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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

シナ研究:中原の呪縛・6終

三国/南北朝・五胡十六国時代・・・退嬰と混沌の果ての「華夷秩序」

ますます混迷を深めてゆく後漢末の社会の中で、新興宗教が盛んに活動し始めました。当時、官僚登用試験に落ちた知識人の多くが、民間秘密結社や新興宗教教団の中で活動しており、その知識人の血縁のつながりで、反乱軍を起こせるほどの財力のある富裕な宗族(門閥豪族)にもツテがあった事が指摘されています。

道家思想を奉じる下級民間団体が本格的に教団活動を始め、一時は軍閥割拠の一角を占めるほどの勢力を誇ったのは、こうした社会背景がありました(※例えば、清朝末期に太平天国の乱を起こした洪秀全も、官僚登用試験に落第した知識人でした)。

後漢末で有名なのは道教教団である「太平道」(開祖・張角)、「五斗米道」(開祖・張魯)です。太平道は黄巾の乱を起こし、三国時代のきっかけとなりました。五斗米道は、曹操と劉備の間にあって独自の宗教王国を形成しました。開祖・張魯の子孫は代々「張天師」を名乗って教団に君臨し続けたと言われています(後に「天師道」と名を変え、現代も台湾で活動を続けているそうです)。

184年、太平道の頭目である張角・天公将軍、張宝・地公将軍、張梁・人公将軍は、「火徳である漢王朝は、易姓革命によって土徳の王朝に替わるべし」として、数十万の信徒ともども黄色の頭巾をかぶり、黄巾の乱を起こしました。二度にわたる党錮の禁で宦官優勢になっていた政府では、黄巾の乱に対応するため党錮の禁を解き、清流派官僚及び外戚勢力を反乱鎮圧に差し向けました。

黄巾の乱は同年の内に急速に鎮圧されましたが、その後、全国で多くの内乱が相次ぎました。涼州では韓遂、辺章、王国の乱、東北遼東では張純、張挙が烏丸族と結んで反乱、四川では馬相が反乱。いずれも軍閥であり、割拠の末に皇帝を名乗りました。

もはや権威が地に落ちてしまった後漢王朝の都で、189年に「董卓の乱」と呼ばれる激しい内戦が続きます。董卓は先の皇帝であった少帝を廃し、異腹の弟・陳留王を皇帝に立てました。これが献帝です。そして董卓自らは、相国(=宰相よりも上の地位=)として権力を振るいます。董卓は公孫度を遼東大守、劉表を荊州牧に任じた事で、意図せずして後の群雄割拠時代への道を開きました。

ちなみに董卓は、東方勢力(=反董卓派の官僚連合である関東諸侯=)が結集すると、都を長安に移しました。内輪もめから瓦解する東方勢力を尻目に帝位簒奪の手筈を進め、いよいよ後漢に替わる自らの王朝を立てようという時に、部下の呂布に裏切られて殺されたと言われています(192年)。天下は麻の如く乱れました。

長い戦乱と飢饉のために、漢人の人口は、2世紀半ばの5600万人から3世紀初めには400万人に激減したと言われています。後漢王朝は220年に滅亡。三国分裂が60余年も続いたのは、三国ともに人口が極端に少なく、長い間戦争を続ける力が無かったからだそうです。

人手不足を補うために、三国はそれぞれの辺境で異種族狩りを熱心に行なったという記録が残っています。魏の曹操は、内モンゴル西部の南匈奴を支配下に置き、彼らを山西省の高原に移住させて私兵とし、また内モンゴルの烏丸という遊牧騎馬民族を征服し、直属の騎兵隊としたという事です。なお、烏丸は鮮卑と同族だそうです。

遊牧騎馬民族の傭兵戦力を手に入れた魏は早速に蜀を併合しましたが、その後、魏の実力者の司馬炎が曹操の子孫に代わって皇帝となり、国号を晋と改めました。この晋が呉を併合し、天下統一を果たしたのです。

しかし晋の天下はあっという間に乱れました。「八王の乱」という内戦になります。

この間の304年に、南匈奴の単于の後裔の劉淵が独立を宣言し、漢(前趙)を建国しました。これが五胡十六国時代の始まりである、とされています。

五胡とは、匈奴、鮮卑、羯、氐(テイ)、羌の五種類の遊牧民の事をいい、みな中国内地に移住させられていたのでしたが、彼らは次々に、16の王国を建国しました。この時代に、中原は全く遊牧民の天下となってしまったのでありました。

