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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

媽祖の考察:境界都市

【考察】媽祖信仰の広がりは、中世に伸びた航海技術・港湾都市と関係がある?

地上ネットワークとは異なる、海上ネットワークのありようを考えてみます。

地上ネットワークは、大陸の諸都市を結び付けます。各々の都市の神が、各々の都市の中心部(宇宙軸となる場所)に祀られ、征服・被征服活動を通じて、或るものは滅び、或るものは栄え、次第に「首都=皇帝の都」という存在が出てきます。

地上の都市…それは堅牢な城壁に守られた都市であり、防衛にすぐれた城門が、セットで現われるものです。そして強大な都市神(都市文化)であればあるほど、ブルドーザーの如き画一化・膨張性を持っています(大室幹雄・著『劇場都市』で、シナ都市文化の南方への拡大が指摘されている…)。

ついでに言えば、地上ネットワークでは、辺境が、常に戦争の舞台となります。国境は伸び縮みし、進出後退を繰り返す、ダイナミックな「想像上の境界」であり、極めて不安定な「架空の城壁」なのです。この「架空の城壁」を全て突破された後に、「宇宙軸」を持つ首都を取り囲む城壁を舞台にして、最終的な決戦が行なわれるのです…

対して海上ネットワークは、港湾都市を各地に作りながら、諸都市を結びつける航路が拡大交錯していくという過程を辿ります。港湾都市は航路を通じて、ゆるいつながりを持っています(城壁の代わりに発達したのが、おそらく安全な航路の保持に関わる各種の取り決め)。そこでは、諸都市の神々はむしろ、母港とゆるいつながりを保ちつつ、船と一緒に遠くへ運ばれ、各所に移動してゆく…という性格を持っています。

そして航海に際し、ご利益のある神であればあるほど、各所に散らばった神々と習合してゆき、或いは神話で合成され、他の渡来神と区別無く一緒に祀られるという傾向があります(インドネシア、バリ島の習合神話、南シナの媽祖信仰、沖縄神話、日本の神仏習合など)。

海上ネットワークでは、疫病や厄運の漂流・移動が大変な問題であり、そうした神々を悪神・厄病神として恐れました。恐れる代わりに、怨霊神・タタリ神として祭り上げたりする発想もありました。海上ネットワークにおける港湾都市は、果てしない海に面した「境界都市」そのものであり、「中心軸」の発想も無ければ、「国境線・城壁・辺境」という発想もありませんでした。

※以上、これらの説は、神話を適当に比べてみて、その移動ルートや傾向をざっと逆算してまとめただけなので、矛盾や反証はいっぱいあると思います。大体、全般的に見て、上のようなものではないか

…ひとたび海に漕ぎ出せば、身の安全を保障するのは薄っぺらい舟板一枚であります。そして、海上に、それと分かる牛馬の踏み跡などの目印は残らないのであります…海上ネットワークは、むしろ、果ての無い「混沌」が主役といってよい、不安に満ちた世界だったと思われるのです(=その分、目印になった夜空の星や陸の特徴的な地形などが航海の安全を保障したため、神として祭り上げられた)。

港湾都市は、必然として、大陸に築かれた都市とは異なる性質の都市として成長せざるを得なかった。媽祖信仰を船に乗せて持ち出した南シナ人は、立ち寄った都市ごとに媽祖廟を建立していったという事が知られていますが、媽祖はその来歴からして、「習合神」的な位置づけとなったのでは無いでしょうか。

媽祖廟が置かれた港湾都市は、時と場の「境界」そのものであり、「境界」にまつわる祝祭的なイメージを、いっそう膨張させることになったと思われるのであります(=エキゾチック、異国風味の都市=)。

船の中は地上都市の延長であり、海の上に持ち出された地上世界でもありました。

※中世の航海技術の伸びは、良いことばかりをもたらしたわけではありません。海賊が出没し、人身売買ネットワーク・密輸ネットワークもまた発展した時代でありました。地上都市における治安維持の権力が及ばない分、海の上に無法地帯が広がっていたことは確かなのです。船内における船長が絶対君主として振舞うようになったのは、この無法地帯を生き延びるためであったと考えられますし、これもまた、「船内に地上世界がパックされた状態」を維持するのに必要だったものなのだ…と、思われるのであります。

そのいわば「パックされた大陸都市」から解放されて羽を伸ばすのが、立ち寄った先の異国の港湾都市、すなわち「境界都市」なのです。船乗りはそこで、羽目を外し、船の中の労苦を忘れ、祝祭的な気分に浸る…色々、口をはばかる娯楽とか。そうして精気を養った後で、ふたたび船の中の労働に戻るのであります。

これは、農耕よりはるか昔の、原初の社会の間で繰り返された、冬至における死と再生の祝祭と同様のスタイルを持っている…と言えるのではないでしょうか。

ここで注意することは、海上ネットワークと大陸ネットワークとの政治的な差異です。大陸ネットワークでは、領地を城壁で囲い込んだ征服者の権力が、域内のネットワークに一義的に及ぶのに比べ、海上ネットワークでは、むしろ安全な航路の独占が重要な手段であったため、港湾都市は、分散された基地として以上の意味を持つことが出来なかった筈です(一つの都市を首都とする事が出来ず、古代的な意味での帝王を設定することが出来なかった。或いは帝王を出しても、都そのものが移動するケースがあった)。

