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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

メモ:ラツィエル(天使)

ウィキペディアより

ラジエル(Rasiel)はエノク書に記される天使の一人。 その名は「神の神秘」を意味し、ラツィエル(Ratziel)、ガリズル(Gallizul)、サラクエル(Saraquel)などの異名を持つ。

座天使の長で、「秘密の領域と至高の神秘の天使」の称号を持つ。 七大天使の一人とも呼ばれる。

ラジエルは神の玉座を取り囲むカーテンの中に立ち、全てを見聞きする。ゆえに他の天使達の知らない地上と天界の全ての秘密を知り尽くしており、その宇宙の神秘についての知識を一冊にまとめた書物、「ラジエルの書」を常に携えていたという。

その本は「セファー・ラジエール(Sefer Rasiel)」と呼ばれている。

ラジエルの書は、始めは楽園を追放されたアダムに与えられた。 が、それに嫉妬した天使達が、ラジエルの書を奪い取って海に捨ててしまった。 神の命を受けたラハブによって回収され、アダムの手に戻ったという。 他にも、エノク、ノア、ソロモン王がラジエルの書を読んだとされる。

ラジエルはラグエルと同一視される事がある。

生命の樹の第二のセフィロト(対応天球は天王星)を守るとされる。

《セファー・ラジエール》

セファー・ラジエール(Sefer Rasiel)は大天使であるラジエルがその豊富な知識で宇宙創世に関わる全ての秘密を書き記したとされる、1500の項目の内容からなる書物である。 『ラジエルの書』または『天使ラジエルの秘密の書』ともいう。

その書物は天使文字で記されている為、人には読めない。そのうえ、ラジエルにしか読めない秘密の文字を使用しているためにラジエル以外の天使にも読むことは不可能だと言われている。

楽園を追われることとなったアダムを哀れんだラジエルは、この書物をアダムに与えた。 それを知った他の天使は、嫉妬からこの書物をアダムから取り上げ原始の海へと投げ捨ててしまう。 しかし神の命を受けた原始の海の支配者であるラハブによって、再びアダムのもとへ返された。

やがて後の代になり、この書物はエノクに託された。書物はエノクにエノク書を書かせる知識を与え、エノク書に秘密を書き写した賢い人間の一人となったエノクはやがて、死することなく天界へと引き上げられた。(=メタトロン)

さらに、この書物はノアへと託される。ノアは書物から得た知識でノアの方舟を建造して大災害を逃れた。

その後、アブラハムへと渡った書物の内容の一部はエジプトの教えに反映され、文明をおこす一助になったという。 また書物から得た知識からアブラメリンの書を書き上げた。

そして何世紀も後に、この書物はダヴィデを介し、ソロモン王に引き継がれた。 書物はソロモンに大いなる魔術を与え、『ソロモンの鍵』と呼ばれる数冊の魔術書を書き上げた。 だが、数々の奇跡や偉業を成し遂げさせたその後「セファー・ラジエール」の原書は所在不明となる。

カバリスト達は、『セファー・ラジエール』がカバリズムの根本経典だったのではないかと考えている。


オーラソーマのページより

ラツィエルは錬金術のマスターであり、彼は純粋なゴールドへ向けて、内なる錬金術を通して条件付けのパターンを変容することができます。このボトルの色 は、上層がミルキー(乳白色)、あるいはミスティ(霧がかかった)ペールオリーブで、下層がミスティ ライラックです。ある意味では、過去の苦味に関係した状況や環境に意識的になり、それをスピリットの甘さの方向に変えるとも言えます。上層にある、わずか にオリーブを隠しているほとんど霧がかかった(ミスティ)質は、すでに起こっている錬金術のプロセスの一部です。このボトルは素晴らしい香りがして、おそらくオーラソーマRシステム全体のなかでも、最も香りの強いボトルの一つだと思います。活性化とリラックスに助けになります。

過去の経験の苦味を甘さに変えることは、条件付けのパターンを克服して、条件付けの鉄格子を緩めることであり、内側にある知恵の観点に向かうことです。それは、シャイア農地の立石、世界各地からの何人かのディストリビューターたちの集いがデヴオーラであり、偶然にもラツィエルの誕生とそのエネルギーを分か ち合った、という共時性を通して、まさに何か新しいものが生まれているという感覚です。新しい何かが生まれるという3つのサイン。私たちが自分のギフトを 前面に出し、チャレンジを克服することを助けるこの大天使は、どのように、人間と地球のグリッドとのつながりを通して光のウェブ(web)が大きくなることを促進するのでしょうか。

