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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

シナ研究:中原の呪縛・3

資料を読み込んで、それなりにまとめられたかな?と思っています。

学生時代は分からなかった事もいろいろあって、驚愕の連続でありました。歴史はあまり得意な科目じゃ無かったですが、じっくり調べてみると、奥が深くて面白いものですね。特に、建国初期の匈奴戦争の後の漢帝国の事情は、今の日本の状況と照らし合わせてみて、何だか身につまされる部分がありました…;^^ゞ


【匈奴大帝国】・・・後篇

冒頓単于率いる匈奴帝国と劉邦率いる漢帝国は、必然ながら激突しましたが、漢帝国は当時、秦末の混乱をサバイバルした後で、それ以上戦う余力が無かったそうです。

紀元前200年、「白登山の戦い」で敗北した漢帝国は、和睦の条件をのみ、匈奴帝国の属国になってしまったと言われています(=幾つかの資料はそういう解釈になっていて、結構ビックリしました。兄国と弟国という関係になったというのは有名ですが、属国とも解釈できる、という状況があったんでしょうか…アセアセ…^^;☆)。

和睦の条件として以下の4つの条項があったと言われています:

  1. 漢は皇女(=公主)を匈奴の単于の妃に差し出す
  2. 匈奴の単于を兄とし、漢の皇帝を弟として兄弟の約束を交わす
  3. 漢は匈奴に絹・酒・米などの品々を献上する
  4. 国境に貿易場(=関市)を開く

この国際関係は、両国が作成する国書の様式に影響を及ぼしました。例えば、文帝が匈奴に送った国書では、「先帝の制に、長城以北は弓を引く国、命を単于より受く。長城以南は冠帯の室、朕またこれを制す。漢と匈奴は、鄰敵の国…」と言う風に書かれたそうです。

※「鄰敵」とは隣り合った敵国という意味でありますが、今日でいう「敵」の意味ではなく、「匹敵する」などというような「対等の国」という意味で使われていたそうです(=当時の論理では、対等な国=敵国となるそうです)。

ここでは、匈奴の方が兄という事になっていたので、漢側の国書では「皇帝、敬(つつし)みて匈奴大単于に問う、恙無きや」と書き、匈奴側の国書では「天の立つる所の匈奴大単于、敬みて皇帝に問う、恙無きや」、または「天地の生む所、日月の置く所の匈奴大単于、敬みて漢の皇帝に問う、恙無きや」と書いて交わしたという事です。

国書が書かれた木牘の長さも、漢側が一尺一寸で匈奴側が一尺二寸だったそうです。この国書のスタイルは、後世に受け継がれる事になったという話です・・・(例:わが推古朝から隋に送った国書=「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」)

さて漢帝国では、西域経営(=西域の征服=)に乗り出す力が無くなりましたが、その分、辺境の安全保障に割く膨大な人員・軍事費が浮くというメリットがあったと考えられます(=何だか、第二次世界大戦直後の日本を思わせる部分があります…^^;)。

それ以後の漢帝国の内部では、呂后一族の専横(前180年、呂后没)や呉楚七国の乱(前154年)といった政情不安が続きましたが、匈奴帝国による安全保障があったため、後漢末のような、大規模な異民族侵入の脅威は皆無であったと言われています。漢の中央政界にとっては、対外的には非常に平和な時代でした。

・・・この部分は、わが国の安保闘争や「あさま山荘事件」などの政治混乱を思わせました。あれだけの騒乱が起きたけれども、アメリカによる強力な安全保障や内政干渉があったので、ソ連からの軍事侵略などの脅威は無かった…ように思われました。…当時の安保闘争さなかの世代の中には、こういう部分をちゃんと考慮した方もいるのでしょうか?…この部分、なかなか善悪つけがたい部分で、とっても複雑な気持ちです…^^;;;;

・・・しかし、辺境の人々にとっては、匈奴の脅威は続いていたのであり、毎年のように人間と家畜が略奪され続けたという記録があります。当時の西域には人身売買および家畜売買のルートが確立していたという話もありますが、現在は、「帝国」支配スタイルにおいて普遍的な、強制移民政策であったという説が有力です。

匈奴だけでなく、秦、鮮卑、柔然、突厥など遊牧騎馬民族の間では、国家的な政策として、住民を集団で強制移住させるという事が行なわれていたそうです(=中国語では、「徙民(しみん)」と言う)。三国時代でも魏の曹操による移民が知られており、五胡十六国の時代も、北魏など遊牧系王朝が栄えた華北で、強制移民が行なわれていたという記録があります(屯田制。後世のキタイ=遼帝国も同様)。

