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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

神話研究:淀姫神社と鯰

『歴史と民俗のあいだ―海と都市の視点から』宮田登・著1996年(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー2)

【地震鯰の発想・鯰と世界蛇】

鯰は淡水魚の一種であり、インドネシアから中国を経て日本列島に及ぶ地帯に生息している。鯰の独特の風貌が擬人化されて鯰男のイメージとなったのは日本の庶民の間であり、地震鯰の発想は、日本の民俗文化の一つの特徴と言えるかも知れない。

地震鯰は地域性が強いが、世界蛇の方はより普遍的である。これはイランからアッサム、ビルマ更にインドネシアの島々に分布しており、その中心はインドとその影響を受けた東南アジア地域である。大地の底に竜蛇が居ると言う神話は、インドでは竜蛇がぐるりと世界を取り巻いていると言う考え方になっている。

【鯰と巨人】

行基式と称される古地図は、列島のイメージを鯰あるいは鯨に似せているものであり、地震鯰ではなく地震鯨と言っても良い。重要な事は、この巨魚を巨人が石か剣で押さえていると言う考えである。

鹿島明神は建御雷命であり、高天原から降臨して国土を鎮めた功績により、東国の境界に守護神として鎮座した。特に北方に向かって聳立する巨人の面影がある。この大神が油断して要石を抑える力が緩むと、大地震が起きると言うモチーフは、阿蘇山の神話にもうかがえる。

阿蘇の大神は建磐竜命(たけいわたつのみこと)である。この神はかつて天皇の命により阿蘇に入った。外輪山から見ると、そこは巨大な湖である。そこで大神は外輪山の蹴破れそうな場所を探してそこを蹴破り、湖水の水を放出した。湖の主であった大鯰は流出して、麓の一の宮町に留まったと言う。大鯰が住む川を黒川と言い、別称鯰川とも言う。この鯰は大神の眷属であるから食べてはいけないと言われている。

また、巨大な鯰で尾が分かれて六ヶ村に渡っていたとか、若宮神社のご神体が洪水で流されたが鯰によって助けられて戻って来たと言う伝説もある。また大神によって大鯰が殺され、その死体は湖水と共に黒川を流れ落ち、辿り付いた土地の名を鯰と言ったり、大鯰の身体が六荷もあったので、その地を六嘉と命名したと言う地名伝説もある。

要するに、阿蘇大神は巨人であり、踏ん張って押さえていた大地を蹴破った事により、湖水の底の大鯰が暴れた事になる。鯰以前に、単に大魚が湖底に臥していたという伝説があり、大魚は大神の国土建設以前の地主神とする考え方もある。

阿蘇山頂には「神霊之地」があり、『続日本後記』承和7(840)年9月の条にも記載されている。天下に異変ある時には、この地に対して朝廷からの祈祷があり、奉幣が行なわれていたと伝えている。

阿蘇山の神話を、大地を支える巨人の変形したモチーフと見なすならば、これはむしろ、朝鮮半島に多く類話が見られるものである。ここでは抑え込んでいる筈の竜蛇や大魚の影が薄くなっている。阿蘇では、大鯰が暴れる伝承が途絶えているが、大神の眷属として守護霊に化して、現在まで伝承されているのである。

福岡県筑紫野市には、鯰の形をした3個の大石があって、これを「鯰石」と称していた。この石は、かつて菅原道真が鍬柄(すきえ)川の鯰を斬り殺したのが石に化した物と言い、大旱が続いた時、この石を酒で洗って祈ると雨乞いに霊験があると伝えている。ところが明治6(1873)年に雨乞いをした時、この石を焚いてしまった。それ以後、石が裂けてしまい、鯰がそこから多く発生して来たと言う話もある。

【物言う魚】

大鯰が水界の魚王で、危険が迫った時にそれを回避しようとして、人間たちにメッセージを送る。しかし人間はそれを十分に受け止めないままに、自然界の破局が起こると言う、共通したモチーフを持つ説話群がある。

大鯰以外にも、ウナギ・イワナ・コイ・サンショウウオなどもあって、魚類と人間の交流の在り方が、まず考えられていたのである。魚たちの住処が人間の侵犯行為によって破壊されると言うところから、「物言う魚」の存在がクローズアップしている。その事は、天変地異と言う出来事が、人間に対する天譴であるとする原初的心意に基づいている事を示唆している。

