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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

西洋中世研究2ゲルマン諸国文化

ヨーロッパは500年前後を中心として、ゲルマンの諸王国に分割されました。

北西地域では(つまり現在のフランスやドイツでは)フランク族とブルグンド族が建国。その南東に当るイタリアでは、ロンバルド族と東ゴート族、南西方面(スペイン)では西ゴート族が建国。アングル族及びサクソン族は、ケルトの地ブリテン島を侵略し始めていました。

ついでに言えば、ヴァンダル族はスペイン、ついで北アフリカに渡来し、各々王国を打ち立てた事が知られています。しかしその寿命は短く、「国」未満の軍事統治体でしかなかったであろうと言われています。

一方、東ローマ帝国は、オリエント風の君主政治体制を整備しつつありました。4世紀頃からビザンツ中心となったこの帝国は、皇帝を神とする宮廷政治を展開し、人民は古代版の行政官に奉仕するのでは無く、皇帝に直接奉仕するのだという中世的な思考を普及させていました。

そして法律によって定められる階級制度を発生し、皇族、貴族、名士、長老、騎士といった中世的な階級社会を構築したのであります(6世紀頃『ローマ法大全』完成)。

そうした時代的変化に伴い、網の目のように構築された官僚機構が、強力な政治介入パワーを以って階級社会を侵食するようになりました(官僚の特権など)。

人民は租税を免除してもらうために、或る程度の自治権を認められていた大土地支配者の下に保護を求めるようになります。これが荘園領主、すなわち封建領主の発生を促しました。こうして中央と地方の政治パワーが逆転しました。この後、帝国は軍管区に代表される軍事的統制を強めましたが、何度も経済的分裂の危機に見舞われることになります。

総じて4世紀から5世紀は、欧州における巨大な東西変容の世紀でありました。

第1にキリスト教が東西で異なる発展をした事、第2に蛮族侵攻の衝撃が東西で異なる様相を来たした事が挙げられます。これらの東西のねじれは、現代に至ってもなお、宗教・民族の東西問題として、ヨーロッパを揺さぶっています。

特に修道院制度の発達があった事は、後世の欧州社会に大きな影響をもたらしました(テンプル騎士団の発生など)。

更に辺境へのキリスト教の拡大もありました:グレゴリウス開明者によるアルメニア布教、フルメンチウスによるアビシニア布教、ウルフィラによるゴート社会への布教、ネストリオス派によるペルシャへの流入などです。

さて、西ヨーロッパにおいて、ローマ帝政と並行する時代のゲルマン諸族は、狩猟生活から脱したばかりであり、原始的な農法しか持ち合わせていなかったと言われています。ローマ帝国の滅亡後も、彼らは都市に住みたがらず、多くのローマ都市が荒廃したのであります。

しかしながら、ゲルマン諸族が知性と活力に欠けていたわけではありません。彼らの置かれていた状況からして、彼らの関心は、都市設備の維持よりも、まず基本的な物質生活面での要求にあった筈です。

中世初期のヨーロッパは深い森に覆われており、狼や熊が出没するような環境の下にありました。そうした中で、細々と森を切り開いて建てられた教会が点在しており…、という光景であったろうと想像されます。

かろうじてローマ時代の知的遺産が保存されたのは、北西の最果て、アイルランドでありました。そのため、アイルランドは「学者の島」とも呼ばれたのであります。

彼らゲルマン諸族が諸王国を打ち立てるにあたり、ヨーロッパに持ち込んだものは、毛皮、ズボン、フェルト、スキー、樽や桶の製造、クロワゾネ七宝、オート麦やライ麦、ホップ、鷹狩などが知られています。

※…驚くべき事に、従来のローマ・ファッションには、「ズボン」というものは無かったのです!…^^;

中世前期のヨーロッパの生産基本は、農業でした。ゆえに、中世ヨーロッパにおける革命的な変化は、早くから注意と努力が払われていた農業分野からスタートしたのであります。

9世紀ないし10世紀、それまで主流であったローマ時代由来の二圃式農業(冬雨型の気候のもとで小麦の冬作と休閑を繰り返す農法)が、次第に三圃式農業(北ヨーロッパの気候風土・夏雨型に適する農法)へ切り替わりました。簡単に言えば冬穀・夏穀・休耕地(放牧地)のローテーションを組んだものであります。

