忍者ブログ

制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

異世界ファンタジー試作34

異世界ファンタジー9-4《宿命》の盟約:宿命と運命

ジル〔仮名〕はロージーをじっと見ていた。いつかの――馬車での告白の後に見せた、闇を含んだ眼差しをしている。

高位竜人に感じる本能的な恐怖とはまた別の、良く分からない不安を感じて、ロージーは思わず跳ね起きた。そのまま、サササッとソファの端へと後ずさる――毛布がずり落ちたが、そんな事に構う余裕は無かった。

此処で、どうしてクリストフェルという聞き慣れない名前が出るのかとロージーは訝った。前に聞いた事のある名前のような気もするが――慌てて思い出そうとするが、強張った身体よろしく頭の回転も止まってしまったようである。

「クリストフェルって誰ですか?」

その反応は、ジル〔仮名〕の気を完全に削いだようだった。ジル〔仮名〕は困惑したように眉根を寄せていたが、やがて信じられないといった様子で、頭痛も出て来たのか、上半身を伏せて片手で額を押さえ始めた。ちょっと見には『考える人』のポーズだ。

「まさか本気で覚えていないとは…貴族名簿を収納する書庫の前で、彼と色々話したのでは?」

そこまで説明されて、ロージーは、やっと思い出した。あの金髪碧眼の貴公子ね。っていうか、あれ、見てたの?何処から?

「雪が降る前に荷物を上げ下ろししなきゃいけなかったので、あの時は時間が無くて焦っていて――それで恥ずかしながら不敬罪をやってしまったので、あの失敗を今後の教訓にして、後は忘れようと努力しているんです。彼も気にしないで忘れてくれてると、なお良いんですけど…」
「とことん予想を裏切ってくれますね、ロージー。クリストフェルに好意を向けられて、落ちない令嬢は居ないと思いますが」

ジル〔仮名〕は発作的に笑い出したらしい。こらえてはいるのだろうが、見ると、肩が震えているのであった。

ロージーは、生真面目に眉根を寄せて考え始めた。

「好意ですか。珍獣扱いされてる気分でしたが…」

どう考えても、貴公子の暇つぶしに利用された状況なのだが…

ジル〔仮名〕が毛布を拾い、脇に移すと共に席を変えて、ロージーの隣に座り直す。ジル〔仮名〕はキョトンとしたロージーの手を取ると、最初の、雑木林で出会った時のように、ロージーの手に口づけした。

「――これが、貴族社会の中で、好意を抱いた女性に対する行動です」

その意味するところは――『あなたと縁を深めてみたい』。 その、いわば「横取りしても良いですか」にも近い意思表示を行なうのは、仮婚約中のうち。

そもそも仮婚約は、例えば令嬢アゼリア〔仮名〕とその婚約者のように、淡い好意を抱いた相手同士で結ぶもので、相応の時間を掛けて《宿命》に至る縁を育てる事を前提にしている点で、《宿命の人》が関わる関係とは少し違うのだ。だから、最初の時のジル〔仮名〕の行動も、先日のクリストフェルの行動も、マナーとしては間違っていないのだと言う。

――ロージーは絶句した。

ジル〔仮名〕はロージーの手を取ったまま、離さなかった。

そしてジル〔仮名〕のもう一方の手は、自然にロージーの白緑色の髪に触れ、その流れに沿って移動して行った。その滑らかな感触を楽しむかのように。

「…あの、監察官…じゃなくて…ジル〔仮名〕様?」
「やっと私の名前を呼んでくれましたね。様を付けない方が良いですが」

ジル〔仮名〕は、深い青い目で真っ直ぐにロージーを見据えたまま、ほとんどささやくように言葉を続けた。

「あの夜のことが忘れられません。私を《運命の人》だと、ロージーは言ってくれた。あなたが何処の誰なのか分かった時、何故もっと早くロージーの身元を調べようと思わなかったのかと、後で後悔しました。ロージーが婚約破棄を決めたのは、他ならぬ監察官としての私の身元を知らなかったからだと――私は、まだうぬぼれていても良いですか?ロージーの心は、まだ私の物だと」

*****

――捕り物劇が続き、裁判が始まって、ジル〔仮名〕は以前よりもっと忙殺されるようになってしまったが、その時間が少し途切れた時、主にウルヴォン神祇官が運営している恋愛相談コーナーに、迷わず足を向けたことがあった。流石に偽名での相談だ。

