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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

読書ノート:平安貴族と陰陽師

『平安貴族と陰陽師―安倍清明の歴史民俗学―』繁田信一・著、吉川弘文館2005

・・・《病気への対応》・・・

平安貴族は、卜占や呪術によって病気に対処することを陰陽師の役割として求めていた。他にも、病人が出た場合、「験者」と呼ばれる密教僧を頼ることも多かった。

一般に、験者・医師(医家)・陰陽師の三者が病気治療に関わっていた。

安倍清明著『占事略決』によれば、病気の原因は「神」・「仏」・「霊鬼」・「呪詛」・「その他」と決まっており、卜占によって原因を絞るという診察が行なわれていた。

※「無数の可能性の中から原因を探す」という科学的な医術は、近代になってからの方法。

『占事略決』に見える病気の原因(資料より)

【神の類】
社神(やしろのかみ)・氏神・大歳神(おおとしがみ)・土公神(つちぎみのかみ)・水神(みずのかみ)・水上神(みなものかみ)・山神(やまのかみ)・道路神(みちのかみ)・竈神(かまどがみ)・廃竈神(すたれかまどのかみ)・馬祠神(うまのほこらのかみ)・儛神(まいのかみ)・形像(かたしろ)
【仏の類】
仏法・北辰(妙見菩薩、北君)
【霊鬼の類】
丈人(祖霊)・悪鬼・客死鬼(かくしき)・縊死鬼・溺死鬼・兵死鬼(へいしき=戦死者の亡霊)・乳死鬼(にゅうしき=夭逝者の亡霊)・道路鬼・厠鬼・求食鬼(ぐしょくき)・无後鬼(むごき=子孫を残さずに死んだ者の亡霊)・母鬼(もき=幼子を残して死んだ母親の亡霊)・疫鬼(えきき・疫病をもたらす鬼。裸形で槌を持ち、その槌で人の頭を殴って死をもたらす)
【呪詛】
呪詛(式神・貴布祢明神などの霊物)
【その他】
風病(風気)・宿食物誤・厨膳・毒薬

「風病」というのは、現在の風邪とは異なる病気であったらしい。症状としては「顔面の火照りや全身の倦怠感」、対応としては按摩(マッサージ)などが有効だった事が記録に見える。風病によって四肢に異常が生じる事が、ごく普通に生じたとされている。

重篤な症状としては「口や鼻より血を噴き出す」というのがあり、これで死んだ人もいたという記録がある。

なお、現代の研究では、「風病」とは、中程度以上の身体不調の症状を幅広く指すものであり、現代の病名としては、神経疾患から脳溢血・半身不随といった中枢性・末梢性神経疾患であったろうと見立てられている。

そして陰陽師は、この「風病」は神仏の祟りといった病気の原因と同列に扱っていた(病気それ自体としては扱わなかった)。診断を下すときは、「この身体不調の原因は祟りではありません、風気(風病)によるものです」といったような感じだった。

実際に病気の治療にあたるのは医師だが、陰陽師はその医薬や医術が有効であるか、安全であるかの保証に関わっていたらしい(=「占いによれば、この方法は良いでしょう」というような感じ)。昔の薬(漢方薬)は成分が安定せず、有効性にはかなり疑問符が付くレベルだった。

このように「風病」は恐れられたが、とりあえず医薬や医術で対応できる普通の病気であり、それよりももっと恐れられたのが、祟りによって重くなったり長引いたりする病気だった。こうした病気は特に「もののけ」と呼ばれ、非常に恐れられていたものだった。

【もののけの原因だとされた神】=稲荷社、宇佐宮、日吉社、春日社、貴布祢社、竈神、土公神

【もののけの原因だとされた仏】=妙見菩薩、聖天(しょうてん)、金峰山寺

当時の平安貴族たちは、「神は仏を嫌う」と考えていたため、神の祟りによる「もののけ」には陰陽師による禊祓(みそぎはらえ)が用いられ、仏の祟りによる「もののけ」には験者(密教僧)による御修法(みしゅほう)や加持祈祷が用いられた。鬼による「もののけ」には鬼気祭が用いられた(陰陽師が執り行なった)。


