忍者ブログ

制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

読書ノート『鷲と蛇』対立の一致3

『鷲と蛇』―シンボルとしての動物/マンフレート・ルルカー著/林捷訳
《叢書・ウニベルシタス531》法政大学出版局1996

「第十二章 対立の一致」より必要部分を抜粋-3

両極性の認識、すなわち2つの互いに作用しあい補完しあう原理の対立的関係の認識は、錬金術のすべての教説に共通する思想である。そして対立の克服、対立の一致、対立の統合(conjunctio oppositorum)が、錬金術師の目標となる。それゆえ錬金術師の真の関心事は、黄金の獲得ではなく、「大いなる神秘」の解明であり、この高い目標に「賢者の石」の探究と研究が捧げられた。真の錬金術はそれゆえ、金属と天体との魔術的連関のイメージよりも、より深いところに根ざしている。錬金術の大家の最終目標は、健康や富や悟りをもたらしてくれる〈完全性〉(perfectio)の獲得にあった。

この「大いなる作業」(普通ラテン語でmagnus opusと呼ばれる錬金術の別称)は〈化学の結婚〉でクライマックスに達するが、この作業とは、互いに排斥しあう元素の硫黄(Sulfur)と水銀(Mercurius)、太陽と月、男と女の合体を意味している。多くの写本が、この合体を軀の右半分が男性で左半分が女性の、1人の王の姿で描いている。これがいわゆる、一対の翼を持ち、龍を踏みつけて立つレビスの像である。

レビス(Rebis)とは、res binaつまりラテン語で「2つの部分から成る物」の意である。男の伸ばした腕の下には太陽の樹が、女の腕の下には月の樹が立ち、両樹がともになって世界樹を構成している。その樹の根元には龍が寝そべり、梢には一対の翼で象徴されている鷲が棲んでいる。すべてが両極性の中にある宇宙の全領域が、ここでは一体性において眺められている。単に存在だけではなく、生成もまたこの絵に示されている。第一質料、すなわち龍で象徴されている無形の混沌とした原材料から、両翼で暗示されている精神の力によって、太陽と月の両面を併せ持つ宇宙が創造されていく、その過程が描かれているのである。

ニーチェの作品『ツァラトゥストラはかく語りき』において、「動物の中で最も誇り高く、最も狡猾な生き物」つまり鷲と蛇が、賢明な隠者の同伴者である。両者はニーチェが描いた最初の超人の徳を具現している。自身が思考の薄明の中へ入っていった哲学者が、2匹の動物の中に彼自身の本質を認めていたことは、多言を要しないであろう。エルンスト・ユンガーは、「鷲と蛇の形象」の融合の中に、「天上の絶対的な力と深淵の過激な力」の一体化を見ている。両極の一致は新しい始まり、もしくは原初への回帰を意味する。偽カリステネス(前370-327,ギリシアの歴史家でアレキサンダー大王の宮廷作家)の『アレキサンダー物語』の中で、世界を征服したマケドニアの大王の死に際して、1羽の鷲と火を噴く1匹の蛇が、空から海へ降り来たったのは確かに偶然以上の意味がある。「そしてバビロンにあるゼウスの像が揺れ動いた。蛇は再び空へ舞い上がった。鷲も蛇の後を追い、輝く星をひとつ運び去った。星の輝きが空から消えうせた時、アレキサンダーは永遠に目を閉じた」。

あらゆる時代の思想家は、世界の中に投げ込まれることによって、中心を喪失したことを心の奥底で感じ取ってきた。これは聖書が述べる楽園からの追放と同じ謂である。そして何千年を通して、人間の唯一の真の憧れは、時間と空間から脱却して失われた中心に回帰することであった。この願望は、古代民族の神話の中だけでなく、現代人の夢の中にも現れる。

(中略)

現存在と様存在の中に放り出された世界の上に、世界の創造者は立っており、彼においてすべての対立が一致する。神は不死であるが、人間を死の淵から救うために、キリストにおいて死ぬ。天上と冥界の諸力が、キリストの本質を貫いている。夜に生まれたキリストは、昼の光をもたらす。肉体という地上的な覆いの中に、神的な核が存在する。彼は捧げる者であると同時に、捧げられるものでもある。

「モーゼが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハネ3,14-15)しかし神の子は、単なる蛇以上のものである。聖アンブロシウスが流麗に書き表しているように、彼は鷲に似て、「高い十字架の幹から、震撼させるような叫びをあげると、力強い飛翔で地獄を攻撃し、聖人たちを獲物のごとくつかんで、天に舞い戻った」。