大魚はいずれも水界の主であり、その支配する自然界が人間によって浸食される事を未然に防ごうとして失敗した。その恨みから大洪水・大津波を起こすと言う結末に至っている。こういう、「物言う魚」型の鯰の伝説が、まず挙げられる。

【鯰を食べない伝説】

資料:淀姫(與止日女)神社の縁起

淀姫さんの氏子にはなまずを食うてはならぬという掟があり、食えば腹が痛むといわれている。
その昔、川上川には魚もたくさんいたが「かなわ」といって、まむしが年を経て変化したという怪物がいた。夜更けになって官人橋を渡ると、この「かなわ」に襲われて死んでしまうので、土地の人はこの得体の知れない怪物に恐れおののいていた。
ある夜、2人連れの親子が舟に乗って川魚をとり始めたが、思いもよらぬ大漁なので、時のたつのも忘れて夢中で漁をしていた。ところが突然火の玉のようなものが舟へ近づいてくる。あっ、これが日ごろ聞いていた「かなわ」だと思った途端、2人ともびっくり仰天して気絶してしまった。
それからどのくらいたったか、ふと気づいて辺りを見ると川岸に30cm余りの大なまずが死んでいた。恐ろしく腹がふくれているので、2人は恐る恐るなまずの腹を切り開いてみると、まさしく「かなわ」をのみ込んでいた。
さては、このなまずが危ないところを助けてくれたのかと感涙にむせび、このことを村人に告げ、ねんごろに葬ったうえ、今後はどんなことがあっても決してなまずを捕らない、なまずは食わないと淀姫神社に固い誓いを立てたという。
また、なまずは淀姫さんのつかい(従者)だから食わないという伝えもある。/出典:大和町史P.663(佐賀県佐賀市)
淀姫神社は、県社河上神社で与止日女という女神を祭神とする古社である。縁起によると、神功皇后が半島に進出の折に海神を祀り、航海の安全と勝利を祈った。神功皇后の妹に当たる与止日女命は磯童と共に竜宮に到って満珠干珠をもたらした。満珠は青、干珠は白であって、この二つの宝珠は風雨を起こす力がある。戦いの際、これにより敵船を覆した。凱旋した後は川上にある神社に納めたと伝えられている。しかし、その神社は何処にあるのか判明しなかった。ところが与止日女命が磯童と共に竜宮に到る際に乗って行ったのは海神の使と称する大鯰である。その後、鯰は淀姫さんの眷属であり御使であると言うようになった。それでこの鯰を捕らえて食べるような事があれば、海神の怒りが立ちどころに起こり身体が鯰のように膨らんでしまうとか、腹痛を起こすと言われている(北九州市在住の江藤徹氏の調査資料による)。

この言い伝えは現在までも残っていて、川上神社の氏子たちは鯰を食べない。鯰が神使であり、祭神の眷属として指令に扱われている。これは指令型と言うべき鯰伝説である。ちょうど稲荷神社が狐を、春日神社が鹿を指令としているのと同様である。

【鯰と異変の予兆】

この淀姫と鯰との関係には、神と神使というモチーフがあり、巨人が抑え込む鯰では無くなっている。しかし、なお断片的ではあるが、鯰による異変の予兆があり、鯰の出現を海の彼方と結び付ける思考が語られていたと言えるだろう。このような「物言う魚」としては、鰻(ウナギ)と鯰(ナマズ)、岩魚などが古来より知られていた。

大魚を捕らえて担いで帰る途中、魚が声を発するので慌てて水中に戻したと言う。もし、そのまま魚を持ち帰ると、大雨になったり、洪水や津波が起きると言う。大魚は人間に化けてこちらの世界に危険を告げようと働きかけているのである。人間の方でその事を解読できかねて、遂に災厄をこうむる羽目になるという伝説が多い。沖縄のヨナタマという人魚は海神の変化であり、ヨナタマが人語をささやいたのを聞き取った母子だけが、一村全滅の危機から救われたと言う話は良く知られている。こうした「物言う魚」が、福岡県や佐賀県下では大鯰に表現されているのである。