プチ・メモ・・・当時の医師が使った医薬や医術(陰陽師では無い)

  • 「韮(にら)」=お腹の症状全般に対する効果を期待された(下痢を止めるなど)。今は野菜の一種。
  • 「呵梨勒丸(かりろくがん)」=便秘解消薬
  • 「朴(ほお)」=風病の薬。朴はモクレン科の樹木であり、この樹皮や根皮を乾燥させたものが漢方薬の原料になる。多分、煎じて飲むから、液体の薬(=「熱い朴の汁」の記述あり)?
  • 「湯茹(ゆゆで)」=湯治。温浴によって身体を温める。

『紫式部の父親たち―中級貴族たちの王朝時代へ―』繁田信一・著、笠間書院2010

▼将来を占いで知ろうとする造酒正(みきのかみ)の書状▼

巳年男所望成敗如何。
_月_日      造酒正
陰陽頭殿

【解説】卜占の依頼状。「巳年の男の望むところの成否は如何でしょうか」という内容で、陰陽頭への卜占の、重ねての督促状に近いものらしい(「所望」の内容は、先に出した別の書状に書かれてあったはず。殆どの中級貴族は大きな財力を期待できる大国の受領国司を望んでいたから、この書状の主も、おそらく受領の地位を手に入れることを望んでいたものと思われる)。

当時の官位官職における出世レースでは、このように、大貴族に口利きを依頼するだけでなく、陰陽師に卜占を依頼したりしてその可能性を探っていたものらしい。

卜占の結果が程々に良いものであれば、返書の内容は以下のようになったと言われる:

右、御教書以到来之時推之巳年男之御所望可令成就給欤。但被祈請仏神者弥不可有其疑欤。ム恐惶謹言。
即日      陰陽頭

【意味】「右のことにつきましては、お手紙が私の元に到着しました時刻を手がかりとして占いましたところ、巳年生まれの男性のご希望は、実現なさるに違いないのではないのでしょうか。ただし、仏や神に祈願なされば、あなたのご成功については、いよいよ疑う余地などあるはずもないのではないでしょうか。(取るに足らない者が)恐れ畏まりながら謹んで申し上げます/即日に/陰陽頭」

▼高僧に熾盛光法の勤修を依頼する手紙▼

熾盛光之法以吉日可被修之由有其仰。番僧浄衣令染何色乎。壇供等支度早可注給也。為令下料物也。敬白。
_月_日      前備中守
謹上 東塔阿闍梨御坊

【意味】熾盛光法(しじょうこうほう)を吉日に勤修なさるようにとのこと、殿より仰せがありました。つきましては、修法(すほう)を補佐する僧たちの法衣は、どのような色に染めさせましょうか。また、修法の壇に置く供物として用意しなければならない品々につきましても、早いうちに書き出してお示しいただきたいところです。もちろん、殿の財産を管理する倉に必要な物品を供出させるために他なりません。軽輩が敬いつつ申し上げます。/_月_日/前備中守/謹上(きんじょう) 東塔阿闍梨御坊(とうとう-の-あじゃり-ごぼう)

【解説】修法=仏の力を借りる呪術。熾盛光の法(しじょうこう-の-ほう)というのは熾盛光仏頂という仏の力にすがろうという修法である。釈迦如来の忿怒の化身と見なされていた熾盛光仏頂を頼る御修法は、天変地異が確認されたとき、その後に予想される災厄を鎮めるために用いられたということである。上記書状が出された頃、日蝕・月蝕・台風・地震などが起きていた可能性があるという。この書状を書いた人物は、上級貴族の執事(家司)を務めていた中級貴族。

