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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

中世・伊勢熊野の海賊の研究・後篇

研究に使用したテキスト
『海と列島文化』―第8巻―「伊勢と熊野の海」/1992小学館
要約抜粋&保存の部分の著者=稲本紀昭

【伊勢・志摩の交通と交易】

続・海の南北朝=要約=泊浦をめぐる諸勢力の角逐

鎌倉幕府の崩壊は、同時に伊勢志摩の秩序の崩壊をもたらし、諸勢力の紛争が一挙に表面化した。これら諸勢力の中で、もっとも活発に活動したのが熊野海賊であった。伊勢志摩には熊野出身という伝承を持った多くの領主がいるが、彼らが伊勢志摩に勢力を拡大したのはこの頃のことであった。

泊浦には鎌倉幕府の守護所が置かれていたが、はやくも元弘2年=正慶元年(1332)、大塔宮の令旨を帯びて熊野より伊勢に来襲し、守護代宿所を焼き払った竹原八郎入道(=熊野海賊)の例がある。他にも鳥羽九鬼氏、鳥羽小浜氏、五ヶ所浦の愛洲氏などが居た。

『伊勢泊浦具書 一巻』の記録に、〝建武元年(1334)の前年7月、「阿曾宮(=懐良かねよし親王か)」から恩賞の令旨を得たと称し、「加津良嶋大夫房」なる者が泊浦に乱入し狼藉を働いた〟という事件が言及されている。熊野海賊ではないが、情勢変化に敏感に反応して行動を起こしたことが注目される。

◆補足=「加津良嶋大夫房」を動かすほどの、中世日本の情報網の発達が興味深い。熊野御師の活動は全国レベルであり、全国の情報が伊勢熊野エリアに集まってきたことを推測させるものである。また、布教活動と商業活動を同時並行で行なう新興宗教団体の信者ネットワークが出現し始めていることが報告されている。この頃から忍者の活躍も広がっていた筈=

建武元年10月、「大里住人与一五郎兄弟三人、江向住人兵衛三郎、竹内兵衛入道、大門左衛門次郎、井留賀右近允父子、蔵人父子」以下が、「有間以下所々悪党」を語らい乱入し、抵抗すれば放火すると威嚇して年貢を奪い取り、そのまま江向を占領するという事件が生じた。

◆補足=井留賀氏は、現在の南牟婁郡紀和町入鹿と関係があるらしい。入鹿地方は鉱山として有名であり、鉱山を通じて熊野神社と関係が深い。入鹿には、南北朝期に入鹿氏が来てここを支配した、という伝承があるが、その名前からすると、本来は海民であった可能性が強く、熊野海賊の一員であったと思われる=

暦応元年=延元3年(1338)、泊浦は再び悪党に襲われる。この年9月、北朝方の伊勢守護・高師秋(こう・もろあき)は神山(こうやま・松阪市)、立利(たてり)縄手の戦いで敗退し、南伊勢は、ほぼ南朝方に制圧される事となった。

この頃、南朝方のVIPであった北畠親房は、関東経略のため、義良(のりよし)親王らを奉じて、山田下市庭の権宮掌黒法師太郎家助らの協力によって、大湊を出航している。北畠親房の行動とシンクロしたかのように、泊浦に乱入していた悪党の働きは、北畠ら南朝方の戦略の一環であった可能性が強い。

翌年、悪党(=熊野海賊)らは江向を「警固料所」として給与されたと称し、占領した。北朝方・室町幕府は守護を通じて退去を命じたが、南朝方と結んでいた悪党らは、「合戦に及ばん」とするなど抵抗し、伊勢志摩の軍事制海権に執着したため、事態の打開には数年かかってしまった。

泊浦が、南朝勢力の拠点であった大湊と並んで、伊勢・三河湾を押さえる軍事的要衝であった事を考えると、彼ら悪党の行動が、単純な略奪を目的とするような一時的なものではなかったことが理解されよう。

◆補足=当時の紀伊半島沿岸航路は、南朝方の支配を実現していた。悪党らは南朝方の一員として動いていたが、悪党ら自身の事情もあった。このあたりは各々の利益計算が働いていたものと思われる=

