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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

華夏大陸:秦漢の衰退と胡漢複合

一個の巨大な干潟と隠喩した専制的世界帝国にあっては、内と外との分節化こそが最も普遍的な構成原理にほかならなかった/ならないからである。…大室幹雄・著『遊蕩都市』三省堂1996
(以前に頂きました丸山さまの哲学的コメントより、考察の種として抜粋)
問題は都市を城壁で囲むという世界像が幸せかどうかということだと思います。懐疑と不審の人間関係、他民族との征服被征服の抗争などの政治状況の前に、大地を城壁で囲んではじめて茫漠たる大地から自己とその社会を確認する、然らざれば黄沙のように何処かへと吹き飛ばされてしまう、そのような生存空間の中で自己を論理化せざるを得ない人と社会がある。

北魏…〈シナ文明〉の残照の時代に登場した、〈中華〉世界樹の後継者

中原を支配する王朝が、前漢から後漢へ移り変わる頃――中原の帝国や西域の帝国の変容に刺激されて、草原の世界もまた変容してゆきました。気象パターンは激しく変わり(飢饉・蝗害が頻発)、巨大な匈奴帝国の分裂・崩壊を促すと共に、数多の遊牧騎馬民族によるユーラシア世界の再編を促したのです(この世界再編は、後に、欧州におけるゲルマン民族大移動の原因となりました)。

衰退した匈奴に取って代わり、草原のシルクロード流通において特権的な地位を勝ち取ったのは、鮮卑です(後漢と協力して、他の部族=北匈奴・烏桓の後漢への侵入を抑制)。鮮卑は概ねトゥルク系の民族で、多くの部族の連合体でもありました。3世紀初頭には既に部族君長の世襲制が成立しており、慕容・宇文・乞伏・拓跋・禿髪などの鮮卑系諸族があった事が知られています。彼らが、後の魏晋南北朝時代の主役です。

後漢末期、黄巾の乱(184)が発生しました。赤壁の戦い(208)をきっかけにして大陸勢力が大きく三分された頃、最大の勢力を持って〈シナ文明〉の後継者を称したのが、北部辺境流入の遊牧騎馬勢力を擁していた魏(曹操、220-265)、そしてそれに取って代わった晋(司馬炎、265-420)でした。

止め処も無い分裂抗争に彩られた三国時代、八王の乱、及び五胡十六国を含む魏晋南北朝時代は、〈シナ文明〉の、長い長い落日の時代でもありました。中央の弱体化に伴い、大陸の周縁部には(海も含めて)、一層の動揺と活性化がもたらされたのです。

乱世の中、公権の確立が強く求められた時代でもありました。八王の乱に続く五胡十六国時代は、胡族・漢族に関わらず、多くの流民を発生させます。流民は大陸全土に拡散していったのみならず、周縁部にも流入定着してゆき、各地で様々なパターンの胡漢複合――民族シャッフルが進行しました。

なお、混迷の極みでもあった「八王の乱」についての鋭い批評をご紹介:

この王国が世界の中心を回復したにもかかわらず、その中心に位置していた皇帝を初めとする王家の人々の精神がそろって、世界の中心の宇宙論的かつ政治哲学的な価値を自覚することなく、田舎芝居もどきに、首都とその宮廷に登場して、各自が手にした権力と暴力の小道具を伎倆のありったけを尽くして振りまわし、悲惨にして滑稽な芝居を踊り狂っては退場していった、その可笑しさをわれわれは見逃すまい。…『桃源の夢想』大室幹雄・著、三省堂1984

乱立する冊封関係や仏教普及を通じて、周辺国同士の政治事情もまた大きく変化します。朝貢の有無に関わらず、物流が目覚ましく増加した時代でもありました。人々の移動と共に、中央集権に関わる統治技術や知識も周縁部に流入し、独立国を自称する、いわば「独自の中華」を自称する国々を各地に生み出します。

華夏大陸にあって、魏晋南北朝時代とは、まさしく〈シナ文明〉の、残照のまばゆさの中にあった時代です。

華北で進行したトゥルク系民族=鮮卑による「正統な中華」を称する帝国・北魏の確立と、その勢力拡大は、中原における民族シャッフル、及び支配民族の交代をも暗示する、決定的な出来事でした。