わずかに生き残った漢人は、今の武漢を中心とする長江中流域と、今の南京を中心とする長江下流域に集まり、南朝と呼ばれる亡命政権を維持しました。

この時代は、東アジアの周辺民族が急速に独自の王国を構成していった時代でもあります(=五胡十六国、大和朝廷の成立、高句麗の独立、百済・新羅王国の成立etc.仏教の拡大も見られたそうです)。

ますます混迷する国際的状況の下で、いっそう先鋭化してゆく陰陽五行説と中華思想は、遂に〈シナ文明〉独創の、中華至上主義を基盤とする国際関係の概念を完成しました…いわゆる「華夷秩序」です。その言葉は、南北朝の対立と混乱の中で、正統な中華王朝を特徴付けるための堅牢な呪文となったのであります。

〝いわゆる「華夷秩序」によれば、「中華」が世界の中心で、それをとりまく「東夷西戎南蛮北狄」は、「中華」の文化に畏れ入り朝貢をなし、「中華」の天子から封ぜられる、という形をとります。〟
〝シナ的「世界」では、天子が諸侯を各地の王侯に封ずることを「封建」といい、その詔書を「封冊」といいます。その権力分配の制度にちなみ、「中華」周辺の蛮夷が、「中華」の権威をみとめ投降するさい、「封建」の形を後から整えるわけです。〟

出典: 「世界の中心」の田舎芝居 /ブログ『シナにつける薬』より

《おしまい》

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シナ研究:中原の呪縛・5

今回は、ものすごく突っ込まれるだろうな…と思いつつ、冷や冷やのエントリです。

資料をもとに浮かんできた想像と、現代的占い的な考察をいっぱい入れて、「おっかなびっくり」状態でまとめております。間違ってるところがあれば、ご指摘よろしくお願い致します(=経済のお話は、全く専門じゃないのです。文字通り一夜漬けなので、恥ずかしいばかりの矛盾があるかも…全部間違っていたら、目も当てられないですが…)

誤字脱字、単語の間違い、文字のタイプ間違いがあれば、それはきっと、おっちょこちょいな書き手が、連日の徹夜勉強でちょっとおかしくなっていたからだ、という風に、笑っていただければ幸いです^^;;;;;


「新」帝国の貨幣政策・・・古代東アジアの巨大デフレ・スパイラル

前漢末期、経済界には貨幣不足の兆候が現われ始めていました。従来は、『貨殖伝』にも〝末を以て財を致し、本を用(もつ)て之を守る〟と書かれたように、投機で儲けた資金を農業に投資するというのが最も安全な財産運用の方法だと思われていたのですが、その貨幣の流通が、著しく欠乏してきたと言われています。

春秋戦国時代以来の好況の原因は何かと言えば、それはやはり、鉄という新たな金属の流通が農器具の発達と相まって好況の下に拡大したこと、それに国土が広がったことによる、未開の地での新たな銅鉱山や金鉱山の開発と運営といった、一種の開拓ブーム(=今で言えばゴールドラッシュ=)が大きかったと申せましょうか。

後世の歴史家は、前漢時代の黄金流通の豊富な事、それゆえの黄金価格の低廉の事について、頻繁に言及しています。前漢時代の都中央部及び支配領域において、非常な好景気があった事を暗示しています。

ところが前漢以降、匈奴帝国との交易の市場が開かれ、西域との流通が大きくなってくると、前漢よりもずっと経済活動が盛んだった西域に向かって、黄金が流出したのです。それが前漢末期の貨幣不足として現われてきたと言われています(=古代であるからして、その流通の速度も変化の度合いも、現代に比べると非常にゆっくりとしたものではあった筈ですが、それだけに不景気は一旦始まると、非常に長く続いたものと思われます)。

漢代の貨幣制度は、ほぼ銅銭を基本通貨とし(五銖銭が正貨)、その補助貨幣として黄金が用いられるというスタイルでした。黄金一斤が銅貨一万銭に相当するという交換レートで運用されていたという話です。

西域との交易によって黄金が大量に西方に流出すると、流通貨幣の不足が起こりました。経済が回らなくなった前漢は、大不況に陥ったのです。この影響をもっとも受けたのが前漢の豪商・知識人たちでした。彼らは王莽を支持し、王莽は「新」帝国を樹立し、貨幣制度の改革を行ないました。

