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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

異世界ファンタジー試作31

異世界ファンタジー9-1予兆:仄かに明るい昼下がり

荘園邸宅の執事は、いつものように邸宅の業務をこなし、合間に表に出て来て、「今日は、すこぶる明るい天気ですねえ」と言いながら空を仰いだ。昨日は再び強烈な寒気が襲って雪が積もったが、季節は着実に春へと移ろっている。

表の庭園の緑地部分には、舗道部分を雪かきした時の雪が重ねられている。そこの一角では、目下、侯爵邸に滞在中のロージーが、荘園邸宅の幼い甥と姪の雪遊びの相手を務めていた。竜体に変化してなお小柄なロージーは、幼い甥と姪にとっては恰好の遊び相手だったようで、子供たちはロージーを独占している間はご満悦だったのであった。

――そこへ、王宮に詰めているはずの御者が、珍しく騎馬姿で駆け込んできた(御者は平民クラスなので、竜体で飛ぶよりも騎馬での移動の方が早いのだ)。高速移動中に突き刺さる寒気を防ぐために大きなマスクをしているから、ちょっとした不審人物というか、山賊風だ。

「どうしました、御者どの」
「ジル〔仮名〕様からの速達です」
「おお、やっと文書の山の中から、私のメモを見つけてくださったんですな」

執事はいそいそとメモを開いた。そして、目が点になった。盛んに首を傾げている。

流石に異例中の異例と言って良い行動パターンなので、御者も実のところ、今回のメモの内容に大いに関心を抱いていた。

「何と書いてあるんですか、執事さま?」
「――クリストフェルが誤解した可能性が高い。彼が来た場合は即刻、追い返せ――」
「近衛兵のトップスターの貴公子が、何を誤解したんですかね?――因縁の決闘よりも、深刻な事態?」
「王宮を行き来していない私に、聞かないでくださいよ」

御者は盛んに首を傾げながら、しかし、王宮に戻って行った。有能極まりない執事は御者を見送り、改めて、要点説明のみに留まる不可思議な文面が、暗に言わんとしているところを推理した。

「本邸の正門を守る門番だけでは無く、敷地を守る四方の門番の方にも連絡して、エヴァライン公のご令息クリストフェル卿がいらした場合は、何があろうと、その場で丁重にお返しする――と言う風に指示しておきましょうかね」

*****

幼い甥と姪は流石に遊び疲れたようだ。子供部屋に戻ってメイドたちに囲まれて、キャアキャア騒ぎながら浴室で汗を流し、それぞれゆったりとした室内着を着せられた後、昼寝用のベッドに潜り込むと、すぐにぐっすりと寝入ってしまった。

ロージーは子供たちの毛布を丁寧に掛け直すと、子供部屋に置いてあったソファに、グッタリと座り込んだ。

「流石に、私も疲れたわ…」

子供たちのエネルギーは無尽蔵なんじゃないか?と思ってしまうひと時であった。

「あらあら…ホントにお疲れさま、ローズマリー。いつも子供たちの相手をしてくれて助かるわ」
「あ、令夫人。お見苦しいところをお見せしまして」

令夫人が子供部屋の扉から、クスクス笑いながら顔をのぞかせていたのである。いつから居たのだろうか。ロージーは頬を染めながらも、居住まいを正した。

「いいのよ、我が家と思って楽にして、ローズマリー。あなたも浴室で汗を流したらサッパリするわよ、メイドに言っておくから。そしたら、お茶しませんこと?昼寝の方が良いなら、私は構わないわ」
「それでは、前半分の時間をお昼寝に充てたいと思います。残りの半分の時間を、お茶という事で」
「オッケーよ。楽しみにしてるわ」

ロージーは自室に戻り、汗を流して着替えた後、毛布の下でウトウトし始めた。この自室はロージーが成人を迎えた際、令夫人が長期滞在を念頭に置いて割り当ててくれた物である。しかし、ロージーが成人した頃、祖母が体調を崩して養老アパートに移ったこともあって、今まで遂に本格的に使わせて頂く機会が無かった。