更にこの北魏は、その後の歴史において、連続して北シナに建てられる鮮卑人王朝(隋唐)、モンゴル人王朝(元)、満洲人王朝(清)の雛形となりました。つまり、〈後シナ文明〉の到来を予兆する帝国でもありました…

トゥルク、シナの歴史のもう一人の主役 IV]より

ハナシは五胡十六国にもどります。三国時代のバトルロイヤルを勝ち残った魏を簒奪した司馬氏は、晋をたてるもまもなくして「八王の乱」という内部分裂をきたし、そこにつけ込んだ匈奴をはじめとする騎馬民族が陸続と国をたて、晋は南方に逃れ(東晋)南北朝時代が始まります。
北朝を統一したのは、トゥルク系鮮卑、拓跋氏で王朝名を北魏と称しました。その後、王朝は東魏、北斉、西魏、北周と移り変わりますが全て鮮卑でした。
そして南朝を滅ぼし、再び天下を統一したのが隋ですが、これもまた鮮卑、普六茹氏、普通は楊氏と言われていますが、シナ化した鮮卑なのか、鮮卑化したシナ人(ハン・チャイニーズ)なのかはっきりしません。しかしはっきりしているのは、隋の文帝(煬帝の父)の皇后は独孤氏というれっきとした鮮卑人で、その妹が李淵の母にあたります。つまり隋の煬帝と唐の高祖は母親が鮮卑人姉妹同士のイトコということになります。
(※当サイト補足=隋は、589年に南朝の陳を滅ぼして、天下を統一した)

トゥルク、シナの歴史のもう一人の主役 V]より

440年の北魏建国から907年の唐滅亡までトゥルク系鮮卑人の王朝がまず華北、そしてシナ全土におよび陸続としてとぎれなかったこと。この結果、シナ文明の主体がハン・チャイニーズからあたらしいシナ人へとバトン・タッチしたこと。岡田英弘氏はこれを「第二の中国」と呼んでいます。
漢は建国当初のつまずきで匈奴に隷属する羽目に陥りましたが、れっきとしたハン・チャイニーズの王朝でした。(というのは転倒した理屈で、漢文明を築いた民族をハン・チャイニーズという、とすべきでしょう)
このハン・チャイニーズのシナは三国時代をもって終了し、五胡十六国の戦乱による民族シャッフルをへて新しいシナへと生まれ変わりました。この過程で果たしたトルコ人の役割を見るとき、トルコがシナの歴史の影の主役であるとはこのことでお解かりになると思います。

仮説:中原進出の異民族による〈シナ文明〉の連続コピー&変形物=〈後シナ文明〉

※このシリーズは、過去記事から続くシリーズとしてまとめています(ずいぶん間が空いてしまいましたが・汗)

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《歴史研究》華夏大陸と海・2

華夏大陸と海・1]から続く・・・魏晋南北朝の華夏大陸と周辺情勢

中原を支配する王朝が、前漢から後漢へ移り変わる頃――中原の帝国や西域の帝国の変容に刺激されて、草原の世界もまた変容してゆきました。気象パターンは激しく変わり(飢饉・蝗害が頻発)、巨大な匈奴帝国の分裂・崩壊を促すと共に、数多の遊牧騎馬民族によるユーラシア世界の再編を促したのです(この世界再編は、後に、欧州におけるゲルマン民族大移動の原因となりました)。

衰退した匈奴に取って代わり、草原のシルクロード流通において特権的な地位を勝ち取ったのは、鮮卑です(後漢と協力して、他の部族=北匈奴・烏桓の後漢への侵入を抑制)。鮮卑は概ねトルコ系の民族で、多くの部族の連合体でもありました。3世紀初頭には既に部族君長の世襲制が成立しており、慕容・宇文・乞伏・拓跋・禿髪などの鮮卑系諸族があった事が知られています。彼らが、後の魏晋南北朝時代の主役です。

朝鮮半島北部・高句麗(前37-668)の周辺は、国境紛争や人口流出(徙民)で俄然騒がしくなります。そして朝鮮半島南部には、馬韓・弁韓・辰韓(2-4世紀)がありました。大陸の各地方から追われた様々な民族がバラバラに流入しており、習俗も文化も異なったパターンで入り乱れていたと言われています。