またラツィエルは、私たちが自分を抑えてしまうような状況や環境において、個人のエンパワーメント(力づけ)の天使です。問題にうっかり関わってしまうのではなく、むしろ解決の一部として自分の役割を担うのに必要なことを表現できるために、私たちが正しいことをすることをラツィエルは力づけます。過去のカ ルマの種に取り組むということは、何かもっとポジティブなものへ向けてそのカルマの種を変容し、克服することができるということで、それも真実です。そして私たちがしていることが何であっても、その瞬間に自分がもたらす質の結果であるものに向けて、カルマの種を変容し克服することが可能だとも言えます。そして、この瞬間の驚くべき素晴らしさと共にあって、自分自身を見失わないことです。


オーラソーマ(コトバンクの説明より)・・・1983年、イギリスの女性ヴィッキー・ウォールによって創始された、カラーセラピーの手法の一つ。日本では、1995年頃から一般的に利用されるようになった。

上下2層に分かれた100本以上(=2012年現在111本=)のカラーボトルの中から直感で4本を選び、そのボトルから、心理状態、才能、未来の可能性などを知る手法。人間界(色彩)・植物界・鉱物界の3つの要素を持っている。

現在オーラソーマは、個人の意識の進化と個性を引き出す色彩を超えたツールとして位置づけられ、ボトルのほか様々なプロダクツとともに「カラーケアシステム」と呼ばれ、ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアをはじめ世界各国に広まっている。

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遥かなる青の境界

「遥かなる青の境界」を描き続けた画家が、かつて、いました。

その筋では有名なロシア画家(正しくはドイツ系ロシア人)です。一般的には、ストラヴィンスキーの『春の祭典』の着想・構想・舞台デザインに関わった美術家として知られています。ドイツ名「ニコライ・レーリヒ」。または、ロシア名「ニコライ・コンスタンチノヴィチ・リョーリフ」。

彼は、晩年はヒマラヤの画家として名をはせ、インドで没しました。ヒマラヤ・チベットを題材とした絵画で、神々しいまでのブルー表現を極めた人です

ニューヨークのレーリヒ・サイトが、ひときわ見やすいです
http://www.roerich.org/
#「the Collection」というところをクリックすると、作品のリストへ。
1924-1925、1926-1934、1935-1947(晩年期)の部分には、特に、ヒマラヤ・チベットの光景を描いた美しい絵が多く載せられています。

レーリヒが描いた「青」を見ていて、「青の境界」という連想が浮かびました。今回のタイトルの由来です。これはこれで、絵画鑑賞を通じた「青の体験」の簡略版のようなものでしょうか

さて…、『雪片曲線論』(青土社1985年)中沢新一・著に、「青の体験」について面白い事が書かれてあったので、適当に要約してみます。内容は、「高原のスピノチスト・色彩の胎生学」という章からのものです。

(著者=中沢新一は)ネパールでチベット人のラマについて向こうの密教を学んでいたとき、絵師について絵も勉強していた。絵師は注文を受けて下絵を描くと、見習いの弟子に手渡し、空の部分に教えたとおりに色をつけるように指示してゆく。ライトブルーで薄く塗った後、濃紺からライトブルーに向かって色調を変化させながら塗りこんでゆくのである。

何日も何日も空の色を塗り続け、空の部分の色が仕上がると、今度は別の、年季を積んだ弟子がその絵を引き継いで、雲、山、花々、火焔といった各所に丹念に色を付けてゆく。そして最後に絵師が、神々や仏尊の顔、衣、宝飾などの重要な部分を仕上げてゆくのである。

こんな風に、見習い弟子は、来る日も来る日も、空の青を塗り続けるのである。しかしそれは、修行と言う観点からは、極めて重要な意味を持っている。チベット密教の瞑想体験の中では、空の青が極めて根源的な重要性を持っているからである(絵師の師匠が描く空の青は極めて深く、沁み透るような青であると言う)。

密教絵画の多くは、「生起次第」という瞑想技法に関連がある。

「生起次第」とは、視覚的想像力を通じて、前方ないしは頭上に様々な神仏のイマージュを生み出したり、行者自身の身体を神仏の想像的イマージュに変容させたりする、想像力の技法である。瞑想を通じて映像イマージュの生起する意識の深層領域に下降してゆき、器官的な身体をめぐる観念を浄化しようとするのである。