滋賀県の琵琶湖の主は鯰である。『竹生島縁起』には、かつて水底に潜んでいた竜蛇が島を七巡り囲んでいたが、それが大鯰に変化した事を記している。湖底の鯰たちは八月十五夜に砂浜に出現して踊ると言われ、特に国土に異変が生ずる時には大群となって出現すると言われている。

このように大鯰が擬人化され、道化役にされやすいのは、鯰の異相によるところが大きいが、それとは別に海神や竜神の変化であり、かつ水界の主であって、神の託宣や予言を伝えるという信仰もある。やはり、それを身近に見ている人々の鯰に対する想像力の帰結するところと言えるだろう。

列島や国土を囲繞しているというのは竜蛇のイメージによるものだが、それが大魚のうちでも、とりわけ鯰へと収斂したのは、やはり幾つかの要件が重なった事は明らかであろう。

【海の彼方からのシグナル】

この問題を海からの視点で捉え直してみると、どうなるだろうか。

黒潮の起点に近いフィリピンのミンダナオ島のマノボ族の神話によると、彼らの先祖はマカリドンという巨人であった。彼は1本の天柱を中心に立て、その傍に数本の柱を立てた。そして自分は中心の柱の所に住み、1匹の大蛇を伴っていた。もし彼が柱を揺すると、大地震が起き、世界は崩壊すると言う。

更にミンダナオ島のマンダヤ族の神話では、大魚は鯰であり、大地はこの巨大な鯰の背中に乗っている。そしてこの鯰が身動きすると地震が起こると言うのである(大林太良『神話の話』)。

明らかにフィリピン南部のミンダナオ諸島の神話の巨人と、黒潮の北限に当たる鹿島大神とが、鯰・竜蛇と言う同工異曲のモチーフを伴っている事に気付かれる。これはまた伊勢神宮の心御柱の地底に竜神が祀られていると言う伝説との共通性も示唆している。

鹿島大神が用いる要石は、大きな柱の先端部であり、その柱が地底奥深く突き刺さっている故に大地は安定している。時折それが大鯰によって揺るがされると言う太平洋沿岸部の伝承に対し、黒潮が対馬海流となっている五島列島、対馬海峡そして北九州の日本海に面した地帯では、先述した福岡・佐賀の淀姫神社の伝説があって、そのモチーフは熊本や香川の方にも及んでいる。この場合の淀姫は、海の女神であって、巫女信仰との結び付きがあった。一方、大魚による天下異変の予兆がうたわれており、これは海の彼方からの特別なシグナルを読み取ろうとした想像力として共通していると言えるだろう。


《管理人コメント》

海洋(黒潮)系の渡来人が持ち寄った神話群と、大陸系の渡来人が持ち寄った神話群との交錯が、大いにあったのだろうという事が想像できます

地図の上で見ると、昔は「熊襲」と呼ばれた九州南部~中央部で、神話ストーリーの流れがほぼ直交している…と言うところが、より興味深く思われました。特にバトル系統の神話が語られた阿蘇山の周辺は、昔から物流の道が開かれており、住み着くに良い豊かな地域だったのでしょう。ヤマト王権の祖をはじめ、数多の古代移民が殺到した事が想像されます。或いは、火山噴火を含む天災の記憶が、このようなストーリーを作り上げた可能性もありますが…

ヤマト王権の東進と共に、大陸系神話も海洋系神話も東進し、そのとりあえずの最終地点が、鹿島エリアでありました。鹿島神話の、均衡を保ちながらも危うい緊張をはらんで語られる内容は、日本列島における大陸系と海洋系の、緊張をはらんだ混血の有様でもあろうと思います

太平洋沿岸に広がった神話ストーリーと、日本海側に広がった神話ストーリーを比較すると、大陸系神話の影響が強くなると巨人の存在がクローズアップし、海洋系神話の影響が強くなると地震鯰や大魚(竜蛇)の存在がクローズアップする、そういう傾向を見て取ることができます

「淀姫」という存在が、神話の交錯の中から生み出されてきた物だとすれば、「淀姫」はある意味、最初に大陸系と海洋系の相克に見舞われた、九州の歴史と知が生み出した物と言えるかも知れません