浴室や寝室に加え、書斎などとして使われることを想定した続き部屋もある。そこには既にタイプライターが運び込まれ、空いている床や収納棚には、在宅公務の内容が詰め込まれた箱が並べられていた。養老アパートの一室よりもずっと広い部屋だったが、若い女性向けの淡い内装が、その落ち着かなさを和らげていた。

ロージーは、此処に滞在させて頂くのはジル〔仮名〕様とキッチリ話し合いが済んだ時まで、と決めていた。その後は、警備条件の良い適当な宿場に移動して、公務の残りを片付ける予定である。長期滞在の予定は無かったので、クローゼットには必要最小限の実用的な衣服しかない。滞在中に、隣近所の貴族を招いて私的な交流パーティーなどがあるかも知れないが、そんな時は、申し訳ないが遠慮させて頂こうと、ウトウトしながらもロージーは思案するのであった。

*****

ロージーが昼寝から覚めると、遅い昼下がりとなっていた。春に向かって徐々に日が延びて来たので、灰色の雲が少し薄まった事もあって、外は仄かに明るい。久しぶりに、夕焼け色が見れるかも知れない。ロージーは微笑んだ。

日替わりで着ていた衣服のレパートリーは、既に尽きていた。ジル〔仮名〕様は忙しすぎるわね、と苦笑するしか無い。令夫人によれば、「あのバカ息子、寄宿学校時代がまだ続いているような気がするわ」という事であった。ロージーは少し考え、濃茶色の、これも実用的なワンピースを選んだ。更に思いついて、白いショールを取り出す。

あの監察官が街角で買って来てくれた、スプリング・エフェメラル柄のショールである。

居間を訪れると、既に令夫人がお茶をしていて、メイド数人と共に何かしら打ち合わせをしているところであった。メイドの一人が扉の傍に立っていたロージーに気付き、「ローズマリー様です」と令夫人に告げると、令夫人はパッと顔を輝かせた。「さあ来てちょうだい」とロージーに手招きする。

いつものお茶とは少し違う光景にロージーが不思議そうにしていると、令夫人が早速、説明を始めた。

「実はね、ちょっと前、令嬢サフィニアと令嬢アゼリア〔仮名〕からお手紙が来たのよ。王宮の女官長を通じてローズマリーが此処に滞在している事を知ったみたいで、そのうち、ご家族ともども、お茶訪問してよろしいですか、って」

ロージーは目を見開いた。令夫人の「彼女たちと親しいの?」という質問を受け、コクンとうなづく。

「王宮の最近の公務で、チームを組ませて頂いたご令嬢たちです。大変お世話になりまして」
「まあ何て素敵なご縁なの!令嬢サフィニアは、息子の友達のガイ〔仮名〕卿という方の婚約者なのよ。時々、息子がこっちに居る時に、ガイ〔仮名〕卿と遊びに来ていたお嬢さんだから、私も良く知ってるのよ」

ロージーは戸惑った笑みを浮かべた。貴族の人脈は、思いがけないところで繋がっているわ…と感心する他ない。

「まさかの時のために、茶会ドレスを用意していて良かったわ!ローズマリー、今からちょっと着替えてみてちょうだい!」

令夫人がウキウキとした様子で、思いがけない事を喋り出したものだから、ロージーはギョッとした。あれよあれよと言う間に、万事心得ているメイドたちがちょっとした仕切りを作り、既にドレスが掛かっているらしいトルソーと思しき、覆い布が掛かっている物体を運び込む。

洗濯に出されていたドレスやワンピースで既に採寸を取っていたとの事で、その手際の良さには唖然とさせられたのであった。

令夫人は、新作のドレスをまとい白緑色の髪を下ろしたロージーを、会心の笑みで眺めた。

「まあ、私の見立てに狂いは無かったわね。せっかくだから、今から練習を兼ねて、靴も換えなさい」

メイドたちも口々に賞賛を述べ、「それでは尋常にお茶をどうぞ」という事で、令夫人とロージーを残して、速やかに居間を退出して行った。濃茶色の地味なワンピースは既にメイドたちの手によって持ち去られてしまった。自室のクローゼットに収まるに違いない。一方、スプリング・エフェメラル柄の白いショールは華やかな柄という事もあり、「このドレスと合わせても違和感が無いわ」という事で手元に残された。