▼後冷泉天皇の泰山府君祭都状(この書状の「親仁」部分は後冷泉天皇による自筆署名)▼

謹上 泰山府君都状
南閻浮州大日本国天子親仁年廿六 献上 冥道諸神一十二座
 銀銭二百四十貫文 白絹一百二十疋 鞍馬一十二疋 勇奴三十六人
右、親仁謹啓泰山府君冥道諸神等。御践祚之後未経幾年。而頃日蒼天為異変黄地致妖物怪数々夢想紛々。司天陰陽勘奏不軽其微尤重。若非蒙冥道之恩助何攘人間之凶厄哉。仍為攘禍胎於未萌保宝祚於将来敬設礼奠謹献諸神。昔日、崔夷希之祈東岳延九十之算趙頑子之奠中林授八百之祚。古今雖異精誠惟同。伏願垂彼玄鑒答此丹祈。払除災厄将保宝祚。刪死籍於北宮録生名於南簡。延年増算長生久視。親仁謹啓。
永承五年十月十八日      天子親仁謹状

【読み下し】謹みて泰山府君に都状を上ぐ/南閻浮州(なんえんぶしゅう)大日本国天子親仁年廿六の冥道(みょうどう)諸神一十二座に献上す/銀銭二百四十貫文 白絹一百二十疋 鞍馬一十二疋 勇奴三十六人/右、親仁の泰山府君・冥道諸神等に謹みて啓(もう)す。御践祚の後、未だ幾年を経ず。而るに、日頃、蒼天は異変を為して黄地(おうち)は妖(よう)を致し、物怪(もっけ)は数々(すす)にして夢想は紛々(ふんぷん)たり。司天(してん)の陰陽(おんみょう)は軽(かろ)かざるを勘(かんが)へ奏(そう)せば、其の微(しるし)は尤も重からん。若(も)し冥道の恩助を蒙(こうむ)るに非ずんば、何ぞ人間の凶厄を攘(はら)はん哉(や)。仍(よ)りて、禍胎を未萌(みめい)に於いて攘(はら)ひて宝祚(ほうそ)を将来に於いて保たんが為に、敬ひて礼奠(れいてん)を設けて謹みて諸神に献ず。昔日、崔夷(さいい)の之を希みて東岳に祈るに九十の算を延べ、趙頑(ちょうげん)の之を子(のぞ)みて中林に奠(まつ)るに八百の祚を授く。古今は異なると雖も、精誠(せいせい)の惟(おも)ひは同じからん。伏して願ふに、彼の玄鑒(げんかん)を垂れて此の丹祈(たんき)に答へよ。災厄を払ひ除きて将に宝祚を保たんとせよ。死籍(しじゃく)を北宮に於いて刪(けず)りて生名を南簡に於いて録(しる)せよ。年を延べて算を増し、長く生きて久しく視(み)ん。親仁の謹みて啓(もう)す。

【解説】「都状」=陰陽師の行なう呪術の中で陰陽師によって読み上げられた文書。有力な皇族や上級貴族は、こうした都状(神々への嘆願書)を自筆せず、読み書きに熟達した文章家に代筆させるものだった。大抵の場合、代筆を行なう文章家は、漢籍故事に詳しい中級貴族(文人貴族)が務めた。「勇奴」=屈強な奴隷。「践祚」=即位。「宝祚」=帝位。「親仁(ちかひと)」=後冷泉天皇の諱(いみな)。即位前は親仁親王だった。書状が出された当時は数え年26才。「司天の陰陽」=陰陽寮による卜占の結果。「玄鑒(げんかん)」=「人の振舞いを全てみそなわす《神の眼》」と言うような意味。

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空海と水銀・後篇

歴史の研究のため、保存メモ(fideli d'Amore様による著作、サイト消滅にも備えて)