九州の王朝から見た視点の記録が残っていれば…と、この辺は、歴史の記憶の消失を、惜しく思います

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研究:中華経済の近代史(後篇)

《研究:中華経済の近代史(中篇)から続く》

《20世紀の中華経済…旧弊社会構造の打破&国民経済の建設》

上海バブルの時代、大量に流通した中央銀行券は、各地方の工業生産の国内回帰とシンクロしつつ、各地方の財源と中央財源とを、強力に連結しました。

しかし戦乱の疲弊から回復した西洋列強は再び金本位制に復帰し、為替レートが逆転しました。銀価は再び下落します(政府銀は下落、民間銭は上昇)。

これは、中国の工業・製造業にとっては生産コスト割れを意味しました。

中央政府にとっては、余剰財源の収縮によって貨幣の信用が目減りし(=つまり以前に比べて、相対的に大きな金額で信用を保証しなければならない)、借金返済で苦しくなるという事態をもたらしました。

打開策として、関税自主権の回復が主張されましたが、このためには列強と渡り合うための強力な中央政府機関を必要としました。袁世凱の死後、軍閥抗争のさなかにあって、北京政府は弱体化する一方であり、これに代わって勢力を伸ばしたのが、蒋介石の南京国民政府でした。

国民革命を標榜した南京国民政府は、経済界の期待に応え、関税自主権を回復(北伐1926~1928、北京政府を打倒し全国統一)。その後の世界大恐慌(1929)の影響で強力なデフレに見舞われましたが、中央政府は銀を国有化して一元的管理紙幣「法幣」を発行、これを地方政府に買い取らせ、その一方、兌換に関わる金銭管理を厳格に運用する事で為替レートを安定化させ、財政を立て直しました。

しかし、この動きは国民経済の確立に結びつく物ではありませんでした。国共内戦(1927~1937)や日中戦争(1937~1945)は、大陸的な視野から見れば、地方軍閥割拠、および軍閥抗争の延長線上にあったと言えます。

日本は満洲国を中心にして長江流域の経済圏を分断しましたが、重慶に立て篭もった南京国民政府を打倒できず、分捕った利権の再構築(=経済的統合)も成し得ないままに終わりました(1945年、日中戦争の終了)。

第2次世界大戦においても戦勝国となった南京国民政府でしたが、分断された長江流域の経済圏の統合という課題が残されました。南京国民政府は有効な政策を打ち出せず、更に、地方軍閥割拠の延長として、国共内戦が再開します(1946~1950)。

全国統一を成し遂げたのは、毛沢東・周恩来が率いる国民共産党(中華人民共和国)です。

南京国民政府の中央集権化プロジェクトを、共産党政府は引き継ぎました。それは、20世紀半ばにおける時代上の要請ともあいまって、旧来の伝統、すなわち「官/民」における激しい経済格差や、身分差をもって成る旧来の社会構造への挑戦ともなりました。

共産党政府による「大躍進政策(1958~1961,経済振興政策の一種?)」や「文化大革命(1966~1976)」は余りにも有名ですが、その「革命的意義」は、2点に絞る事ができます。

【土地革命】・・・階級闘争を通じて地主を打倒、土地の再分配を実施して貧富の格差を解消すると共に、地域の利権構造に介入して「官/民」権力構造を打破し、再編を促す。底辺の庶民社会への中央権力の浸透を図る。

【通貨統一】・・・南京政府は莫大な財政赤字を計上しており、ハイパーインフレをもたらしていた。いったんは押さえ込んだが、朝鮮戦争(1950~1953)が始まると再びインフレが始まったため、三反五反運動などを通じて物資・金融の両面で管理統制を強化し、新通貨「人民幣」の安定運用にもちこむ。

共産党政府が通貨統一に成功したのは、冷戦構造の産物とも言えるでしょう。

社会主義陣営に属した事で、資本主義諸国の経済的影響が低下しました。固定相場制を採用し、結果としてグローバル経済から切り離され、大陸内部で完結する、いわば「近代版・中華人民の経済圏」を現出したのです。