以上のような農業スタイルの切り替えと並行して、古典的な「くびき」から近代的な「はみ」への移行が起こり、農業用役蓄の牽引エネルギー効率が急に高まりました。

牽引エネルギーの効率化は連繋用馬具の発明にも繋がり、四頭立て馬車・六頭立て馬車と言った大規模な輸送形式をも可能としました。また、蹄鉄の発明は馬の足を保護することにより、荒れた地面における輸送コストを下げ、ヨーロッパ交易路のいっそうの拡大に寄与したのであります。

中世前期における各種の技術向上は、このような無名の職人達の発明によっているのであります。

工業用動力としては、水車が登場しました。ローマ時代(及びガロ・ローマ時代)は奴隷が安価に使えたため、動力としての水車の活用は乏しいレベルに終わっていたのでありましたが、ゲルマン諸国においては穀類を挽いたり、大工の鋸や鍛冶のふいごを動かすのに積極的に用いられ、車輪動力の技術が伸びてゆきます。

12世紀になると、ノルマンディ地方において、風車の使用が始まりました。このようにして産業における機械化は急速に進みます。こうした変化は、後の建築技術の進展にも、大きく関わりました。

建築では、高度な石造建築の技術が急速に普及しました。とりわけ石造建築は、後のカール大帝によるゲルマン統一王朝を生み出した世紀を経て、急速に技術を深めてゆきました。これらの建築と資材の流通を担ったのが、各地の職人・商人グループであったろう(中世ギルドの前身)と言われています。

当時、教会建築に関わった職人達が、教会の傍に建てられた集会所で、グループ結成のための友愛の儀式を行なった事が知られています。これが中世のギルドの始原であったと言われています(別の説によれば、ギルドはローマ時代に由来すると言われています。主に宗教団体・友愛団体としての形で存続し、交易・商業・手工業に手を染めるようになっても、宗教的結社としての特徴が残されていたという事になっています)。

最も勢力を誇ったギルドこそが、中世のフリーメーソンのように、大規模建築に関わったギルドであろうと言われています(近代オカルト結社の思弁的フリーメーソンとは別)。築城、大聖堂、橋梁といった大規模建築は、石材、モルタル、鉛、材木、鉄といった大量の物資を必要とし、広範囲の流通経路と人脈とを開きました。

フリーメーソンを含めて、ある種のギルドは最先端技術者を抱えた集団でもあり、未知の問題に対応するために、錬金術などの様々なハイテク分野と深く関わっていました。「大学」が登場する前のヨーロッパ中世の科学技術は、このような場で体系化されていったと推測されます。

そして11世紀から12世紀にかけ、モン・サン・ミシェルやノートル・ダムなどの巨大な教会建築に見られるような、建築技術のブレークスルーがありました。著しく伸びた車輪動力の技術を利用して、中世後期には建築用クレーンや荷揚げ用クレーンも設置されるようになったのであります。

ちなみに12世紀ルネサンスによってアラビア学術が流入した時、大翻訳運動が起こり、イタリアを中心に大学が増加した事が指摘されています。この頃は卑金属から黄金を作る変成技術や占星術的な関心が大多数であり、更にその中心には、錬金術による「哲学者の石(エリクシール)」の探求がありました(この神秘主義的傾向は『聖杯探求物語』などの騎士道文学に影響を与えています)。

更に、ルネサンスの立役者となった封建領主の中に、名君と呼ばれるべき領主がいた事は興味深い事です。例:神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世(在位1215-50)。それまでの神学研究がメインだった修道院的な大学とは全く異なる大学をナポリに建立しました(=ナポリ大学)。この新しい大学では、政治を研究して「有能な官僚集団」を輩出する事と、種々学術を研究して「有能な技術者集団」を輩出する事を目的としていたと推察されているそうです。官僚とテクノクラートの力を使って領地を活性化するという点で、現在の政治スタイルにも通じる部分があります。

後世、13-14世紀に火薬が伝わってくると、大砲の開発が始まりました(当時の大砲は青銅製ですが、真鍮製という説もあり)。また大砲の登場によって、築城術も造船術も、大いに変容を遂げる事になります。

