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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

疫病と三日月と牛頭天王

西洋占星術で言えば、牡牛座の守護星は金星となっています。昔の人が直感で決めたものみたいですが、口蹄疫が流行中の今、何だか偶然とは思えない神秘的な符合を感じました。

春の三角。鎮花祭。そして、桜の花が散る頃が、疫病の季節。

…そして、灼熱の夏が来る…祇園祭の主役は、牛頭天王。

古代の祇園祭の発端は、こういう部分にあったのかも…というような想像。

資料:[ほうとする話](青空文庫)

・・・・・・祭りの発生、その一/折口信夫(興味深い部分のみ、抜粋)・・・・・・

神楽は、鎮魂祭のつき物で、古い形を考へると、大祓式の一部でもあつた。

其が、冬を本義とする処から、夏演奏する神楽と言ふ意を見せて、新しい発生なる事を示したのである。祓へや禊ぎは、鎮魂の前提と見るべきであつた。夏祓へは冬祓へから岐れて、遅れて発生した為、冬祓への条件を具へなかつた。ところが、冬祓へを形式視して、夏祓へを主とする事が時代を逐うて甚しくなつた。

冬の祓へに行はれた神楽が、別の季の神事に分裂して行く。其と共に、神楽の一方の起原になつてゐる石清水八幡の仲秋の行事の楽舞を、夏祓へにとり越して、学んだ形があるのだ。

八月十五日に行ふ男山の放生会(ハウジヤウヱ)は、禊ぎの式の習合せられたものであつた。其神楽を、夙くから行はれてゐた夏祓への行事にとりこむのは、自然な行き方である。まつりと神遊び・神楽との関係から、夏祓へは夏祭りと称せられる様になつた。陰陽道の勢力が、さうした形に信仰を移したのである。奈良末から平安初めに亘つて荒れた五所の御霊を、抑へるものとして、行疫・凶荒の神と謂はれるすさのをの命を憑(タノ)むやうになり、而も此に、本縁づける為、天部神の梵名を称へる事にして、牛頭天王、地方によつては、武塔(答。本字)天神などゝ言うた。

日本の陰陽道の、殊に、地方の方術者は、学問としては、此を仏典として修めた傾向があつて、特に、経典の中にも、天部に関する物、即、仏教の意義での「神道」の知識を拾ひ集めた形がある。日本の神道が、天部名になる外に、漢名を称した事もあつたはずである。世界最上の書たる仏乗に出た本名の威力は、どんな御霊でも、服従させる事が出来た。だから、祇園神の中央出現は、御霊・五所より遅れてゐる。障神・八衢彦・媛の祭りと、御霊信仰とが一つになつて、御霊会が出来、盛んに媚び仕へを行うて、退散を乞うた。其勢力が、牛頭天王に移つて、讃歎の様式に改つて行つたのが、祇園会である。

形こそ替れ、事実から見れば、夏祭りの疫病と蝗害とを祓へ去らうとしてゐる事は一つであり、又一つの祭礼が、主神を換へて行はれた形にもなつてゐる。蝗の害と流行病とを一続きに見てゐた平安時代の農民信仰が「花を鎮む」と書く鎮花祭によく似てゐる。

鎮花祭は、三月末の行事だが、此は夏祭りの部類に入るものである。やすらひ祭りとも言ふのは、其踊り歌の聯毎の末に、囃し詞「やすらへ。花や」をくり返すからだと言ふ。

昔は、木の花を稲の花の象徴として、其早く散るのを、今年の稲の花の実にいる物の尠い兆と見たのだ。歌の文句も「ゆつくりせよ。花よ」と言ふ義で、桜に寄せて、稲を予祝するのである。

其が、耕田の呪文と考へられて、蝗を生ぜしめまいとの用途を考へ出させた。田の稲虫から、又、其家主等の疫病を、直に聯想して、奈良以来、春・夏交叉期の疫病送りの踏歌類似のものと見做される様になつたのだ。此亦、祇園会成立後は、段々、意義を失ふ様になつて行つた。

かうした邪霊悪神に媚び仕へる行事も、稍古くからまつりと言はれてゐる。其は神霊に服従する義で、まつろふの用語例に近いものであつた。夏の祭りは、要するに、禊ぎの作法から出たもので、祭礼と認められ出したのは、平安朝以前には溯らない、新しいものなのである。御輿のお渡りが行はれたのは、夏祭りの中心であつて、水辺の、禊ぎに適した地に臨まれるのである。

