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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

読書ノート『賭博の日本史』(1)

『賭博の日本史』増川宏一(平凡社1989)

・・・賭博の起源・・・

古代の人々は――そして今なお原始的な暮らしをしている民族も――神を祭り、その意思を問う儀式をおこなった。神意を問い神託を受ける行為は「賭」の萌芽であった。未来を予知することによって何らかの利益を得ることは、賭の最も初期からの理念であろう。したがって、原始の賭は神の意思を知るための神聖な行事であった。

偶然によって勝敗の決まる賭博が神の意思の表れとみるならば、賭博は神を媒介とした勝負であった。ギリシア神話や『ユリシーズ』等に見られるように、競技や決闘の勝敗は常に神によって定められた。勝者は神の加護によるものであった。それゆえ、競技の賜物は神の恩恵によって勝者に授与されるものと見なされていた。賭は祭儀から始まったことを反映して、広くおこなわれるようになった賭博でも、長きにわたって超自然的な力の作用が考えられていた。

【宝貝】=極めて古い時代から用いられた祭儀用アイテム。
表裏が明瞭になっているのが特徴。少し高い場所から貝を振り、落ちて着地した際に宝貝が表向きになっているか裏向きになっているか、その各々の数によって神託を占った。宝貝は原始的なサイコロとして、祭儀に利用された。ここでは、祭儀と賭の萌芽が一体となっている。

◆古代インドの神を祭る儀式=「犠牲を奉納する神官か婆羅門やその他の(祭礼を司る)者は、北に雄牛の皮を広げ、そこに開封した真珠の容器を置き、それから手に五つの宝貝を持って抛(ほう)る」。この儀式では五つの宝貝を四回振ることによって神意をおしはかる(神託を受ける)ことができるとされた。

◆古代ギリシア・古代ローマ=犠牲として捧げられた動物の踝(くるぶし)の骨をサイコロとして用いた。踝(くるぶし)の骨の形状が四角四面に近く、振ると四面のいずれかが上向きになった。

◆ハンムラビ法典=容疑者を裁くために、五種類の神意による審判の方法が記されている。

◆古代インドの神判=抽籤審という偶然の正邪判別の所作が定められていた(モーゼ法も偶然によって正邪判別)。

◆古代エジプト=死後の世界を描いた壁画に、王or貴族が独りで盤上遊戯(おそらくサイコロを使った遊戯)をおこなう姿が描かれている。神に対して自己の運命を占っているか、賭けている行為を描いたものだと言われている。やがて神の代行者として具体的な相手(実際の人物)が設定され、対戦相手ありきのゲームが成立するようになり、祭儀から遊戯への分離が起きた。

《わが国の場合》
◇次の年の吉凶を占う=年占、粥占、竹伐会(たけきりえ)、神社の射礼(射的)、競馬(くらべうま)、相撲・・・伝統行事となった。
◇路上の占い=夕占・夕卜(ゆふけ)、足卜(あうら)、路行占(みちゆきうら)・・・賭博に発展する要素があった。

《覚書》古代インドの頌歌(しょうか)と祭礼賭博

月が星宿プールヴァ・アーシャーダに宿るとき、賭場となるべき場所に穴を掘る。月が星宿ウッタラ・アーシャーダに宿るとき、ヴィビーダカの実を集める。賭場に草を敷き詰め、所定の期間牛乳と蜜とに漬けて保存した後、賭博に勝利を得るための呪文をささやきつつヴィビーダカの実を撒く。・・・『アタルヴァ・ヴェーダ讃歌』

※ヴィビーダカは熱帯性の巨木で無数の実をつける。ここで述べられている賭博は、賭場とした窪地にヴィビーダカの実を多数入れておき、手でつかんだ実の数が4で割り切れるのを最上とする方法となっている。おそらく紀元前10世紀ごろからおこなわれてきた方法であろうと言われている。

※古代インドでは賭博を司るのは女神アプサラスで、「賭博に勝利を得るための呪文」は、アプサラスを称える内容になっている。


わが国の歴史における最古の賭博の記録
●『日本書紀』天武天皇14年(685年)条=天皇が紫宸殿で諸官を集めて博戯を催した
●持統天皇3年(689年)条=雙六を禁断す

博戯は中国古代の盤上遊戯「六博」に由来する。駒を進めるレースゲームのタイプか、駒を取り合う囲碁将棋ゲームのタイプかは分かっていないが、お酒を飲みつつ、大騒ぎしながら行なう賭博だったと伝えられている。三国志の時代には、無頼漢の間で大いに流行していたと言う逸話がある(劉備や関羽、張飛も、道すがら熱中していた筈ではある)。