中世は、ゲルマン諸族の国王・諸侯とヴァイキング、更にはアラブ勢力による群雄割拠の時代でありましたが、職人・商人ギルドの登場、交易ネットワークと技術革命の時代であったとも言えるのです…

★「中世」の完成に至る要素が整理できたと思います。次は中東です^^

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西洋中世研究1スラブの黎明期

ゲルマン諸族の大移動は4世紀。スラブ諸国の黎明期もまた、4世紀にさかのぼるものであったようです。ゲルマン諸族が移動した後のエルベ川以東の地やバルカン半島には、スラブ民族が広がりました。

スラブ人社会の成立は古く、ゲルマン人の社会成立とほぼ同時期に進行したと言われていますが、遊牧騎馬民族の侵入が繰り返され、情勢が長く安定しなかった事もあり、その歴史ははっきりしていないそうです。

現代のポーランド及びロシア地域に相当するヨーロッパ部分一帯は、森林に覆われた広大な平原であり、境界を定める事の難しい地勢となっていました。この大平原の領有を巡って、古来、様々な民族が入り乱れてきました。この地域の民族勢力図が、現代に近い状態で安定したのは、13世紀になってからの事です。

紀元前からのスラブ人の移動先は東方、すなわちロシア地域がメインだったと言われています。そして、紀元後5世紀から6世紀にかけてスラブ人は方向を変え、西方と南方に大移動を始めました。ゲルマン勢力が西欧に定着し、東欧からすっぽり抜け落ちたというのが大きい理由の一つですが、もう一つの理由は、東方(ロシア方面)に強大な騎馬民族勢力が出現し、東方への移動が阻まれたという歴史的事実にあります。

まずフン族=匈奴勢力が東方に立ちふさがり、フン族が内紛で解体すると、その場所に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が再び勢力を伸ばしてきました。一方、はるか東方では気候変動と群雄割拠とが進み、突厥・ハザールなど、遊牧騎馬系の巨大勢力が登場してきました。その突厥に追われて西進してきたのがアヴァール人であり、スラブ人はアヴァール人の侵入にも悩まされる事になったのです(後にはヴァイキングにも追われる事になる)。

続く7世紀、ハザール族とブルガール族(=フン族の残党勢力)とに圧迫され、スラブ人はバルカン半島を南下し、エーゲ海方面へ押し出されてきます。殆ど毎年のようにスラブ人の集団がドナウ川を渡り、都市テッサロニケ(マケドニア王国の中心都市)に続々と入り込んでいた事が知られています。

やがて彼らは、アドリア海沿岸に沿って北上し、モラヴィア、クロアチア、スロヴェニア、セルビアへも移動しました。10世紀には、バルカン半島で最も人数の多い民族になっていたという事です。彼らは遂にバルカン半島全体に広がり、ここに、「バルカン半島におけるスラブ問題」が根を下ろしたのです。

突厥帝国とアヴァール汗国が勢力を誇ってスラブ人を西方・南方へと追い出していたのが6世紀末であり、7世紀後半にスラブ人による第1次ブルガリア帝国が出来ましたが、この頃にはスラブ人とブルガール族は既に同化していたと考えられています。ブルガリア帝国は東欧の雄として、長い間ビザンツ帝国を悩ませました。

ブルガリア帝国で有名なのは、ビザンツの正教会によるキリスト教布教と、キリル文字の普及です。後世のスラブ文化に、決定的な影響を与えたと言われています。

一方、8世紀頃のキエフでは、スラブ人が部族社会を構成して住んでいたと言われていますが、実態はよく分かっていません。8世紀キエフのスラブ人社会を蹂躙したのがヴァイキング(=ノルマン人)でした。ノルマン人は多くのスラブ人を捕獲し、奴隷交易の商品として南方(アラブ方面)に売り払ってゆきます。

いずれにせよ、彼らノルマン人がロシアの地に持ち込んだのは、先進的な航海術、飽くなき戦闘力、交易術など、様々な分野に及ぶものでありました。ロシアに巨大なヴァイキング交易権が構築されたという事象を無視する事は出来ません。

