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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

古代の祭祀/三月・鎮花祭

『事典 古代の祭祀と年中行事』2019吉川弘文館

三月・鎮花祭

概要

大和国城上郡に坐す大神大物主神社と、そのすぐ北に位置する狭井坐大神荒魂神社(奈良県桜井市三輪に鎮座)に対する国家祭祀である。大神神社と狭井社の祭神はどちらも大物主神であるが、狭井社は大物主の「荒魂」を祭るとされる。

祭祀の目的は、疫病をもたらす疫神を鎮圧するためであるが(「令釈」『令義解』)、その祭りの名称が「鎮花(はなしずめ)」とされた理由には、濃厚行事が疫神退散の行事に転じたとするものと〔西田:1967〕、散る花びらに疫神が宿るとする二説が存在する〔宮地:1957〕。

前者は、花を稲花の咲く予兆とみて、その散ることを一日でも遅らせようとする農耕に関する行事がもとであるとし、後者は、花の飛散する様が疫神の分散に思われ、花を鎮めることは疫神を鎮めることであると連想されたものと考える。

『延喜式』に見える祭料に、薬草と思われるものが含まれていることから、春に花が散るころは疫病の流行しやすい時期であって、花の飛散と疫病の拡大が連想され、疫病をもたらす疫神を鎮めることを「はなしずめ」と称したとするのが妥当であろう。

また、『令集解』に引く「令釈」が「古記」(天平10年≒738頃成立)と同内容であることから、鎮花祭は「大宝令」に規定された国家祭祀であり、その開始期も「大宝令」制定時(大宝元年≒701年)ごろとされる。祭祀への幣帛は神祇官において準備され、神祇官所属の在地神職である祝部(はふりべ)によって神社まで運ばれ祭祀に備えられた。

祭日は「神祇令」に「季春」(3月)とあるのみで具体的に定まってはおらず、臨時に日にちを選んで行なわれていたが、平安時代後期~鎌倉時代初期ころに至ると3月晦日に固定された(『年中行事秘抄』『神祇官年中行事』)。近世では旧暦3月18日を用いていたが、明治30年(1897)ごろから新暦4月18日に改められている。


祭祀の淵源

三輪山に鎮まる大物主神への国家祭祀の淵源は、崇神朝に存在する。

崇神天皇の御代、疫病がはやり、多くの民が亡くなった。天皇の夢に大物主神が現れ、災いの原因は我を祭れば解決するという。天皇は神の教えの通りに、大物主神の子孫である大田田根子を祭主(神主)として三輪山で大物主神を祭った。すると疫病が初めて止み、五穀が豊穣になったという(『日本書紀』『古事記』崇神天皇)。

この伝承は三輪山の祭祀と国家との関係を象徴するものである。

古くより、三輪山の大物主神は国内の疫病を鎮圧する大きな力を持っていると考えられ、大和朝廷にとって無視できない重要な神祇であった。

その祭祀は大田田根子の子孫である三輪(大神氏)が担当し、国家が直接その祭祀に介入することはなかった。国家祭祀である鎮花祭も、その幣帛は国家が準備して祝部が運搬するが、神社での祭祀執行に関する具体的な規定は存在せず、祭司そのものは神社側に任されていた。〔藤森:2008〕。


祭祀の性格

『延喜式』に規定された祭料は、布帛類や海産物、祭器類などで構成されているが、全体的に見て、大神社より狭井社に対する祭料の方が数を多くする。

この理由は、狭井社の神が大物主神の「荒魂」であるためであり〔西田:1967〕、疫病を鎮めるために、より荒々しい霊威の発動に期待したものと想定される。

狭井社は俗に「華(花)鎮神社(けちんじんじゃ)」「華(花)鎮社(けちんしゃ)」とも呼ばれ、鎮花祭は狭井社への特殊神事の様相を呈している。

「狭井」は古くは「佐為」(『大倭国正税帳』、『新抄格勅符抄』所引「大同元年牒」)と書かれることから、狭井社の神は「幸神(さいのかみ)」=「障神」「塞神」「道祖神」であり、疫病を鎮圧する神であったとする説もある〔西田:1967〕。

