天原の神々など)。

しかし、「京」そのものを守護する神々は入っていなかった。中国の京に一般的な宗廟・社稷(祖先祭祀)、祈年祭、農耕祭祀なども存在しなかった。

宮中祭祀にしても、天皇の身体護持や国土の象徴化といった祭祀が中心であり、「王権の前に、各地の全ての神々は無ないし平等である」とする、律令国家最大の祭祀である祈年祭も、建前のみに留まっていた。そもそも「記紀神話」は、律令的な神祇支配の起源の神話を持っていない(各地の神々を血縁的に位置付け、中央神話に集結しただけである)。

つまり「京」は、それ自身の守護神を持っておらず、「神なき空間」として始まっていたという事が言える。

伊勢神宮の経営は壬申の乱後、大海人皇子によって本格的にスタートする。そもそも壬申の乱が、既成勢力に対する反逆から始まったものであるという経緯を持つが故に、伊勢神宮は、その後に完成してゆく律令体制国家に対し、齟齬をきたす存在であり続けた。

律令祭祀の頂点が伊勢となった事で、京には宗廟が存在しないという異常事態が発生したのである。しかも「私幣禁断」のルールを定め、天皇祭祀独占とした事で、「天皇」という機関を強化する方向に向かっていった。伊勢神宮によって、天皇は、官人として再編成された全豪族・全皇族の上にイデオロギー的に君臨する事になった。

律令国家が最初に造営した藤原京は、『周礼』に基づく理想都市を目指したものであったが、「神まつりの場」を都城の中に取り込むという形態が根付かなかった事は重要である。日本の都城は、その領域を守る宗教施設を持たなかったのみならず、その草創期には、取り込んでいた既成の祭祀の場を、殊更に排除する方向に進化した(伊勢神宮の整備の経緯)。

都城は、それ自身特殊な祭祀空間とされていた大和盆地の中で、更に特殊な空間として発生した。その空間自体が、特定の神によって護られていない。「京」とは、共同体祭祀的なレベルに留まっていた当時の神観念では、律しきれない空間だと認識されていたらしい。

◆「都市の神」の発生/中央都市が創出する宗教情報文化

京は「神なき空間」として始まったが、同時に新しい空間でもあった。其処に、新しい時代を彩る新しいタイプの神が発生する契機があった。

日本の都城の特徴は、城壁を持たない事である。城壁、すなわちハッキリした境界を持たず、従って、何を以って周辺から「都市」として切り取られるのかという事が、曖昧であった。

大宝令の段階では、既に「京職(きょうしき)」が置かれ、守護されるべき「京の空間」が定義されていた事は、明らかである。

羅城門の内側の、計画的な辻の連なる空間を以って「京」としていた。つまり「京」とは、辻によって結界された都市であった。この結界を強固にするものとして始まったのが、京の四隅で行なわれる道饗祭である。

ここで、在来の道饗祭の様式と、国家が新しく定める道饗祭の様式が衝突する。国家は、民間祭祀を「淫祀邪教」として弾圧した。計画的都市であった「京」にとっては、不法集会に他ならなかった故である。

実際、人面墨書土器、土馬、まじない人形などが平城京の跡地から出土している。これらは、新しい渡来系の呪術的知識に基づくものである。「神なき都市」である「京」では、不思議な出来事に対しても新しい対処方法が必要とされ、ここに大陸の先進的な呪術が混交する余地があった。なお、こうした渡来系呪術は、百年も経たずに陸奥エリアまで波及した。

祈年祭に代表される神祇ネットワークの全国的普及は、延暦17(798)年に、国府が地域の有力者に班幣を行ない、官社化してゆくシステムが成立してから後の事と言われている。神祇ネットワークの構築は、個別に存在していた名を持たない「カミ」を新たな「神」という概念の下に書き換え、編成する作業であった(いわば、《神》ロンダリングであった)。

この作業は、国家仏教の成立と同時に行なわれていた(東大寺を頂点とする国分寺体制に裏書されたものであった)。仏教と言う概念を媒介に使わないと、既存の「神」観念と「京」という空間は、折り合う事ができなかったのである。

後に怨霊をメインとする御霊信仰が発生する(早良親王、伊予親王、藤原吉子、橘逸勢、文屋宮田麻呂など)。

「既成のイデオロギーと新しい思想の結合で生み出された」信仰という指摘がある/都市住民のパニック意識の蔓延と新興仏教である天台・真言の伸張という宗教社会の地殻変動を、体制側が正面から受け止め、既成の仏教イデオロギーの枠内で怨霊に名を与え、守護霊に昇華する方法を示唆した。