ロージーが着替えさせられた茶会ドレスは、上部がオフホワイトで、下方に向かって徐々に色が濃くなるように紫色のグラデーションがついていた。昼会用ドレスなので、胸元が大きく開くタイプの夜会用ドレス(ロージーは着用した事は無い)に比べると、遥かにシンプルで慎ましいデザインとなっている。

北部辺境のような田舎では、年に一度二度しかないような祭礼に着用する、晴れ着と言って良いレベルだ。

「済みません、落ち着きません」
「フフフ、制服と思えば良いわよ、ローズマリー。季節折々の茶会では普通だし、普段着だって、このくらいだから」

令夫人は、顔を赤らめて困惑の表情を浮かべるロージーを、明らかに楽しんでいた。

知識やマナー訓練という形としては、心得ている。だが、実際に自分で体験するとなると、また別だ。実際、王宮でも、令嬢サフィニアと令嬢アゼリア〔仮名〕は、このようなレベルの服を王宮内の普段着にしている。ロージーは、このような華やかなドレスで中庭を闊歩していたユーフィリネ大公女の事を思い出した。そして、ユーフィリネ大公女と連れ立っていた、あの人の姿も。

令夫人が、突然何かを思い出したように、目をパチパチさせた。

「そう言えば、ローズマリー。ちょっと思い出したことがあるの」
「何でしょう?」
「実はね、あなたが北部辺境に出発した後のことよ。数日後に、ジル〔仮名〕が珍しく帰宅したから――とは言え、腹立たしい事に、宰相から夜間当直という名前の謎の仕事を請け負っていたから、夕食を済ませたらすぐに王宮にとんぼ返り、なんて状況だったんだけど――ローズマリーのお父上の納骨があるんだから、婚約者として、ちょっとくらい立ち会ってやりなさいと説教してやったのよ」
「納骨」
「ええ、バカ息子も流石に反省したようで、すぐに飛んで行ったわ。でも、やっぱり、すれ違ってしまったのね」

令夫人はシンミリとした顔をして、お茶を飲み干した。その横顔を、薄暮の光が照らしている。

(――あの頃、ジル〔仮名〕様が共同墓地の近くにいらしてたの?)

ロージーがその事について考え始めていると、執事が居間に入って来た。いつもながら無駄のないスムーズな動きで、令夫人とロージーの前に素早くやって来たものだから、ロージーは、いつものようにポカンとした。

執事はロージーを見て、「よくお似合いで、お嬢さま」とソツの無い賛辞を述べた後、にこやかな顔で爆弾発言を投下した。

「侯爵夫人、ジル〔仮名〕様が馬車にて、ご帰宅になられました。もうじき玄関に到着する頃合いかと」

令夫人は、「まッ、あなたの速達が今頃、目に入ったのね」などと逆に呆れている。

――遂に、ジル〔仮名〕が来たのだ。

頭をガンと殴られたような気がする。気の遠くなるようなショックを感じて、ロージーは絶句した。

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異世界ファンタジー試作30

異世界ファンタジー8-3浮遊:速達と冬薔薇の花束

その日は、上空で南風が比較的に吹いたようで、灰色の分厚い雲が少し薄くなり、仄明るい昼間となっていた。

王宮内にあるジル〔仮名〕の執務室に、一通の速達が届いていた。荘園邸宅が抱える、有能極まりない執事からである。速達であるとはいえ、かなりの日数の間、大量の緊急文書の間に挟まったまま、存在を忘れられていたというのが実情であるが。

――士爵グーリアスの娘ローズマリー嬢より、婚約破棄の申し出あり。彼女は侯爵邸に滞在中、ただちに帰宅し、会見を――

(どういう事だ)