泊浦を占領した勢力は、当地の在地領主、三河湾を掌握した海の領主、熊野海賊の諸勢力からなり、その目的は、紀伊半島から志摩国にかけての航路の掌握にあったといえるのである。

続・海の南北朝=要約=九鬼氏の進出

その後、泊浦は一転して北朝・室町幕府方の勢力下に入り、しばしば、南北両軍の戦場となった。

在家は荒廃し、貞治5年(1366)、泊浦御厨下司越中守重朝は、「泊浦軍勢、確執」のため御贄の名吉(=鯔)、シダタミ(=きさご貝)などを減らさざるを得なかったと内宮に報じており、特に九鬼氏を名指しして、江向当給主と称して九鬼氏が御贄を抑留していると述べている。

九鬼氏が、北条氏崩壊のあとに勢力を伸ばし、泊浦に定着したという事が読み取れるエピソードである。

【追記】戦国時代の伊勢・志摩エリアの変遷=織田信長-第一次伊勢攻めについての資料
※個人運営の歴史研究サイト『織田信長-下天-夢紀行』より(アニメ有・表紙は重い感じ)
フレーム有=http://tenkafubu.fc2web.com/isezeme/html/eiroku10.htm
フレーム無=http://tenkafubu.fc2web.com/isezeme/html/eiroku10-02.htm
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中世・伊勢熊野の海賊の研究・前篇

研究に使用したテキスト
『海と列島文化』―第8巻―「伊勢と熊野の海」/1992小学館
要約抜粋&保存の部分の著者=稲本紀昭

【伊勢・志摩の交通と交易】

(一)関東渡海船=要約=関東との交易品は何であったか=

伊勢湾随一の良港・泊浦(とまりうら)では、関東(=鎌倉幕府)との交易に従事し、富を蓄積する者が多かったのではないかと思われている。

◆補足=泊浦(とまりうら)は、現在の鳥羽港エリア。天然の良港として有名=

元弘元年(1331)、泊浦小里住人犬法師太郎は、「銭主」として同地住人紀内の船を雇い、東国との交易に投資したが、あいにく帰航時、三河国高松(愛知県渥美郡赤羽根町)沖で、悪止住人虎王次郎船と衝突し、沈没した。この船にはその利益31貫文が積まれていたという(光明寺古文書)。

このエピソードは、関東出立船の多さを推測させるものである。

近年の「中世都市・鎌倉」の発掘によって、多くの優れた輸入陶磁器などが鎌倉に運び込まれていた事が明らかになった。こうした、いわゆる唐物と呼ばれる輸入品は、その多くを関東渡海船によって運ばれたものと推測される。泊浦の裕福な一族の財産は、こうした唐物の売買によって築かれたのではなかろうか。

ちなみに、『氏経神事記』文明2年(1470)正月2日の条の記事によれば、ある富裕家の息子は、宇治の住人7人と博打をして銭2000貫文負け、その取立てを巡って、山田と宇治の対立にまで発展し、そのため内宮への参宮人がストップしたという。

これなどは博打上の金額とは言え、当時の関東廻船業界の富の莫大さを物語るものであり、内宮が、たとえば伊雑浦に漂着した難破船の積荷を数千貫と見積もって、その折半を在地領主に強硬に要求したと言うエピソードも、うなづけるものであると言う。

(二)海の南北朝=要約=熊野海賊の志摩進出=

永承4年(1049)、斎宮寮寮頭平雅康が、外宮領伊志賀所所見御厨を斎宮寮領麻生浦内と称して押領し、訴えられたケースがある。漁場の境界線(縄張り)の争いであったと考えられている。

建仁3年(1203)、麻生浦住人壱志守房が、麻生浦に漂着した塩木を積んだ相佐須(鳥羽市・相差オウサツ)住人の船=国崎神戸船を借船したもの=を積荷と共に盗み取ったほか、国崎神戸船の奪取、神戸内の山木の伐採、神人の凌轢、海路・陸路の通行妨害などと多岐にわたって、国崎神戸から訴えられている(太神宮諸雑事記)。