つまり、大陸的な政治環境の中では古代的な「帝王」が天下統一するような社会構造になるのですが、海洋的な政治環境の中では、各所の複数の「基地領主=港湾管理者=航路守護者」が分散し、相互に主客交換するような社会構造になるのです。それが大陸性祭祀と海洋性祭祀のスタイルにも影響したはずです。

更に、風土や言語に強烈に制約されている人間集団の文化圏が、地政学上の制約や限界を超えて、どこまで広がるのかが問題であります(=たまたま日本列島では、大陸文化と海洋文化がほぼ均等に混ざったため、その歴史的揺らぎの中で、幸運な社会構造を構築できたのではないかと思われます。ただ、見えないところでの犠牲は、大きかったと思います=天変地異など)。

そうした制約を超えて、中世において、海上ネットワークを効率よくつなげたのが、「曖昧な共通点を持ちつつ広がっていた各地の海洋神話」だったのだと考えられるのです。中世の媽祖信仰は、そうした中世の海上ネットワーク形成に関与した、「ごく曖昧な神話複合体=宗教的なもの」だったのだ…と思うのであります。

※さらに幇を作れば、相互扶助が期待できるのです。媽祖信仰のネットワークの広がりは、曖昧ながら、そうした幇の役割を果たしていたと思われます…


☆資料=『劇場都市』大室幹雄・著

・・・・・・第四章・宇宙の鏡・・・(城壁都市を成す心理に注目)

各民族は各々の世界像に照応した都市を建設する。したがって自覚的に論理化された固有の世界像を持たない民族は輪郭のはっきりしない都市、農村との差異の明瞭でない、古代中国の用語でいえば都邑と野または鄙との区分、われわれの用語でいえば文化と自然との区分が自覚されない都市――日本のそれのような――を作るであろう。

人間は世界の中で自分が占める位置を核として世界を構想する。人間が意識として世界に相対立し、それによって世界と人間とを分割し、さらに両者を新たな統合へ導いていくとき、それは自覚的に論理化された世界像となる。こういう世界像を有する民族は都市の形成に当って彼らの都市を厚く高い城壁によって囲繞する。彼らは世界から分離し孤立している自分たちの位置、コスモスから分断された自分たちの意識が保護も隠蔽もなしに自然のうちに遺棄されていることを知っているからである。

唯一至高の神によって創造されたのであれ、いつか知られない原古以来自生的に存在してきたのであれ、人間が神に呪われ見捨てられた、あるいは自然から分断された存在であることを自覚したとき、人間は守護者も隠蔽物もない孤立性を否定し、それから逃れ、それが生命と意識を脅かす危機を回避するために都市を作り出す。積極的にいえば、世界または自然のなかの孤立性に直面させられた人間がその孤立性を起点として彼の独立を成就しようとする意思によって、その結晶として都市は創造される。城壁は都市として形象化されたこの独立への意思のもっとも鋭い象徴である。

心理学的にみればこの意思は父性的なものである。茫漠と境界もない広がりと黄泉の底涯も知れぬ深みとによって人間を抱擁する母なる大地から分断されて、目に見え、明確な区画と限界を持ち、あくまで地上のものとして人間によって作られた場所、包みこむためよりは切断し拒絶し分割するために、人間によって彼のためだけ、あらゆる文化とその意味とを充填して作られた場所、それが都市である。

・・・・・・終章・アルカディア複合とユートウピア複合・・・(境界的・祝祭的な心理に注目)

厳延年伝の臘に顔師古は「建丑の日、臘祭を為し、因りて会飲す、今の蜡節(させつ)のごとし」と、そして武帝紀の臘では「臘とは冬至の後に百神を臘祭す」と注している。したがって要約すれば、臘祭とは冬至後のいずれかの日に、農民が大勢参加して飲食を楽しみ、一年の労働の辛苦を癒し、門戸および門戸の神を含むさまざまな神々を祀って、古い年を送り新しい年の到来を迎える祭であることになる。

そして後漢時代にはその前日に大儺が行なわれ、顔師古の唐時代には類似の祭祀に蜡節(させつ)があった。が、実は顔師古が「今の」といっている蜡節(させつ)は臘と同じくらい古い由来を持つ祭であり、その起源と変遷は問わずとも、年末に行なわれる季節祭としていくつかの特徴と一つの宇宙論的な象徴性を臘祭と共有しているのであった。

蜡の祭は収穫のあとに農民たちが祝う感謝祭あるいは収穫祭であった、つとにM・グラネが指摘し、H・マスペロが概説し、ちかくはD・ボッドが臘との比較において詳論しているように。

『礼記』郊特性篇その他の文献に散見する記述によって素描すれば、歳末十二月に天子以下、諸侯から共同体の農民までが、「八蜡(はちさ)」すなわち先嗇(鄭玄によれば農耕を発明した神農)、司嗇(農事の神々)、農(上古の農業監督官の霊)、郵、表、畷(初めてでごや、みち、あぜを作った人々の霊)、禽獣(家畜)、貓・虎、坊(初めて堤防を作った人の霊)および水庸(灌漑の最初の作製者の霊)――農耕に関連する八種の神、文化英雄・精霊・動物に供物をささげることを中核とする。