「生起次第」はそのようにして、日常意識の作り上げる二元論を解体し、物質的身体そのものが想像的なイマージュとして作られてくる事や、そういうイマージュ自体、純粋な意識の力の場から生起してくることを悟らせようとするのである。

青空は、「生起次第」による心的イマージュがそこから立ち現れ、再びそこに溶融してゆく母胎-意識の原初状態そのものを指し示している。それは、多層的意識の最下層に蓄えられたバイオ・コスミックな運動性が未発の状態でみなぎっている岩盤である。多層的意識全体を包み込んでいる意識体の原初を、その青空は、表そうとしているのである。

空の青は、意識の原初と言う概念を表すものではなく、意識の原初、意識の胎児そのものを、直接体験的に表すものなのである。瞑想の修行の過程でもたらされる「青の体験」そのものなのである。

「青の体験」において、修行者の意識は、純粋な原初状態に置かれる。そこから再び現象の世界に立ち戻ってくる過程で、修行者は意識の発生と展開を辿りなおす胎生学的探求に取り組むのだ。意識の原初が内蔵する「明(リクパ)」と呼ばれる意識の種子が、自らを展開しながら、意識の多層体を作り上げてゆく様を、体験的に観察してゆくのだ。

(原初の青は、まずまばゆい「智慧」の光となって躍り出る。これを、我々は、深層意識の領域に発する内的な光として体験する。意識構造体が完成してゆくに従って、光は原初の変容するまばゆさを失い、「無明」の闇となって澱む。この「無明」の澱みが、我々の意識現象の世界を作っているのである。)

バイオ・コスミックの岩盤である意識の原初には、人間の音声言語にも展開してゆく言語の「種子」が内蔵され、この言語種子は意識の様々な層を横断しながら、それぞれの層にふさわしい言語的痕跡を残してゆく。例えば想像的イマージュの生死する深層領域で、それは真言(マントラ)となって音声化する。だが、表層的意識には、この真言が不可解な音声の塊(マッス)にしか見えない。

表層に浮かび上がった言語種子は、自と他、内と外を分離し、客観的事実を構成する表層的意識に対応したシンタックス(言語配列)を形成するが、この言語シンタックスの物質性を通して、日常のリアリティと言う最も強固な実体性を帯びた幻影が構成されるのである。そしてその幻影の背後には、すでに超越性というもうひとつの幻影が産み落とされている。この超越性の場を背景にして、人々は言語を語り合い、彼らの象徴的現実を作り上げるのだ。

引用するとき、「青の体験」以後の後半はよく分からなかったので、分からなかった部分は、そのまま意味を壊さない範囲で、抜粋してあります。

カドゥケウス研究・4

《参考書籍=『異都発掘-新東京物語』荒俣宏・著、集英社、1997年》

コルヌコピアは、見れば見るほど、我々の想像力を激しく刺激する意匠である。何故、これが潜在意識を目覚めさせるのか。その答えを探る上で手がかりを与えてくれるのが、蛇と角のイメージなのである。

どうして、蛇が、牛や山羊の角と同一視されたかと言う問題でもある。

これら3つに共通する形象を抜き出すとすれば、それは曲線である。渦巻き、或いは立体的な螺旋ーーそれをどう呼んでも良いが、ここでは螺旋と命名しておきたい。蛇が巻いたとぐろと、美しいカーブを誇る角は、ともに螺旋の象徴なのである。

これは、あのホガースが著した決定的名著『美についての分析』(1753)によれば、曲線とか単純な図形などは全て美の根源的意味を形成すると言う。ホガースはこうしたコルヌコピア型のねじれ円錐(巻貝など)を、上方へ向かって伸びる運動を直観させる線、と分析した。すなわち成長、発展。これは生命が養育されると言う現象の基本的イメージと合致する。

なんといっても彼は、微笑の起源として、幼児が母乳を吸う口の形を思い至った「着想の人」であった。コルヌコピアの曲線自体に、豊穣の意味を嗅ぎ取ったとしても、何ら不思議は無いのだ。

この螺旋曲線を連想させる蛇は、また、邪悪の象徴でもある。しかしこの問題は、回転運動を行なうものの「両義性」から光を当てる事ができる。

螺旋や渦巻きを眺めていると、はじめは一方向に巻いていると見えた曲線が、ふとした視線の移動で、あっという間に逆回りに見えてしまう事がある。この現象を更に概念化すれば、善と悪の両義性へと行き着く。螺旋と言うものは、見方ひとつで、どちらへも動いていく存在なのである。