・・・これは20世紀でも、国土拡張および防衛のための植民地政策、移民政策という形で続いていたらしい節があります。ことさらに遊牧系だから、中国だから…という訳でも無いように思います(=でも、現在の北朝鮮による拉致問題は、解決したいと思いますし、現在のチベットへの漢人浸透は、非常に憂慮すべき問題だと思います…)。わが国でも、松前藩の設置などという形での北海道への移民政策があり、アイヌとの軋轢が生じたという苦い歴史がありました…^^;

遊牧騎馬系による監視の下、漢人を中心とした定住民は川沿いなどの小規模な集落に住み、鉄の精錬などの手工業や農業に従事したのであろうという事が、発掘結果から推測されています。

前1世半ば以降、武帝の匈奴政策の激化により、匈奴帝国は次第に、前漢の弱体化と同調するように、分裂の度合いを深めてゆきます。そして2世紀半ばごろには、モンゴリアの支配権を鮮卑に奪われる事となりました。

しかし、5世紀にも及んだ匈奴帝国の繁栄は、単于一族を中心とする多民族連合体の帝国支配スタイル、分封制、十進法的軍事体系、国会、シャーマニズム的世界観、金属文化など、多くの影響を後世に及ぼしました。

更に、分裂した匈奴の一部は、西方へ移動を始め、フィン族・スラブ族などの諸民族と融合して新たな民族ヴォルガ・フン族を形成し、4世紀に南ロシアに現われ、ゲルマン諸族の大移動のきっかけとなりました。そして5世紀にはアッティラに率いられてヨーロッパに現われ、西欧情勢に大きな影響を及ぼす事になったのであります…

・・・以上、匈奴大帝国について、まとめてみました…;^^ゞ

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シナ研究:中原の呪縛・2

【匈奴大帝国】・・・前篇

中央ユーラシアないし、内陸アジアに広がる草原の世界は、シナ=東アジア世界ともオリエント=西アジア世界とも接触しており、政治的にも経済的にも、ユーラシアの東西を結びつける、重要な役割を果たしてゆきました。

したがって、華夷秩序が成立してゆく古代の東アジア世界を考えるとき、この内陸アジアに繁栄した遊牧騎馬民族の影響を抜きにして考える事は、不可能であります。

歴史的には、匈奴(フン族)は、前3世紀末から約500年間に渡って、モンゴリアに繁栄した、多数の遊牧騎馬民族による連合体の総称と申せますでしょうか。周の記録に見える異民族「獫狁(ケンイン)」の子孫であろうと言われていますが、確証は無いそうです(夏の時代には「獯鬻(クンイク)」と呼ばれたという記録がある)。

匈奴は戦国時代、オルドスを根拠地として、燕、趙、秦の北境を侵犯していた事が記録されています。スキタイに発生した騎馬戦法を東アジアに持ち込んだのは、彼らでした。従来、馬に引かせる戦車と歩兵とを用いた車戦と歩戦が一般的だった中原の人々は、彼らから騎馬戦の技法を学んだのでした。

文明や国家様式といった色分けで考えると、秦・漢帝国は農耕シナ型の都市国家を結んだ固定帝国であり、匈奴帝国は牧畜オリエント型の、オアシス諸都市国家との交易を前提とする移動帝国であったと言う事ができます(そして実際、匈奴の文化は、スキタイ文化の影響を強く受けていました)

中原に近い遊牧部族ほど、「中国」の製品を手に入れる機会は多く、それを交易に回す事も出来て裕福になった事が知られています。中原をめぐって起きた民族移動としては、北方から常に新たな遊牧民が南下し、南方の遊牧民はこれに襲撃されて、更に南方か西方に移る…という流れが、ずっと優勢でありました。

中原を通過した遊牧民は、支配階級は支配階級のまま、一般の遊牧民は牧畜をしながら、農業も行なうようになります。農耕民の領域と遊牧民の領域とがまだらに入り交ざる…という、中原という〈場〉における複雑怪奇な政治模様は、こうして形成されていったと考えられます。

・・・紀元前210年に始皇帝が死ぬと、中原の統一が破れ、各地で反乱が起きます。

その中で、項羽と劉邦が天下を二分して争っていた時期、北方の陰山山脈の匈奴部族の冒頓単于が、ペルシャのダレイオス大王やマケドニアのアレクサンドロス大王に匹敵する程の、世界征服を行ないました。

冒頓単于の指導の下、匈奴帝国の勢力は、東方では大興安嶺山脈を越えて、今では中国領になっている遼寧省、吉林省、黒竜江省一帯の狩猟民に及び、東の遊牧民東胡・他を服属させました。北方ではバイカル湖、西方ではアルタイ山脈にまで及んで、月氏・他の遊牧民を全て支配下に置きます。