閭里あるいは共同体のレベルでは、おそらく父老が白い鹿皮の冠ををかむり、素衤會(しろぎぬ)の服を着て、葛の帯をしめ榛(はしばみ)の杖をついた喪装で祭司をつとめる。野夫・田夫つまり農民は黄の衣服をつけ、黄冠すなわち黄いろのわら帽子をかぶって参加、父老を助けるのである。供物は農作物、鳥獣が用いられ、おそらく祭司を演ずる父老であろう、過ぎた年に訣別し、古びた生命をとむらい、生命を宿すべき存在者へ蘇るときまでの休息を請う祝詞を誦する、曰く「おお 土よ おまえの休みの宅(ところ)へ返れ、おお 水よ おまえの壑(みぞ)に帰れ、おお 昆虫よ 活動するなかれ、おお雑木と雑草よ おまえたちの沢(あれち)に帰れ!」。

そして参加者に供物が頒たれ、直会(なおらい)の饗宴が開始される。それは牛飲馬食、性の放縦がゆるされ、さまざまな音楽と舞踊が演じられる狂演(オルギア)であって、猫や虎の仮装のミミクリィを中心とするマスカレイド(仮装演戯)も欠けてはいなかった。

蜡は農作業の季節から寒気のうちに来たるべき再生を待機し休息する季節への祭、衰弱した生命に感謝しつつ訣別し、やがて到来する新たな生命をいまだ期待と予感のうちに歓迎へと待機する狭間の時間に、つまり季節の運行の境界(リーメン)に位置する祭であった。参加者の白の喪服と黄の衣冠との同時並存の対照が死への訣別と再生への期待との共存を証するであろう。

ここでは過ぎた季節における労働の辛苦が忘れ去られ、その日々の生活を律していた性別にもとづく分業、所有や身分による分節、労働のための家族からの分離(供犠の対象の一つである「郵=でごや」は耕作地に設けられた廬、農繁期の出作り小屋である)等々、そうした日常生活を律していたすべての分割が撥無され、異性の所有という最も基本的な分割の形式さえもが突然に訪れた心理-精神的な解放と救済の気分のうちに性の放埓となって解消し、人間は虎や猫に扮することで自身の同一性を失って嬉々として鼠や野猪を追いかける。男は女のうちに溶解し、個人は集団のなかに消滅し、人間は動物に変態し、共同体全体がそれをとりまく自然の万物と世界のリズムのうちに結合を遂げてしまうのである。

《以上》


FriendFeedコメントより転載

世界史的な視点では、シナ化都市化が南シナ海に到達した後にシナ的なコスモロジーは新たな変容を迫られたにも関わらずそれを実現していない、ということになりましょうか。まず彼らが対抗勢力としてぶち当たったのが「倭寇」としての日本と台湾だったでしょう。それに対する対抗策は「海禁」という政府の鎖国政策と、倭寇への同化という民衆的生活の智慧でした。この伝統的シナ官民の乖離は形を変えて拡大し、いままさにわれわれが直面しているものでもあります。さらには産業革命を実現し海洋に乗り出した西洋文明です。之にたしても一切なすすべもなく敗退を続けているのがシナ文明です。中共の海洋進出はこれらの歴史的視点から見てはじめてその内的な衝動が理解できるのでした。 - 丸山光三
《返信》コメントありがとうございます。明のあたりが、シナ中原文明にとっての、変容のチャンスにしてターニングポイントだったのかも知れないですね。海禁政策=鎖国政策というのは知りませんでした。お勉強になりました(汗)。ウィキペディアで調べてビックリしたのですが、観光スポットとして有名な万里の長城も、明の作品だったみたいです。現実化・永遠化した「シナ文明の城壁」のようだと思いました。…現在の海洋進出への執念は、はるかに奥深いものから来ているのである、とすると、事はいっそう深刻ですね。どうやって対応したらいいのだろう…という事はなかなか思いつかないのですが、かつての中世の媽祖信仰の広がりに、将来に向けての手がかりが見つかるかな…と、思っております(ちょっと無謀すぎるかも知れませんが…汗)
《管理人FriendFeed呟き》先のコメントで言及された倭寇の活動が気になって、ウィキペディアで調べてみると、倭寇の活動マップがそのまま中世の媽祖信仰の調査で出てきた地名と重なっていて、腰を抜かすほどビックリしました(変なことですが、媽祖信仰の拡大に注目していて、倭寇の活動を調査していたつもりは全然無かったので)。うーむ。開いた口が一時間ほどふさがらなかったです。もしかしたら、媽祖信仰を船に乗せてあちこち航海していた南シナ人って、「前期倭寇」なるものの勢いに乗って、その後もずっと活動し続けていたグループなのかな…もし、清が来ていなかったら、もっと面白い事になっていたのかも…
当然そうなるでしょうね。海へとあふれだしたシナ人たち、つまり当時で言う海禁破りの海外貿易という不法行為を働いた水賊、自衛のために武装した貿易船が「倭寇」だったのですし、彼らが航行安全を祈ったのが媽祖ですから♪歴史に「もし」を仮定するのは非常に有意義なことです。もし、満洲人たちがシナ征服に失敗していたら、あるいは最低でも南シナへ進出できなかったら、と仮定すると、まったく違ったシナ像があぶりでてきます。かっての南北対峙とはことなって海上交通によるネットワークにもとづいた政治経済連合体が南シナに形成されていたかもしれません。がしかし、もういいちど考えてみてください。鄧小平の経済改革は、主に台湾香港シンガポール南洋などのいわゆる「華僑」やそれ以外の地域の華人ネットワークの経済資本と投資に頼っているのでした。その経済実態のうえに中共北京の政治権力がかぶさっているだけなのです。つまり夢想できた南シナ海洋国家というものは実質的に存在しているのです。あとはシナ人自身が何時その事実に気づき、そして新しい世界観、すなわちシナ・イデオロギーに手足を縛られたコスモロジーから脱却し、現実にそった国家へと変容できるかどうかが今後の鍵となることでしょう♪ - Marco Maseratti
《返信》インターネットで「現代中国は一枚岩ではない」とささやかれている理由がよく分かりました。倭寇は、陰に陽に、現代に至るまで、興味深いインパクトをもたらしているみたいですね。現在の政治社会の状況や、日本に来ている「中国人」を観察する限りでは、まだまだ根強い「古代的な中華意識&無頼的・徒党的無意識」が浸透しているみたいで、どうやって付き合ったらよいのかなあ…というような、微妙な抵抗を感じています。変容後の彼らがどういう風になるのか、非常な興味をそそられます
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メモ:媽祖の調査