『《運命の人》というのは、どういう意味が?《宿命の人》とは違うのでしょうか?』

そう問われたウルヴォン神祇官は、目をパチパチさせていた。

『恋愛運が効果的に作用するポイントですね。 本人の素質とポテンシャル開花の状態が決定的に影響するんですが』
『《運命の人》だと告白された場合、どう考えれば良いですか?』

ウルヴォン神祇官のあごが落ちた。間違いなく。不自然なまでに長い呆然の後。

『貴殿が、そのように告白されたんですか?女性の方から?』

ちょっとズルいとは思ったが、無言のまま、否定はしないでおく。ジル〔仮名〕が知りたいのは、その意味だったのだから。ウルヴォン神祇官の説明は、神祇官や占術師にとっては常識なのだろうが、一般人にとっては驚かされる内容だった。

『《宿命の人》はあらかじめ予兆され、相手との組み合わせにおいて特定されるべき固定的な相を持ちますが、《運命の人》は《宿命図》において特定されるべき明確な相を持たず、幅広く、曖昧で不確実です。しかし活性化している間は、ある程度、観測可能な相として現れ、しかも"失恋には新しい恋"という時間性において生成消失する事が知られています』

失恋を前提にした恋愛運なのだと、ウルヴォン神祇官は説明した。ある意味スプリング・エフェメラルのような、期間限定の存在だ。その後、恋心を一生引きずる事もあるし、新しい恋に切り替える事もある。それは本人の素質と、新しく出会う相手次第だ。

そもそも、そういう風に消滅すらしてしまう不安定性をもって揺れ動く中から、敢えて立ち上がり花開く恋なのだ、その自由性は《宿命図》の拘束をすら振り切ってしまう。禁断の恋にも結び付きやすいというのは、ある意味、悲劇でもあるが。

『その自由恋愛とも言うべき性質に注目して、人工的に《宿命の人》を…ゲフンゲフン、いや失礼しました。貴殿に《宿命の人》がまだ見つかっていないのであれば、そして一定以上の好意を感じるならば、彼女の手を取ることをお勧めします。取らなくてもさほど問題は起きないでしょう――理解でき次第、彼女は新しい《運命の人》を探しに行くでしょうから』

――ジル〔仮名〕は、あの馬車内の告白で最後の一線を引いてしまっていた事の意味を、冷やりとするような不安と共に直感した。忙殺されたまま手をこまねいていれば、我が《宿命の人》は失恋したと解釈して、去ってしまいかねない。

そこへ、最後のチャンスとしか思えぬ状況が展開した。たまたまその日は、ロージーの祖母の《霊送り》が済んだ旨の報告書が王宮神祇占術省に届いた日で、【本日の《霊送り》表】なる掲示板に貼り出されていたのだ。

思った通り、荘園邸宅からロージーの元に、連名の挨拶状が出るところ。ジル〔仮名〕は急遽「手袋」を追加した。ロージーの手のサイズは、襲撃事件の際に怪我していた左手を止血した時に、分かっていた。

――贈り物「手袋」は、"まだ私をつかんでいて"という意味だ。ロージーは妙な部分で鈍いから、ピンと来ないだろうが。

*****

ロージーの顔は真っ赤になっていた。感情を見せないよう徹底的に鍛えられたジル〔仮名〕の顔色とは、対照的だ。

令夫人が見立てたのであろう、白と紫のグラデーションを施した昼会用ドレス。ロージーには今のところ思いつかない装いだったに違いない、所作にギクシャクした部分はあったが、あの夜に贈った白いショールが違和感なく馴染んでいた。

実際のところ、階段の中ほどに佇んでいたロージーの姿は、ジル〔仮名〕の目を惹きつけて離さなかったのである。スプリング・エフェメラルの白い花を象徴する妖精のように見えた。

(スプリング・エフェメラルが終わる前に、間に合ったのかも知れない――)

ジル〔仮名〕はロージーから目をそらさず、徐々に手を繋ぎ変えた。お互いの指を絡ませ合う繋ぎ方――手のひらに刻まれている、お互いの《宿命図》を交差させるやり方だ。お互いの生命エネルギーとも言うべき不思議な熱のような物が、次第に感覚に上って来る。ロージーは、その繋ぎ方の意味がだんだん分かって来ると、恥ずかしそうにラベンダー色の目を伏せて、うつむいた。