キリストの王国は全世界を覆っている。彼自身、始まりにして終わりであり、無時間的な時間の中心であり、そこにおいて鷲や蛇の本性と、神の外部で出来する両者の不和が止揚されるのである。

PR

読書ノート『鷲と蛇』対立の一致2

『鷲と蛇』―シンボルとしての動物/マンフレート・ルルカー著/林捷訳
《叢書・ウニベルシタス531》法政大学出版局1996

「第十二章 対立の一致」より必要部分を抜粋-2

ペルシアを起源とし、ローマ帝国で崇拝された光の神ミトラには、ライオンの頭と翼を持った彫像がある。その下半身には蛇が6回巻きついており、時間の神としての職分と解釈され、それゆえしばしばイランのゼルヴァン神(zervan)と同一視される。

この彫像表現は冥界への下降(descensus ad infernos)を意味するのであろうか。あるいは神はここでは、全宇宙がその周りを回る一種の世界軸を表しているのであろうか。ミトラス教における最高神は、おおよそギリシアのクロノスに対応し、天の神であり、全能者である。イタリアの地にも、例えばオスティア(古代ローマの港湾都市で現オスチアアンチカ)にあるミトラス神殿の彫像のように、この神への崇拝の痕跡が見出される。

ハドリアヌス帝時代のモデナ(イタリアのエミリア地方の都市)のレリーフには、黄道12宮の中に全能の神が立っており、肩越しに三日月が見え、その後に強靭な一対の翼が彫られている(石碑コレクション)。右手は雷光の束をつかみ、全身に1匹の蛇が巻きつき、蛇の頭は、世界を支配する神の頭のちょうど真上に来ている。ユーリウス・シュヴァーべはこの神に、天の蛇が巻きついている宇宙軸(axis mundi)を認めている。蛇もまた神によって創られ、神はその主であり、蛇を恐れる必要はないのだから、この描写は対立の統合、宇宙の調和を具現化したものといえる。古代的思弁により、クロノス神(Kronos)は、擬人化された時間(chronos)と同一視されたので、この神はその空間的・時間的広がりにおいて、全宇宙を支配するものとなった。

古代エジプト人の間では、自分の尾を咬む蛇は、〈生〉〈時間〉それに〈永遠〉をも意味していた。新王国時代の棺の上に描かれた蛇は、まさに至福のシンボルであり、永遠へと移行していく時間は、「実存的レベルにおけるすべての生き物に不死を保証する」存在であった。環状の蛇は、その形態から対立の克服を意味している。すなわち始めと終わりが環において重なり合い、すべての地上的なものは、永遠の中で止揚される。錬金術において、しばしばウロボロスは、すべての形姿が最終的にそこから生まれてくる、変容する物質のシンボルである。ウロボロスは、15世紀の人文主義文学によって取り上げられ、永遠のシンボルとして、エンブレムやバロック絵画〔例えばヴィース教会(オーバーバイエルンのシュタインガーデンにある巡礼地教会)の天井フレスコ画に描かれた永遠の門上の蛇〕、あるいはフリーメーソンの中に取り入れられた。フィリップ・オットー・ルンゲ(1777-1810,ドイツ・ロマン派の画家)は、1日の時である『朝』のための習作において、輪状の蛇を円の切片として描いているが、そこでは、再び永遠へと包み込まれていく時間の円環性が表現されている。

古代からキリスト教的中世後期を経てルネサンスに至るまで、時間の神はそのアトリビュートとして、蛇やウロボロスあるいは環状の龍を伴った有翼の姿として表された。

(参考書籍203pより,空間と時間の主としてのアポロン,3つの頭の蛇は時間のシンボル,『音楽の実践』ミラノ,1496年)フランキヌス・ガフリウス(1451-1522,ミラノの音楽学者)の『音楽の実践』(Practica Musice ミラノ,1496)の扉の木版画であるが、最上部にアポロンが、空間と時間の支配者として君臨している。彼の両脚はとぐろを巻く蛇の上に置かれ、蛇の3つの頭は大地(terra)の中にはまり込んでいる。狼の頭は過去を、ライオンの頭は現在を、犬の頭は未来を表している。