◆媽祖(世界大百科事典より抜粋):

中国の航海守護神(女神)。民間では媽祖と称されたが、歴代朝廷の封賜を受け、宋では「霊恵妃」、元・明では「天妃」、清では「天后」と封号された。その信仰は宋代に福建の莆田地方で発生し、雨旱、疫病、盗賊などから住民を守護するものとされた。

元代になって海上交通が盛んになると、航海守護神として、(シナ)中・南部の沿海地域を中心に、北部の沿海地域にも広まり、官民の熱い信仰を得るようになり、明・清時代にも衰えることが無かった。

台湾・琉球・日本および南海地方など、広くアジア全域にも伝えられた。

媽祖の伝説は、絶えず変化・発展してきたが、明末の《天妃顕聖録》によれば、莆田の林愿の六女は、建隆元年(960年)3月23日生れ、幼時より仏教と道教になじみ、雍煕4年(987年)9月9日、道成って飛昇した。生前、機織中に精神が抜け出して、海上で遭難しかけた父を救助したが、母に呼び醒まされ、兄は救えなかったという。

また天后娘娘と呼ばれ、子授けや乳幼児の守護神としても信仰され、泰山娘娘と判然とせぬ面がある。

◆媽祖は中国語で「ニャンマ(娘媽=母)」とも称されるが、福建語(閩南語)で発音すると「ノモ」「ノマ」に近い音となる。鹿児島の野間岬、長崎の野母半島などの地名は、それに由来するとされており、特に野間岬には、媽祖を神体とし、林氏が代々の神主をつとめてきた野間権現が存在する。(『中国史4 明-清』山川出版社1999,143頁より抜粋)

【当サイトの考察・付記】

幾つかの信仰の複合体と思われる。それまで曖昧な共通点を保ちつつ漂っていた各種の信仰が、中世のある時期に、南シナ大陸沿岸・東南アジア・日本・琉球をめぐる南海系の海上流通ネットワークを築いていた海洋民の手で、「媽祖信仰」として、一応の完成を見たと思われる。

※歴史上、海洋民が海洋ネットワークを本格的につなぎ始めたのが中世であると考えられる。元々はアラブ商人の海洋進出に刺激されたものであっただろうが、東洋では長期航海に耐える大型のジャンク船が開発され、西洋でも羅針盤が導入され、大型の帆船が開発された。航海技術が非常に伸びた時代であった。

この抜粋から、日本の海洋民が関与した要素については、以下の3点が思い浮かぶ:

  1. おなり神信仰(妹神信仰/オトタチバナ姫信仰/舟魂祭祀・信仰)
  2. 織女信仰(瀬織津姫/天照大神の信仰にも関与している)
  3. 白鳥信仰(道教・仙術・古代呪術エトセトラ…の系統。例えば古代日本に影響を与えたヤマトタケル時代の道教呪術。ただし、この白鳥信仰は、もっと昔からあった大陸の信仰体系が入っているため、いっそう複雑な様相となっている)

後に、長崎からの要素が強くなり、マリア観音など、マリア信仰・観音信仰とも複合したと言われているが、その実態は、かなり「まだら」なものであったらしい。西洋キリスト教のアジア進出の時代とも重なっていたので、香港・マカオ・長崎で共通して、「媽祖」と「マリア」との混合が不定形的に起こったという事が考えられる。

・・・・・・資料各種・・・・・・

媽祖伝説(「媽祖信仰と長崎」個人研究ページ?)より抜粋:

