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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

カドゥケウス研究・4

《参考書籍=『異都発掘-新東京物語』荒俣宏・著、集英社、1997年》

コルヌコピアは、見れば見るほど、我々の想像力を激しく刺激する意匠である。何故、これが潜在意識を目覚めさせるのか。その答えを探る上で手がかりを与えてくれるのが、蛇と角のイメージなのである。

どうして、蛇が、牛や山羊の角と同一視されたかと言う問題でもある。

これら3つに共通する形象を抜き出すとすれば、それは曲線である。渦巻き、或いは立体的な螺旋ーーそれをどう呼んでも良いが、ここでは螺旋と命名しておきたい。蛇が巻いたとぐろと、美しいカーブを誇る角は、ともに螺旋の象徴なのである。

これは、あのホガースが著した決定的名著『美についての分析』(1753)によれば、曲線とか単純な図形などは全て美の根源的意味を形成すると言う。ホガースはこうしたコルヌコピア型のねじれ円錐(巻貝など)を、上方へ向かって伸びる運動を直観させる線、と分析した。すなわち成長、発展。これは生命が養育されると言う現象の基本的イメージと合致する。

なんといっても彼は、微笑の起源として、幼児が母乳を吸う口の形を思い至った「着想の人」であった。コルヌコピアの曲線自体に、豊穣の意味を嗅ぎ取ったとしても、何ら不思議は無いのだ。

この螺旋曲線を連想させる蛇は、また、邪悪の象徴でもある。しかしこの問題は、回転運動を行なうものの「両義性」から光を当てる事ができる。

螺旋や渦巻きを眺めていると、はじめは一方向に巻いていると見えた曲線が、ふとした視線の移動で、あっという間に逆回りに見えてしまう事がある。この現象を更に概念化すれば、善と悪の両義性へと行き着く。螺旋と言うものは、見方ひとつで、どちらへも動いていく存在なのである。

興味深いことに、アメリカ・インディアンの一部族ホピは、迷路を思わせる渦巻き=螺旋文様を、地母神の「しるし」としている。これは勿論ホピ族に限られない。ポリネシアでも、クノッソスでも、また東洋でも、渦巻き=螺旋は生命力の象徴なのである。

ここまで書いて、ふと思い出したのが、クレタにあったと言われるミノア王の宮殿、すなわちラビュリントス(迷路)である。神話によれば、その迷宮に住んだのは、半人半牛の怪物であった。怪物ミノタウロスがまさにタウロス(牛)である事は、豊穣と力と生命力の意味がそこに宿されている事情を暗示する。

渦巻きが牛の角に取り付いて、豊穣の角を作り出しているとすれば、…ミノタウロスと迷宮は、牛の角と渦巻き文様と言うホガース張りの「原形化」に照らせば、間違いなく「豊穣」を表現しているのである。

ともかくも、渦巻きの両義性が、こうして生と死、善と悪までの寓意を備えるに至る過程で、我々が今追求しているコルヌコピアの意匠は確実に生まれている。

前史時代の諸民族が残したこれら渦巻き文様は、更に、男と女の相補的協働によって実際に生命を誕生させる事実を、本能的に直観した人々の「口ごもられた知識」の表現であったろう。そして古代人は、これらどうと言う事の無い渦巻き文様を見る時、いつもそれが激しく回転しているように見えた筈だ。つまり、この図は生きていたのである!

渦巻きが可逆二重の意味を所有する原因は、もちろん他の要素にも求められる。ポイントは、目が2つある事である。元来、立体視を脳内で成立させるために横に並ぶ事となった両眼は、当初予定もしなかった新しい視覚体験を生んだ。渦巻き文様を見て、「目が回る」という現象である。…その体験は、確かに静止した図形であるのに、見た目には常に回転し続けているという、奇跡的な図形を世に送り出した。

それが、生命の図形、渦巻き=螺旋であった。コルヌコピアの美しく精妙な図形は、それら畳み込まれ続けた「ある原初的意味」の表徴に他ならなかった。


建築物に掘り込まれたコルヌコピアは、左右一対の交叉図になっている。

この偶数性は、渦巻き文様の本質にあった両義性や、生と死、善と悪といった世界の二極状態をも表現しているのであろう。けれども、連想させるのはそればかりではない。交叉したカドゥケウスーー果実を溢れさせた秋=豊穣の正統派コルヌコピアを見てもそうなのだが、不思議に人間の頭部を思い出させるのだ。

人間には一対の目がある。一対の耳がある。視神経は交叉して脳につながり、その内部で立体像が選択的に再合成される。選択的に、と書いたのは、我々の内部で成立した像が、必ずしも外景のそれとイコールでは無いからだ。

更に、耳の中にはコルヌコピアそっくりの三半規管が一対あって、これもまた脳で一本化され立体音を形成させる。この器官など、まさしく人体のコルヌコピアと呼ぶべきだろう。

これらの器官は脳と言う中央点で交叉し、外から取り入れた物を内部に寄せ集める。続いて、音像や画像が感覚となって人体に意識される段となる。

このプロセスを、再び図像の側へ返してみる。すると、コルヌコピアから溢れ出ているように見える果実、麦、花などは、視点が逆転して、外界に溢れる豊穣の穀物を内部へ吸い込んでいく過程と言う具合にも、意味づけされ得る。

更に、ホガースによる螺旋の解釈、すなわち外へと発展する力は、次のトマス・ゲインズボロによって、巻貝を住処とする軟体動物との連想から、「あれは外へ向かうのではなく、内へ引っ込んでいくのだ」という反対理解へと歪められていった事実がある。イギリスの18世紀美術は、こうして内面性を深めていったわけだ。

そうした事情を考えれば、コルヌコピアの意匠にもまた、果実や花を外へと出すのではなく、内に吸い込むデザインになっている例が発見できる、との直観が湧く。秋の豊穣の角と、春の喜びの角。それから惜しみなく与える角と、全てを吸い尽くそうとする角。


★アカンサス意匠=カリマコスという人物が石柱のデザインを考えている時、少女の墓にそなえられたバスケットの周りに伸びたアカンサスの葉が反転して美しい縁飾りになっていたのを見て発案した物と言われている。

★水を吐くライオン意匠=古代エジプトで太陽が獅子宮に入る8月、ナイルが増水するところから生まれた物と言われる。

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