――やがて、あの日の夜の馬車内の出来事の続きのように、二人の唇がゆっくりと交差した。それは《宿命》の盟約だった。

PR

異世界ファンタジー試作33

異世界ファンタジー9-3告白:ボーイ・ミーツ・ガールの真相

――結局ロージーが気付いたのは、居間とつながる続き部屋の、壁の隅に沿って設置されたコーナーソファの上だった。体が冷えないように、厚手の毛布を掛けられている。厚い生地のカーテンの隙間から見える窓の外は真っ暗で、ソファ近くの低いテーブルの上にはランプが煌々ときらめいていた。夕食の時間は、とっくの昔に過ぎ去っていた。

ロージーは目を覚ました後、暫くの間ボンヤリと瞬きしていた。やがて思考がクリアになる。

ランプの光の向こうに人の気配があり、ロージーはギョッとして身じろぎした。毛布の中でバタバタするが、手に力が入らない。

「無理して起き上がらなくても構いません――気分は如何ですか、ロージー」
「監察官…」

まさしく記憶にある――そのままの、朗々とした低い声だった。男は向かい側の椅子から立ち上がると、優雅ながら自然な動作で、ロージーの頭の側で角度を持って連結されている部分の座席に、そっと腰を下ろした。

「私がジル〔仮名〕です。今まで名乗っていなかったですね、驚かせてしまって申し訳ありません」

切れ長の深い青い目が、窺うようにロージーを見ていた。ロージーは無言のまま、ジル〔仮名〕と名乗る、あの監察官を見つめていた。笑うべきか泣くべきか、それとも他の――例えば怒るべきか、改めて驚くべきか――とにかく、余りにも色々な、いわくいいがたい思いで一杯になっていて、何も言えなかったのだ。

カッチリとした宮仕えの衣服では無く、ラフな私服をまとった監察官――ジル〔仮名〕の姿を見るのは、初めてだった。男の顔には笑みは無かったが、わずかに身を乗り出してロージーに注目しているその様には、確かな気遣いが感じられた。

ロージーの思考は急に回転し、直前の記憶を振り出した。

あの時、玄関ホールからロージーを見上げて来た、その綺麗な面差しには、驚愕の表情は感じられなかったのだ。さすがに少しは、驚愕はしてはいたかも知れないが、それは枝葉末節であり、もっと別の――疑念や疑惑のような――例えば何かを確認しているかのような表情だったのだ。

ロージーは男から視線を外し、微妙に眉根を寄せた。

――最初、共同墓地で出会った時は、この男、私が「ロージー」という名前である他は、何処のどういう者なのか知らなかった――というのは、確実だ。では、何処で、ジル〔仮名〕は私が、士爵グーリアスの娘ローズマリーだと分かったのだろう?

ロージーの頭の上で、ジル〔仮名〕の溜息が落ちた。

「――ロージーは本当に、考えている事が顔に出ますね。今、私が何故に驚いていないのか、考えているんでしょう?」

ロージーは思わず、ムッとした。頭の出来が違うからでは無いだろうか。ちょっとだけ、ひがんでしまう。やがてジル〔仮名〕の大きな手が、長い指が、最初はためらうように、ロージーの白緑色の髪を撫で始めた。

「私も最初は、ロージーが誰なのか知りませんでした。私が覚えている『ローズマリー』は、肩の辺りで真っ白な髪を切り揃えていた幼体で…触れると壊れるんじゃないかと思うくらい脆い印象だったですから。私が共同墓地に行った時に探していたのは、白い髪を持っている、それらしい女性でした」

ジル〔仮名〕は言葉を切った。どういう言い方をすれば良いのか考えているらしく、目を伏せて沈黙している。やがて、ジル〔仮名〕は、あの滑らかな低い声で、また語り出した。

「私が昔、ローズマリーに《宿命の人》を感じたのは本当です。あの時は、まだ小さかったから信じる信じないは自由ですが、あの時から私にとって唯一の人でした。理屈ではありません――この辺は竜人の男なら分かりますが、説明しにくいですね」

それはそうなのだろう。身体レベルで次元の異なる対象を理解するのは、難しい。ジル〔仮名〕は『唯一の人』という形で確信したらしいが、当時のロージーが抱いたのは、幼すぎる事もあってか、淡い好意でしか無かった。