地方では新田開発が続き、「新規開発は新しい開発守護神を生む」という状況が生じ、既存の「王権の下に全ての神は無ないし平等」という神祇ネットワークが揺らいた。これは必然として新旧勢力の対立を生んだ。中央国家は内紛を防止するため、結果的に勝ち残った神の方に加担した。これが、既成・新興関係なく、勝ち残った神社の方をランク付けしてゆく「神階制」である。

「神階制」によって神社ごとの個性がクローズアップされるという変化が起きた。現代的な意味での、不特定多数の万人に対する「現世利益」を旨とする神社も発生する(それまでは、現世利益は、一時的な流行神が担っていた)。その流れの中で、都市は神宮寺という新たな形式(平安時代的な展開)を発生した(その典型が、例えば石清水八幡宮)。呪術的仏教の力で神と交感し、それを有効活用するという形である。

9世紀後半、本来律令制下では伊勢神宮にのみ許された「皇太神」と称される神社が急増する。貞観年間に起こった新羅「賊船」の来襲を契機として、六国史の中だけでも、17社が宣命の中で「皇太神」と呼びかけられている。これは、平安京の時代には、既に「京」が多数の有力神によって護られていると言う認識が普及していた事を示している。

以上のような変化は、「京」を「現世利益的な有力神によって封じられた内部空間(閉じ篭もり)」と化す認識を促した。外交的にも大陸との関係が薄くなり、国風文化が発達する。怨霊の御霊化というテーゼは、「その時々の怪異を吸い取り、逆に現世利益を期待できる守護神&神社とする」という、宗教戦争における常勝のパターンを生み出した。

「京」と「天皇」および閨閥を守護するための新しい神々が次々に創出&重用され、それまでの古代由来の氏族関係の神社は、より地位を低下させた。

以上のようにして、都市の宗教情報文化、すなわち「都市の神/神社」が生じた。中世・封建時代に至っても「京」がなお中心性を持ちえたのは、こうした宗教情報文化の中心であり続けたからであると言う事が指摘されている。


志多羅神の覚書/読書『古代の都と神々』より

『古代の都と神々』榎村寛之・著/吉川弘文館2008

天慶8(945)年7月、摂津国から「志多羅神」が上京する。元々この頃、京洛の間(=京内)では東西の国より神々が上洛してくると言う噂が流れていた。

志多羅神の別名=「小藺笠(こいがさ)神」、「八面神」。

「したら」とは、手拍子の事ともビンザサラの事とも言われる。藺草は笠の原材料の一つ。志多羅神は「笠をかぶる神(或いは鬼)」とも思われたらしい。多面の神は、両面宿儺の例にも見られるように、普通の穏やかな神では無いというサイン。

7月28日付、摂津国司が送付した解文:
摂津国豊嶋(としま)郡からの報告で、志多羅神と号する輿が3体、数百人の人々に担がれて今月7月25日に河辺郡の方からやって来た。幣を掲げて鼓を打ち、列を成して歌舞しながら当郡にやって来た者は、僧俗・男女・身分の高下・老少関係無かった。この一団は朝から翌日の暁方まで市を成すように集まり、山を動かすような歌舞をして、26日の辰時頃に、その大騒ぎと共に、嶋下(しましも)郡に出発して行った。その神輿(しんよ)の第一は檜皮で葺かれ、鳥居が付いていて、「文江自在天神(ぶんこうじざいてんじん)」と称していた。他の2基は檜の葉で葺かれていた。

※河辺郡から嶋下(しましも)郡に移動=淀川沿いに京に向かうコースである。

ところが8月3日、石清水八幡宮の言上ではガラリと内容が変わる:なお、以下に述べるように神輿の名が「文江自在天神」から「宇佐宮八幡大菩薩」に変化したのは、権力側の政治的策謀によるものという指摘が出ている

第一の神輿は「宇佐宮八幡大菩薩御社」となっていた。他に5社の名の分からない神輿が加わっていた。この神輿の一群は、山崎郷から数千とも数万ともつかない人々とやって来た。

その中の崎郷の郷刀禰(ごうとね)曰く(※郷刀禰=郷の中の官位を持つ程度の有力者):
「7月29日の酉刻頃に嶋上郡からこの大群衆がやって来て、恐々としていたら、同日の亥刻頃に、ある女に託宣が下り、「吾は石清水に早く行きたい」の事だったので、此処にやって来た」

群集の歌:

月は笠着る 八幡は種蒔く いざや我らは荒田開かむ
志多羅打てと 神はのたまふ 打つ我らが 命千歳
志多羅米 早河は 酒盛らば その酒 富める始めぞ
志多羅打てば 牛はわききぬ 鞍うち敷き 佐米(さめ)負(お)はせむ