ジル〔仮名〕は、一瞬、目の前が暗くなるような思いを味わった。

ちょうどその時、ジル〔仮名〕の友人でもあるガイ〔仮名〕占術師が、楽しい植物園通いの帰りらしく冬薔薇の花束を抱えて、ジル〔仮名〕の執務室にノックなしで入って来た。ガイ〔仮名〕占術師はジル〔仮名〕の様子に気付いた瞬間、サッと眉根を寄せ、仕切り庭の側の窓から見える別棟や、別棟をつなぐ渡り廊下に視線を走らせた。

しかし、竜人の鋭い視力をもってしても、異変と思しき光景は見当たらなかった。ガイ〔仮名〕占術師は再びジル〔仮名〕を振り返った。

「真っ青な顔してるぞ。クリストフェルにまた言い寄られてたのか、彼女?…っていう訳、ないか」

ジル〔仮名〕は無言で、速達を示した。顔をしかめ、頭を振り振り、艶やかな黒髪に片手を突っ込んでかき回す。いつも冷静沈着なこの男にしては、滅多にない程に珍しい事だったのだが、ジル〔仮名〕は動転の余り、何も言葉が思いつかなかったのである。

「――婚約破棄…?!何で?!良い感じだったんじゃないのか、彼女とは」
「私にも訳が分からない…」

ジル〔仮名〕の滑らかな低い声は、今はかすれていた。絶対零度の気配――不吉な兆候だ。

ガイ〔仮名〕占術師は血の気が引いた顔を強張らせ、恐る恐る同年代の友人に視線だけ寄越して、様子を窺った。ジル〔仮名〕の逆鱗に触れた者の末路を、ガイ〔仮名〕占術師は良く知っていた。嫌な汗が背中を伝う。ロージーこと士爵グーリアスの娘ローズマリーは、ジル〔仮名〕が《宿命の人》と見初めた唯一の存在である。

先日の襲撃事件で、彼女が襲撃者二人の手で亡き者にされかかったという経緯は、ジル〔仮名〕をいたく怒らせた。あの襲撃者二人の正体は、最下級チンピラ・レベルとは言え暗殺者として訓練されていたプロであり、暗殺ヤクザ集団に所属していたのだが、上も下も含めて、徹底的に報復を食らったのだ。問題の暗殺ヤクザ集団がどうなったのかは、此処では伏せておこう。

荘園邸宅の有能極まりない執事は、ジル〔仮名〕の狭量で気難しい本性(流石に今は、表面上は穏やかな性格で隠しおおせている状態だが…)をよく心得ているようで、よくもこれ程、簡にして要を得たメモにまとめた物だと、逆に感心してしまう。

(しかし、あのローズマリー嬢が?)

ガイ〔仮名〕占術師は立場の都合上、最近、ロージーと直接、顔を合わせる機会があった。白緑色の髪とラベンダー色の目をした妖精のような女性――人知を超越した運命は、ジル〔仮名〕に、彼女という《宿命の人》を用意していた。特にここ最近のジル〔ジル〕の変化は、劇的だった。ガイ〔仮名〕占術師は口をあんぐりさせながらも思ったものだ――こいつにも人の心があったのか、と。

彼女からの婚約破棄の申し出。その理由をあれこれと想像するにつれ、ガイ〔仮名〕占術師の脳裏には、不吉な未来が湧きあがる。

ロージーは元々、平民としての自活能力はあるのだ。ユーフィリネ大公女のように、いきなりド田舎に放り出される運命になったとしても、貴族社会への適応よりは、苦労はしないはずだ。彼女は何処へ行っても、命の危険が無い限りは上手くやるだろう――彼女がジル〔仮名〕の手を取るのが、彼女にとっても周囲にとっても、最も幸せな選択だと思うが。

(唯一考えられるのは、"男"なんだよな。それも、恋人に相当する男――)

彼女に接触して来た男は、まず襲撃者二人だが彼らはむしろ恐怖の対象だ、それは流石に無いだろう。ファレル副神祇官はその気になって見れば好青年だが、ライアナ神祇官の弟子と言う形で女性の管理下にあるので、性別はれっきとした男性とは言え「その筋の行為は皆無」という点で、信用してよい。そもそも恋愛感情が見受けられない。

(まさかの穴馬、近衛兵クリストフェルか?いつだったか、積極的に言い寄っていて――)