媽祖は航海の守護神で、老媽(のうま)・娘媽・菩薩(ぼさ)・天妃・媽祖菩薩、天上聖母などと、いろいろの名で呼ばれ、福建省で起こった土俗的な信仰である。元代になると航海神として江南地方から北京へ糧米を運送するすべての船舶にまつられるようになった。

・・・(中略)・・・歴代の皇帝がそれぞれ贈り名をし、元の世祖は「天妃」、清の康煕は「天后」、清の道光は「天上聖母」という名前を贈った。

元・明の時代には、中国の沿海部において広く信仰されるにいたった。明の中期ごろからは道教の正統神の地位も与えられた。この信仰は、中国人の海外移住とともに台湾・琉球・東南アジア各地・日本などに伝えられた。…例[久米村の天妃廟

西川如見は1706年(宝永3)の『華夷通商考』の中で次のように述べている:

「長崎に来る唐人、船菩薩と号するは、第一媽祖なり。姥媽(のうま)とも号す。本、福建輿化の林氏の女、大海に没して神と成、神霊顕現にして渡海の船を護る。天妃の尊号を諡す。・・・観世音の化身と云。薩摩国(現在の鹿児島県)野間権現は則ち姥媽神也。野間は則ち姥媽の和音なり。」

この媽祖信仰は、わが国には永禄年間に薩摩の野間(媽祖の一名「のうま」が語源といわれる)山をはじめとして、常陸の水戸(現在の茨城県水戸市)や磯原(現在の茨城県鹿島市)、そして、津軽(現在の青森県)の大間村などにも伝えられて、媽祖をまつる祠などが建立されている。

媽祖と呼ぶのは福建方言で母親の意である。風浪危急のときは媽祖と呼べば神がざんばら神のまま駆けつけてすぐ救ってくれる。もし天妃と呼べば冠をきちんとかぶって現れるので間に合わない恐れがある。したがって船乗りは媽祖と呼ぶのが常であったとも言われる。

◇海神媽祖菩薩と唐船(長崎の記録)
長崎に来航する唐船には、必ずこの媽祖が祀られており、長崎港に碇泊中は、唐船から降ろした媽祖を安置する祠堂が必要となった。当初は船宿や知人の家などに預けたのであろうが、しだいに来航する唐船の数が増加して、郷幇(同郷出身者の仲間組織)が結成されると、その集会所が安置場所とされるようになった。
この集会所がのちに唐寺として整備されたのである。故に、輿福寺をはじめとする福済寺や崇福寺の創建当初は、その創建当初の形態は、媽祖を祀る道教の桐堂としての性格が強かったようである。
媽祖は船が入港中はこれを船から降ろし祠に祀ったり、出港時には祠から再度船に載せていた。この上げ下ろしを菩薩揚げ、菩薩卸しといった。

サントリー文化財団の研究より要約:

  • 日本で確認されていた媽祖像は26例(wikipediaより:現在、江戸時代以前に伝来・作成された媽祖像は、南薩摩地域を中心に現在30例以上確認されている)
  • マカオで9例、台湾で14例の媽祖像と関連諸像に注目
  • 伝承はもちろん銘文も必ずしも当てにならないのは注意
  • 同時代の絵画資料に女神・女性像との比較が重要
  • 大分県の媽祖像がかぶる冠の鳥の意匠=キリスト教の鳩とは無関係であり、中国明代の女性がつける鳳凰冠を彫刻化したもの
《中国の媽祖信仰》…マカオ・台湾
@福建系移住民による港市建設と廟の建立
@先行していた観音信仰との関係
@関帝・保生大帝・臨水夫人など他の中国神やポルトガル人が持ち込んだマリア信仰との並存
@Wikipedia◇台湾には福建南部から移住した開拓民が多数存在した。これらの移民は媽祖を祀って航海中の安全を祈り、無事に台湾島へ到着した事を感謝し台湾島内に媽祖の廟祠を建てた。台湾最初の官建の「天后宮」は台南市にある大天后宮であり、国家一級古蹟に指定されている。
《日本列島の媽祖(天妃)信仰》
@渡来した中国人が持ち込んだ(※南シナ系海洋民の間で広がっていた航海神としての媽祖信仰)
@在来の船玉信仰や神火霊験譚と結びついて、日本人船乗りや漁民の間にも拡がっていた(鹿児島・長崎)
@宮城県七ヶ浜町で新たに確認した画像=茨城県礒原の天妃刷像や青森県大間の天妃像と同じ図像=東日本における媽祖信仰の展開
@『和漢船用集』や『増補諸宗仏像図彙』など江戸時代に普及した諸書=船玉神やその「絵姿」として媽祖が登場
@江戸時代の日本における媽祖(天妃)信仰の拡がりは従来考えられていたよりも広く深い
@Wikipedia◇江戸時代前期に清より来日し、水戸藩二代藩主徳川光圀の知遇を得た東皐心越が伝えたとされる天妃神の像が、茨城県水戸市の祇園寺に祀られている。また、それを模したとされる像が、北茨城市天妃山の弟橘姫神社、大洗町の弟橘比売神社(天妃神社)、小美玉市の天聖寺にも祀られている。
@Wikipedia◇青森県大間町の大間稲荷神社には、天妃媽祖大権現が祀られている。元禄9年に大間村の名主伊藤五左衛門が水戸藩から天妃(媽祖)を大間に遷座してから300周年を迎えた1996年(平成8年)以降、毎年海の日に「天妃祭」が行われている。この大間稲荷神社は台湾の媽祖信仰の総本山である雲林県の北港朝天宮と姉妹宮である。
@要約者付記◇沖縄のオナリ神信仰(=妹神信仰=)とも結びついた可能性あり=今日でも、をなり神の信仰は、フナト(舟人)の間には根強く、特に漁船には、をなり神を祭る習わしである。これは、をなりにあたる女性の髪三本を貰い受け、これを御神体として帆柱の根元に舟魂として祭るのである/[奄美に生きる日本古代文化]の【をなり神のパート4】より抜粋