音楽(音階)と惑星と詩女神との関係が左右に示され、中央のドラゴンが全体を貫いている。惑星の列では上から恒星天の下に土星・木星・火星・太陽・金星・水星・月が並び、その右横に惑星の記号、左横に音階の全音・半音と旋法名が記されている。詩女神はゼウスがムネモシュネとの間に生んだ9人姉妹であり、恒星天のウラニアから月のクリオと続き、最後に地球がタリアと対応させられている。下部には四大元素が示され、上部には竪琴を持つアポロンが美の3女神にかしずかれる。アポロンは全体の指揮者の役割を演じる。ドラゴンはライオン(下)、狼(左)、犬(右)の3つの頭を持っており、それぞれ現在・過去・未来を表す。/『図説錬金術』吉村正和・著(河出書房新社2012)

蛇の姿をした時間のイメージは、20世紀においても見出される。例えばパウル・ツェラーン(1920-70,パリで詩作したユダヤ系ドイツ詩人)は、生と死の樹である糸杉の脇を抜け、現存在と様存在の潮流をくぐって我々を運んでいく「蛇の車」について歌っている。

蛇の車に乗り、
白い糸杉の脇を抜け、
潮をくぐって、
君は運ばれていく。/『息の転回』1967年

(中略)世界の両極性は、同時にそのリズムを生み出す。自然の内的な本質に従い、被造物と出来事は互いに内的な相応関係にある。深くものを観る人にとって、存在のリズムは二元的な生命分離ではなく、両極的な生命連関を映し出す。両極間の外見上の対立は、単に人間的・地上的な位置測定の原理に対応しているだけでなく、それ以上に、神的・天上的な位置測定の原理にも根を下ろしている。両極が存在する時、その両極は常に力の場の一部となる。鷲と蛇の口論も、つまりは両者がお互いを無視できないことを証している。

つまり〈上〉と〈下〉の代表者は、その内的本質に従い、互いに補完してひとつの全体を形作っており、まさに各々が互いの存在に関与しあっているのである。17世紀に描かれた1枚の錬金術の絵は、地球を2つの岩場の間の谷間に立つ第一質料(prima materia)として表している。一方の岩場には翼を羽ばたかせる鷲がおり、もう一方には龍に似た怪物が毒づいている。地球自体、その出現と存在からしてひとつの神秘であり、地球は子供として擬人化された哲学に乳房を含ませてる母である。

どの極も胚の中に他の極を含んでいるので、その各々のシンボルはそもそもアンビヴァレント、両面価値的である。

鷲は例えばガニュメデスの神話やローマの皇帝崇拝におけるように、選ばれた者を空に連れ去ることができる。しかし鷲はまた、プロメテウスの神話や獲物に襲い掛かる猛禽が神の裁きのシンボルとなる申命記(28,49)におけるように、懲罰のデーモンにもなることができる。生命を授ける力だけが鳥の姿をとって現れるのではなく、冥界の力もこの形象表現を使うことができる(中略:セイレーンの例)。ひとつの形姿がいかに容易に別の形姿に変わりうるか、またいかに各々の極が胚の状態で他の極に含まれているか、このことは鳥の姿をしたセイレーンが蛇体の河神アケオロスの娘たちと見なされている点に示されている。

他方、蛇の国に、その暗い本質と対立する光の胚も含まれている。世界という劇において、塵の中を這う動物が「常に悪を欲して、常に善を行う力の一部」(ゲーテ『ファウスト』第1部1335行メフィストフェレスの科白)として、しばしばその正体を現す。それゆえ、エードレン・フォン・ランプシュプリングの著作『哲学者の石に関する論考』(1625年)に登場する自らの尾を咬む龍は、精神なのである。

龍は毒で満たされているが、
毒を屁とも思わない。
龍は太陽の光線と炎を見る。
周囲に邪悪な毒を撒き散らし、
怒り狂って空中に跳びあがるので、
いかなる生き物も、龍に勝てない。

龍の毒から霊薬ができるが、
龍は毒をすばやく食べ尽くしてしまう。
毒の詰まった尾をむさぼり食うからだ。
これは龍がおのれの軀で行うこと。
その軀から芳しいバルサムが、
不思議な力と共に流れ出す。
ここですべての賢者は大歓声を挙げる。