塩木という有力商品の供給地支配、輸送、航路、港の支配、難破船の帰属など、こののち、問題となる殆どすべての問題がこの紛争に凝縮されていると言ってよい。鎌倉末期には海産物の商品化が進み、交易も活発となり、漁業・航路をめぐる争いがより広域的なものになるのは、当然でもあろう。

文永5年(1268)、国崎神戸神人は、「国崎神戸狼藉人注文」を神宮に提出している。狼藉の内容は不明だが、権益の支配の紛争に関わるものであったらしい。

本注文 国崎神戸狼藉人注文
一人太郎検校国貞 一人同子息宮石次郎(不知実名)
一人太郎大夫末弘 一人石熊大夫末宗
一人毘沙検校家次 一人石王次郎検校重弘
一人小井太郎検校(不知実名) 一人三郎検校(不知実名)
一人宗五郎検校家高 一人房太郎検校
一人与一為弘 一人得石検校(不知実名)
一人左近将監国沢 一人伊良胡大夫文貞
・・・・・・・・・・右注文如件 文永五年四月 日

および

今度狼藉張本
一人三郎検校子息利王四郎(不知実名)
一人宗五郎検校家高之子息(不知実名)
一人預次郎(不知実名)
一人千熊次郎(不知実名)

これらの狼藉人の数々は、熊野海賊の志摩進出の先触れであると言える。彼らの狼藉行為の背景には、航路・寄港地の確保という、交易にとって必要不可欠の問題があったと思われる。

鎌倉時代、東国における熊野御師の活動はめざましく、道者も多数にのぼっており、そのなかには金窪、安東といった得宗御内人の名も見られる。熊野社領も三河国竹谷・蒲形(愛知県蒲郡市)、駿河国足洗荘(静岡市足洗)、武蔵国豊島郷(東京都)、上総国畔蒜荘(千葉県君津市)、下総国匝差南荘(千葉県匝瑳郡野栄町・同郡光町)などがあり、これら社領支配にとっても関東航路の比重は高まりつつあった。

推定・弘安元年(1278)7月、「熊野凶徒」が伊雑浦深く伊浜まで侵入し、住民の防戦によって一時退却したものの、翌日再び来襲し、伊雑宮鎮座地上村をうかがう気配を見せ、「今之暴逆、かつて比類無」しと住民に言わせる事件が勃発した(神宮文庫文書)。

住人たちは内宮に急を告げ、内宮はただちに守護代の出動を要請している。熊野海賊は以前にも名切、阿曾、鵜方、二見郷に来襲した事があるが、それは、反平氏方としての軍事行動といった性格が強いものであったのに対し、この時は、志摩半島の天然の良港・伊雑浦の掌握にその目的があったのではないかと思われる。この事件の結末は不明であるが、その後、この海域は俄然騒がしくなった。

連続して熊野海賊・守護代(=北条氏の有力一門であった金沢氏)双方の乱暴狼藉が続いていたが、これには、伊勢・熊野の航路をめぐる争いがあったと推測されている。

網野善彦氏が指摘しているように、鎮西(九州)―瀬戸内―紀伊―鎌倉の海上航路を確保する事は、鎌倉幕府を掌握していた北条氏一門にとっては、重要な意味を持っていた(※泊浦に鎌倉幕府の守護所が置かれていた。南北朝には「守護代」の城が置かれた)。

この時期、鎌倉幕府は、伊予守護河野氏に西海における熊野海賊の誅伐を命じているが、伊勢志摩海域においては、神宮神人、供御人、島々の海民、在地領主、熊野海賊、金沢氏と、諸勢力が、航路・港・漁場をめぐって相争う場となっていたのが現実であった。

《私感》憲法十七条

憲法十七条は、「種々の思想を適当に入れて」成立したとは思えないのだけれど、人(=法律専門家かな?)によっては、そういう見解になる、というところに興味を覚えております

個人的には…憲法十七条は、「和」の精神をベースにした成文法であったと思っています。種々の外来思想の言葉と法律をいろいろ調べて摂取して、古代日本人なりに、いわゆる「日本的魔改造」というプロセスで組み立てたものが、憲法十七条だったのではないかと思っています。