論文(PDFファイル)=「拡大する《中国世界》-媽祖信仰というカギで解いてみると-」
http://www.for.aichi-pu.ac.jp/tabunka/journal/1-4-2.pdf樋泉克夫・著

《当方の歴史研究の上で、興味のある部分を抜粋&転載2012.12.22記》

華僑は血縁(同族)、地縁(同郷。同一方言)、業縁(同業)の「三縁」を相互扶助の紐帯として、ことば・風俗習慣・進行・たべものなどの異なる環境である異境、いいかえるなら異文化に囲まれながら日々の生活を送る。この他、神縁(同一民間土俗信仰)、物縁(同一物産)もまた、彼らが異境において生き抜くためにはなくてはならない縁だといえる。異境における相互扶助の紐帯である血縁、地縁、業縁、神縁、物縁を一括りにして「五縁」と呼ぶ。
本小論では五縁の1つである神縁に焦点を当て、宋代に福建の漁村で生まれた媽祖信仰を一例に、媽祖信仰が空間的にどのように拡大し、時間的にどのような経緯をたどって現在にいたったのかを跡付けると同時に、それが現在ではどのような役割を果たしているのかを検証してみたいと思う。この作業は、とりもなおさず媽祖信仰を縁とする人々の空間的・時間的広がりを再確認することにつながるはずだ。

(中略)

…いま、『1995年 澳門媽祖信仰歴史文化検討会論文集』に拠って、廟が建立された主な地点を時間の経過にしたがって追ってみると、次のようになる。なお廟の名称は異なるが、本尊は全て媽祖である。また、●は中国本土、○は台湾、◎はそれ以外の地点をしめす。
●湄洲島・天妃廟=宋天聖年間(1022-1031)
●山東省登州・天后聖母廟=宋崇寧年間(1102-1106)
●山東省長島県廟島・顕応宮=宋宣和四(1122)
●浙江省寧波・天后宮=宋紹熙二(1191)
●福建省泉州・聖妃宮=宋慶元二(1196)
●浙江省杭州・聖妃廟=宋開禧年間(1205-1207)
●江蘇省鎮江・恵妃廟=宋嘉熙二(1238)
●広東省広州・聖妃廟=宋嘉熙四(1240)
●江蘇省上海・聖妃廟=宋咸淳七(1271)
◎香港/南宋咸淳十(1274)林氏夫人廟(宋代)/天后廟(元代)/聖妃廟(明代)/天后廟(清代)/現在、50-60ヶ所の末廟あり○元至元十八(1281):澎湖島に娘媽宮を建設
●江蘇省太倉劉家港・天妃宮=元至元二十三(1286)
●天津・天后宮=元泰定三(1326)
◎沖縄/下天下妃宮=明永楽二十二(1424)
◎マカオ/媽祖閣=明弘治元(1488)
○明嘉靖四十二(1563):娘媽宮を拡充
◎マレーシアのマラッカ/青雲亭=明隆慶元(1567)
◎フィリピンのルソン島南部Taal Batangas/天上聖母廟
◎長崎/興福寺(通称「南京寺」=1623年、泉州寺(別名「漳州寺」)=1628年、崇福寺(一名「福州寺」)=1628年。共に仏教寺院だが、境内に媽祖を持つ。当時は明清交替時期。1616年に後金(1636年に大清と改める)建国、1644年に明滅亡。
◎インドネシアのジャカルタ/金徳院=1650年前後
◎ベトナムの会安(ホイアン)・天后廟=清乾隆六(1741)年の記録に「明後期に各省の船長が創建」
○清順治十八(1661):台湾での最初の天后宮を彰化鹿港に建立
○清康熙元(1662):鹿耳門(現在の台南安南区)に媽祖廟を建設
●遼寧省錦州=清雍正三(1725)
◎シンガポール・恒山亭=清道光八(1828)
●山東蓬莱県蓬莱斯閣・天后宮=清道光十七(1837)
◎ミャンマーのヤンゴン/慶福宮=清咸豊十一(1861)
●山東省烟台・天后宮=清光緒十(1884)
◎タイのバンコク/順興宮=清同治十(1871)