朝鮮半島沿岸部や済州島(耽羅)には、海上流通に関わる倭人コロニーが増加していたと考えられます。彼らは華南の稲作漁労民に由来する道教文化を持っており、また日本の古代シャーマン文化とも共通するものでした。日本では、奴国(=奴国の王は57年に後漢に使いを送り、皇帝から「漢委奴国王」金印を授かる)や邪馬台国など、多くの小国が生まれていました。

そして時代は、後漢末に移ります。黄巾の乱(184)が発生し、赤壁の戦い(208)をきっかけにして大陸勢力が大きく三分された頃、最大の勢力を持って〈シナ文明〉の後継者を称したのが、北部辺境流入の遊牧騎馬勢力を擁していた魏(曹操、220-265)、そしてそれに取って代わった晋(司馬炎、265-420)でした。

止め処も無い分裂抗争に彩られた八王の乱、及び五胡十六国時代を含む魏晋南北朝時代は、〈シナ文明〉の落日の時代でもありました。中央の弱体化に伴い、大陸の周縁部には(海も含めて)、一層の動揺と活性化がもたらされたのです。乱立する冊封関係や仏教普及を通じて、周辺国同士の政治事情もまた大きく変化します。西域交易や海上交易が進展した時代でもありました。

◆各地で進行する胡漢複合と国際情勢と周辺諸国の変化◆

華北で進行した鮮卑系のシナ化・中央集権化は、皇帝の「中華宇宙論的な意味での権威を高める」という目的のもと、「憑依」的な過程を辿ったという事が、大室幹雄氏によって指摘されています。(大陸全土の胡族と漢族との間で、民族と文化のシャッフルが盛んに起きました。胡漢複合と言うそうです・別の言い方もあるそうです)

北ベトナムでは、漢人が建国した南越(秦滅亡の際に辺境の官僚が建国-前111・武帝)という国がありました(1009年の大越国・李朝成立で、中国から独立したとされています。華南に居た越人がベトナムへ南下し、建国)。

一方、中・南部ベトナムでは、チャム人によるチャンパ王国が建国されました(192-1832、時代によって林邑・占城・環王などの名があり、実態は連合王国だったらしい)。林邑の土着の区長である区連という人物が、この地を支配していた後漢の日南郡に対して蜂起したのがきっかけですが、当時の後漢は黄巾の乱に始まる大動乱の中にあり、この反乱を鎮圧する力がありませんでした。領土を確定したチャンパは、海上交易国家として、中国とインド・ペルシアの中継交易で栄えます。3-4世紀頃に仏教やレンガ建築を初めとするインド文化が流入し、インド風の言葉も増加したと言われています。

日本でも更なる動きがありました。『魏志倭人伝』に記録される邪馬台国の女王・卑弥呼が、239年に魏に使者を送り、「親魏倭王」の封号を授かったのです。魏(三国時代)の冊封体制に組み込まれる事で、落日の時代にあってなお輝かしい〈シナ文明〉の威光を背景に、自らの地位や正当性を周辺諸国にアピールするという、政治的な行動であったと考えられます。

同じ現象は西域でも進行しました。青海地方に栄えた吐谷渾(4-8世紀、鮮卑系)は、北朝とも南朝とも冊封関係を結び、朝貢・中継貿易を行なう事で、次第にシルクロード含む西域の強国となりました。北朝(洛陽)とはシルクロードで結びつき、南朝(蜀地方)とは黄河上流地帯を通じて結びつきました。早期から仏教が盛んでした。

◆南北朝の冊封関係と国際戦略の戦い…破られてゆく華北包囲網◆

北魏勢力の拡大を恐れた南朝は、その初期より冊封関係を通じて、北魏を封じ込めるための国際包囲網を築いていました(※ウィキペディア「冊封体制」の項目を参照)。

439年の記録によれば、北魏はこの年、河西・涼州の北涼王国を征服、華北統一を確実にしました。同じ439年、「鄴善、亀茲、疏勒、焉耆、高麗、粟特、渇盤陁、破洛那、悉居半等の国がみな使節を派遣して朝貢した」という記録があり、涼州が東北アジア-西域を連結する戦略的要衝だった事を示しています。華北における北朝(北魏)の確立は、東北アジア-西域(中央アジア)間の流通路の確定でもありました。