※興味深いことに、同時期(後1世紀頃)に、ローマ帝国でも黄金の東方(インド方面)への流出があった事が知られています。西方では、むしろ銀貨の方が高い価値を持っていたそうです。

復古主義であった王莽による経済再建は、概ね、武帝の経済政策をなぞったものとなりました。貨幣総量を増すため、銀に貨幣価値を付与して銀貨二品を作りました(朱提銀:重さ八両=銅貨1580枚相当/它銀:重さ八両=銅貨1000枚相当)。しかし、その結果は、武帝の失敗をもう一度なぞるものとなったのです。

※武帝の場合は、充実した国力を背景に、匈奴攻略に膨大な資金を注ぎました。この結果、国内の貨幣流通の不足が生じ、財源不足に陥りました。新たな貨幣「五銖銭」の鋳造や、鉄・塩の専売制度は、この財源不足を補うために始まったものでしたが、かえって密売などのヤミ流通が横行し、私腹を肥やす外戚・宦官が増加し、民間の窮乏が広がったと考えられます。

王莽はその後、銅貨の改鋳を盛んに行ないました(様々な王莽銭が発掘されています)。彼は大小の様々な銅貨を作りましたが、その目的は銅を小分けにして流通量を増やすという事であって、今で言えば貨幣価値の無謀な切り下げ作戦…政府が銅の国内総量をコントロールできないままに施行された、巨大デフレ・スパイラルの中のインフレ政策に他なりませんでした(…と、考えてみたのですが、だいたい大丈夫かな…^^;)

旧銭の所持者は、銅貨の価値が下がる事を恐れ、手持ちの銅銭を放出を惜しみました。ひとたび悪貨(=私貨や密造貨幣=)が市場に溢れて良貨を駆逐し始めると、ますます銅貨の流通量が欠乏し、「新」帝国の経済情勢は、いっそう悪化したのです。地方の軍閥・農民への影響は甚大なものとなり、赤眉の乱が起こりました。

※同時期に寒冷化が始まっていたという気象データがあり、悪夢のようなスタグフレーションや食人(カニバリズム)が起きていた可能性がありますが…どうなんでしょうか…(冷や汗)

※王莽の外交政策も、過度の中華思想の下に武帝をなぞったものとなり、匈奴や高句麗の反発を買いました。

・・・《ポスト「新」としての後漢の文化と経済についての小記》・・・

王莽を倒して天下を取った赤眉の軍と覇権を争い、後漢王朝を樹立した事で知られる光武帝・劉秀は、漢委奴国王の金印を奴国(1世紀-3世紀前半、福岡市付近に存在した国)に授けた皇帝でもあります。

讖緯(予言書)を利用して帝位についた光武帝は、中国史上、稀な名君として知られています。その治世は、民間の活力が上昇し、最高識字率を達成した事でも注目されます。

『三国志』の時代は、それまでの時代とは異なり、檄文などの文書戦や知謀戦のスタイルが新たに発生してきますが、こういった現象は、光武帝の遺産と考えても良いかも知れません。

一方で、王莽のもたらした甚大なる経済混乱とデフレ不況は、その後の豪族や商人たちの経済的サバイバルに影響を与えたと思われます。彼らは、なるべく銭を使わない経営をする、つまり荘園などの自給自足の経済圏を築き、塩と鉄を買う時にだけ金銭を放出するというような対策を取るようになりました。

必然の流れとして、彼らの旺盛な消費活動は、もっぱら素材購入に集中し、加工品に出来るだけ手を入れたものを自分の車船に積み込んで、荘園外に出向いて商品として販売し、少しでも余剰利益を大きくするという方向に向かったと言われています。

(★想像ではありますが、このような経済サバイバル習慣が、おそらく、現代中国に蔓延する偽ブランド商売や密輸の習慣に、密接に関連しているのではないでしょうか…?? …とすれば、こうした偽商品や商売詐欺の習慣は、ゆうに2000年の歴史を持っていることになります…冷や汗)

このような消極的な経済活動は、一箇所に蓄積される貨幣の量を増加させる一方で、ますます市場における貨幣流通を少なくし、デフレ・スパイラルを強め、不況や経済格差が更に拡大・長期化する原因となった筈です。後漢頃には、こうした「上に政策あれば下に対策あり」経済活動が定着したものであり、そのまま三国・南北朝(五胡十六国)の時代へと突入したのだと考えられるのです…