物語的な直感ですが、憲法十七条は、どう考えても、聖徳太子1人の手になる作品だとは思えない…、国内の慣習法と、大陸の法律の両方に通じた、大勢のブレーンの気配を感じるのですね。おそらく渡来人系が半数を超えていた筈。皇室の祖先・親戚含めて、渡来人は大勢居ましたが、渡来人による占領国家的・独裁的な取り決めでも無かったし、国内豪族もしくは皇室の独裁を可能にするための取り決めでも無かった筈なのです…

憲法十七条。

あの当時としては、国内情勢の安定を目的として、相当に知恵を絞ったユニークな法律だったと思います。当時は豪族同士の暗闘があって全然平和じゃなかったし、皇族でさえも豪族と対立すれば殺される情勢だったし、蘇我氏と物部氏の抗争は、あと一歩で大和朝廷全体を巻き込む、一大宗教戦争に入るところだった…

しかも当時の一般庶民は、相次ぐ飢饉と疫病と災害で、それどころじゃ無かった筈…

☆参考[仏教はなぜ日本で普及したのか(永井俊哉ドットコム)
蘇我稲目が大臣になった宣化元年(536年)における宣化天皇の詔=食は天下の本である。黄金が万貫あっても、飢えをいやすことはできない。真珠が一千箱あっても、どうして凍えるのを救えようか
※当時、すさまじい異常気象が続いた事が知られています。この詔からは、一般庶民の間で、深刻な飢えと凍死が多かった事がうかがえるのです…

泥沼の豪族至上主義&宗教戦争への恐れが生み出したのが、あの憲法十七条だったと思う…

豪族同士の抗争で乱れっぱなしの国内を早期に安定させ、足並みそろえて効率的に国内外問題に広く取り組むために、中央集権の担保として天皇を担ぎ出したので、天皇中心の形態を支持してくれ(=挙国一致体制を支持してくれ=)、という事情があったのではないか…

…憲法十七条が、一見、独裁体制(中央集権)を支持しているようにも読めるのは、そういう事情があったと推測されるのです。

そういう「急場の挙国一致体制リーダーシップ」…その体制を規定する成文法というのが、現代政治学の意味でも古代政治学の意味でも、「大王独裁化や豪族の官僚化を成立させたもの」と言えるかどうかについては、疑問符が付くのではなかろうか…

(あのような内容になっている以上、中央集権形成への意思は明らかにあったと思いますが、それをもってストレートに、大王独裁体制成立と同一視するのは、多くの誤解を招くのではないかと思いました。中央集権であっても独裁体制じゃない組織は、いくらでもあります。会社組織とか、ボランティア組織とか…ただ、ブラック企業とかになると、また違うかも知れません)

古代日本人は、古代ギリシャの民主的ポリス社会を築いていなかったし、「民主主義」という言葉も無かったし、現代的な意味で「憲法十七条は、大王権力の絶対性を保証するための成文法であった」と評価できるかどうかは…はっきりとした確証は無いと考えられます(近いところで、ローマ的な元老院スタイル、というのは、可能性としてはあったかも知れませんが…)

当時の天皇の地位は、豪族の意のままに上下左右に振り回される、ものすごく不安定なものだったと言われています。それがようやく「古代的な独裁体制」的な意味で安定したのは、100年も後、律令体制の確立(飛鳥浄御原令)と、中央集権国家に関する軍事力の裏づけが堅牢になった、天武持統体制になってから…(持統天皇は、本当にものすごい政治家だったと思う…)

だから、憲法十七条は、現代的な意味で言う「大王独裁体制の誕生」とは直接的な関係は無い…という風に言える、と思われるのです。むしろ、現代的な意味で、権力の身勝手な暴走を食い止める方向になったと思う。そういう意味では、現代の民主主義の機能を一部含んでいると言える、と思います。

…あと、本当に「得体の知れない神さまとの合体の下に独裁をやった」天皇は、中世の後醍醐天皇だったりするかも。でも彼はその後、中央政界から追放されてしまったし、日本に実際に、「憲法十七条に基づくカルト的・天皇独裁」と言える時代があったのかどうか、相当に怪しくなってまいります…(汗)