450年、北魏・太武帝は50万の大軍により南朝の宋を攻めて長江の北岸に達した時、宋の太祖に、以下のような、「おまえの考えなど、まるっとお見通しだ!」という内容の書状を送った事が知られています。

⇒「この頃、関中で蓋呉(がいご)という人物が反逆し、隴右(ろうゆう)の地の氐や羌を扇動しているが、それはおまえが使いを遣わして誘っていることである。……また、おまえは以前には北方の芮芮(ぜいぜい/柔然)と通じ、西は赫連(十六国の一、夏国を建国した匈奴・赫連氏)、蒙遜(河西地帯にあった匈奴・沮渠蒙遜しょきょ-もうそん)、吐谷渾と結び、東は馮弘(ふうこう/十六国の一、北燕の主)、高麗(高句麗)と連なる。凡そ此の数国、我みなこれを滅したり」

日本では倭の五王の時代ですが、この頃の山東半島は、倭国をはじめとする東夷諸国の南朝への使節派遣において、その中継地として大きな役割を果たした事が指摘されています。

(※410年に南朝東晋の将軍・劉裕が、山東半島にあった鮮卑慕容部・南燕国を滅ぼし、その地を領有した後、413年に高句麗の南朝朝貢が70年ぶりに再開、及び倭国の南朝朝貢が147年ぶりに再開しています。倭国では女王・壹與が魏に替わった晋に266年に朝貢して以来の出来事でした。山東半島情勢の激変は、東夷諸国に大きな衝撃を与えたのです。なお、当時の倭国は南朝朝貢国で、北朝朝貢の高句麗と対立していました。そのため、朝鮮半島陸路以外のルートを選択せざるを得ない状況でした。最も確実性が高いのが、対馬海峡-朝鮮半島沿岸-黄海-山東半島というルートだったのです。荒れやすい東シナ海を一気に横断するのは、当時の造船・航海技術では殆ど不可能な事でした)

469年、山東半島は北魏の手に落ちました。北魏は光州を設置し、軍鎮を設けて拠点とし、東夷の船舶を厳しく監視しました。そのため、東夷諸国からの船舶が、北魏によって拿捕されるという事態が生じるまでになったのでした。こうして、南朝の北朝封じ込め戦略は、東部戦線において破られていったのです。その後、東夷諸国――柔然、高句麗、庫莫奚(こばくけい)、契丹といった国々――が、北朝に盛んに朝貢しました。特に高句麗は、貢献品の額を倍増していた事が記録に残っているそうです。

次に南朝が国際戦略上の重要拠点であった四川の地を喪失したのが、554年です。四川は吐谷渾、河西回廊諸勢力、柔然などと連絡する西部戦線の地でありました。

589年、南朝滅亡及び隋唐帝国の出現は、冊封を通じて南朝と連動していた諸国にとっては、決定的な打撃でした。柔然、吐谷渾、雲南爨蛮(うんなん-さんばん、雲南にあった南蛮勢力)、高句麗、百済などの南朝諸勢力は、唐代にかけて次々に滅亡したのです。南朝を中心とする冊封関係=国際関係の消失でもありました。

そして、日本では壬申の乱(672)などの激しい内戦や皇族暗殺など、皇室におけるお家騒動が続きました。「中継ぎ」という役割を担う、女帝の時代でもありました(逆に、男系という観点で言えば、大空位時代でもあった)。中央政権の主が、南朝派閥と北朝派閥の間で交替するようになったのです。例えば天智天皇は北朝系、天武天皇は南朝系だったと言われています。

次回に続く(時期未定です)・・・

《歴史研究》華夏大陸と海・1

序:古代アジアと海

南船北馬と表現される華夏大陸の風土は、黄河流域に農耕牧畜民をメインとする国々を、長江流域に稲作海洋民をメインとする国々を形成してきました。夏殷周三代の帝国は、この諸国の結節点でもあった中原を舞台に興亡しました。