・・・・・・《補遺》・・・・・・

「新」帝国は短かったですが、中華変容へのディープインパクトだったと想像しています。

興味深いのは、政権交代で鳩山政権となった2009年の年末に、「今年の漢字by清水寺」が「新」という漢字を書いているのですね。鳩山政権も、後々の時代から見れば、王莽なみの中華ディープインパクトだったと評価されるようになるのかも…と、「占い的に想像」しています。

でも、日本が商売詐欺の大国&中華バージョン食人列島化するのは、やっぱり嫌です。もし自分が日本で一番えらい神さまだったら、すぐにでも八百万の神々を動かして、そういう恐ろしい変容をストップさせるのになあ…と、思いました…^^;;;;;


FriendFeedコメントより転載

【2010.7.17-管理人メモ】コメントが無いので、この静けさが、いささか不安(アセアセ)…エントリの趣旨は、論理の組み立ても、すごく変だったのだろうかと、ちょっと焦っております。今の自分の経済知識ではこのレベルの理解が精一杯ですし、このまま、ホームページ用に編集してみます。勘違いがあれば、いつでもご指摘お待ちしております、というメッセージだけ残しておきます…
さてお呼ばれしているような(♪)気がするので少しだけ。シナ社会の経済に関する研究は資料が存在する宋代以降からに集中しているような気がします。漢代となるとほとんど想像の域なのではないでしょうか。専門外なのでよくは知りませんが。家内がある研究プロジェクトで明末清初を担当していましたがそれでも資料がすくなくて大変そうでした。 - 丸山光三
《返信》コメントありがとうございます。「中国史」の記録は山ほどあるのに、経済の記録の方はやっぱり薄いみたいですね。古代から経済活動がものすごく活発な印象があるので、何だか意外です。当時の役所の記録や日常に関する記録は、木簡や竹簡に記録されたと思いますし、発掘調査の進展を待つしかないみたいですね。六朝時代を調べていて、「中国人は日常の役所の定例的な記録は重要視せず、技術を尽くした巧緻な文章(詩文&名文etc)を後世に残そうとする傾向があった」という文章がありました。そのあたりの気質も影響しているみたいですね…

シナ研究:中原の呪縛・4

黄老思想と陰陽五行説・・・漢代における神秘哲学思想

戦国時代、諸子百家において「陰陽説」「五行説」と呼ばれる古代神秘哲学が流行しました。五行説が陰陽説に同化し、陰陽五行説が完成したのが、漢代であったと言われています。

【陰陽説】
生命の根源である「気」は、陰と陽とから成る。宇宙の万物は陰陽によって形成される。人間界(政治・道徳・日常生活など)も陰陽によって変動する。道家が天に重点を置いて主張した。
【五行説】
宇宙のあらゆる事象は、「五行」(木火土金水=五元素)の働きによって生み出されている。五行相生と五行相剋によって自然界の秩序が回っている。儒家が人に重点を置いて主張した。
【陰陽五行説】
陰陽家が陰陽説と五行説の折衷を行なって成立した思想。この思想を実践に移すのが方士であり、神仙術(錬金術・不老不死の術)や医療などを行ない、儒教・道教の成立要素となった。この他、3世紀頃に伝来した仏教と習合して密教形成の要素となり、民間信仰や新興宗教へも影響を及ぼした事が知られている。

漢初の政界においては、無為自然を尊ぶ道家の思想(=黄老思想=)が流行していました。これが、後に儒教と結びついて、陰陽五行説の完成につながりました。

この時期に黄老思想が流行した原因は、法家を信奉した秦の政治があまりに苛酷だった事への反発ではないかと言われていますが、実際はあまりよく分かっていません。いずれにせよ、漢初の政治がきわめて消極的な態度に終始した事により、秦末の深刻な疲弊と混乱からの回復が進んだと言われています。

漢代において、陰陽五行説は十干十二支と結び付いて天文・気象を取り込み、暦法・暦術へと発展する一方、易・卜筮・八卦などとも結び付いて、歴史思想や占術・戦法の変化を生み出しました。

王朝革命思想(易姓思想)は、五行の相生、相剋の理を背景にしています。

戦国時代、諸子百家の鄒衍(すうえん)が提唱した五徳終始説は、「五行相剋説」に基づく王朝革命思想でありました。各王朝は五行のいずれかに相当する徳を有しており、土・木・金・火・水の順による五行の徳の推移によって王朝が交替するというのが、「相剋説に基づく五徳終始説」が説く内容でした。