ガイ〔仮名〕占術師はジル〔仮名〕が同じ結論に至りそうなのを直感し、「落ち着けよ」の意味を込めて鋭いジャブを放った。

パシッと音がする。意外に重い衝撃を与える物だったのだが、ジル〔仮名〕は平然とした様子で、軽く片手を上げて防衛していた。

「ローズマリー嬢は今、『ジル〔仮名〕殿の実家』に、滞在してるんだぞ。とりあえず会ってみろ。話はそれからだ」

ガイ〔仮名〕占術師は、"彼女は荘園邸宅に居る"という点を強調した。ジル〔仮名〕の表情はさして変わらなかったが(元々表情が分かりにくいのだ)、先ほどまでの絶対零度の気配が薄らいだ――どうやら、気を取り直したらしい。

ガイ〔仮名〕占術師は、腕に抱えていた冬薔薇の花束を見て、閃いた。

「これ、サフィがローズマリー嬢にお裾分けしたいと言って植物園で選んでいた花だよ。婚約者たるジル〔仮名〕殿の手から、どうぞ、ってさ。ローズマリー嬢はサフィと気が合う人なんだから、押しポイントの似た者同士、間違いなく花の方を喜ぶ性質だろう」

ガイ〔仮名〕占術師の言うサフィとは、令嬢サフィニアの事である。ジル〔仮名〕は困惑した様子で花束を見つめた。

その、人間らしい反応。ガイ〔仮名〕占術師は興が乗り、ジル〔仮名〕の前に優雅にひざまづいて花束を差し出した。

「どうぞ、愛する人よ!」

その瞬間、扉が勢いよく開いた。近衛兵を務める金髪碧眼の貴公子クリストフェルと、その連れの、同じく近衛兵を務める貴公子が、そこに居た。彼らは、目を点にして固まった。

――結論から言おう。それは、大いなる誤解が成立した瞬間だったのである。

開かれた扉を挟んで、異様に『意味深な』沈黙が落ちた。

クリストフェルのあごが落ちた。その連れは手に持っていた書類を落とした――書類が廊下の上に散らばった。

一方、ひざまづいていたガイ〔仮名〕占術師は無意識のうちに冬薔薇の花束を手放しており、立ち尽くしていたジル〔仮名〕は、やはり、無意識のうちに貴族らしい優雅な仕草で、冬薔薇の花束を受け取っていたのである。

この場に居合わせた四人の男は、暫くの間ピクリとも身動きしないまま、互いの目を見合わせていた。

*****

沈黙が破れたのは、ジル〔仮名〕の執務室に更に文書を持ち込んで来た官僚が、「どうしたんです?」と声を掛けたからだった。

クリストフェルは勝利の表情を浮かべ、「そうか、そういうシュミだったのか…」と呟いた。連れは喉の機能を停止していた。

ガイ〔仮名〕占術師は両手を上げてバッと立ち上がり、ジル〔仮名〕は冬薔薇の花束をサッと背後に隠した。

そして、クリストフェルとそのギクシャクとなった連れは、散らばった文書をそのままに、足早に去って行った。キョトンとした官僚が、その文書を合わせて拾い上げ、「何があったんですか?」と、ジル〔仮名〕とガイ〔仮名〕占術師に質問を振った。

ガイ〔仮名〕占術師は頭を抱えて天を仰いだ。

「――絶対に誤解したぞ、あのクリストフェル…!」
「急いで誓約書を書く羽目になりそうだな」

ジル〔仮名〕の目が座った。ジル〔仮名〕は新しく入って来た官僚を振り返り、持ち込まれた文書の量を見ると、更に眼差しを険しくした。

「私の二人の補佐官を呼べ。それから緊急で、馬車回しの方に控えている御者も」
「御意」

官僚は手慣れた様子で文書を所定の場所に納めると、すぐに執務室を飛び出した。

*****

ジル〔仮名〕の部下である二人の補佐官が執務室に入って来ると、既に執務室の椅子に座していたジル〔仮名〕は、今日の定時から数日ばかり休暇を取るから、その間の私の代理をキッチリ務めるように――と、無慈悲に申し渡した。