当時のロシアは、ビザンツ帝国からの呼称で「ルス」ないし「ロース」と呼ばれた最果ての辺境でした。

ロシア建国神話は、このヴァイキングのうち、ヴァリャーグと呼ばれた一族の王、リューリクから始まります。ヴァリャーグは極めて強大な一族で、何度も黒海方面に遠征し、846年にバグダード襲撃、860年にコンスタンティノープル襲撃など、大きな事件を起こしてきました。最終的にはハザール汗国と関係を持ちながら、キエフに定着したと考えられています。

リューリクの代、ノヴゴロドに、複数のヴァイキング部族による連合国家「ルス」が建国されました(後に、スラブ民族に同化したとされています)。リューリクの時代から50年ほど後には、コンスタンティノープルを襲撃し、有利な条件で通商条約を結んだ事が知られています。日本学術文献では「キエフ大公国」としていますが、当時の正式呼称は「ルーシ(亦はルス)」で、ビザンツ帝国は「ルーシ」という呼称を使っていたという事です。

歴史的に見ると、10世紀のルーシ(キエフ大公国)は富強の大国でした。ビザンツ帝国との通商で豊かになったのに加え、ビザンツ文化が大量に流入したからです。

10世紀当時のヨーロッパは、東西教会分裂の兆候が明らかになっていました(1054年東西教会分裂/ギリシャ正教会成立)。キエフ大公国は基本的にはヴァイキングの神々を信奉する多神教の国で、この豊かな大国が、東方の正教会と西方のカトリックと、どちらに改宗するかが注目されていました。

ちなみに、ドイツ(当時は神聖ローマ帝国)のカトリック教会は盛んに東方布教を行なっており、バルト海沿岸やボヘミアまで勢力を拡大していました。スラブ系の王国ポーランドは、この頃、既にカトリックを国教とする国になっていたという事です(966年:西欧キリスト教界により「ポーランド公国」承認)。

★次回は、ゲルマン諸族の動向についてであります…^^

プレ中世・北東アジア史メモ

歴史研究のため、北東アジア史★を意識した年表を整理。

主に、『渤海国』(上田雄・著2008、講談社学術文庫)を参照して、あとは独自にコマゴマと追加。

北東アジア史・プレ中世年表
633ソンツェン・ガンポ王、都をラサに定め、吐蕃王朝を開く(-877滅亡)
668★高句麗滅亡(唐・新羅連合軍による)
672★壬申の乱
676★新羅、朝鮮半島全土を統一(唐軍を破る)
690則天武后、国号を周と改める(自らを聖神皇帝と称する)
696★契丹の李尽忠の反乱。営州にて(現在の遼寧省の朝陽。当時は高句麗王族や協力勢力の靺鞨族の流刑地だった。 唐が服属させていた北方異民族もここに強制移住され監視されていた)。 契丹族に呼応して、高句麗の末裔であった大祚栄をリーダーとして旧高句麗人も反乱する。
697★唐は契丹軍に大敗し、遼東・遼西から全面撤退
698★高句麗人・大祚栄、振(震)国を建国=後の渤海国
727★第一渤海使(新羅を牽制するための軍事同盟的なもの。 後半は繊維・毛皮etcの貿易。渤海特産の毛皮が平安京の市で取引される。毛皮ファッションは平安貴族のステータスだった。 渤海使の往復による人員・物資の移動は920年まで、34回続く)
741西突厥の阿史那氏が滅ぶ。その後は突騎施(テュルギシュ)や葛邏禄(カルルク)が実権を握る。 それに伴い、北アジアの勢力図変わる。渤海、北満州の靺鞨を征服
744ウイグル帝国建国
745東突厥滅亡(突厥、ウイグルの勢力下に入る。ウイグル帝国、モンゴル高原を統一)
755-763安史の乱(ウイグル族、乱を平定)
759★藤原仲麻呂(恵美押勝)、新羅征討計画を進め、大宰府に戦時動員 (安史の乱に乗じたものだったが、武断政治から文治政治に変わりつつあった渤海の非協力により、立ち消えになる。
764年に藤原仲麻呂の乱を起こして自滅。代わりに僧・道鏡が勢力を拡大)
780★日本と新羅の公的国交断絶
784長岡京遷都
785★渤海、上京龍泉府から東京龍原府に遷都
794平安京遷都
840ウイグル帝国滅亡
875-884黄巣の乱
877吐蕃滅亡(仏教をめぐって内紛、また王位継承問題から南北に分裂)
889★新羅各地で農民暴動
894★遣唐使廃止(菅原道真の建議※901道真、大宰府に左遷される)
907大唐帝国滅亡(五代十国に移行。古代的門閥貴族の王国の衰退)
916★契丹の耶律阿保機、契丹帝国を建国(漢風国号=遼)
918★高麗建国(王建が開城を都とする※当時の北半分は渤海王国、南半分は三国分裂していた)
925★渤海王室の内紛激化、渤海の大官、豪族数千人が南下し、高麗に亡命
926★渤海滅亡(契丹に滅ぼされ、徹底的な破壊を受ける)
928★耶律阿保機、陣中没。契丹の権力抗争激化
935★新羅滅亡、高麗による朝鮮統一、平将門の乱
960宋建国(趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国)
1038西夏建国(タングートの首長・李元昊が建国)
1115金建国(遼帝国の支配下にあった女真族・完顔部の阿骨打が遼に反乱を起こして建国)
1260チンギスハンの孫クビライ、モンゴル帝国の第5代皇帝に即位、国号を大元とする
1392★高麗滅亡