読書ノート『鷲と蛇』対立の一致1

『鷲と蛇』―シンボルとしての動物/マンフレート・ルルカー著/林捷訳
《叢書・ウニベルシタス531》法政大学出版局1996

「第十二章 対立の一致」より必要部分を抜粋-1

…可視的世界は二極間に嵌め込まれており、その獣形の形象が、雄鶏とヒキガエル、鷲と蛇である。性的両極性が強調された格好の例を、南アメリカの熱帯雨林地域に住むサパロ族(アマゾン川支流に住む言語的類縁関係が不詳の小部族)の信仰に見ることができる。それによれば、死んだ女性は爬虫類に変わるが、勇敢な男性は、死後もカラフルな鳥として生き続けるという。中国の陰陽のシンボリズムにおいて、黒地に白点、白地に黒点が示すとおり、一極が胚状態で他極に含まれている。またより高度な動物や人間にあっては、いずれの性的存在も、「男性ホルモンと女性ホルモンを同時に作り出しており」、ある意味においては、両性具有といえる。ちょうどこのように、すべての存在は、天の諸力と地の諸力の間に組み込まれており、その両極に多かれ少なかれ関与している。神話・メルヒェン・夢などの形象的表現において、この真理は繰り返し現われる。

(中略)鷲と蛇は、大地と天空、別の観点からすれば、生(bios)と理(logos)の原形象である。両者は互いに対立しあい、永遠に引き裂かれたままの運命にあるかのように見える。確かに、両極が絶対視されることによって、存在の単一性は、余りにしばしば人為的に二分されてきた。昼と夜、生と死、善と悪は、固有の存在原理として互いに対立しあってきた。

二元論的世界観を持つ古代宗教に、パルシー教がある。そこでは、善と悪の原理の擬人化であるアフラ・マズダ(Ahura Mazda)とアンラ・マンユ(Angra mainyuそのギリシア語化がアフリマン)が、かたくなに対立しあっている。マニ教(3世紀にペルシアの予言者マニが創始した宗教)を含めて、後のイランの宗教も、ゾロアスター教の影響を受けている。それらすべてに共通する点は、光と闇、およびそれらを代理する生き物の間の闘争である。民間信仰に比べて、あまり文学的でないそれらのシンボリズムにおいて、大空に舞う鷲、北方地域に生息する鹿、山岳地帯に住むアイベックスが、光の告知者になった。蛇とライオンは、それらの敵対者である。善と悪、ないしは善的存在と悪的存在の創造者間の宇宙創造論的な闘争は、東ヨーロッパとシベリアの神話にその跡をとどめている。

神と悪魔を指導者とする、二分された世界の思弁的思想が、創造者は被造物以上の存在であることを忘却した幾多のキリスト教徒の脳髄の中にも徘徊することになった。神はその全体性の中にあって、分裂的であるはずはなく、神の意思は、「天においても地にあっても」行われる。天上も地上も単独では存在し得ない。他方のない一方など、どうして考えられようか。創造計画の展開に伴って初めて、天と地、光と闇、陸と海、男と女、生と死という両極の存在が生じたのである。聖書の記述順に従ったこれらの両極概念は、われわれの知覚の最も外側の境界線を形成している。これらの両極概念は「われわれの」世界を、時間的・空間的に包摂している。しかしわれわれの世界は、別の世界と真っ向から対立しあうものでは決してなく、別の世界に嵌め込まれているのである。

すべての存在が一体であるという認識は、絶対的存在の無比性に最終的な根拠を持つが、それがしかし実質的な相違を否定することになってはならない。精神と肉体はそれぞれの存在権を持っている。昼と夜は、男と女のように補い合う。全世界は神の意思の顕現である。神の被造物として、人間は創造の緊張の場の中に組み込まれている。人間は天と地、昼と夜の間で生き、塵にまみれて地を這う蛇に似ているし、大空を舞う鷲にも似ている。人間は、ミカエルとルチフェルが神話的な番人である存在の両極間を、あちらこちらと引っ張りまわされる。両者はしかし、空間も時間も無い中心としての神に根ざしている。

古代オリエントと古代ギリシア・ローマの思想は、グノーシス派において合流した。グノーシス派の目標は、人間の自己認識と神への根源への回帰による救済であった。グノーシス派の形象テーマのひとつに、後期ローマ時代の護符や宝石に描かれ、中世やルネサンスにも繰り返し登場するアブラクサスの像がある。それは胴が人間で、雄鶏の頭を持ち、足は蛇の像である。それにしばしば添えられる鞭は、力と勝利のシンボルである。アブラクサスそれ自体は、単に魔術的な呪文だけでなく、すべての矛盾を包摂し、止揚していく神の秘密の名前でもあった。その名前(Abraxas)の七文字は、七つの惑星を表し、さらにギリシアの計算法によれば、365の数値を表し、それゆえに1年の日数を象徴していた。アブラクサスは、蛇の姿をした闇や深淵の諸力と、鳥の姿をした光や天の諸力(朝の告知者としての雄鶏)を併せ持つ全宇宙を意味している。この神に身を委ねる者は、最高の幸福に恵まれるのである。