コメント・メモより転載

数年前のインドネシア大地震による津波被害があったときのことです。タイのリゾートで貸しボート業を営んでいたある台湾人女性が、みずからの危険を顧みず海へ漕ぎ出し多くの人を救助したとのこと。彼女は<媽祖>そのものだと尊敬され感謝されたそうです。そうだったのかもしれませんし、台湾人の深層意識に潜む媽祖への畏敬の念が、危急のときに際して彼女の行動を規定していたのかもしれません。神話と宗教の人に与える奥深い影響を感じました。 - 丸山光三

とても深いお話で、返信内容が思いつきませんでした…《管理人》

前シナとシナとその後・後篇

前篇から続く

秦帝国は…実は、ミトラ=ゾロアスター的な帝国だったのではないか。

何故ミトラ教&ゾロアスター教に注目しているのかというと、彼らが世界で一番最初に、「光の王(ミトラ=皇帝=アフラ・マズダの子)」、「大統一帝国」という、現代にまで繋がる天下統一支配システムを作り出した、恐るべき祭祀集団だからです(古代は祭政一致です。ここは重要だと思います)…^^;

で、このゾロアスター教。

光の神アフラ・マズダを最高神とする多神教で、古代イラン遊牧民の原始宗教から立ち上がってきたものだという事です。元々古代イラン遊牧民は、真っ暗な荒地の夜を煌々と照らす炎に、狼その他の脅威からの守護のパワーを感じていたようです。炎を大事にする習慣はここから来たもので、ゾロアスター教の成立に伴って、聖火儀式として完成され、「拝火教」という名称の元にもなりました。

…そして、アケメネス朝ペルシア帝国の時代において、ゾロアスター教は、それまではオリエント諸国でスタンダードだった人身御供の儀式を拒絶した…という話があります。この辺が、秦の始皇帝の「殉葬廃止(=奴婢の殉死の代わりに大量の兵馬俑を埋める)」につながっていても、全然おかしくない…

更にペルシアの祭儀では、聖火が点され、火と水と鎚が神聖なものとして扱われました。何故に鎚が神聖なのかはよく分かりませんが…雨をもたらす雷への崇拝があり、さらに冶金術が目覚ましい発達を遂げていた事実とも照らし合わせると、頑丈な鉄を生み出す鎚の力への崇拝が含まれていたのでは無いか…と想像しています(鉄は導電体でもある)。

…ついでながら、雷=鎚=鍛治にまつわる信仰体系は、ヒッタイト以降の製鉄技術を伝承し続けたインド=ヨーロッパ語族の間では普遍的に見られたものであり、インド神話でインドラ(帝釈天)信仰に、ギリシャ神話でゼウス信仰に、ゲルマン神話でトール信仰に変容した事が知られています…^^

ゾロアスター教では聖獣も定められており、「太陽の獣」=「たてがみを持つ獅子」、「月の獣」=「三日月形の角を持つ獣(=牛?)」となっていたようです。案外、この辺りで狛犬とか、インドの聖牛信仰や、もしかして『ナルニア国物語』の「獅子神(創造主)アスラン」ともつながっているかも知れない…と考えると、ちょっと楽しいです(笑)

そしてミトラ=ゾロアスター教…というか、アレクサンドロス大帝国のヘレニズム風ミトラ神話との「カオス的混合物」が出てくるわけですが、この辺りで、黄金の存在が顔を出してきます。ミトラが光の子であり、アポロが太陽神であり、さらにアフラ・マズダが光明神であり、ゾロアスター=金星(黄金の光)であり…

アレクサンドロス大帝国の時代と同時期の頃には、諸都市でおそらく、黄金の器具を使う「光の祭祀」が確立していたと思われます。聖火を点し、聖獣を描いた黄金の器具を使って、王の長命のための祭祀を行なった…

…話がずれてまいりました。筋を東アジアに戻しまして…;^^ゞ

何でまた焚書坑儒が行なわれたのか、という事を突き詰めると、「外国由来の教義=中華思想」を刷り込む必要があったから、というのが考えられるわけで、ここに、何らかの「ゾロアスター的都市文化からの外圧」を見たほうが自然である、としか言えないのです。例えば…「辺境の遊牧騎馬民族」の伝統であったスキタイ風の黄金文化(都市で発達したミトラ=ゾロアスター祭祀にとっては異端)を、蛮夷として弾圧する、とか…

戦後日本でも、GHQによる神道令や教科書塗り潰し、キリスト教布教、出版検閲があった訳で、占領勢力による「思想統制」という意味では、やってる事は古代も現代も変わらない…^^;;

秦の始皇帝が、「ゾロアスター教の布教」を裏に含みつつ、「焚書坑儒」による思想統制を行なったとすれば、秦は、完全に、西アジア=オリエント型の大帝国。「永遠の黄金=黄土=黄河=中華」…中華思想とは、秦に合わせて都合よく換骨奪胎され、翻訳・改造され果ててゆくゾロアスターの教義だった、と言えなくも無い…

…例えば。黄河は「金龍」と称えられ、黄土は「黄赤龍」と称えられた。ユーラシアでは、太陽を黄色で描きます(子供が絵を描くとき、太陽を黄色で塗る)。太陽=黄金の文化圏で、黄色と金色が同一視されるという色習慣がある…という事実を考慮すると、「黄土=黄赤龍」とは正しく、「灼熱の生命力に満ち溢れた、永遠の大地の龍王」であります…