〔反歌〕朝より 蔭は蔭れど 雨やは降る 佐米(さめ)こそ降る
富は揺すみきぬ 富は鎖懸け 揺すみきぬ 宅儲けよ 煙儲けよ
さて我らは 千年栄へて

同時代の醍醐天皇の皇子・重明(しげあきら)親王が記した日記『吏部王記(りほうおうき)』では、この神輿は、第一「故右大臣菅公(菅原道真)霊」、第二「宇佐春王三子」、第三「住吉神」として、山陽道を上洛して来たと書かれている(=いずれもが新しい神では無く、この時代を代表する流行神)。

※権力側の論理では、志多羅神は、「西からやって来る流行神」という既成の枠の中で説明された事を示している。

この「志多羅神」事件の最大の特徴は、開発の著しい進行によって蓄積されたエネルギーが宗教的狂奔となって爆発したが、その行動が、天神や八幡などの既成の枠内の神によって説明され、最終的に安全着陸してしまった事にある。

つまり、京を護る神社の中に、新しい神の動きは吸収されてしまったのである。ここには、神社という物が持つ機能の発展を見る事が出来る。

石清水八幡宮には、新しい民衆エネルギーの発動に対して、権力の側が設定した吸引装置の機能が期待されるようになっていた。同様の性格は、稲荷社、祇園社など、この時期に強大化する神々にも求められる。それらは京と外部の境界にあって、京に新たな「世を乱す神」が入るのを防ぐと共に、その霊験を吸引し、「京の人々の集まるレジャー施設」の中に開放すると言う「政治的施設」であったと言える。

資料:弘法大師の道

◆弘法大師は山を駆けた?「トレイルランニング」と異色コラボも…吉野山→高野山、空海の「青春」たどる新たな巡礼道(萌える日本史講座/2013.12.30/産経ニュース)

弘法大師空海(774-835年)が若き日、吉野山(奈良県吉野町)から歩き高野山(和歌山県高野町)を見つけたというルートを再生する「弘法大師の道」プロジェクトが進み、来年5月に新たな巡礼道として開闢(かいびゃく)(開山)される。平成27年の高野山開創1200年を前に世界遺産の2大霊場が結ばれることになる。関係者は日程の記録などから「空海は山を歩くというより走ったのでは」と推測し、トレイルランニングの大会も計画中だ。後に高野山を聖地として開く空海の青春をたどる巡礼、そして空海とトレイルランニングという異色のコラボは定着するか。(岩口利一)

@「南へ1日、西へ2日」

プロジェクトのきっかけとなったのは、平安時代の漢詩文集「性霊(しょうりょう)集」にある「空海は少年の日、吉野山から1日南行し、さらに西に2日歩いて高野山に至った」という内容の記述。

これに基づき5年ほど前に、高野山・金剛峯(こんごうぶ)寺執行だった村上保壽(ほうじゅ)・高野山大名誉教授と、吉野山・金峯山(きんぷせん)寺執行長だった田中利典・金峯山修験本宗宗務総長が吉野山と高野山を結ぶルートを再生する活動を開始。平成22年には両寺と奈良、和歌山両県などで実行委員会を結成し、研究者を交えて、ルートの選定や踏査を繰り返してきた。

この結果、ルートは、吉野山から大峯山方面に南下し、途中から西進。奈良県天川村の北側稜線を進み、天辻峠を経て和歌山県に入り、高野山に至る約60キロと決定した。その後、倒木の除去などを行って、道標も付けるなど、巡礼道として歩けるよう整備。来年5月に実行委のメンバーらが吉野山から高野山まで歩くことになった。

@空海の夢の足跡

空海の著作「三教指帰(さんごうしいき)」や遺談をもとにした「御遺告(ごゆいごう)」によると、空海は15歳のとき、故郷の讃岐(香川県)から都へ上り、18歳で大学に入った。当時、都は平城京(奈良市)から長岡京(京都府長岡京市、向日市など)に遷り、大学がいずれにあったかは不明だが、空海は大寺院の多い平城京やその周辺で修行したと推測されている。

空海は大学で儒教や仏教、歴史などを学んだが、なぜか大学を中退して仏の道を志し、各地の山々で修行。吉野山付近から歩き、高野山に至ったのもこのころと考えられ、田中・宗務総長は「空海に奈良というイメージはないが、若いころは奈良で学んで吉野山でも修行し、高野山に至った」と「奈良の空海」を強調。空海の青春の道を知ってほしいという。