素晴らしいタイミングで、興味深い記述を見かけたので転載メモ^^

[ギョっとする話(iza丸山光三或問集2011.8.13エントリ)]

東北アジアの心象風景は殺伐としている。そのせいかそこに住む人々のメンタリティはどうにもなじみにくいものがある。
しかしこれがゴビ砂漠を越えると日本の高原地帯のような爽やかな気候になるためか、人々もずっと親しみやすくなるのだ。
いまはゴビ以南、揚子江以北、いわゆる華北とよばれるシナ北部から朝鮮半島についていわんとしているのだ。
この地方に住む人々は、乾燥と寒冷という自然現象に痛めつけられ、また政治権力同士の抗争による社会の荒廃という歴史条件もあり、生き延びるためにはなんでもしてきたし、また今後もそのエートスに変化はないであろう。
だからその嘘を快く赦せ、というわけではないが、そういう人々が多く住む地域であるということの認識が、わが国のような近隣国でさえ不足している。況や遠く離れた欧米をや。
かってこの地域に政治的軍事的プレゼンスを有していた吾が国人は今よりずっと正確な認識を有していた。
しかし敗戦と同時に占領され、さらには第三国人などがその手先となって猖獗し、さらにはその占領体制が基本的には今に至るも継続しているため、正確な認識をすることが妨害され、それどころか誤った認識を強要されもしているのである。
ゆえに、「韓国の金星煥外交通商相は12日の記者会見で、「日本海」の名称問題について「日本による(韓国)植民地支配の残りかすだ」とし、韓国が主張する「『東海』に変更させるのが最終目的だ」と述べた。」
というような、厚顔で恥知らずな言説をその国の責任者が吐こうと、蛙の面に水がごとき無関心な荒廃が広がっているばかりなのである。
ギョっとばかりもしていられない国情ではないか凹凸

・・・将来、歴史エッセイをまとめる時に参考にさせて頂きます…m(_ _)m


★『地政学を英国で学んだ/判断力をつけるための七学派』がとても興味深かったです

自分なりにノート@「判断力」の身につけ方を教える学派

  1. 体験至上学派=色々な実地体験を生かす(経験しないと分からない事もある)
  2. メンター絶対学派=すぐれた師匠に従事して師匠の要素を吸収(マンツーマン、思考パターンの伝承)
  3. 知識集積学派=古典教養エッセンスを積み上げて応用(歴史的パターンの読み込み)
  4. 統計学派
    • ハード派=科学的かつ客観的な統計データの積み上げて応用
    • ソフト派=占星術、風水…など、統計的な占いデータを積み上げて応用
  5. 神託学派=霊能者の予言(オラクル・神託)などを参考にする
  6. 直感派=インスピレーション、第六感、霊感を磨く※多分、山伏修行が必要かと…^^;
  7. 運力向上学派=「自分が持つ自然な感覚(直感ではない)を磨くことを重視しており、運が上がればそれと共に正しい判断もできるようになる」by奥村氏による定義、詳細は『横綱論』

「判断力の上達」を真剣に考える学派があるとは知らなかったです