焚書で焼かれた書物は、民間にあった医薬・卜筮・農事などの実用書以外の書物、と伝えられています。「以外の書物」というのが気になるところで、もしかしたら、本来のシナ各地に伝わる伝承や歴史書の焼却がメインの目的だったのではあるまいか…と、推理せざるを得ません。

…歴史と、思想と、文明文化は三位一体。

焚書という事象に、前シナ文明を彩った諸文化の焼失と衰退を読み取りたいと思います…

その後、項羽が宮殿に放火し、宮中の書物も、大部分が失われてしまいます。

その中で、辛うじて継承された書物から漢代の学問が始まるのです。秦に由来する「シナ文明」の時代…ないしは、いわゆる「ハン・チャイニーズ文明」の時代。それは既に、「前シナ文明、ないしは上古のローカル文化圏」が大部分失われてしまった後の、無色透明(または黄金の一色塗り)に近い、ゾロアスター的な天下一統…諸都市を結んだ世界であったに違いない…

残った書物は、例えば『春秋』。『春秋』をより具体的に説明していると思われた各種の書物が「伝」と呼ばれた。現存しているのは、『左氏伝』『公羊伝』『穀梁伝』。他にも多少残っていたそうですが、書物名とわずかな引用文章のみを残して、その後の歴史の中で散逸してしまったそうです。

前漢中期にこれらの諸資料を集めて、歴史書が編纂された。かの有名な『史記』である…

王莽の「新」をはさんでの中央政治の混乱は、それまでの王朝祭祀の世界にも混乱を来たし、うら若いシナ文明の学問の、カオス化・オカルト化を生みます…(ココ重要)。

個人的には、この漢代という時期に、道教や仙術が完成されてゆくと同時に、黄金(永遠の命)と水銀(変容触媒=仙薬)の思想的合体が行なわれたのではないかと思っています。シナ錬金術の構築。または、仙術の完成。そこに、中央アジア系の黄金祭祀集団の影を見ることは、そんなに的外れでも無いかも…

そして、後漢時代には、前漢の記録をまとめた歴史書『漢書』ができる…

俯瞰してみると、「焚書坑儒」と「項羽の暴挙」と「王莽のディープ・オカルト主義」が、その後の「中華の正統を主張する歴史・学問」に大きな影を落としている…という事が、よく読み取れるわけです…(勿論、別の見方もあると思います…^^;)…漢代の学問は改めて調べないと分かりませんが、どうも陰陽五行説とか、その辺のオカルトな匂いが濃厚にします。

かつては、青銅を最高の神の依代として尊重していた筈なのですが、現代は、黄金と翡翠に至上の価値を見出すらしい…(みやげ物店に並ぶ宝飾品は、殆どが黄金と翡翠)。…翡翠は元々、「玉」として、古代から珍重されていました(翡翠と言えば、何故か西太后のエピソードが…)。ただ、秦の始皇帝が特に黄金を好んだという伝承は見当たらず、仙薬としての水銀や丹への執着が浮かび上がってくる程度。

漢代は、黄金と水銀が半々。黄金への強烈な嗜好は、大規模な民族シャッフルがあった、隋の前の争乱時代…5世紀半ばから急に始まったものではあるまいか、という仮説が浮かんでまいります。

となると、その後の強烈な黄金信仰は、ユーラシア遊牧文化…特にトルコ=突厥などの黄金文化が、色濃く入り込んできたものなのではあるまいか。その頃の思想は…儒教(四書五経)、仏教、景教。或いは陰陽五行説、老荘思想、道教、仙術、陰陽道、呪禁道…

それほどはっきりとした理論を立てていないので、あまり自信がありませんが…;^^ゞ

>>仮説の根拠=[トゥルク、シナの歴史のもう一人の主役 V](ブログ『シナにつける薬』)

…やっぱり何だか散漫な内容になりました…;^^ゞ


FriendFeedコメントより転載

これからどれくらい考古学的資料がでてくるかにもよりますし、またシナの当局者がその資料をそのまま公開するかどうかの問題もありますが、周人が西からのヒッタイトあるいはペルシア系の民族であった可能性は大きいと思います。ご指摘のような宗教的側面も考察の対象です。シナ半大陸は西への扉が開けっ放しで西の先進文明、つまりはペルシア(あるいはその底流にあるシュメール)文明の影響をうけて独自の文明が開けたのはまちがいありません。陰陽二元論もシュメール=ペルシアの光と影の闘争哲学と似ています。ユーラシアという言葉はユーロとアジアをひっつけただけですが、それでもひとくくりにできる文明的基礎はあるようです。 - 丸山光三
《返信》コメントありがとうございます^^なかなか根拠となる資料が見つからなくて、「トンデモ説かな?」と思いつつ文章をこしらえていたので、似たような考察がある…というお話でホッとしました。向こうの歴史学会でも、「歴史の闇」的なタブーめいたものがあるみたいですね。実際の大陸の古代人は想像以上に行動力があったみたいですし、真偽は曖昧ではありますが、大陸レベルの思想文化(神々&神話)の交流は、ものすごく活発だったのではないかな…と思っています。