五箇条の誓文も、古代と同じようなカオス情勢の下で、憲法十七条と同じように中央集権の形成を目的として、魔改造的に作られたものだったように思う…

明治維新の頃にどれだけの血みどろの内戦があったかを考えると、五箇条の誓文は、天皇を媒介にした神前契約じゃ無かった場合、とても国内がまとまったとは思えない…

当時の大名含む上級武士の大部分は「陽明学」の深い教養がありましたし、陽明学の神聖性に対抗できる神的な存在は、江戸幕府が壊れてしまった後は、天皇くらいしか無かったと思います。「陽明教国家」というのも、可能性としてはかなり興味深いですが…「マルクス教国家」っぽくなったかも知れません

現代でも、民主主義の大国として知られているアメリカでは、アメリカ大統領が就任の際に『聖書』を媒介に神前契約していますが、あんな風じゃないと、普通、「国家レイヤー」というのは、中央集権的な状態でまとまらないと思います…(政治と祭祀≒宗教思想≒国家神話のアヤシイ関係)

最後になりますが、民主主義にも問題点はあると考えております。「大衆権力による独裁」「多数派閥による圧力」「お金の力による派閥化&分裂化」という可能性を、常にはらんでいる…という意味においてです。

口コミやマスコミによる宣伝が効果的に行なわれれば、大衆はそれに従って権力を行使し、ヒトラーやスターリンのような独裁者を生むことができるのです(※破壊革命的な政権さえ、成立できるのです。この危険性については、既に「目の前の現実=民主党政権」という動かぬ証拠があるかも…)。

「天神地祇に誓うところの天皇独裁体制」と「民主主義国家の神話の下における大衆独裁体制」、どちらにしても危険性は変わらないと思われました


考察材料:宣伝、または工作世論の危険性

世界史bot@history_theory(2023.03.12)ツイッターメモ
https://twitter.com/history_theory/status/1634751610562936836

倉山満『大間違いの太平洋戦争』2014
“なぜ日本はアメリカのような、勝てるはずのない巨大な国と戦ったのだろう?"という、いわゆる“太平洋戦争への道"史観を全否定! 負けるはずのない世界最強の帝国陸海軍がありながら、敗戦に至った近現代史の真実をあぶり出す。アメリカなんぞはマイナー国家! ! 太平洋戦争の本質は対英関係にあり! 対英関係がわからなければ、戦前の日本は理解できない! ! https://amazon.co.jp/dp/4584135878/

「ロンドン会議が日米開戦の元凶だった」という史観があります。
しかし、むしろ条約締結は大成功だったのです。
10月1日に枢密院で可決し、11月14日に浜口首相が暗殺未遂に遭ったため「そこから軍国主義の足音が」と言う人がいますが、その弾がそれていたり、対米開戦がなかったりしたら、ロンドン会議のことなど誰も覚えていなかったでしょう。
1928年ジュネーブ会議のことを誰も覚えていないように。
この時点で本当に日本にとって有害だったのは英米ではなく、北一輝ら民間右翼をはじめとして「英米一体論」と「統帥権干犯問題」を煽った連中です。
大前提として
この頃までの大日本帝国は滅びるはずのない国でした。
英米協調か米英協調かという対立が外務省の中にあるとき、石井菊次郎が正論中の正論を言っています。
「英米は仮想敵国に等しいような敵対関係にある。結局アジアが太平洋で日本の言うことを聞かねばどうにもならないのだから、いずれ両方がすり寄ってくる。そのときに日本は両方と仲良くすればいい」
それを正反対にも
「英米一体で敵だ」
と煽り、統帥権干犯問題を煽りまくり、ソ連のことがすっぽり抜けているのです。
ロンドン会議は日英米の三国でソ連や蒋介石を抑え込もうという枠組みづくりなのに、逆にわけがわからない世論を煽って「英米が敵だ」という話にしてしまったのがこの連中です。
(略)
この時は、統帥権干犯論は粉砕されました。
しかし、この時の敗者が復活して、のちに大日本帝国を撹乱してきます。
正しい言論が勝たねば国家は滅びる、の見本のような状態になります。