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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

挽歌の象徴・・・青旗

和歌研究ノートです

以下のノートは全て、辰巳和弘・著『埴輪と絵画の古代学』白水社1992より抜粋&要約。

▼沖つ国-うしはく君が-染屋形-黄染の屋形-神が門渡る/万葉集16-3888
おきつくに-うしはくきみが-そめやかた-きぞめのやかた-かみがとわたる

(意味)…沖つ国(冥界)を支配する事になった君(の霊魂)が、黄色に塗った屋形船に乗って、神となって冥界の門を渡ることよ(※注意=昔は天皇など貴人が死ぬ事を「カムアガリ」と言った)

▼青旗の-木旗の上を-通ふとは-目には見れども-直に逢はぬかも/万葉集2-148

…死者の魂の召来…幡あるいは賢木などの植物の風に吹かれる「動き」にカミを感じる心情を抜きにしては理解し難い歌である。一木、一草、単に「それ」自身は「もの」であるが、その「動き」に死者の霊魂を感じていた…増田精一『埴輪の古代史』新潮社1976

…青旗は、そのはためきに霊魂が無事に冥界へとなびいていく意味を込めて墳墓に立てられた。霊魂が行き着く冥界は、天空にあると見られていたことになる。

▼隠国(こもりく)の泊瀬の山

…「隠国」は、大和国中から見て入り込んだ谷あいの地形を意味すると共に、現世から離れた地、すなわち冥界を意味する言葉。その「隠国」を枕詞とする泊瀬の山は現在、長谷寺の背後にある初瀬山を指すのではなく、西流して大和盆地へと流れ入る初瀬川に臨む南北の山塊の総称であった。

この初瀬谷の南側の丘陵上には外鎌山(とがまやま)古墳群をはじめとする多数の群集墳が分布している。…まさに「泊瀬の山」は冥界の地として大和人に意識されていたのである。…辰巳和弘『埴輪と絵画の古代学』白水社1992

▼人魂のさ青なる君がただ一人あへりし雨夜は久し思ほゆ/万葉集16-3889

万葉人が認識していた青は、緑・青・紫などの色を言うようである。

…われわれのからだについている魂の一つは、魂魄二種のタマシイのうち、魄である。魄のツクリの鬼は精霊、ヘンの白はタマシイの色を表したものと私は見ている。詳しい考証は省略するが、しかし、白だといっても真っ白ではない。青白色だ。碧の字も白に従っているが、実物はあお色である。白は同時に白昼の白で、明るいことである。碧は明るい青色の玉のことだ。

魄と碧とは、ことによると同語だったかも知れない。孔子の音楽の師匠の萇弘(ちょうこう)の死体が碧玉すなわち璧になった伝説がある。人びとはこれを魄の姿と見たのだ。からだから離れて外に出る方のタマシイ、すなわち「魂」の青かったことも、「人魂のさ青なる君がただひとり」云々と歌われている。

勾玉の材料に璧(あお色の玉)を尊んだのは、その色が魂と同色であるからで、その同色性によって、魂を引き寄せ、その鉤でつなぎ止める。腕輪や首輪に黄色のビーズや石が好まれたのもこれで、水鬼をごまかすチマキは、新鮮なあお色でなければならなかった。…金関丈夫『考古と古代』法政大学出版局1982

…人魂や霊魂は青い色をしていると考えられていた。ゆえに霊魂が渡ってゆく旗も、「青旗」の通り青い色だと考えられていた。更に言えば、霊魂が渡りゆく冥界は、青い世界ととらえられていたようである。…辰巳和弘『埴輪と絵画の古代学』白水社1992

…宮古では、現在でも人間が死んだらミュウに行く、という考えが残っている。ミュウとは、青々とした色をたたえている海の彼方、または海の深いところで、竜宮のことを「オーミュウ」という。「オー」は「青」である。ここにおいて『青』の世界が到来する。それは海中にあると信じられる南島の明るい冥府である。

…沖縄本島とその属島には、『青(オウ)の島』と呼ばれる地先の小島があった。青の島と呼ばれるゆえんは、そこに死体を埋葬するからであった。青は死者の色である…南方から渡来した海人は、海岸の地先の島に死人を埋葬する習俗を保ちながら、西から東へと動いていった。その痕跡が『青』なのであった…谷川健一『常世論―日本人の魂のゆくえ』平凡社1938