雙六は六博の後に流行した。盤上の二列に並んだ12個の升目の中を、白黒15個づつの駒を進める競争ゲームの一種。筒に入れた二個のサイコロを振って進めるので、偶然に左右されることが多く、賭博の用具となった。わが国では長い間、この雙六賭博が主流であった。

・・・平城京の時代・・・

『万葉集』
●一二(ひとふた)の-目のみにあらず-五六(いつ・うむつ)-三四(みつ・よつ)さへあり-雙六の采(さえ)[3827]
●吾妹子(わぎもこ)が-額(ぬか)に生(お)ひたる-雙六の-牡牛(ことひのうし)の-鞍の上(へ)の瘡(かさ)[3839]
『催馬楽』
大芹(おおぜり)は-国の禁物(さたもの)-小芹(こぜり)こそ-ゆでても旨し-これやこの-せんばん-さんたの木-柞(ゆし)の木の盤-むしかめの筒(どう)-犀角(さいかく)の賽(さい)-平賽(ひやうさい)頭賽(とさい)-両面(りやうめん)-かすめ浮(う)けたる-切りとほし-金(かな)はめ盤木-五六がへし-一六(いちろく)の賽や-四三賽や
『続日本紀』孝謙天皇の天宝勝宝6年(754年)条
冬十月十四日、(天皇は次のように)勅した。官人や百姓が憲法を畏れず、秘かに徒衆を集め、意に任せて雙六を売って淫迷に至る。子は父に従わず、ついには家業を亡ぼし、また、孝道をけがすだろう。これにより遍く京・畿内・七道の諸国に命じて、固く(雙六)を禁断させる。これに違反した者で六位以下は男女を論ずることなく杖(じょう)百の刑に処し、財をもって罪を逃れることは許さない。五位の者はその位を解き、位禄と位田を奪う。四位以上の者は封戸(ふこ)を給うことを停止せよ。職(しき)の官人、及び諸国の国司、郡司が(博奕の徒に)おもねり許して、禁じなかったならば、皆解任せよ。もし(博奕の徒)二十人以上を告発する者があれば、無位の者は位三階を叙し、位田のある者には絁(あしぎぬ)十疋、布十端を賜う。

※8世紀の中ごろには、高位の者も賭博に熱中していたことがうかがえる。

延暦3年(784年)10月20日の天皇の勅『類聚三代格』
この頃京中に盗賊が多く、街頭で物を掠め取り、人家に火を放つと聞く。職司がこれらの者を粛清できないので、凶徒の賊害が生じている。今後は隣保をつくって非違を検察する条をつくる。これら遊食博戯の徒は、陰顕を論ぜず杖一百と決め、放火略奪をする者は法に拘らず、懲らしめるのに殺罰をもってし、搦め取って姧□を渇絶せよ。

※賭博に負けた者が盗賊になるという発想は、長い期間、支配者側(取り締まる側)の意識として定着していた。実際には、平城京においては、災害や飢饉・地方の苛政によって都に流れ込んだ流民や、大仏や寺院の建設のために上京して、そのまま都に住み着くことを余儀なくされた貧民も多かったと言われている。

・・・平安京の時代・・・

【長元8年=1035年、12月13日、検非違使庁より京都全域に出された賭博取締令に対し、各地の役人であった刀禰からの復命文】『平安遺文』554-569
近年、京都中の邪でみだらな連中が集まって徒党を組み、雙六賭博をおこなっています。以前に禁じられたいましめも、今ではまるでなかったに等しい状態です。最もはなはだしい博打は制止するようにとの御達しは、仰せの如くいたします。また、隣近所のうち、禁止の御命令をはばからない者は、確実にその名前を記し、すみやかに申し上げます。
【左京三条三坊四保の刀禰からの報告】
賭博をおこなっている者たちは高家の雑色や牛飼の輩で、役人が禁止しても聞き入れず、それどころか放言して制止を無視する有様で、私たちが止めようとしても、とても従いません。
権中納言藤原定家『明月記』-嘉禄2年(1226年)2月14日条
近日、前宰相中将信盛卿の家の門と築垣の辺に、京中の博奕狂者が群をなして集まり、雙六の座をもうけて(賭博を)おこなった。(信盛卿の家の者が)自家のうちなので制止しようとしたが、(雙六の徒は)承引しなかった。家主はこの由を河東(の警固所)に連絡したので、(河東は)武士を派遣して(博奕の徒を)一人も残さずことごとく搦め捕った。(武士たちは博奕の徒の)鼻を削ぎ二指を斬った。隆親卿の小舎人の冠者も(捕まった博奕の徒の)なかにいたが、一人だけ特別に放免されることはなかった。
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