興味深いことに、アメリカ・インディアンの一部族ホピは、迷路を思わせる渦巻き=螺旋文様を、地母神の「しるし」としている。これは勿論ホピ族に限られない。ポリネシアでも、クノッソスでも、また東洋でも、渦巻き=螺旋は生命力の象徴なのである。

ここまで書いて、ふと思い出したのが、クレタにあったと言われるミノア王の宮殿、すなわちラビュリントス(迷路)である。神話によれば、その迷宮に住んだのは、半人半牛の怪物であった。怪物ミノタウロスがまさにタウロス(牛)である事は、豊穣と力と生命力の意味がそこに宿されている事情を暗示する。

渦巻きが牛の角に取り付いて、豊穣の角を作り出しているとすれば、…ミノタウロスと迷宮は、牛の角と渦巻き文様と言うホガース張りの「原形化」に照らせば、間違いなく「豊穣」を表現しているのである。

ともかくも、渦巻きの両義性が、こうして生と死、善と悪までの寓意を備えるに至る過程で、我々が今追求しているコルヌコピアの意匠は確実に生まれている。

前史時代の諸民族が残したこれら渦巻き文様は、更に、男と女の相補的協働によって実際に生命を誕生させる事実を、本能的に直観した人々の「口ごもられた知識」の表現であったろう。そして古代人は、これらどうと言う事の無い渦巻き文様を見る時、いつもそれが激しく回転しているように見えた筈だ。つまり、この図は生きていたのである!

渦巻きが可逆二重の意味を所有する原因は、もちろん他の要素にも求められる。ポイントは、目が2つある事である。元来、立体視を脳内で成立させるために横に並ぶ事となった両眼は、当初予定もしなかった新しい視覚体験を生んだ。渦巻き文様を見て、「目が回る」という現象である。…その体験は、確かに静止した図形であるのに、見た目には常に回転し続けているという、奇跡的な図形を世に送り出した。

それが、生命の図形、渦巻き=螺旋であった。コルヌコピアの美しく精妙な図形は、それら畳み込まれ続けた「ある原初的意味」の表徴に他ならなかった。


建築物に掘り込まれたコルヌコピアは、左右一対の交叉図になっている。

この偶数性は、渦巻き文様の本質にあった両義性や、生と死、善と悪といった世界の二極状態をも表現しているのであろう。けれども、連想させるのはそればかりではない。交叉したカドゥケウスーー果実を溢れさせた秋=豊穣の正統派コルヌコピアを見てもそうなのだが、不思議に人間の頭部を思い出させるのだ。

人間には一対の目がある。一対の耳がある。視神経は交叉して脳につながり、その内部で立体像が選択的に再合成される。選択的に、と書いたのは、我々の内部で成立した像が、必ずしも外景のそれとイコールでは無いからだ。

更に、耳の中にはコルヌコピアそっくりの三半規管が一対あって、これもまた脳で一本化され立体音を形成させる。この器官など、まさしく人体のコルヌコピアと呼ぶべきだろう。

これらの器官は脳と言う中央点で交叉し、外から取り入れた物を内部に寄せ集める。続いて、音像や画像が感覚となって人体に意識される段となる。

このプロセスを、再び図像の側へ返してみる。すると、コルヌコピアから溢れ出ているように見える果実、麦、花などは、視点が逆転して、外界に溢れる豊穣の穀物を内部へ吸い込んでいく過程と言う具合にも、意味づけされ得る。

更に、ホガースによる螺旋の解釈、すなわち外へと発展する力は、次のトマス・ゲインズボロによって、巻貝を住処とする軟体動物との連想から、「あれは外へ向かうのではなく、内へ引っ込んでいくのだ」という反対理解へと歪められていった事実がある。イギリスの18世紀美術は、こうして内面性を深めていったわけだ。

そうした事情を考えれば、コルヌコピアの意匠にもまた、果実や花を外へと出すのではなく、内に吸い込むデザインになっている例が発見できる、との直観が湧く。秋の豊穣の角と、春の喜びの角。それから惜しみなく与える角と、全てを吸い尽くそうとする角。


★アカンサス意匠=カリマコスという人物が石柱のデザインを考えている時、少女の墓にそなえられたバスケットの周りに伸びたアカンサスの葉が反転して美しい縁飾りになっていたのを見て発案した物と言われている。

★水を吐くライオン意匠=古代エジプトで太陽が獅子宮に入る8月、ナイルが増水するところから生まれた物と言われる。