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研究:祖霊祭の習慣&資料保存

『万霊節の連祷』(Litanei auf das Fest Aller Seelen D343)
音楽・シューベルト/詩・ヤコービ

安らかに憩え 万の霊よ
恐るべき苦しみ終えたもの
甘き夢見果てたもの
生に倦んだもの 生まれきて幾許ならず
この世より去っていったもの
万の霊よ 安らかに憩え
また 決して太陽に笑いかけず
月の下 茨の上 目を覚ましていた者も
神と 清き天上の光の中で
いつか あいまみえよう
この世を去りし あらゆる人々よ
万の霊よ 安らかに憩え
この世の平和を知らぬまま
勇気と力のゆえに
死屍累々のいくさ場の彼方
半ば死にゆく世に送られたもの
とわに帰らぬ万の霊よ
万の霊よ 安らかに憩え
Litanei auf das Fest Aller Seelen
Ruh'n in Frieden alle Seelen,
Die vollbracht ein banges Quälen,
Die vollendet süßen Traum,
Lebensatt, geboren kaum,
Aus der Welt hinüberschieden:
Alle Seelen ruhn in Frieden!

Und die nie der Sonne lachten,
Unterm Mond auf Dornen wachten,
Gott, in reinen Himmelslicht,
Einst zu sehn von Angesicht:
Alle die von hinnen schieden,
Alle Seelen ruhn in Frieden!

Auch die keinen Frieden kannten,
Aber Mut und Stärke sandten
Über leichenvolles Feld
In die halbentschlaf'ne Welt:
Alle die von hinnen schieden,
Alle Seelen ruhn in Frieden!

キリスト教や大乗仏教といった、立派な教義を備えた宗教が世界を席巻する前は、元々、それぞれの民族に先祖信仰が存在していたと言われている。

例として=ケルト&ゲルマン民族の祭り=「燻し十二夜」

冬至の日、故人の好みの料理を作り、好みのワインをテーブルに並べ、家庭祭壇にロウソクをいっぱい灯して、祖霊を迎える行事であるとされている。豊かな収穫を得て安らかな思いで冬を迎えられることを、先祖の霊(または祖霊=守護霊)に感謝するのである。

キリスト教はこの燻し十二夜の祖霊祭を、11月2日の万霊節に移したと言われている。しかし地方によっては、12月25日のクリスマスの後に、墓地に小さなクリスマスツリーを立ててロウソクを灯し、パンやワインなどを供えて先祖を祀る風習が残っているらしい。

【付記-1】・・・12月25日をキリストの誕生日に定めたのは381年のコンスタンティノープル会議である。それまでは、ヨーロッパでは、12月25日は冬至祭=収穫祭=祖霊祭だったらしい。

【付記-2】・・・日本ではお盆と御魂祭が習合して、8月の盆供養がメインの祖霊祭になっているが、仏教渡来前の時代は、冬至に祖霊祭を行なうのが習慣だったらしい。仏教伝来が遅れた東国地方では、鎌倉・室町時代の頃まで、この風習が根強く残っていた。

特徴的な天文現象と特別な祭祀(お盆や祖霊祭)との日取りのシンクロが興味深い。春分、秋分、冬至、夏至に集中する傾向。


古代の祭祀/六月・十二月・道饗祭

『事典 古代の祭祀と年中行事』2019吉川弘文館

六月・十二月・道饗祭(みちあえのまつり)

概要

厄神・疫神が京内に入らぬよう、京城の四隅で神祇官の卜部が毎年6月・12月に行った祭祀である。祝詞では八衢比古・八衢比売・久那斗の三神を祀るとする(『延喜式』祝詞)。

初見資料は『続日本紀』天平7年(735)8月乙未条であるが、疫病流行により長門邦(山口県西部)以東の諸国での斎行を命じた臨時のものであり、「神祇令」に規定された道饗祭としては『御堂関白記』寛弘2年(1005)3月21日条までみられない。

斎行日は鎮火祭と同日とされるが諸説ある。

律令の注釈書である「穴記」には6月・12月の晦日に行うこと(『令集解』)、『年中行事秘抄』『師遠年中行事』では6月晦日(12月については記さず)、『年中行事抄』は吉日を撰ぶとしている。


儀式次第

式次第は不明であるが、「饗(あへ)」とは飲食のもてなしをする意である。『令集解』には京城の外から入り来る鬼魅(きみ,鬼や化け物)を京城四隅の路上で祭りもてなすことで、その侵入を防ぐ祭祀であると書かれている。