鉄の登場によって大いに社会変容を遂げた春秋戦国時代(前722-前221)を経過し、〈シナ文明〉の雄として登場してきた秦漢帝国は、いずれも黄河流域の農耕牧畜民が優位に立った父系社会の帝国であり、そこでは儒教優勢の思想が展開しました(※他にも様々な思想があり、特に秦の始皇帝の焚書坑儒を免れて生き延びた道教思想は、次第に儒教と併存・融合してゆき、中央政治の帰趨を決める程の重要な要素となりました。道教思想の源流は、南シナの風土にあるそうです)。

春秋戦国時代がもたらした変化は、殷周時代の国家的土地制度・古代氏族制度の崩壊でした。鉄の流通・鉄の市場による新たなタイプの富裕豪族(宗族制=家父長制を基本とする)が生まれ、自営農民・小作人もまた発生します。春秋戦国時代に展開した多くの戦争と交易の中で、華夏大陸諸国の市場は拡大してゆきました。それは行商人の増加を招き、貨幣制度の運用をスタートさせるものともなりました。

これらを統一した秦帝国は強力な官僚制度を敷き、各地に散在していた数多の豪族・商人・農耕牧畜民、そして諸国家によってバラバラであった度量衡・貨幣制度をも、国家の手で一元管理するようになります。更に秦は万里の長城を築いて塞外の民と化した遊牧民族と対峙し、秦内部の商人と遊牧民族の商人との接触を制限、国家管理貿易を展開しました。

秦は短期で滅びましたが、漢がその後を継承し、更に長期間にわたる強力・細密な国家秩序を築きました。儒教その他の思想が中華思想=華夷秩序として整備されると、漢帝国は、帝国周縁部を東夷・西戎・南蛮・北狄という形で、華夷秩序の世界観の中に組み込むようになります。

華夷秩序の世界観が実際の国際関係として展開したのが、冊封体制でした。この冊封体制は、「朝貢貿易」と呼ばれる国家管理貿易を裏付ける秩序であり制度でありました。

この一方的とも見える制度の中で、古代アジアの海上交易は発達してゆきます。

漢帝国の南方辺境である長江流域には、古代より「百越の民」が居ました。「越人は断髪文身をする」と記録に残されたように、彼らは稲作漁労あるいは河川交易・海上交易によって生計を立てていた民として知られています。

前139年成立『准南子』斉俗篇=「(北方ノ)胡人ハ馬ニ便ニシテ、(南方ノ)越人ハ舟ニ便ナリ」

漢帝国は、西域にあっては遊牧通商民族が栄えたシルクロードを通じて絹馬交易を行ない、南方にあって(あるいは海に面して)は「百越の民」を通じて朝貢貿易を行なったのです。いずれも国家が管理する貿易であり、農業重視、商業軽視のスタイルである事は明らかでありました(※漢の郡国制は秦の郡県制を継承したもので、皇族・官僚から村民に至るまで、その身分と財産が評価・制限されましたが、土地を持たない商人や小作人は身分・爵位が認められませんでした。これも農業重視・商業軽視というイデオロギーによるものでした)。

【朝貢貿易】
大別して、儀礼的交換、官業交易、取引交渉という三つの取引が行なわれたと言われています。官業交易においては、双方の共同体の必要規模に応じて、ほぼ等価の交換レートが決められたと言われています。では利得は何処から発生するのかと言うと、ここで獲得した財貨を市場で再販売する事で発生したのです(取引交渉における売上げ量に依存)。これが公権力と結びついた利潤の源泉でありました。この貿易スタイルは中国独自のスタイルでは無く、広く世界的に行なわれたスタイルでした。一番厳しいとされたのが中国の朝貢貿易ですが、それでも、或る一定の限度内で商人が個人的な利益のために売買する事が許されており、官僚に随行した商人がしばしば規模の大きな私的交易を行ない、私的利潤を蓄積した事が知られています。

朝貢貿易を担った百越の民は、海上交易を通じて活動範囲を飛躍的に拡大しました。朝鮮半島、渤海湾、山東半島、江蘇・浙江の沿海地域、福建、広東、越南、海南島、琉球、奄美大島といったように、日本海・東シナ海・南シナ海に至る広大な海域が、越人の活動するところとなったのです。そして一部では、倭人の活動としても記録されるところとなりました(倭人と越人はいずれも海洋の民で、断髪文身などの似たような文化習慣を持っていたとされています)。