《21世紀の中華経済に関する私見》

共産党政府による経済統一プロセスは、明帝国の初期の頃に似ています。

そして文化大革命後の経済を立て直すため、鄧小平を中心として実施された「改革開放(市場経済への移行)」という経済政策(1978~)があり、これは現在も続行中ですが、結果として、官僚汚職の深刻化や著しい経済格差を招いている様子を見ると、戦前の地方分立の状況へと、時代的には逆行していると言えなくもありません。

習近平は、袁世凱よろしく自らの帝政の宣言はしていませんが、自らの権力基盤を確立しつつも、「反腐敗運動(2012~)」を演出するなど、世論や民心の掌握に長けている事は確かなようです。当座のところは、「袁世凱よりも有能な、中央集権化プロジェクトの立役者にして支配者」という評価ができるかも知れません。

「反腐敗運動」は、かつて朝鮮戦争がもたらした急なインフレを抑えるための「三反五反運動1951~1953」の焼き直しと言えなくもありません。「三反五反」の結果、強烈な国家統制経済が確立しています。「反腐敗運動」にも、類似の結果をもたらす作用があると推察する事はできます。

では社会格差や身分格差は、と言うと、これはかつての「官/民」の格差を打破したにも関わらず、結局は、「高位の共産党員/底辺の共産党員&民」という風に、支配者層の名前を書き換えただけのレベルに留まっているようです。

従来と異なるのは、情報テクノロジー革命の影響が、プラス・マイナスのいずれにせよ、これまでは考えられなかった程の広い社会階層に及んでいるという事です。これは、20世紀から21世紀に至るまでの科学文明の急進がもたらした、「新たな事態」と言う事が出来るかもしれません。

共産党政府は、情報統制に力を入れると共に、サイバー戦テクノロジーを発達させています。

目下「万里の長城」よろしく「量の問題」レベルであり、そこで「質への転換(パラダイム・シフト)が生じるか」は、まだ未知数です。民間社会における世界認識が、旧来の中華思想を基盤とする内容に留まっている状況を見ると、習近平をはじめとする支配者層およびテクノクラート層の頭脳次第であるように思えます。

それに比べれば、進行中の「反腐敗運動」と言う名の権力闘争は、歴史の中で何度も繰り返されていた闘争スタイルであり、影響の度合いによっては、枝葉末節でしか無いと言えます。

従来、その枝葉末節の「量」が余りにも多い事が、伝統的に「質への転換」を不可能とさせて来た要因の一つであり続けた事は、確かです(他にも様々な要因があると思いますが、「中華」に余り詳しく無いので、この点のみです)。

コンピュータの演算能力の増大は、この状況に変化をもたらすのでしょうか?(大室幹雄氏の指摘する『桃園の夢想』という「認識の壁」を、超えられるのでしょうか)

…という疑問で、研究の記録をしめくくらせて頂くものであります。


《補足的な見解:天体運動を中国人は量的な数の問題と捉えた》

https://twitter.com/history_theory/status/1424902119304302594

山田慶児『混沌の海へ』朝日新聞出版 1975

中国人は、枚挙的な記述とその分類により、世界を体系的に把握しようとした。

だがそれは、世界の規則性と統一性を示しはしない。

それを把握するには別の原理が必用だった。

量的認識とパターン認識がそれである。

世界の多様性は、量への還元により一つの平面に射影される。

量的関係に何らかの規則性が発見されるならば、世界の統一的な像がその上に描き出されよう。

しかも、事物と現象の量的な把握は、国家統治や生産と流通の不可欠の手段でもある。中国人は量的な観測・観察・測定・実験・調査・計算・記録・説明・思索のおびただしい資料を残している。

正史には志(誌)と呼ばれる部分があり、そこには量的認識の氾濫が見られる。

天体の位置と運動についての、暦計算についての、楽器の音程についての、祭器や車や衣服の規格についての、人口についての、官職の定員と俸給についての、刑法の量的規定についての、貨幣や経済政策や土木事業についての。

しかも、量は事実として投げ出されているだけでなく、量を秩序づけ、様々な量の間に連関をつけ、何らかの規則性を発見しようとする志向がそこに働いている。

中国の天文学は代数的天文学であり、ギリシアの幾何学的天文学との鮮やかな対照を示している。

天体の運動は、すべて仮想的な球面上において、赤道座標系に基づいて量的に把握される。

惑星系の幾何学的な構造は問われない。

観測された量はいくつかの現象の複合であるが、その諸要素を量的に分離しながら、ひたすら計算を進めてゆく。

それだけに、計算法の発展には目覚ましいものがあり、たとえばニュートンの補間公式に匹敵する補間法が生まれたのは6世紀、隋の時代だった。

中国人は、天体運動を自然に備わる数として捉えたのである。

研究:中華経済の近代史(中篇)