ただし、もてなす対象については、祝詞の内容も含めて解釈の分かれるところであり、『令集解』が鬼魅を饗応するとする一方、「令釈」(令の注釈書)は獣皮で鬼魅を追い払うとしている(『令集解』)。

平田篤胤はチマタ(道の分岐点)に鎮座する神へのもてなしが本来の意だとし、(『古史伝』)、賀茂真淵は『令集解』の説を採る(『祝詞考』)。

さらに祝詞では、前述の三神を祀ることで疫神を祓っていただくという、鎮火祭祝詞と同様の形式になっているのである。

また、祭料についても特徴的で、「令釈」では牛・鹿・猪などの獣皮が定められている。恒例祭祀で牛皮・猪皮が祭料に挙がるのは道饗祭だけであり、大陸的要素が指摘されている。

『延喜式』四時祭ではこれに熊皮が加えられていることから、後述する祝詞の整備と同じく、卜部によって祭儀内容も整えられていった可能性が考えられる。


祝詞

『延喜式』祝詞では、八衢比古・八衢比売・久那斗の三神を饗応することで、疫神を祓っていただく内容となっている。

この三神は記紀に見られないが、岐神(道の分岐点などに祀られ、邪霊の侵入を防ぐ神)とされている。これら三神についての解釈も諸説あり、平田篤胤は、伊邪那岐神が黄泉国で伊邪那美神に追われた際に黄泉平坂を塞いだ石が八衢神であり、これを二柱に分けたものが八衢比古、八衢比売であるとする。また久那斗は、黄泉国から帰った伊邪那岐神が禊をするときに投げ棄てた杖から成った衝立船戸神(つきたつふなとのかみ)とした(『古史伝』)。

その成立は、使用語句などから鎮火祭祝詞と同様に比較的新しいとされ、少なくとも後世の改変を受けていると考えられている。

大陸的要素との関連としては、瀧川政次郎が八衢比古、八衢比売を中国の城隍神(都城守護の神)がもとであり、陰陽道の神道化によって発生した神とし、陰陽道の四角四堺祭も道饗祭と同じ性質の祭であると述べたが〔瀧川:1967〕、城隍神が祈雨を目的として祭られることに対して道饗祭は鬼魅と疫病の侵入防止を目的とする祭祀であること、また中国には羅城(都市を取り囲む城壁。中国の都城は羅城と呼ばれる壁で囲われていた)の四方の道路において行われる祭祀が見られないという指摘〔楊:1989〕がなされている。

ただし、近年の発掘成果により、我が国でも都城制の初期においては羅城が一部存在したことが確認されており、都城を(物理的に)囲うという概念が、都城祭祀の成立に作用した可能性は考えられよう。

ただし、鎮火祭祝詞と同様、天孫降臨神話による権威付けもなされており、前半部分は御門祭祝詞と相似している。

祈年祭祝詞にも同様の特徴があることから、御門祭祝詞をもとに祈年祭祝詞がつくられ、これら二つの祝詞を補綴してつくられたのが道饗祭祝詞であろうと考えられている。


成立過程

『続日本紀』には、宝亀年間(770~781)に諸国に疫病が流行し、疫神祭を行うよう命じた記事が多くみられ、国家として疫病のへの対策が大事となっていた。

衛生状態も悪く人口の密集した都市の生活においては、一度そのような疫病が侵入すれば被害は大きく、また都の中心には天皇がおられることからも、予防祭祀を行う必要性が生じたのである。

恒例祭祀は国史に残されないことが多いため記録が少ないが、都城の四隅で斎行されるかたちでの道饗祭は、条坊制を導入した初めての都である藤原京(694~710)で開始されたと考えるのが妥当であろう。

藤原京はもともと四つの古道(下ツ道・中ツ道・横大路・山田道)が交差する地にあり、四隅がすでにチマタとして機能していた〔和田:1985〕ことからも、ごく自然な形で行なわれたと考えられる。

また考古学的見地からも、藤原京では下ツ道路面の東西溝から人面土器(藤原京期と推定)が、平城京では九条大路路面の前川遺跡の井戸から人面土器や多量の土師器の食前具など(8世紀前半)が出土し、道饗祭での饗応跡とされている〔巽:1993〕。