鎮花祭の祭料の特徴として、他の祭祀には容易にみえない枲(からむし=繊維)、黄檗(きはだ=染料、健胃薬)、茜(染料、薬)や、弓、篦 (の=矢柄)、羽、鹿皮などといったものが用意されたことが挙げられる。

黄檗、茜は薬であり、疫病鎮圧という祭祀の目的のために特別に用意されたのであろう。この2種に鹿皮を加えたセットは、鎮花祭以外では龍田風神祭のみしか祭祀には用いられず、災いを鎮めるための供献品であったと想定される。

現在の鎮花祭の神饌においても、薬草の忍冬(すいかずら)・笹百合の根が添えられており、製薬・医療関係者からたくさんの薬品が奉られ、鎮花祭は「くすりまつり」とも呼ばれている。

なお、山百合の本の名を「佐韋(サヰ)」と言い、狭井河の名はその河辺に山百合が多くあったためであるという話が『古事記』に存在する(神武天皇がその后、伊須気余理比売のもとで一夜を過ごした時)。

狭井河は、大神神社と狭井神社の間を流れている川であり、伊須気余理比売は『古事記』で三輪山の大物主神のm済めとされる。天皇と三輪山の関係は大和朝廷の黎明にまでさかのぼり、鎮花祭に奉られる笹百合も古くより三輪山の麓に自生していたのであろう。

また、枲(からむし=繊維)・弓・篦 (の=矢柄)といった供献品のセットも、鎮花祭以外は三枝祭、龍田風神祭、大祓のみにしかみえていないことが注意される。

枲(からむし=繊維)と弓矢は、鎮祭・祓に効果のある供献品であったのであろう。特にこの中で、鎮花祭への弓の数が他の祭祀に比べて多いことが指摘されている(三枝祭が3張、風神祭が4張であるのに対し、鎮花祭では7張)が、これは、弓が邪霊・邪鬼を鎮める働きを持つと考えられていたため、鎮花祭に特に多く奉ることとしたのであろう〔西田:1967〕。

なお、大和国を中心に山城国・近江国などの近畿地方一帯で「けちん」(「花鎮」「気鎮」「結鎮」)と呼ばれる宮座行事が行われており、これらは大神神社の鎮花祭と同じ民俗信仰の一端であるとされている〔西田:1967〕。


参考文献

宮地直一「上代神道史要義」『宮地直一論集』五、蒼洋社、1985(初出1957)

西田長男「鎮花祭一斑」『日本神道史研究』三、講談社、1978(初出1967)

藤森馨「鎮花祭と三枝祭の祭祀構造」『古代の天皇祭祀と神宮祭祀』吉川弘文館、2017(初出2008)

(塩川哲朗)

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メモ:歩き巫女

ウィキペディアより

歩き巫女は、かつて日本に多く存在した巫女の一形態である。

特定の神社に所属せず、全国各地を遍歴し祈祷・託宣・勧進などを行うことによって生計を立てていた。旅芸人や遊女を兼ねていた歩き巫女も存在した。そのため、遊女の別名である白湯文字、旅女郎という呼称でも表現される。 鳴弦によって託宣を行う梓巫女、熊野信仰を各地に広めた熊野比丘尼などが知られる。

ワカ(若宮と呼ばれる神社に仕えていた巫女) アガタ シラヤマミコ モリコ(山伏の妻)などもおり、総じて神を携帯し各地を渡り歩き竈拂ひ(かまどはらひ)や口寄せを行ったらしい。