広く行はれる御輿洗ひの式は、他の祭礼作法の混乱であるが、神試みて後、人各其瀬に禊ぐ信仰に基いたのであらう。鉾は祓へ串を捧げて、海川に棄てる行事の儀式化したものである。だから、尾張津島の祇園祭りの船渡りなども、祓へ串を水上のある地点まで搬ぶ形であつたのだ。此禊ぎから出た祭りに対して、勢力のあつた田植ゑの神事があるが、此は春祭りの側に言ふ。

・・・・・・以上、抜粋終わり・・・・・・

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古代の祭祀/四月・三枝祭

『事典 古代の祭祀と年中行事』2019吉川弘文館

四月・三枝祭

概要

毎年の4月、国家(神祇官)が大和国添上(そうのかみ)郡(奈良市本子守町)に鎮座する率川神社(率川社)の祝部に幣帛を託し、大物主神の子孫とされる大神氏(三輪氏)の氏宗(うじのかみ=氏上)が行なった祭祀である。

率川神社は率川坐大神神御子神社ともいい、3座の神が祀られていた(『延喜式』神名帳上)。

城上(しきのかみ)郡(奈良県桜井市)に鎮座する大神神社の祭神である大物主神の御子神もしくは「大神の族類の神」(「令釈」)とされてきた。

率川神社は大神神社とは離れた地にあり、その創建は大神氏の勢力が最も拡大した持統朝(7世紀後半)であったという〔和田:1989〕。また付近には後に平城京の外京(げきょう)(条坊拡張部分)が成立し、大神神社の神威は平城京にももたらされていったと考えられている〔藤森:20018〕。


祭祀の内容と方法

『延喜式』四時祭上には三枝祭と3月の鎮花祭(大神神社・狭井神社)の両者について、全j津の通り幣帛を祝部に託すことが記されている。しかし両祭には、祈年・月次祭の班幣のような祝詞宣読などの何らかの祭儀(行事)が神祇官で行なわれた形跡は窺えない。祭日についても4月としか記述がなく、鎮花祭と同様に吉日を選んで行なわれていたと考えられる。

具体的な次第などは不明であるが、祭司にあたり「三枝」の花で飾り付けた酒樽を供えたことが分かり、これが「三枝祭」の名の由来であった(『令集解』「令釈」)。

三枝は通常ヤマユリ(ユリ科)のことと言われるが、他にイカリソウ(メギ科)やミツマタ(ジンチョウゲ科)などとする説もある〔宮地:1949〕。

いずれにしてもその読みは「福草(さきくさ)」に由来し、「三枝」の字義が示す通り茎の先が三つ枝に分かれた、福寿を祝う瑞草であったことが分かる。また酒樽に納めた神酒は、神税の稲百束から醸造されたものであったと考えられる(『延喜式』四時祭上)。

三枝祭の斎行に重要であったのは、事前に大神氏の氏宗が定められていなければ斎行は適わなかった(「令釈」)。三枝祭は氏宗を祭祀者(神主)として行われたのである。この形式は「古記に別なし」とある通り「大宝令」の頃にはすでに定められていた。

国家がみずからの願意を率川神社に伝えるために幣帛を奉るにあたって、幣帛を神祇官から現地まで運ぶのは祝部であり、これを最終的に祭神に奉るのは大神氏の氏宗の役割であった。

祝部は主に神戸(かんべ)の中から任命され、神祇官にて名簿が管理された在地出身の令制官人であった。(『令集解』)。すなわち祝部が幣帛を運搬することは、国家に所属する末端官人としての自然な任務と言える。

一方で、現地で祭祀を行う大神氏は在地の一氏族であり、令制でも明確な規定はなく国家の管理下にはないため、国家祭祀の祭祀者ではない。

国家が主体となり国家のために行う祭祀(国会祭祀)を、特定氏族に委託するという特徴的な形式であった。


祭祀の背景と性格

大神氏が率川神社に対する国家の祭祀を担うこととなった背景には、鎮花祭と同様に、記紀神話における崇神朝の三輪山伝承が語る大神氏と大物主神との関係があった。

それによると崇神天皇の御代、疫病の流行により多くの人々が犠牲となった。あるとき天皇の御夢に大物主神が現れ、疫病の原因が自分の神意であり、その子・大田田根子(『古事記』では意富多多泥古)に自分を祭らせれば、たちまち国に平安が訪れることを伝える(『日本書紀』ではさらに三人の人物が同様の夢を見ている)。