これに対して、木・火・土・金・水の相生関係によって王朝の交替を説くのが、漢代に唱えられた「相生説に基づく五徳終始説」です。漢は火徳の王朝とされましたが、「漢=火徳」は、五行相生説によって定義付けられたものです。

  • 「相剋説に基づく五徳終始説」/土⇒木⇒金⇒火⇒水⇒土…
  • 「相生説に基づく五徳終始説」/土⇒金⇒水⇒木⇒火⇒土…

漢代の「相生説」に基づく歴史的な議論(=正閏論=)においては、秦は短命だったので無視され、周=木徳とし、漢=火徳とする、と決められたそうです。しかし実際は、帝王一人に一つの徳を割り当てたり、何代か飛ばして相生に基づく徳を割り当てたりする場合もあり、易姓革命を合理化するための理屈として使われた節があります。

いずれにせよこうした歴史議論の中で、神話の帝王であった五帝を、神々としてではなく、実際の歴史上の古代の帝王と考えるようになったのは明らかであります。陰陽五行説を通じて、神話・歴史・科学における神秘思想的合体が行なわれたと言えます(…資料を読んで、こういう結論に至りました。正しいかどうかは、ちょっと自信無いですが…^^;)。

三皇(※唐代に確定):
【包犠】=伏羲、天皇とも言い、庖犠とも書く。八卦や文字をつくり、結婚の制を定め、その身体は人頭蛇身であった。
【女媧】=地皇とも言う。女の神で、傾いた天地を元に戻し、笙や簧(コウ)という管楽器をつくり、その身体は人頭蛇身であった。
【神農】=人皇とも言う。農と医を始め、五弦の瑟(シツ)(=琴)をつくり、商業を始め、八卦をもととして易をつくり、その身体は牛頭人身であった。そして毎日百草を食(な)め、七十の毒に当り茶を食(な)めてその毒を消したという(西安の西北の地が神農の生地とされていて、この地方は晋や周の発生地でもある)。
五行から発生した五帝:
秦の時代・・・太皥(タイコウ)、炎帝、黄帝、小皥(ショウコウ)、顓頊(センギョク)
漢の時代・・・黄帝、顓頊(センギョク)、帝嚳(テイコク)、帝堯、帝舜(※名称・順序が変化)

これらを一口に三皇五帝と言い、黄老思想・神仙信仰の対象となりました。

豆知識・・・東西南北を守る四神について
〝中国古代の『堯書』に「堯をついだ舜が天下を治めるにあたり、悪神を四方に放つ」とある。悪神は内では邪悪の神であるが、敵に対しては之に祟るので、四境の守護神となった。その神の名は「渾敦(コントン)」「窮竒(キュウキ)」「檮杌(トウゴツ)」「饕餮(トウテツ)」である。このうち「饕餮(トウテツ)」は、殷周の銅器の主としての文様になり、これを「饕餮文」と読んでいる。以上の四方の守護神が、後に麟、鳳、亀、龍と変化した〟・・・出典:『茶の湯と陰陽五行』淡交社1998

※武帝時代に董仲舒が活躍した事が知られています(=董仲舒は、オカルトな讖緯モデルを考案した人でもあるらしいです。このあたりはうろ覚えなので、資料を確認中です…^^;=追記=董仲舒は、讖緯思想の基盤となる、天人相関説・災異説の権威でした…^^;)

武帝の頃に、儒教と結びついた陰陽五行説が中華概念の荘厳化に利用されるようになり、現代に繋がる中華帝国スタイルや『史記』などの歴史記述スタイル、華夷秩序などのパターンが立ち上がってきたと考えられます。武帝の匈奴政策はあまりに有名ですが、彼を動かした要素の中には、当時ますますカルト化を強めていた中華思想も存在していたのではないかと思います。

これらの神秘思想が最も発達したのは王莽の「新」帝国の時代であり、その後の東アジアの歴史哲学に、大きな影響を残しました(王莽自身は、「新」=「土徳」と考えていたそうです)。「新」の失政に対して「赤眉の乱(後18年)」という反乱が起きた事が知られていますが、これは「赤=火徳の復活=漢王朝の復興」という五行の理論が根底にあったと言われています。