《研究:中華経済の近代史(前篇)》から続く

《近代化を試みる(19世紀後半~20世紀:同治中興&洋務運動)中華経済》

アヘン戦争後の上海租界の繁栄は著しいものでした。現代史では不平等条約の結果として受け止められていますが、大きい意味での中華帝国から見ると、当時は、華人(私幣)経済圏のバリエーションでしか無かったと解釈できます。

しかし、「量の問題」、つまり密輸・脱税を含めて膨大な額に上った貿易取引は、無数の秘密結社や密輸専門の犯罪団体を生みました。この治安悪化を伴う変化は、清帝国に、無視できない内乱発生の因子を認識させるまでになります(太平天国の乱の発生など)。

1850年代の清は、秘密結社が関与するおびただしい内乱に見舞われ、その平定に追われました。反乱側であれば「秘密結社」であり、彼らが帝国体制側に寝返れば、「義勇軍」になりました(例:曾国藩の湘軍、李鴻章の淮軍)。別の方向から見れば、帝国内部の権力構造の再編プロセスでもあります。

義勇軍を組織していたのが省の軍政・民政を一手にあずかる総督・巡撫でしたが、これらの義勇軍を運営するための資金は清の国庫からは出ず(そもそも国庫支出という概念が無い)、総督・巡撫は大きな権限を持って経費を調達していました。

その経費は、新しい地方税「釐金(りきん)」と呼ばれ、商人からの寄付・納付という形で調達されていました。密輸を合法化してやる代わりに、上前をはねる…というスタイルで、アヘン取引もアヘンを扱う業者も、この流れに乗って、次々に合法化されていました。

※扱う商品価格の一厘(=釐,1%)の率で拠出金を課したので釐金という

清帝国は結局、内乱を平定し、新たな安定状況に入ります(これを「同治の中興」といいます)。

それと共に、地方権力者である総督・巡撫の、中央政治における立場が大きくなりました。 ここに、将来における地方軍閥割拠の原因が生まれたと言えます。

なお、この安定した時代に権力を掌握したのが、西太后と李鴻章です。

貿易取引という側面から見ると、この時代の取引量は増大しています。しかし、その品目割合は様変わりしていました。従来の江南エリア産物=高付加価値商品=中華ブランド(絹、茶、磁器)の輸出量は頭打ちになり、華北生産物である大豆、羊毛、皮革、綿花、鶏卵などの輸出が増えました。

  • 1883年1億4千万両→1903年5億4千万両:20年で4倍に増加、この増分のほとんどが華北生産品
  • ヨーロッパの蚕業・製糸業の回復あり、日本の生糸シェアも増加
  • インド製茶業の成長により、中国茶のシェア低下
  • 1870半ごろ~欧米で金本位制採用:銀価値が低下=中国銀の安値(中国にとっては輸出有利。
    同時に、国内の銅貨に対しても銀価値は低下していた。これらの為替レートの変動は、銅貨決済する農村部にとっては、外来品、例えばイギリス植民地インド製の機械製綿糸を安値で購入できるようになった事を意味する

かつて江南デルタの開港場に集中していた貿易利権は、北から南に至る各地の開港場に分散します。これらの変化は、開港場を取り巻く各地方の地域ごとの経済圏の現出、地域分業化、ひいては地方分立の様相を呈するようになりました。

外国人が管理した関所税のレポートは、不完全ながらも清帝国側の輸入超過を記録しており、当時の清の官僚たちは入超による国富の流出に警戒感を抱くようになります。李鴻章のスタッフたちが提起した対策としては、西洋流の保護関税の導入、および国内での近代産業の振興ですが、いずれも利害関係が複雑に錯綜していたため、20世紀までは実現しませんでした。