ジル〔仮名〕はロージーの白緑色の髪の感触が気に入っているらしく、いつまでも撫で続けていた。

「雑木林で、ロージーを突き飛ばしかけて――咄嗟に捕まえた身体は華奢で、とても軽かった。人体もそうですが、随分、小柄な竜体の持ち主だと思いました。すぐに気配を収めましたよ、怖がるのは目に見えていたから。今だから言えますが、ロージーと目が合った時、『ローズマリー』に感じた時とは比べ物にならない程、直感を――心を揺さぶられました」

ロージーはビックリして、ジル〔仮名〕を見上げた。――そんなに?

ジル〔仮名〕は絶妙な角度で小首をかしげ、なまめかしい流し目をくれた。ロージーは息を呑んで固まった。多忙な毎日の中、鏡の前で練習しているはずは無いし、本人は意識すらしてもいないのだろうが、最初の頃と比べて色気が数倍くらい割り増しされているような気がする。誘惑されているようだ。不意にやられると心臓に悪い。

「ロージーの白緑色の髪に触りたかったですよ、あの頃から。王宮で再会した時、触るチャンスが出来たと思いました。昔のロージーが虚弱体質だったろうという事は一目で分かったので、大人になった『ローズマリー』に触れる練習になるという心積もりもありました」

雑木林での事は奇妙に隅々まで覚えている。確かに彼は、不自然なほどにロージーの白緑色の髪をジロジロと眺め――いや、穴が開くほど見つめ、注目していた。ロージーは赤面して目をギュッと閉じ、頭を引っ込めた。一瞬、男の手から髪が離れた。

「私が、ロージーが何処の誰なのか分かったのは――あの襲撃事件からずっと後になってからの事でした」

意識を回復させた襲撃者二人の白状した内容は、ジル〔仮名〕その他の官僚を驚かせる物だった。冬宮装飾に関して、会場設営担当の令嬢を2,3人ばかり、公費流用や横流しの罪をかぶせておいて、死体にして転がすつもりだったと言う。

冬宮装飾に関する汚職の疑いが持ち上がり、監察機関は冬宮装飾の取引に関する資料を集め始めた。提出されていた正規計画書に沿った契約先のサイン証明付きの領収書に混ざって、公費流用や横流しに相当する領収書が大量に見つかったと言う。

そこで、冬宮設営に関わった令嬢サフィニアと令嬢アゼリア〔仮名〕、そしてユーフィリネ大公女やその取り巻きの元へ、「必要とあらば証人喚問せよ」という指示を与えられた監察官スタッフと衛兵が、事情聞き取りに向かった。

勿論、令嬢サフィニアと令嬢アゼリア〔仮名〕は、ロージーが関わったのは計画書に沿った物だけだと証言した。

「女官長に、冬宮装飾にまつわる取引記録を、非公式のメモを含めて提出するよう要請しました。あの入札なしの業者の領収書に関する但し書きのメモを見つけて――思わず女官長に確認しましたよ、このサインは確かに本人の物と保証できるのかと」

ジル〔仮名〕の声は、ささやきに近いものだったが、ロージーの耳には良く響いた。

(――確かに、あのメモには正式名をサインしたわ。「士爵グーリアスの娘ローズマリー」…)

「筆跡証明が使えたのは幸運でした。ロージーの潔白は証明されています」

ロージーは「そうですか」と応じた後、おや、と言う風に目をパチクリさせた。「――じゃ、誰が汚職していたんですか?その人が、襲撃者だったんですか」

「それは機密ですから今のところは話せません。王宮神祇占術省の老ゴルディス卿からロージーに出ていた《死兆星》に関して補足説明を受けましたが、ロージーの災難は本質的に"とばっちり"で、全て運の悪い偶然が重なったせいだそうです」