天皇は国中を探して、ついに大田田根子を見つけ出し(『紀』では茅淳県陶邑(ちぬのあがたすえむら)〈大阪府堺市東南部〉、『記』は河内の美努(みぬ)村〈大阪府中河内郡〉とする)、これを神主として三輪山で祭祀を行わせた。すると疫病は収束し、国家は平安を取り戻して五穀豊穣になったという。

三枝祭の神主となる大神氏は、この大田田根子の子孫にあたり、右の伝承を起源として祖神・大物主神を奉斎してきた。大神神社の御子神である率川神社へも同様である。

古来の原則として、国家は国家の願意(疫病鎮静など)を個別の神社に直接祈り祀ることはせず、在地・氏族の祭祀に対しては不介入の姿勢を保った。そのため、神話伝承で大物主神の子孫とされる大神氏の氏宗を神主として、国家祭祀(三枝祭)を委ねる必要があったのである。

三枝祭の意義については明確な記述がないが、率川神社の親神を祀る鎮花祭と同様、疫病の予防・鎮静の意義をもつと考えて良いだろう。国家にとって率川神社は、三輪山から離れた平城京における防疫神と認識されたのである。

一方、大神氏は個別の氏族(氏神)祭祀として大神祭(四月・十二月上卯日)を行なっていた。これは貞観年間(859~877)に公祭となるが、大神氏が氏族のための祭祀を行う時、大物主神は他氏族の氏神と同様の単なる始祖神であった。これは国家にとっての大物主神が防疫神としての性格で認識されていたことと対照的である。

国家祭祀の三枝祭と氏族祭祀の大神祭が、祭司者を同じにしながらも全く祭祀の目的を異にする祭祀であったことがわかる〔藤森:2008〕。

また二月・十二月の「率川祭」は率川神社の祭祀ではなく「率川阿波神社」(現在は率川神社の摂社)への祭祀であった。


変遷

三枝祭は平安時代中期には廃絶したが、明治12年(1879)に率川神社が大神神社の摂社となるに伴い、同14年に再興した。

現在は毎年6月17日に別名「ゆりまつり」として行なわれており、濁酒(黒酒)・清酒(白酒)を入れた酒樽を三輪山のユリの花で飾り供える祭りが行なわれている。


参考文献

宮地治邦「三枝祭について」『神道歴史学』一、1949

和田萃「率川社の相八卦読み」『日本古代の儀礼と祭祀・信仰』中、塙書房1995(初出1989)

藤森馨「鎮花祭と三枝祭の祭祀構造」『古代の天皇祭祀と神宮祭祀』吉川弘文館、2017(初出2008)

(木村大樹)

ヨーガの私的研究:言語篇

「ヨーガ」の語源は、サンスクリット語までさかのぼる。

※アーリア文明以前のインダス文明の時代からヨーガは知られていたという、かなり信憑性の高い説があるのですが、実際の言葉としては残っておらず、サンスクリット語が一番古い言葉である、という状態なのだそうです。インダス文明の言語は印章文字などが有名ですが、ロゼッタ・ストーンのようなバイリンガル石碑が発見されていないため、いまだ解読されていないそうです…^^;

サンスクリット語の母音には原則として短母音と長母音の区別があるが、エ行とオ行に限りその対立はなく、すべて長い音として発音するのが決まり。例えば「deva(神)」は「デーヴァ」と読み、「soma(神酒)」は「ソーマ」と読む。「yoga」は「ヨーガ」と読む。

ただし、サンスクリット語やヒンディー語の長音は、故意に伸ばして発声される場合を除き、日本語の長音に比べると、心持ち短めに発音される傾向がある。だから日本人の耳で聞くと「ヨガ」と聞こえる事も少なくない。

サンスクリット語の「yoga」は、英語の「yoke」と同源。サンスクリット語はインド=ヨーロッパ語族に分類され、同じ言語グループに属する古代ギリシャ語、ラテン語、ゲルマン語などと多く共通する部分がある。