「論功行賞で繰り上がって来た人材を抜擢しても良い頃合いだ。ただし、無能な働き者は即クビだからな」

実のところ、ジル〔仮名〕がこなしていた仕事量は、複数の高位官僚がこなす仕事量に太刀打ちできるレベルである。そもそも、父親に当たるギルフィル卿が宰相補佐を務めており、その右腕をも兼務しているからだ。二人の補佐官は青くなって手足を振り回し、大困惑のペアダンスを踊ったが、いつの間にか既に割り振られた膨大な仕事スケジュール表を前に、撃沈した。

二人の補佐官の机に大量の文書が移動している間に、困惑顔をした御者が、ジル〔仮名〕の執務室を訪れた。

「火急の件だとか」
「執事に緊急で。早馬を使え」

ジル〔仮名〕は机上の大量の文書をさばきつつ、空いた手でメモを御者に手渡した。ずっと前に――何日も前に――速達として届けられていた執事のメモに、要件を裏書きして元の封筒に戻しただけの簡単な物である。

御者は「御意」と短く一礼し、ジル〔仮名〕の執務室を飛び出した。

異世界ファンタジー試作29

異世界ファンタジー8-2遅い夕食:婚約破棄の申し出

雪のちらつく夕方の頃に近づいた。

王宮から貸し出された荷馬車で、鍵付き台車に載せた大量の箱を運び、養老アパートに一旦、保管する。その日のうちにロージーは、邸宅から派遣された荷馬車に、身辺整理の際にまとめたトランクや小包を詰め込んで行った。

荷馬車スタッフと共に、表通りの停車場と養老アパートの一室との間を何度も往復し、「もう忘れ物は無いようだ」と確認をし合う。荷馬車スタッフたちは流石に、王宮からやって来た鍵付き台車の存在を、「何が入ってるんだい?」と面白がっていた。全ての引っ越し作業を終えたロージーは、養老アパートの管理人に引き払いの最後の挨拶をした後、荷馬車に乗り組んで一路、荘園の邸宅へと向かった。

本格的に降り始めた雪は、次第にみぞれになって行った。流石に冬のピークを越え、春が次第に近づいて来ているらしい。

「こいつぁ降りますぜ、お嬢。全くひでぇ天気の日に引っ越しする羽目になったもんですな」
「私の運の悪さに付き合わせてしまったみたいですね。ホント済みません」
「天気はコントロールできませんぜ、しゃあ無いですわ。わッしら特別手当が出ますわな、お嬢は気にせんでくらせぃ」

地方訛り丸出しである。ロージーは微笑ましく思い、そっと微笑んだ。自分も上京したばかりの頃は、北部辺境の地方訛り丸出しだったはずだ。先方の邸宅に派遣されてきていたマナーの先生が、時々変な顔をしていた事を思い出す。

無意識のうちにロージーは指輪をくるくる回そうとして、その後、「バカな事をしている」と気づき、苦笑を漏らした。美しいラベンダー色の手袋をはめた手を、膝の上でそっと組み合わせる。罪悪感を包み込むように――

やがて荷馬車は、みぞれの降りしきる宵闇の中、車灯をつけて、邸宅の門を通った。唖然とするほど広い庭園を辿る舗道をビシャビシャ、カタカタ、と揺られた後、正面扉の馬車回しに停車する。先ほどから執事と召使数人が扉の前でスタンバイしており、ロージーは荷馬車から降りると、丁重な送迎にお礼を述べた。

玄関ホールに荷物を運び込んでいると、美しい令夫人が輝くような笑みを浮かべながら、ホールの階段を降りて来た。「いらっしゃい、ローズマリー!」と言いながらハグして来る。

「何だかこの間から、ずいぶん痩せてしまったのでは無いかしら、ローズマリー?今日はまだ夕食を取っていないのでは無くて?甥と姪はもう夕食を済ませて眠ってしまったし、王宮で何やかやあって弟夫婦も出張っているものだから、ローズマリーだけになってしまって、済まないのだけど」