※この頃の日本列島においても、大陸-列島間の海上交易が盛んになり、日本列島の各地に、大陸由来の海洋民族コロニーが形成されていったと考えられます。

一方、インド亜大陸では、インダス文明期の古代都市間交易の時代を経て、ガンジス川流域に群雄割拠した諸都市国家(ブッダの時代)、ついでそれらの諸都市国家を統一したマガダ帝国(全盛期=マウリヤ朝・前317年頃-前180年頃)の時代を迎えていました。

マガダ帝国は西アジア・オリエント諸都市との交易を行なっており、古代シルクロード経済の重要な立役者でもありました。交易に乗った品は金属加工製品、陶器、布地等です。特にデカン高原を中心に生産されていた綿製品は、鉄剣と並ぶ高価な商品として取引されていました。

次のクシャナ朝(1世紀-3世紀頃)の時代はカニシカ王で有名ですが、この頃にローマとの貿易が活発化し、南インドを拠点にしてケララの胡椒、マンナール湾の真珠、東南アジアの香料等を輸出していた事が知られています(ローマではその支払いのための金貨に不足する程だったそうです)。

全体的に見て、北インドでは陸路を通じた交易が中心、南インドでは海路を通じた交易が中心でした。南海交易の拠点となったセイロン島は、1世紀には既にギリシアにも知られていましたが、中国でも「獅子国/宝州」という名前で知られていました。

◆〈後シナ文明〉という仮説◆

漢王朝が滅んだのも「漢民族の繁栄」も既に遠い昔となった時代――騎馬民族を中心とする王朝交代の戦乱を通じて、急速に膨張していった「その後の中華帝国」。

漢帝国の遺産を墨守し、或いは都合よく書き換え、或いは「漢民族の歴史」を信仰する、中華なるもの――それを仮に、〈後シナ文明〉と名づけてみたいと思います。

大室幹雄氏の文章に、とても感じるところがありましたので、ご紹介(『遊蕩都市』三省堂1996より):

こうしてほぼ三百年の歴史を生きた長安、謹厳で殺伐な監獄都市から、大周革命で放棄されたのちに富貴花の芳香が鼻を窒ぐ内臓的な遊蕩都市、その懦弱な精神においていかにも小体な工芸品の帝国の首都として、山水愛好癖と造園趣味を現前させた園林都市へと変貌を重ねた長安は「丘墟」に化した。古代以来、天下=世界の中心として多くの帝国と王国の首都が置かれたこの土地に天子皇帝の永遠の宇宙軸、天―天子=皇帝―父―赤子―人民の象徴的哲学的世界樹が立てられることはこれ以降もはや起こらないであろう。けれども、いまのところは転倒して干潟の間を潮汐に漂流している中心軸はいずれ再建されるだろう、約半世紀後に趙氏の北宋王朝(960-1127)によって。だが、その場所は丘墟に帰した長安、上古以来の伝統的な世界の中心ではなくて、いま昭宗と哀帝を弑殺して自身の後梁王朝を建てた朱全忠の汴州(開封)であるだろう。天に二日は無くても、土には分散された複数の権力の併存がありえることを理解できず、むしろ極端に嫌忌したこの文明にあっては、中心の世界樹はつねに立てなおされねばならず、それをめぐって天下=世界が整序されなければならず、それがこの文明の生理であった/あるからである。しかし趙家の北宋王朝がそれを再建した場所は上古以来の伝統的な世界の中心、洛陽でも長安でもなく、隋帝国によって開設され、唐帝国によって維持されてきた大運河の結接点、北方の中原と江淮および江南の南方とを繋ぐ運輸と経済の要衝地汴州であった。そこでは何か新しい文明の傾向が現われるのだろうか?いまひとつだけ明らかなことは、そこに立てられた世界樹がまた打倒されると、今度もまた別の新しい場所に世界樹だけは元のとおりに再建されたことである。なぜならこの中心の世界樹へ不断に回帰するのがこの古い文明の生理であった/あるからである。すなわち、官僚制的専制帝国への永遠回帰――。

華夏大陸と海・2]に続く