「匈奴帝国」は、モンゴル高原を最初に統一した遊牧騎馬民族による、空前の大帝国でもありました。将来「五胡」と呼ばれる事になる多くの民族、つまり鮮卑などのトルコ系、韃靼などのモンゴル系、柔然などの東ツングース(後の金や満洲)系などをまとめ上げた大国だったのです。

※「マンシュウ」って、「満洲」と「満州」と、どちらが適切な漢字なのか、ちょっと分かりませんでした。パソコンで変換すると、どちらも変換候補に出てくるので、どちらも正しいのかなと思っていますが…、手元の教科書では「満州」になっていました。古い漢字とか、常用漢字を拡張した場合に、「満洲」になるのかな…^^;;

「冒頓」はモンゴル語で「バガトゥール」ないし「バートゥル」と発音し、「勇者」という意味を持っています。「単于」とは「テングリコト単于」の略です。「テングリ」=「天」、「コト」=「子」で、つまり「テングリコト」とは「天子」の意味。続く「単于」とは、「広大」という意味。

要するに「単于」は、中国の「皇帝」に相当する、匈奴帝国の最高指導者の称号です。ちなみに、冒頓単于は、戦士30余万人を率いた大王だったと言う事です。

※参考資料《引用始め》・・・『モンゴルの歴史』宮脇淳子、刀水書房2002より:

モンゴル高原の遊牧民にとっての方位は、南(実際はやや東南)が前、北(実際はやや西北)が後ろである。今のモンゴル語でも、左と東、右と西は同じ言葉を使う。匈奴でも、左翼(左方)の部族長達は東方におり、北京以東、満州・朝鮮半島の前線を担当した。右翼(右方)の部族長達は西方にいて、陝西以西、中央アジア方面の前線を担当した。単于の本営は中央にあって、山西の前線を担当した。
単于以下、それぞれ割り当ての土地があって、その範囲内で水と草を求めて移動するのである。24人の部族長はそれぞれ、千長(千人隊長)、百長(百人隊長)、什長(十人隊長)などの官を置いた。この匈奴帝国の仕組みは、後の13世紀モンゴル帝国と全く同じである。遊牧騎馬民自身が残した記録はこの時期はまだ無いが、伝統は受け継がれていったのだ。
匈奴が史上初めて遊牧帝国を作ったのは、秦の始皇帝が中国を統一したために、それまでのように遊牧部族が個別に中国の農村を略奪する事が難しくなったからだと言う意見がある。

《引用終わり》

図書館&資料&アドバイスに感謝。おかげさまで、だいたい、まっとうで、おかしくない、まとめ文章に仕上がったのではないか…と、こっそりと自画自賛しております。間違って理解している場所もあるかも知れませんが、その際は、よろしゅうご指摘くださいまし…という訳で、次回(=匈奴帝国の後篇=)に続く…^^ゞ

シナ研究:中原の呪縛・1

・・・・・・【序文】・・・・・・

〈上古諸州〉が滅び、次世代の〈前シナ文明〉もまた崩壊した後、真に〈シナ文明〉の歴史が始まります。

この〈シナ文明〉こそ、数々の栄華と乱世とを生み出し、現代にまで続く「中華世界」の基を築いた文明です。大室幹雄・著『劇場都市』に、そのダイナミックな活動を描写した文章があったので、以下引用します:

《引用始め》

孔子の没後、中国の社会は大きく変貌する。君主権を確立し、征服と破壊と併合によって強大化した大国は領土国家へと巨歩を進め、それは端的に軍隊の編成と戦闘法との変化として現われた。春秋期に始まる歩兵と輜重兵の増加は諸国で動員の方法にさまざまの試行を生んだが、杜正勝のいう「全国皆兵」の傾向は動かしがたい趨勢になり、また趙と秦とに導入された遊牧民の戦闘法、いわゆる「胡服騎射」は大量の騎兵軍団を戦場によびいれた。
農業もまた変化した。鉄製農器具の開発、灌漑と施肥の普及、犂耕その他の農耕技術の発達により農民人口は増加し――戦国期の全人口は約2500万人――、土地を家族で所有するようになった農民が荒地を開墾するいっぽうで余剰人口は都市へ流入してそのほとんどは都市細民を構成した。そして商人に倣って農民たちも南方へ、現在の広東、広西省、はては遠くヴェトナムのトンキン地方にまで移住していった。
商業――貨幣の使用が始まり、交易や鉄鉱山と鉄工場の経営などで鉅万の富を築いた大商人は農民と下級貴族を対象に高利貸を営み、諸侯の租税徴集の請負人となり、蓄財と土地の取得にいっそう前進した。農民の商人への依存の度合いは高まり、商人のうちには地方官庁の官吏になるものも現われた。この中国史上で最初の隆盛期に都市が発展したのはいうまでもない。都市化は漢-シナ人の領域外へまで拡張し、従来の方形を基本的なプランとする都市のほかに、交易市場から発達した不定形の町や都市が現われ始めた。