天と地の両極は、神自身によって、また世界山もしくは宇宙樹の形態をとる世界軸(axis mundi)によって結び合わされる。洞窟や峡谷に、虫・蛇・龍が棲むのに対し、誇り高い猛禽類は山の頂きに巣を作る。世界樹のトネリコの木イグドラシル(Yggdrasil)は、その根を冥界の龍ニドヘグル(Nidhöggr)の王国にまで伸ばしている。その樹冠は高く聳え、一番高い枝に一羽の鷲が止まり、その両目の間に、天候を司る大鷹のヴェデルフェルニル(Wederfölnir)がとまっている。天の鷲と地下の龍の反目は、光と闇の闘争を象徴している。宇宙の生のリズムは、人間が象徴的観点から割り振った天と地の各部への共感と反感の中に現れる。結局、祖形に根を下ろしている象徴は、それゆえに殆どの民族・文化・宗教に見出される。キリスト教に取り入れられることによって、これらの形象の多くは、福音主義化されていった。この存在の両極への最も重要な象徴的な対応関係は、以下のとおりである。

鷲の王国
天/上/太陽/光/白/昼/夏/火・風/精神/男/生/善
蛇の王国
地・冥界/下/月/闇/黒/夜/冬/水・土/物質/女/死/悪

これらの対比から、動物形象の両極的カテゴリーが容易に出来上がる。天に属する動物には、光と風の中に生きる鳥、とりわけ鷲・鷹・大鷹、朝を告げる雄鶏、輝くような純白を特徴とする鵞鳥・白鳥・鷺などの鳥がいる。大地に属する動物には、水や暗闇に棲む蛇・亀・鰐・蛆虫など、さらには夜行性の鳥(梟)や、しばしば黒い鴉がいる。

両極は神において止揚されるゆえに、鷲と蛇はそこで和解されねばならない。イザヤ書が述べるところによれば、神の王国において、「狼は子羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は獅子と共に草を食む」(イザヤ11,6)。猛獣と家畜、鳥類と爬虫類との間の敵意は、空間と時間の中の地上的レベルにおいてのみ、引き続く。神の国は、創造主の意思によって生命を与えられた万象を包摂する。

バビロニアの主神マルドゥクには、彼に捧げられた獣として、鷲の鉤爪を持つ蛇がいた。この春の太陽神は、鎌(月?)がシンボルであり、この〈太陽の子〉は同時に水底の主とも見なされていた。このどっちつかずの混在は、いくつかの双面のマルドゥク描写において、いっそう強調されている。バビロニア人は、宇宙における多くの神々の顕現の背後に、ただひとつの神しかいないことを予感していた。「ニヌルタ(Ninurta)は力のマルドゥク、ネルガル(Nergal)は闘いのマルドゥク、エンリル(Enlil)は統治のマルドゥク、ネボ(Nebo)は商業のマルドゥク、シン(Sin)は夜の灯のマルドゥク、シャマシュ(Schamasch)は正義のマルドゥク、ラマン(Raman)は雨のマルドゥクである」。

ヒンズー教では、ヴィシュヌが絶対者と見なされ、その神が両極的な顕現に分化することで、宇宙のリズムが保たれている。神的存在のヴィシュヌはすべてを包含し、その王国は地上の石から天の星にまで広がっている。神は蛇のシェーシャ(Shesha)の上で休息し、蛇を通して、水と深淵の国に結びついている。同時に彼は霊鳥ガルダに乗って、空高くへと運ばれもする。蛇はここで存在の半分を、鳥は残りの半分を具現化している。インドの信仰表象によれば、両者は、神の外部にある間は、敵対者であった。実際は、両者はひとつの神的実体の2つの基本的現象であり、確かに両極的に互いに対立しあってはいるが、すべてを包み込む神の一体性において和解しあう。インド学者のハインリヒ・ツィンマーはこの経緯を、ヴィシュヌが絶対神、すなわち「すべてを包含する神的実体」であることによってしか説明されえない、「確かな根拠のあるパラドックス」と呼んでいる。ミルチァ・エリアーデは、すでにヴェーダにおいて、「対立の一致をインドの宗教的思考の本質的特徴」と認識していた。彼は、蛇のアヒ・ブドゥニャ(Ahi Budhnya)と太陽の同一視をその例に引いている。蛇が脱皮して死を克服するように、太陽は毎朝、夜を克服するのである。