――いえ、こちらこそ、これから大変ショッキングな申し出をする事になるのに、済みません。

微妙な話題を振ろうとする時に、親戚の方がいらっしゃらないのは好都合。そうひとりごちながら、ロージーは邸内に割り当てられた自室で夕食向けの衣装を整えると、荘園邸宅の豪華な食堂に向かった。

*****

豪華な食堂の中ではあるが、少し遅い時間の夕食と言うだけあって、静かだった。煌々と明るいランプの群れに照らされた高い窓の外には、しきりにみぞれが降っている。

既に夕食を済ませていた令夫人は、お茶を飲みつつ、ロージーの夕食に同席してくれた。暫くは、ロージーの亡き父や祖母についての説明が続いた。次いで、最近の時事の話題に移った。

「ローズマリー、王宮で物騒な襲撃事件が発生したという噂を聞いたのだけど、ローズマリーは何とも無かったの?あなたが王宮で新しい公務を割り当てられたという知らせは来ていたけど、あなた、北部辺境から戻って以来こちらに来てなかったでしょう、近況が分からなくて、ヤキモチしていたのよ」

――これは、女官長が念を押していた部分だ。ロージーは困惑しつつ、微妙な笑みを浮かべるしかなかった。

「噂は色々入って来ていましたが、私が本当に耳にしたのは、近所の食料市場に買い物に行った時なんです。何か、捕り物劇があったみたいですね。大貴族を盟主とする一派閥が半分ほど総崩れになって、大政変に発展しそうだとか――」
「そう、そうなのよ!夫がその件にタッチしていてね。今すごく忙しいのは、そのせいなの。噂を聞いてみると時期がものすごく近いし、何か理由があってトップシークレット扱いになっているのね」

(私ったら知らないうちに、とんでもない事件の一端に巻き込まれていたのね)

熟練の給仕がやって来て、スムーズにメニューを進めて行く。ロージーはデザートの果物に取り掛かった。夕食が終わり、一区切りついたところで、令夫人が微笑みながら言葉を続けた。

「ところでローズマリー、ジル〔仮名〕と何か、サシで話し合いたいそうね。珍しくあなたの方から言ってくるなんて珍しいわと思ったけど、そうね、やっぱり顔を合わせなくちゃ、話にならないわよね。もう王宮に使者を入れてるから、そのうちジル〔仮名〕の方から都合を合わせてくれると思うわ」

ロージーは力を込めてうなづき、顔を引き締めた。「令夫人、実はその件についてですが――」

*****

結論から言えば、やはり大騒ぎになった。

――このたび、私ローズマリーは、ジル〔仮名〕卿との仮婚約を破棄したいと思っております。

令夫人は、一瞬どういう言葉を聞いたのか理解できないと言う風に、口に笑みを浮かべた形のまま、固まったのである。侯爵夫人が「そうなの…」と、気が抜けたようにカップを皿の上に優雅に置いたものだから、意外にスムーズに意思が伝わったらしいと、ロージーは首を傾げながらも、ホッとしたのだが。

食堂テーブルの脇に控えていた熟練の給仕が、ガシャンとトレイを落とした。絶対にしないはずの粗相だった。

そして、令夫人の目が、ゆっくりと点になった。優雅な驚き方だ…とロージーが感心したのは、さておき。

「え、えっと、私の耳がおかしくなったのかしら。ローズマリー、…もう一度、言ってくれる?」
「ジル〔仮名〕卿との仮婚約を破棄――」
「やめてぇぇぇー!」

令夫人は両手を両頬に当て、身も世もないという風に号泣し始めたのであった。

給仕は落下したトレイを拾おうとして、そのまま硬直した。何事があったのかと、執事が食堂に駆け込んできた。しかし、彼らにしてもマニュアルに無い光景を目撃して、次の行動をどうしようかと考える余り、パニックになってしまったようだっだ。