以下、《http://blog.livedoor.jp/hsmt55/archives/50807253.html》より必要部分を抜粋


空海が唐に留学した経緯とその当時の日本という国の宗教的環境をどのように表象するか

まずは、伊藤義教氏の研究からも知られるように、孝徳天皇期(654年)や斉明天皇期(657年)には、すでにトカラ国(ソグド人の国ソグデイアナとダブっています)から高位の者が、妃を連れて来朝したという記録が日本書紀にも残されている。伊藤氏は、大胆にも日本書紀に記されている「乾豆波斯達阿(けんずはしだちあ)」なる人物を、ササン朝最後の王、ペーローズであると断じている。伊藤氏は、また香具山から12キロの水路を曳くという斉明天皇時の一代土木事業「狂心渠」にも言及し、イランやアフガンのカナートの土木技術士も日本に来ていたことを示唆している。こんなことからも西域や中東との人的交流、技術交流は現在一般にイメージされているよりも、ずっと濃厚であったことが伺われる。また753年に鑑真和上と来日した弟子の安如宝も、今でいうペルシア人、多分ソグド人であった。そのソクド人だが、もともとはゾロアスター教徒であったといわれている。

インドの古代ヴェーダの神々は、もうひとつの古代イラン文明と活発な交換があったようだ。松岡正剛氏は、『空海の夢』で、古代ヴェーダのアスラが、古代イランの最高神、アフラとなり、後にゾロアスター教のアフラ=マツダとなり、そして大日如来になった経緯を懇切丁寧に説明してくれている。栗本氏も言っているように、大日如来そのものが、イラン起源なのだ。

さてソクド人は、キャラバンを組んで商人として活躍し、また道教の練丹術のパトロンでもあった。(ヨゼフ・ニーダム「中国科学の流れ」参照)、イスラーム勃興後は、イスラームに改宗した者やイスラームから逃れて山中に隠れ住み現在に至った人たちもあるようです。イスラーム時代のソグド商人は、アジア各地の香料を求めて海洋航海にも乗り出し、アラビアと中国を結ぶ海洋航路を開拓していきます。きっと鑑真和上の日本渡航に際しても、そうしたソクド人ネットワークが、なんらかの役割を果たしたのではないだろうか。現在では、ソグド語は、フランスのバンヴェニストなどディメジルなどよって研究されていて、現在でもバルフ近郊の発掘は、フランス人が現地の住民にフランス語から教えて発掘要員を確保しているという。フランス恐るべし。

ところでソクド人が仲介したと思われる中国道教の錬金術は、

  1. 金液丹によって長寿を生み出すこと。
  2. 錬金術において赤い硫黄の成分を生み出すこと。
  3. 他の金属を黄金に変成させること。

が三大特徴とされているが、ソグド人は、もともとアラビア錬金術にはなかった錬金薬液理論「エリクシール」をアラビアに伝播させただけではなく、この道教錬金術は、当時の日本の宗教文化を考える上でも決して小さくない潮流だったことが伺われる。726年には藤原不比等ら(不比等は悪い)の陰謀で、陰陽道という呪術に耽っているという廉で長屋王が自害させられるという事件がおきているが、これなどもその真偽のほどは疑わしいとはいえ、当時流布していた道教的要素を伺わせる。

東大寺の盧舎那仏建立は、741年に聖武天皇が、大仏建立の詔を発し、752年には大仏開眼供養会が行われた。その後、大仏建立に携わった職人が、多数死んだことは有名です。その原因は、大仏を鍍金(金メッキ)した際に、多量の水銀を使用したための水銀中毒であったといわれている。大仏の鍍金は、以下のように行われた模様である。水銀5に対して金1の割合で少し加熱した水銀に金を溶かし込むと、二つの金属は簡単に混ざり合いゴム状の状態=アマルガムになり、このアマルガムを地金に塗り付け、最後に地金を火で炙り水銀だけを気化・蒸発させ地金の表面に金の皮膜を作り鍍金したという。