ジル〔仮名〕の説明が終わり、ロージーは内容を反芻し始めた。部屋の中は暫くの間、静かだった。

「――婚約破棄をしたいそうですね、ロージー。理由は、クリストフェルですか?」

ロージーの心臓が飛び上がった――そして、ランプに照らされたジル〔仮名〕の顔は、笑っていなかった。

異世界ファンタジー試作32

異世界ファンタジー9-2対面:その人の面差し

ロージーは緊張してしまい、いつもより茶器の片づけに手間取ってしまったが、無事メイドに茶器を引き渡せたのでホッとした。

令夫人は居間の扉の前でロージーを手招きした。ロージーは令夫人の後に従い、居間から玄関ホールに降りる階段に向かった。令夫人はロージーの先に立って階段をどんどん下りながら、「バカ息子にガツンと言ってやるわ」などと、こぶしを振り回して物騒な事を宣言しているのであった。

ロージーの心臓が、早鐘を打ち始めた。階段を下りているのだから、足をシッカリ踏みしめようとするのだが、頭がフワフワしているせいか、身体全体の感覚が頼りない。ショールをしっかり巻いているはずなのに、気が付くと震えていた。

(――ジル〔仮名〕様って、どんな人かしら?)

ロージーは階段の中ほどから、緊張しつつ、玄関ホールの方を眺めた。

先に玄関ホールでスタンバイしていた執事が玄関の扉を開け、「お帰りなさいませ」というような事を言い、一礼する。ジル〔仮名〕と思しき黒髪の若い男が、大股で入って来た。背が高く、宮仕え風のカッチリとした衣服を着ている。すっきりした体格だが、一見しただけで、その衣服の下の身体は良く鍛えられたものである事が分かった。

ロージーの前に居た令夫人が早速、息子を説教し始めた。これが日常らしく、誰も驚いている様子はない。

「まあ、まあ、ジル〔仮名〕!今頃、執事の速達に気付いたんでしょ!気付くのが遅すぎるわよ、このバカ息子!ローズマリーが、いったい何日、お前を待っていたと思ってるの!」

背の高い男がピタリと足を止め、面を上げた。心持ち長めの黒髪が揺れる。何かを言いかけるように口を開き――

令夫人の後に続くロージーと、階段の中ほどを振り仰いだ男の目が、合った。男は綺麗な顔をしていた。

「――ロージー」

低く、滑らかに響く声。余りにも深く記憶に刻まれた、あの声――ロージーは、頭が真っ白になった。

切れ長の深い青い目が、ロージーをじっと見ていた。玄関ホールの中央に立って見上げて来る男は、確かにあの監察官だ。

令夫人は、なおも説教を続けようとしていたが、ジル〔仮名〕の「ロージー」という呼び掛けに気付いて、不意に言葉を呑み込んだ。次いでジル〔仮名〕の視線の先を辿って、自分の後ろに居るロージーを振り返った。ロージーは、真っ白を通り越して蒼白になっていた。再びジル〔仮名〕を見、サッとロージーを見る。令夫人は目を見張ったまま、口をポカンとさせていた。

たっぷり一分は経過しただろうか。

若い二人は、彫刻か何かのように固まってしまったまま、お互いから視線を外そうとしない。令夫人は、キョロキョロしながらも「ね、ねえ」と声を震わせた。

「ロージーって?あなたたち、いつの間に、そんな関係に?」

知ってみれば成る程、「ローズマリー」の愛称は「ロージー」に違いないだろう。しかし、平民社会よりも遥かに様々なルールに縛られている貴族社会――愛称を呼ぶのは、余程、特別な関係で無ければ有り得ない事なのだ。そして平民出身とは言えロージーは、貴族社会に足を踏み入れるに際し、その細々としたルールを了解していたはずなのだ――

白いショールの端を、ブルブル震える手で固く握りしめていたロージーは、遂に糸が切れた操り人形のように、カクンと膝を折った。誰かが息を呑む音がした。ロージーは失神したようだ、身体がゆらりと傾き、頭が身体の傾きに従って沈んだ。ロージーの頭は、階段の手すりにぶつかってゴツンという音を立てた。

ロージーは階段の上にくずおれ、そして半ば仰向けになる形で倒れた。

令夫人が、「イヤァ?!」と叫んだ――

*****

ロージーの意識が遠くなったのは、緊張の余り息を止め、そして呼吸することを忘れていたのが原因であると言っておこう。

監察官――今や、ジル〔仮名〕卿と同一人物である事が分かった訳だが――の、動きは早かった。一段飛ばしで階段を駆け上がるとサッとロージーの身体を抱え上げ、物問いたげに令夫人の方を見やる。

令夫人は、「とりあえず居間のソファに」と指示した。