空海はその後、30代初めに遣唐使船で中国・唐へ留学。密教を学び、帰国後は京都・高雄山寺(神護寺)に入った。40代前半に天皇から高野山を賜(たまわ)り、伽藍(がらん)の整備に着手。真言密教の聖地とする壮大な夢を実現した。

空海が少年時代に吉野から歩いて見つけた高野の地。空海はこの山を一大聖地にすることを当時から思い描いていたのだろうか。村上・高野山大名誉教授は「中国の寺の様子などを見て山を聖地にしようと思い、高野山を思い出されたのでは」と推測する。

@空海の足は異常な速さ

「南へ1日、西へ2日」。約60キロというこのルートを3日で踏破するには1日約20キロを歩かねばならない。しかも時期によって山の環境は大きく変わる。村上・高野山大名誉教授は「山にはクマやオオカミがいたと想定され、こうした動物が冬眠する時期、しかも雪が積もる前の秋から冬にかけて山に入ったのでは」と説明。日が落ちるのが早い時期のために、空海はかなり速く歩いたと考えられるという。

こうした“空海のスピード”の推測にちなみプロジェクトの関係者らは、「弘法大師の道」でトレイルランニングの大会を開くことを計画。11月にはルートの一部で、「トレイルランニングアカデミー」を開催し、トレイルランナーの鏑木(かぶらき)毅(つよし)さん、横山峰弘さんと、参加者約20人が秋が深まる山道を駆け抜けた。

「多感な年頃に歩いた空海はどんな思いだったのか、想像力がかき立てられる。アップダウンが激しいこのルートを進んだのはよほど強い思いがあったからこそでしょう」と鏑木さん。

一方、奈良県南部東部振興課の福野博昭・課長補佐も「この道を走り、弘法大師が悩み、苦労しながら高野山へ至ったことを知ってもらいたい」とPR。高野山開創1200年の27年に本格的な大会、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」(高野山、吉野・大峯、熊野三山)が登録10周年となる26年にプレ大会を開催することを目指しているという。

吉野山-高野山によみがえる「弘法大師の道」。そこを進む巡礼者やランナーの胸には力に満ちた「お大師さん」の姿があることだろう。


◆「弘法の道」の観光活用を,吉野山-高野山の55キロ(2014.06.23/共同通信)

真言宗の開祖、空海(弘法大師)が青年時代に奈良・吉野山から和歌山・高野山まで歩いたとされる約55キロのルートがほぼ特定され、このほど「弘法大師の道」と名付けられた。5月末に僧侶らが3日間かけて大半を踏破。ルートを駆け抜けるトレイルランニングの大会が予定されるなど、沿道の自治体は観光資源としての活用に期待する。

特定した奈良県などの実行委員会によると、ルートの一部は吉野の金峯山寺と南の熊野を結ぶ修験の道、大峰奥駈道と重複。残りは大天井ケ岳から高野山・金剛峯寺に向けて西に折れる尾根道で、実行委員長の村上保寿高野山大名誉教授らが実地調査を繰り返した。


◆吉野山から高野山へ「弘法大師の道」トレイルランに170人、和歌山(2014.06.30/産経ニュース)

「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産登録10周年を記念して、吉野山・金峯山寺(奈良県吉野町)から高野山・金剛峯寺(高野町)に至る約56キロの「弘法大師の道」を走るトレイルラン「Kobo Trail 2014」が29日行われ、約170人の一般ランナーが険しい山道を駆け抜けた。

トレイルランは舗装されていない山道を小型のリュックやベストに食料や水を携帯して走る競技。弘法大師・空海(774-835年)が若き日、吉野山から歩き高野山に至ったと伝わる道が5月末、「弘法大師の道」として再生されたことに合わせ、披露イベントとして両寺や奈良県、関係自治体でつくる実行委が主催した。

コースは金峯山寺をスタートする55.7キロと奈良県天川村洞川からの42.4キロの2コース。舗装路はともに3割程度。金峯山寺を出発するコースは、標高360メートルのスタート地点から同1439メートルの大天井ケ岳まで約13キロを登ったあと、尾根伝いにアップダウンを繰り返しながら金剛峯寺に至る険しい道。実行委によると、長く人が通らず道なき道となっている部分もあるという。

早朝6時に金峯山寺をスタートし、7時間34分03秒のタイムで1位でゴールした大阪府羽曳野市の市職員、青柳彰吾さん(33)は「厳しいコースだったが、吉野から高野山という普通の山を走るのではない特別な感慨があった。走り切って達成感があります」と笑顔で話した。

◆動画「空海が歩いた山道をたどる 吉野山から高野山まで55キロ」(2014.08.12/KyodoNews)

www.youtube.com/watch?v=HBCIZykAICA