ところで大仏を鍍金するという発想は、遊牧民族の鮮卑が作った国、北魏の都、洛陽の北魏仏の特徴で、道教錬金術の影響であることは明らかである。先に触れた栗本氏は、日本の「平城京」という名称のもとは、遊牧民族の鮮卑が作った北魏の都の名称「平城京」から取ったものであるといっているが、大仏の建造の手法からも、栗本説は、説得力があるように思える。

門柱を朱に塗るというのも道教の影響であったと思われる。硫化水銀の粉末から作られる「朱」は、上述の道教錬金術の三大特徴である2にあたる。また不老長寿の金紅丹も、水銀を希釈して作ったものであった。現代風にいえば、ホメオパシーにあたる。そういえば、シュタイナー医学も不眠症の治療に水銀を使う。話を戻せば、道教的なシャーマニズムの土壌は、空海を考える上でも当時の日本仏教を考える上でも無視できないものがある。空海自身は、水銀鉱脈を捜しまわる鉱山師の側面をもち、水銀鉱脈を多数掘り当て相当な財を築き、それを宗教組織の維持拡大の資金にしたといわれている。空海は中央構造線の存在を既に知っており、後世の寺院による資源の開発を期して、そこに遍路道をめぐらし真言寺院を配置したと云われている。高野山や四国八十八霊場なども水銀鉱脈の上を通っており、霊場の付近には水銀の採掘口の跡が多く残っているという。また「朱」=水銀は、生命の象徴とも考えられ、丹生一族は「朱」=水銀を取り扱う山岳修行者の技術者集団でした。丹生一族の家系は古いようである。このあたりのことは、名古屋大学の武田邦彦教授のサイトが詳しい。丹生一族の来歴は以下のように記されている。

http://www.asahi-net.or.jp/~uu3s-situ/00/3.html
『日本の水銀の女祖、丹生都比売(にゅうとひめ)が誕生したのは日本の水銀鉱脈の西のはずれ、九州の邪馬台国の伊都国でした。この一族は、熊本の八代や佐賀の嬉野の水銀を押さえていた氏族でかなりの勢力を持っていたようです。でも実際には「伊都国」というのはあまりに古すぎてほとんどその歴史は知られていませんが、官を爾支(にき)と呼んでいたらしく、これは丹砂という水銀の砂の意味であるとも言われています。九州で邪馬台国が衰え始めたとき、この一族は大分から、四国、広島へと移動し、丹生都比売が率いる氏族は四国を進み、さらに淡路から和歌山へと進出したのです。和歌山にも優れた水銀鉱脈があったので紀の川流域にも住みつきました。とくにその中でも丹生一族は紀州、吉野・宇陀、伊勢の豪族と一緒になって、一大勢力になったようです。また、丹生都比売の別動隊は、広島から石見・出雲、播磨、そして丹後へと東進して福井に至っています。古代の水銀鉱山は地表から斜め下に掘って行きましたが、掘る長さはせいぜい50メートル程度で、掘り進んだ水銀鉱脈が尽きれば移動しなければならなかったわけです。つまり鉱脈が小さかったので、移動が頻繁だったことが日本の主要な神社が高千穂、出雲、紀伊、吉野、伊勢、諏訪、そして鹿島と続いている原因になったのです。』

こうした記述からは、空海の背後には、大和朝廷の成立などよりずーと古い、古代日本のシャーマニスティックな世界が広がっている様子が伺われる。そればかりではない。冒頭の栗本氏の「王権や律令国家の基礎は曽我氏が作って今日に至るのだ。また北日本を中心にして、金属高山関係者、水利事業者、運搬事業者、山岳信仰関係者、遍歴の商人など、非主流に回った曽我氏や聖徳太子の一統が残されたのである。」という発言と出雲の流れを考えるとき、(中略)明治維新(中略)がでっち上げた「国家神道」や「国体」思想が、いかに日本の原像を歪めてきたかということも見えてくるのである。