《信濃巫》
現在の長野県東御市から出て、日本ほぼ各地を歩いた歩き巫女。戦国時代、望月千代女が武田氏の為に、この巫女を訓練し、いわゆるくの一として使ったとされる。
《発祥》
柳田國男によれば、もともとノノウ(のうのう、と言う呼び声あるいは聖句から)と呼ばれる諏訪神社の巫女で、諏訪信仰の伝道師として各地を歩いていたらしい

―巫娼への零落―

神にさせられるパッションが薄くなると同時に、祢津の辺りに巫女コミュニティを構える事になり、柳田によれば後に「死人の口をきく」口寄せを行う巫女として各地に再びさすらう事となったと言う。各地でマンチあるいはマンニチ(万日供養から)、ノノウ、旅女郎(新潟)、飯縄あるいは飯綱(京都府下)、コンガラサマ(舞う様がミズスマシに似るため 岡山県)、をしへ、刀自話(島根県)、なをし(広島県)、トリデ(熊本県)、キツネツケ(佐賀県)、ヤカミシュ(伊豆新島)と呼ばれた彼女達は、17~8歳から三十代どまりの美女で、関東から近畿にいたる各地に現れ、「巫女の口ききなさらんか」と言って回ったと言う。 外法箱と呼ばれる小さな箱を舟形に縫った紺色の風呂敷で包んで背負い、白い脚胖に下げた下襦袢、尻をからげて白い腰巻をする、と言う姿で、2、3人連れ立って口寄せ、祈祷を行い、春もひさいだので、山梨、和歌山県辺りでは「白湯文字」という。

儀式は、外法箱と呼ばれる箱に枯葉で水をかけ、うつ伏して行った。中の神は確かではないが、堀一郎によれば「五寸ほどのククノチ神(弓を持った案山子)像、捒物のキボコ(男女が合体している木像)、一寸五分の仏と猫頭の干物、白犬の頭骸骨、雛人形、藁人形」が入っていたという記録がある。

旧暦の正月から四月にかけて、禰津村の旧西町にあるノノウ小路から出発し、各地へ回って仕事をし、遅くとも大晦日までには帰る、というサイクルで活動していた。帰ると寒垢離を行ったらしい。

巫女村各戸の親方である抱主(かかへぬしあるいはぼっぽく)が巡礼の折、各地(関東から紀州にかけて、主に美濃、飛騨から)で8、9歳から15、6歳のきれいな少女を、年を定めるあるいは養女としてスカウトし、信州に連れ帰って先輩のノノウに付け、三年から五年ほど修行して一人前となった。谷川健一によればちょっとしたものを、中山太郎によれば身の回りのものをあらかた持って各地を訪れると、地元民から歓迎され、中山によれば「信濃巫は槍一本(千石取り)程の物持ちで、荷物は専門の者が持ち、各地を手形なしで歩ける」と言う伝説までついたと言う。勿論、俗世に浴しているため気前よく「金をばらまく」事が多かった為に他ならないが、旅先での借金は必ず返し、聖職者である為肉食は禁じられていたらしい。

明治初期辺りまで関西(河内長野辺り)にやってきていたらしい。

いとも恐ろしき神なる豹の話(材料)

エジプトの悪神セトについて、正統派とはまた違うバリエーションの神話メモ

セト神は無秩序、不毛、悪と同化の象徴とされる。調和・和解の可能性を全く含まない絶対的な「対立」的な存在。

少なくとも8度は殺され、毎度、そのたびに生き返る。

神話において、セトは、二元論の両立を証明する神として動く。正義の概念があれば、それに対する対立概念=悪の概念として、セト神が充当されたと言える。

セト神が「神々の王」王位を得たのは、オシリスの贓物を盗むことによってである。オシリスの神威を奪取し、その借り物の神威をもって、世界的な影響力を及ぼす。これは「虎の威を借る狐」モチーフと共通していると解釈できる。

なお、異聞であるが、セトはオシリスを殺害した後、自身を豹に変化させたとされている。

豹の姿となったセト神は、証拠隠滅して逃走したが、アヌビス神がそれを捕縛し、裁判の末に烙印を施した。(トト神の書物に、その時の裁判記録が含まれる)