《引用終わり》@大室幹雄・著『劇場都市』/第三章「知識人の登場と退場」より

そもそもの〈シナ文明〉とは、春秋戦国時代にスタートした、青銅器と鉄器の併用のあった文明と申せましょう。『詩経』の元となった地方王権神話と融合しつつ、秦の興亡を挟む激しい社会変動と共に、各地に拡大してゆきます。幾つかの断絶を起こしながら、「漢」帝国という絶頂を迎え、ここに「中華」概念が完成します。

(参考知識)・・・中原の初期の鉄は鋳造鉄でした。これは武器としては非常に脆いものでした。ゆえに、春秋戦国時代の戦争で活躍したのは、ずっと青銅武器でありました。実際、当時の鉄は「悪しき金」と呼ばれ、青銅より下の地位にあったという事が知られています。中原の鉄が鍛造鉄に置き変わるのは秦・漢代の事であり、『三国志』の時代に至ってようやく、青銅の武器と鉄の武器とが干戈を交えるという場面が見られるようになってきたという事です・・・

つまり、秦の始皇帝が一代で創出し、漢が完成した文明、それが〈シナ文明〉であります…

・・・いわゆる中国の歴史とは、皇帝の歴史そのものである。近代以前には、「中国」という「国家」があったわけでもなく、「中国人」という「国民」があったわけでもない。言い換えれば、「中国」という国家が先にあって、それを治めたのが皇帝だったのではないということになる。先にあったのは皇帝である。
皇帝の支配が直接及ぶ範囲を「天下」といった。この「天下」とは、具体的には、皇帝を中心に展開した都市のネットワークをさすものであり、各地にはりめぐらされた商業都市網の経営が、すなわち皇帝制度の本質なのである。・・・

シナ文明の構造から生まれる「シナという病」III/ブログ『シナにつける薬』より、引用

…そして、秦末期、陳勝・呉広の乱が発生しました。反乱は見る見るうちに拡大したのでありますが、秘密結社のネットワークの力が大きかったようです。

最初に蜂起した陳勝・呉広は「王侯将相、いずくんぞ種あらんや」と叫びました。秦は確かに最初の統一帝国を作りましたが、その前身は諸侯国の身分であったので、ここで、文字通り、出身階層も血統も問わない、無制限・権力バトルの時代が始まった事が宣言されたのであります。

「漢」帝国の前身は、「秦」とは異なり、下層階級の秘密結社に基盤を置くものでありました(…と、認識していますが…これで、合ってるのかな…^^;)。

陳勝が死んだ後は、西楚の覇王・項羽と漢王・劉邦との間で、秦王朝滅亡後の政権をめぐり、当時の中国のほぼ全土を巻き込んだ内戦が繰り広げられたのであります…

「秦」から「漢」へ。儒教イデオロギーに伴う、「中華の継承」という牽強付会の概念の発生。

雑多な民族が交じり合って作り上げた、都市文明型の共同幻想…「漢民族」という名の、灼熱の呪縛。

この瞬間に、〈異形の帝国〉が誕生した…と考えられるのではないでしょうか…

★・・・引用が多くなってしまいましたが、おっとりと、次回に続く…^^;

目下、匈奴帝国の中身を調査中。これがちょっと理解しにくい世界だったりします…^^;


FriendFeedコメントより転載

五胡と呼ばれる北方騎馬民族ですが、彼ら自身は記録を残していないのでどうしてもシナ側の偏った物語にたよるわけですねえ。それでより理解しにくくなっているのです。匈奴というのは民族ではなく国家と考えてください。モンゴル、トルコなどの様様な民族、それが五胡であるのですが、鮮卑などのトルコ系、韃靼などのモンゴル系、柔然などの東ツングース(後の金や満洲)系とおよそ三つに分けられるでしょう。それらが匈奴時代には渾然一体となって国を作っていたものと思われます。 - 丸山光三
なるほど…匈奴もまた、漢と同じように、五胡を含む雑多な民族から成っていた大きな勢力グループなんですね(=これも知らなかったです。「スキト=シベリア文化の影響を受けたチュルク系っぽい大民族」という風なイメージでした。でも、広大なユーラシア大陸なのだから、多民族連合体の方が普遍的ですね…^^;)…考えてみると、「漢帝国」と「匈奴帝国」という二大帝国が並立していた情勢というのは、想像以上に、東アジアにおける周辺事態や世界認識に影響を及ぼしていたのかも。アドバイス、どうもありがとうございます…^^ゞ