話がまたもや脱線したのでもとに戻すと、こんなわけだから空海ばかりでなくその当時の日本文化全体においても中央アジアの影響は見逃すことができない。当時の唐招提寺の境内では、中央アジアの蛇使いやら中央アジアのシャーマニズムが見世物としてよく行われていただろうと杉山二郎氏なども『天平のペルシア人』などで当時の唐招提寺の境内の様子を描写している。また774年に東大寺の要職についていた「修二会」の創設者で有名な実忠和尚もペルシア人であった。お水取りの儀式は、ゾロアスター教の影響というのは定説である。このように空海以前にもイラン系の人との人的交流は盛んで、また中央アジアのシャーマニズムの影響も大きかったようだ。

もうひとつ気にかかる問題は、空海の出自である。松岡氏は、空海は遣唐使船に乗り込むまでは優婆塞、つまり在家仏教者であり、山林に籠って修行する、要するに山伏であったという五来重氏の説を援用している。また空海の家系である佐伯部は、5,6世紀ころ、大和朝廷の征服によって捕虜になった蝦夷(アイヌ人)であったという仏教者の渡辺照宏氏等の説を紹介している。(中略)

こうした記述から伺われるのは、空海を取り巻く仏教の環境が、必ずしも天竺からのだけのものではなかったということである。そんなことからも先にも見てきましたように、空海には中央アジアのシャーマニズムに対するアンテナがあったように思われるし、ソグド語も解したという説もある。空海は、語学の天才でもあったから、さもありなん。

(中略)どうも真言密教には、インド以外の中央アジアのシャーマニズムやグノーシスが紛れ込んでいる(中略)。そもそもグノーシス思想の故郷は中央アジアにある(中略)。アレキサンダー大王以来、太古の東方の身体技法と西方の論理が混交してできたものだろう(中略)。それに中央アジアの部族には、蛇をトーテムに持つ部族や、鳥をトーテムに持つ部族がいたようです。たとえば、真言密教の胎蔵会曼荼羅には、孔雀明王というのが出てくるが、…これはクルド人のイエジディーの「メレク・タウス(孔雀王)」(孔雀は蛇を撃退する)からきているものではないか(中略)。クルド人の起源は古く、イスラーム以前に遡る。クルド人は、ジンという土俗の悪霊の子孫と自称したり、またイスラーム以前のジャーヒリアの時代にアラブ世界からはそう思われていたようである。でもジンは、日本の鬼のような存在なのだろうか、鬼が一概には「悪」とも言えないように、ジンもまた一概に「悪」とはいえないようだ。詩人はマジュヌーンつまり、ジンが憑依しなければ、詩人にはなれないという話だ。ムハンマドも始めは、ジンに取り付かれたのだ、と言われていた。

また話がそれたので戻すと、このカドケウスの杖、またはメルクリウスの杖(水銀=メルクリウス=ヘルメス=女性原理)の杖が、どのような経路で高野山にあるのか(中略)…シリアのハラーンにその中心地があるサビ教徒からの伝播ではないか(中略)。

サビ教徒は、星辰崇拝が特長で、バビロニアの星辰信仰と数学研究(ピタゴラスも影響を受けている)そしてエジプトに向かって礼拝する宗教で、ヘルメス学のメッカです。このサビ教徒は、メルクリウス=水銀の流れとも言われている。一説では星を見てイエス誕生を告げにきた、聖書の東方の三博士、後のシャルルマーニュの時代ケルンの聖堂では、シリア資料からこの三博士の名前を、ガスパール、バルタザール、メルヒヨールと名づけたが、これはサビ教徒からの情報ではないか思っている。ちなみにエジプト錬金術の伝達者のスーフィー、マアルーフ・カルヒーの両親はサビ教徒で、中央アジアのスーフィーのアッタールが、彼の伝記を書いているくらいだから情報は伝播していたのだと思う。