ちなみに、アヌビス神によって施された烙印の痕が、ヒョウ柄になったと言われている。儀式のときに豹の皮をマントとして身に付けるのが定番の風習となっていたのは、この時の、豹の姿をしたセト神に対する勝利を祈念しての事と伝えられている。ヒョウ柄のマントを最初に身に付けたのはアヌビス神である。

必然として、正統性を認められない借り物の神威によって築いた立場は、不安定である。

オシリスの正統な後継として、その神威を継ぐとするイシス(オシリスの妻)が、セト神を滅ぼしにかかる。

神話・異聞によれば、イシスはセトを噛みちぎり、セトは豹に姿を変えた。此処に「豹の神」としてのセト神が存在していた。

豹に姿を変えたセト神は、アヌビスに焼き殺された、とされる。その時の煙のにおいを、ラー神や他の神々が楽しんだとされるので、いちおう、芳香の類ではあったらしい。

実際、エジプト神話の遠い影響下にあった、欧州中世の神話幻想的な認識において、「豹(パンサー)は芳香を持つ」という説があった。欧州中世の一部の人々にとって、パンサーは、ライオンやユニコーンと並ぶ、キリスト教の世界を構成する聖なる動物であった。それは、リアル動物としての豹とは別物であることは、注意する必要がある。

話は再び、エジプトの豹神と化したセト神の、その後に戻る。

セトはアヌビスに焼き尽くされ、煙となったが、その後、よみがえったとされている。

元々はオシリスの正統な神威を継いだとするイシスが、セト神を嚙みちぎって、ダメージを与えたのが原因である。セト神はイシスに復讐を挑んだ。

セト神は雄牛の姿となってイシスを襲うが、イシスは尾が刃物になった犬に姿を変えて逃走する。おそらく犬神=アヌビス神の勢力をあげての協力があったのであろう。

イシスを遂に捕えることが出来なかったセト神は、砂漠で粗相したとされる。それを見てイシスはセト神を糾弾し、侮辱する。(おそらく諸勢力は、イシスの主張に賛意を示した)

イシスは勢いに乗り、セト神の不利を見て蛇に姿を変え、セトを噛み殺した。蛇を崇拝する派閥はエジプトに多く、大多数の味方があったことが窺える。

だが、セト神は、なおも再生した。砂漠の側に、セト神を支持する勢力が広がっていたのではないかと推測される。

セト神が再生するのを見た犬神アヌビスは、ハヤブサの姿となりホルスの目を回復させる(ホルスはオシリスの息子であり、セト神によってオシリスが殺害された時、目を失っていたと思われる)。

アヌビスは更に、トト神と協力して、オシリスを生き返らせる。ちなみにトト神は医学に優れていたとされているから、その辺りの加味があると思われる。

アヌビスは、勢力を盛り返したオシリス・ホルス派と共に、セト神を砂漠へ永久的に追放(ないしは封印)しようとする。

セト神はトト神の書物(裁判の記録?)を盗んだりしたが、最後に大きな戦いがあり、ホルスがセト神を殺害することで終結した。合わせて、セト神を信仰する土地を荒廃させ、セトの名や像を破壊する。

ホルス神(?)は、セト神の手を切り落とし、メスケティウ(天の大熊座)に送り、セト神を幽閉する。

※ここで、セト神=北極星(太陽ホルスと、永遠に対立する夜の星/北の星=不毛の星)認識の関係が生まれたと思われる。さらに豹皮の斑点の模様は、夜空の星と同一視され、死者の国の象徴ともみなされた。

セト神は、メスケティウ(天の大熊座)で、夜の星々=悪霊・死霊に守られ(=意味的・象徴的には、豹の皮の斑点の模様に包まれた状態ともいえる)、他の神々の接近を遠ざける存在となった。