ロージーは戸惑いながらも席を立ち、令夫人の傍にひざまづいた。

「済みません、落ち着いてくださいませ。侯爵夫人」
「こ…これが落ち着いていられるのかしら!ローズマリーお願い、息子を見捨てないで!」

それは逆なのでは?と、ロージーは訝った。令夫人は滂沱たる涙を流しながら、ロージーの手を握り締めた。

「あ、あ、あのバカ息子が悪いのよ、ホントに!あ、あなたが、余りにも小さいから、お、大人になるまで待つなんてカッコ付けちゃって、それで、それで、こんなに長い間放っておいちゃうんだから、ホントに」
「いえ、それは違うんですわ、侯爵夫人。ジル〔k名〕様は、私には勿体ないお方だと思います」
「じ、じゃあ、何故?ローズマリー?」

ロージーは令夫人の状態を見ながら、ポツポツと説明を始めた。

――縁が無い私が、いつまでも婚約者気取りでジル〔仮名〕様を束縛し続けているのは、申し訳ない事だと思うのです。私は何処にでも居る普通の平民に過ぎませんが、ジル〔仮名〕様は竜王国の将来を背負って立つ高位貴族の一人です。現に、竜王国の重鎮たるギルフィル卿の優秀な右腕だという評判を、良く耳にしております――

ロージーは令夫人を落ち着かせることに集中していて気が付かなかったのだが、食堂テーブルの端では、執事が目を潤ませ、深々と一礼していたのであった。

「それに、もう一つ――私が悪いのですが、のっぴきならぬ理由が出来まして…」
「のっぴきならぬ理由?」
「この冬、いえ、秋にさかのぼるのですが、私は《運命の人》を見出してしまったのです。今この瞬間にも、私はジル〔仮名〕様を裏切っております…ですから、責任を取らせてください」

緊張のあまり、ロージーの最後の言葉は、ささやき声にしかならなかった。令夫人は、再び滂沱たる涙を流した。


8-2@時積む日々

ジル〔仮名〕の帰宅を待ちつつ、タイプライターで貴族名簿を作成し続ける、静かな日々が続いた。昼下がりになると、邸宅当主ギルフィル卿の親戚である幼い甥と姪――ギルフィル弟夫婦の子供たちに昼寝前の絵本を読んでやり、寝かし付ける。

滞在初日の夕食の後、令夫人は流石にショックで寝込んでしまった。しかし、ジル〔仮名〕とロージーが初対面の時以来、一度も顔を合わせていないという事実に思い至り、顔を合わせてみれば違ってくるのではないかと言う望みを思いついたようで、次の日の昼からは、いつもの元気を取り戻していた。

ロージーは、自分ではそれ程とは思っていなかったのであるが、存外に豊富な話題を溜め込んでいて、令夫人や非番の時のギルフィル弟夫婦の、良い話し相手となっていた。

特に、冬宮のスプリング・エフェメラル装飾はロージー自身が手掛けた事もあって、隅々まで了解していた。令夫人は社交界の最新流行の話題に、興味深く聞き入った。

「ローズマリーが、そんなに冬宮の室内装飾に詳しいなんてビックリだわ。よっほど、ウサギのように耳を長くしていたのね。この辺でも、冬宮の新しい装飾を手掛けたのはユーフィリネ公爵令嬢だともっぱらの評判なのよ。今度の社交パーティに出席したら、ユーフィリネ大公女に聞いてみようかと思ってたの」

そこへ、ギルフィル弟夫婦がサラッと口を突っ込む。

「ユーフィリネ大公女は、最近は社交界に一切出て来てないから、会うのは難しいですよ。それに此処だけの話ですが、見本市でオイタをしたという噂がありまして。あの老ヴィクトール大公の孫娘どのだけに、羽目を外していたようです」
「まあ、ユーフィリネ大公女が公費と私費の区別がついていないのは前々からの問題だったから、今更、そんなに驚かされる話題ではないわね。老ヴィクトール大公が、彼女を甘やかすのをもう少し控えれば、それなりに変わると思うんだけど」

ロージーは困ったように微笑む事しかできなかった。いつだったか、番狂わせが発生したために、冬宮の会場設営を担当したのは、かのユーフィリネ大公女だという噂が、荘園のあちこちにも広がっていたのだ。噂の伝搬力の凄まじさに、ロージーは改めて恐れ入ったのであった。