道饗祭の起源は、その名称のとおり、道の祭祀あるいは道が交差したチマタの祭祀であり、都城制以前の境界祭祀が淵源であることは間違いないだろう。平川南は、平成11年(1999)に前期難波宮北西隅から出土した陽物形木製品について、ともに出土した木簡から大化4年(648)前後のものであり、百済での道の祭祀に酷似した、吊り下げる形式で行なわれた道饗祭の存在を指摘している〔平川:2008〕。

また、「追い遣る」という概念については、長岡京(784~794)の四周にある遺跡、とくに京外への流れを示す流路で行なわれた祭祀跡から、都の鎮護・防御だけでなく、ケガレを外に出す祭祀が行われた可能性が論じられている〔久世:1992〕。

都城研究の見地からは、小澤毅らが、藤原京は平城京以後の日本の都城とも、同時期の中国の都城とも違い、中国の儒教経典である『周礼』考工記に書かれた理想の都、つまり正方形の都城の中央に官を置き、一辺に三つずつの宮城門をつくるという構造であったとしている。

発掘調査の進展が待たれるところではあるが、この場合、後に述べるような天皇を中心とした同心円的構造が、視覚的にも一層明確となる。

実際に周礼型都城が採用されなかったとしても、そのようなプランを含め、理想的な都城建設を国家規模で実現するべく試行錯誤していた時代に、中国の律令をもとに我が国独自の祭祀を明文化し、整備していったものが律令祭祀である。この国家事業の両輪によって、既存の境界・道の祭祀が都城祭祀として整えられたと考えられよう。


祭祀構造

鎮火祭・道饗祭のような境界の祭祀は、陰陽寮の行事を含め、ほかにも複数、律令に定められていた。これには、次の図のような天皇を中心とした同心円的構造が見られる。

図:境界の祭祀の天皇を中心とした同心円的構造

これら境界祭祀の先行研究は以下のように分類できる。

(1)宮中から京外へケガレを追いやり、外部から来る鬼魅や火神を防ぐ祭祀とする説〔和田:1985〕

(2)宮城―京城―畿内堺への同心円的拡大をする空間構造の祭祀とする説〔中村:1983、前田:1996〕

(3)同心円的構造を持つ境界祭祀であり、天皇の身辺から外へ向かって行うとする説〔鬼塚:1995〕

(4)宮城を結界化する空間的対応と、年2回の恒例祭祀という時間的対応により、「宮―京」の二重の結界化を行い、不成形な京城であった都城制を補完する祭祀とする説〔宍戸:2007〕

このように同心円状の複数の境界、年に2回という時間的な対応と併せて、そして神祇官・陰陽寮が重層的に祭儀を執り行うことで、都市ひいては天皇の身辺の清浄化・結界化を万全にしようとした。それほど、都市への疫病の侵入は脅威だったのである。

また、陰陽寮行事の追儺は、すでに宮中にいる鬼を追い出すという事後対応の行事であるが、一方の道饗祭では京外から来る鬼魅を防御し未然に追い返す予防祭祀であり、その点からも重層的と捉えられよう。

このほか臨時祭の八衢祭、宮城四隅疫神祭、畿内堺十処疫神祭などが、道饗祭と類似した性格を持つ。

このように複数存在した祭祀もやがて時代が下ると、鎮火祭と同様、陰陽寮行事の隆盛とともに衰退の道を辿っていくのであった。


参考書籍

瀧川政次郎「羅城祭と道饗祭」『京制並に都城制の研究』(『法制史論叢』二)角川書店1967

前田晴人「古代国家の境界祭祀とその地域性」『日本古代の道と衢』吉川弘文館1996(初出1981)

中村英重「畿内制と境界祭祀」『史流』24、1983

和田萃「夕占と道饗祭」『日本古代の儀礼・祭祀と信仰』中、塙書房1995(初出1985)

酒向伸行「疫神信仰の成立」鳥越憲三郎博士古希記念会『村構造と他界観』雄山閣出版1986

楊永良『日本古代王権の祭祀と儀式』私家版1989

久世康博「長岡京祭祀の一側面」『竜谷史壇』99・100、1992

巽淳一郎「都城における墨書人面土器祭祀」『月刊文化財』363、1993

鬼塚久美子「古代の官都・国府における祭祀の場」『人文地理』47、1995

宍戸香美「鎮火祭・道饗祭にみる都城の境界」『寧楽史苑』52、2007

平川南「今に生きる地域社会」『日本の原像』(『全集 日本の歴史』2、小学館2008)

(船井まどか)