どうして高野山にヘルメスの杖があるのかはその経緯はよく分からないが、まったく無縁とも思えない。あの両界曼荼羅だって、西欧的文脈で言えば、かなりヘルメティツクなものとの親和性は強いように思う。中央アジアで発生した知識や技術が、一方では西欧錬金術を生み、もう一方では、中央アジアから中国を経由して日本に伝わったのではないだろうか、という憶測も可能なような気がする。それに長安(今の西安)には、今でも景教碑が建ち、それによれば635年には景教(ネストリウス派キリスト教:その本部は、ホラーサーン地方のメルブにあった)が伝わり波斯寺が建ち、その後にササン朝崩壊となったのだから、ペルシア人の来朝とともに日本にはすでにキリスト教も入ってきていた可能性も高い。また道教の修法の中には、太乙金華宗旨」のように景教のイメージが入り込んでいることは、よく知られていることなので、長安までそうした「水銀の流れ」の情報が届いていたとしてもおかしくないように思えてくる。

このように確かに空海が伝えた密教は、だいぶ仏教以外の要素が混交しているように思えるが、(中略)世界がキリスト教化される以前の(中略)ユダヤーキリスト教の古層に横たわる、より古い原始の宗教的な意識を知る上でも、…興味深いものがある。かつてギリシア人は、バクトリアというオアシス国家を世界の辺境にして中心と呼んでいたが、古代日本は、世界の諸潮流が交じり合うもうひとつの中心であったように思える。

空海と水銀・前篇

歴史の研究のため、保存メモ(fideli d'Amore様による著作、サイト消滅にも備えて)

以下、《http://blog.livedoor.jp/hsmt55/archives/50806598.html》より必要部分を抜粋


もう大昔のことになるが、オーストリア在住の英国の建築家の通訳として以前高野山に行ったことがある。そのとき宝物殿の中にカドケウスの杖(二匹の蛇が、螺旋状に絡み合った杖)があった。その建築家は、どうしてこんなところにカドケウスの杖があるのか、と驚いていた。ぼくもそのときは、その当時の東西の文化交流は、一般に考えられているよりも、ずーと広範なんだな、と思った覚えがある。(中略)

ところが湾岸戦争あたりから、中東の宗教に興味が沸き、いろいろ読みあさっているうちに、中央アジアやシルクロードの歴史や宗教、特に7,8世紀ごろから11,12世紀の歴史に興味を抱くようになり、そこからどういうわけか日本や西欧の文化を見直してみると、とても新鮮に見えるように思えた。そして世界の文化を理解する鍵は、中央アジアにあり、と徐々に勝手に「思い込こむ」ようになった。正倉院の御物には、ペルシアの文物が保管されているのは誰もが知っているのだから、多分そんなことは、慧眼の士はとっくに気づいていたのだろう。ボーとしているぼくも、遅ればせながら、積極的な興味を持つようになった。そんな眼で、天平時代を見てみると、なにか遥か遠くのシルクロード西端の文化まで含む当時の国際文化の終着駅のように見えてくるのである。

曽我氏や聖徳太子のルーツを中央アジアの遊牧民、スキタイに求める栗本慎一郎もその著『シリウスの都 飛鳥』の序で、「私は、東イラン高原が人類文明の起源の地であるだろう」と語り、氏は、「日本史は今後、世界史のキーになるだろう」と予想している。またこんなことも言っている。「王権や律令国家の基礎は曽我氏が作って今日に至るのだ。また北日本を中心にして、金属高山関係者、水利事業者、運搬事業者、山岳信仰関係者、遍歴の商人など、非主流に回った曽我氏や聖徳太子の一統が残されたのである。蝦夷の将軍アテルイ、奥州藤原氏、北関東の王・平将門は、いずれもその関係者またはその後裔である。」