>>サンスクリット語「yoga」同系語(※注=サンスクリットからの借用語ではない):
@ギリシャ語・・・「zugos(ズゴス)」
@ラテン語・・・「iugum(イウグム)」
@ロシア語・・・「igo(イゴ)」
@フランス語・・・「joug(ジュ)」
@スペイン語・・・「yugo(ジュホ/ユホ)
@ドイツ語・・・「Joch(ヨホ)」
@英語・・・「joint(ジョイント)」

インド=ヨーロッパ祖語では「yeug」(再建語)。サンスクリット語根は「√yuj(くびきで繋ぐ)」

サンスクリット語の「yoga」は、名詞として「くびき、結合、連結」の意味を表す。ヨーロッパ諸語の対応語も、総じて「くびき」または「くびきで繋ぐ」を意味する。古代アーリア民族は馬車を利用した民族であり、移動手段として牛馬にくびきを繋いでいた事が知られており、これらの事柄から、本来の「yoga」は極めて日常的な語彙であった事が推測される。

「yoga」を神秘的に解釈すると、「絶対者と我とを繋ぐ」「自己内奥と繋ぐ」という風になり、これが現在の哲学的な意味での「yoga」の定義になっていったのではないかと言われている。(現在のヨーガの定義=「心と身体を結びつける」?)

※ちなみに、チベットはヨーガを受け入れたとき、チベット訳「ネー・ジョル」を作っています。これは「ヨーガ」の原義と修行の意味を十分捉えつつ、一対一に翻訳されたものだそうです。「ネー=沈着・平静」、「ジョル=保つ、くっつく、手中にする」の意味だという話。

◆瑜伽という漢訳語について・・・◆

東アジアに伝播した大乗仏教の伝統においては、玄奘三蔵以前の訳経(=旧訳・くやく=)では、「yoga」=「相応(=合わさる)」という漢語が充てられた事が知られています。サンスクリット語根に忠実に翻訳した言葉(意訳)。

玄奘三蔵以後の訳経(=新訳・しんやく=)では、「yoga」=「瑜伽」という音写語に改められ、それ以後は、これが定着した用語となり、現代に受け継がれているという事です。

今日の中国語発音では「瑜伽=ユーチエ」。玄奘三蔵の時代の発音(唐音)を復元すると「ユカ/ユキャ」となり、本来のサンスクリット語の発音にかなり近いと言われています(その当時、ヨーガは既に壮大な歴史を持っており、一対一の漢訳語に置き換えにくかったらしい…)。

現代は、華僑の間では「瑜伽(ユーチエ)」「瑜珈(ユーチア)」の混乱、或いは併用が起きているそうです(※華僑の出身地が華南地方に集中しており、華北と華南との発声習慣が異なるためらしいと言われていますが、詳細はよく分からない)

※瑜=美しい玉
※伽=なすび(主にサンスクリット語の音写に用いられた文字)
※珈=婦人の髪飾り

◆ヨーガ行者(ヨーギン/ヨーギニー)という語について・・・◆

サンスクリット語の名詞には男性、女性、中性という3つのジェンダーがあり、曲用(実名詞=名詞・形容詞の語形変化)の仕方がそれぞれ異なっています。サンスクリット語の実名詞は、語幹の語末の音によって、別々の曲用パターンとなります…と、いう話(?)。

(※語末が子音・母音のいずれで終わるか。子音の場合、どの子音で終わるか。母音の場合、短母音か長母音か。など。)

サンスクリット語の実名詞には、主格・対格をはじめとする8つの格があります。

更にサンスクリット語の名詞には、単数形と複数形に加えてデュアル(双数形)という形態があります。対をなす2つのものを一まとめにして言及するときも、曲用のパターンがさらに異なるという訳です(=ちゃんと理解できているかどうか自信ありませんが、資料を読む限りでは、そのように説明されています)

>>「ヨーガ」は「ア」という短母音で終わる男性名詞。「ヨーガは」=「ヨーガハ/ヨーガス」、「ヨーガを」=「ヨーガム」と変化する。

>>これに続いて、「ヨーガをする人(語幹)」=「ヨーギン(男性の場合)」、「ヨーギニー(女性の場合)」となる。これらが単数・複数・双数の3通りにわたり、それぞれ8つの格変化形を持つ。

>>ヨーガを行なう男性の事を「ヨーギー」と呼ぶが、これは「ヨーギン」の単数・主格形(忠実に訳すと「1人の男性ヨーガ行者は」)。「ヨーギニー」は「女性ヨーガ行者(サンスクリット語幹)」の単数・主格形。