そして栗本氏は、日本の文化要素を、ゾロアスター教よりもっと古いミトラ教に求めている。

またアーサー王伝説の起源をスキタイのサルマティア人のナルド神話に求めるスコット・リトルトンとリンダ・マルカーの共著『アーサー王伝説の起源』の解説を書いている神話学の吉田敦彦氏は、日本神話の起源もこのスキタイの遊牧民の神話にそのルーツももっているという。西欧の伝説もこの極東の神話を同じルーツを持っているなんてなんと魅力的であることか。


《http://blog.livedoor.jp/hsmt55/archives/50807253.html》

まずは、このカドケウスの杖であるが、別名メルクリウスの杖(水銀=メルクリウス=ヘルメス=女性原理)の杖とも呼ばれて、ギリシアの医神アスクレピオスの杖との同根と考えられている。神話学者のケレーニーによれば、東洋全般に流布していたように、古代ギリシア人は、蛇の絡まる杖を大地の治癒力と考えていたようである。蛇を大地性と結びつけるのは、洋の東西を問わず、ユダヤキリスト教以外の世界では、世界中広く流布している。さらに起源を辿れば、この原型は、シュメールやバビロニアの医神で、また冥府の神でもエンキドウが持つ2匹の蛇が巻きついた杖にあると言われているが、カルタゴでも崇拝されたフェニキアの医神をエシュムーンも同じように描かれ、ギリシア人によって医神アスクレピオスに同化されたものと言われている。

冥府を蛇と結びつけられているのも全世界に見られるものだ。出雲大社も、黄泉の国の入り口と看做され、蛇を祭っている。筑紫申真氏によれば、アマテラスだってはじめは、雄の大蛇だったという話である。縄文の蛇信仰は有名だ。ともかく「蛇」は、出雲から縄文にまでの連続性を感じさせる。

北欧神話の生命樹イグドラシルの根の下にも蛇が描かれ、蛇が冥府と再生のシンボルであり、その地母神的性格は、万国共通なようだ。南方熊楠の十二支考だって「蛇」の項は長い。またインド的関連では、このヘルメスの杖は、イダーとピンガラといういわゆるサーペントパワー(クンダリニー)の上昇する経路と同一視されたり、西欧の錬金術の図像にも多く登場する。人間の男性的側面と女性的側面の結合、太陽と月、硫黄と水銀の結合など多くの解釈を生んでいる。

それはさておき、空海との関係だが、空海が入唐したのは、804年。805年に長安の西明寺に居を定める。その当時の長安は、安史の乱(755年~763年)の以後の世界で国力は衰え、混乱した時代であった。ところでなぜ安史の乱と呼ばれているかといえば、反乱軍のリーダー安禄山(あんろくざん)と史思明(ししめい)の二人の名前に由来しているが、安禄山は、西域のソグド人(イラン系)と遊牧の民、突厥を両親にもっている。このことからも空海が入唐した時代の長安の雰囲気を感じることができる。唐の時代は、石田幹之助氏の名著「長安の春」でも詳説されているが、西域の文化が一世を風靡した時代で、石田氏の研究によれば、「安」という苗字は、西域のブハーラやサマルカンド(今のウズベキスタン)出身者につけられた苗字とのこと。

ついでに触れておけば、唐とイスラームの戦争の最前線であったこの西域の地域は、戦争ばかりでなく、双方の深い文化交流のあった地域でもあった。中国の紙は、サマルカンドから、イスラームそして西欧に伝わる。また道教医学から多大な影響を受けたアラビア医学の祖、ブハーラ生まれのアヴィセンナことイブン・シーナの思想は、フランスのモンペリエ大学に伝わり、西欧医学の礎となっていく。またこの地域は後に、多くのスーフィーたちを生み、少し下ったイランのホラーサーンやバクトリア(現在のアフガン)のバルフあたりは、スーフィズムのひとつの中心となる。栗本氏は、日本文化の発祥の地はこのあたりだという。