▼保護関税の実現を妨害する利害関係
欧米列強は、関税自主権に伴う不平等条約の撤廃の見返りに、釐金の減免を求めたが、清帝国にとっては総督・巡撫の権力(督撫重権)を維持する経費、治安維持費の調達になっていたから、とうてい応じられるものではなかった。
※欧米列強は、「釐金=事実上の関税障壁」と理解していたらしい
▼富国強兵&殖産興業(洋務運動の遂行)を妨害する利害関係
日本では、国家体制そのものの近代化や産業構造の高度化といった変化の一環として、富国強兵と殖産興業があった。
中国では、洋務運動は督撫重権を維持するために実施されたのであり、現代中国と同様、権力側の利権構造の一環として組み込まれていた。そのため清帝国内部の経営において、異国のごとく異なる社会階層に属した底辺庶民たちのニーズを掴む事ができず、需要と供給の食い違いが長期化し、期待するほどの利益を上げられなかった。
また、投資資金を集めて運用するルール(株式)が確立されておらず、軍需工場のような大規模工場を建築し経営するための資金の確保が困難化した。
※政府の公金支出には限りがあった/民間で公司(カンパニー)を設立して資金を出し合う方法では、法の監視が行き届かず、共同出資者の誰かに資金を持ち逃げされるリスクが高まっていた(民間マネーは不足しがちであり、企業投資に対する保証といった習慣も皆無だった。巨大な経済格差がもたらした、もう一つの困難であった)

近代経営のための解決策として、官辨(官督商辦)という方法が採られました。

すなわち国営企業というスタイルです(軍需工場は、ほぼ国営)。民需企業の分野では、経営実務を民間に任せ、政府はそれを監視するというスタイルになりました(故に、官督商辦)。

※合股=民間で新しく広がった企業経営の習慣。出資者が利権を一定額ずつ等分し、1年ないし3年の年限で運営する。出資者はほとんど地縁・血縁・知友で、連帯無限責任を持ち、外部の専門の経営者に経営実務を担当させた。経営者は、経営利益とは無関係に、限られた年限の中で出資者に利益配当や貸付利息を支払う義務を負った。これは企業経営において大変な負担を強いるものであった。従って、大規模化した国営企業に対して、民族資本は零細企業の規模に留まった(紡績業が多い)。ちなみに浙江財閥は巨大な民族資本であるが、これは買辦企業から発展したものである。

しかし、当時の官僚登用システム(科挙制度)は経営実務能力を問うものでは無く、必要な手腕を持つ人材に欠けていた事は確かです。李鴻章らは、洋務運動の一環として、科挙とは別の教育機関や留学制度を試みていますが、余り効果は無かったと言われています。

それ程に、伝統的な「官/民」の身分差は大きいものでした。能力のある庶民が専門知識や技能を修得したとしても、身分差という障害があったため、「末は博士か大臣か」といったような立身出世は不可能だったのです。また、官僚子弟たちにとっても、科挙に比べると処遇上のメリットは薄かったようです。

洋行帰りや留学生が優遇された明治日本の人材登用システムとは、非常に異なっていたと言えます。

日清戦争(1894~1895)の後、事態は急展開しました。

多額の戦費および賠償金の調達のため、従来とは桁の違う莫大な金額が動きました。これらの費用は、民間からの更なる収奪の他(=この収奪で民間は更に困窮し、義和団事件などの暴動が相次ぐ)、主に列強からの借款によってまかなわれました。その担保として、列強は、清帝国から、関税収入の他、鉄道や鉱山の利権を獲得します。

ここには、清帝国内部の構造に対する誤解があったらしい事が指摘されています。当時の清は、各地方の関税や鉄道、鉱山の管理に関しては直接にタッチしていません。これは地方官僚(地方政府?)の税収権限であると共に利権であり続けてきたものです。中央が関与したのは、地方の表面的な「国富」を動かす事だけでした。

しかし、各地方の関税や利権が「担保」と見なされた事により、存在しなかった筈の「清の中央政府」が実体化しました。「清の中央政府」は、地方官僚から各種の税収権限を没収し、中央財源としたのです。地方にとっては、「中央による収奪」でした。

これまで曖昧だった国富管理の権限の明確化・差別化は、中央と地方との間に、深刻な対立を生じるようになって行きました。清帝国内部は、地方軍閥割拠という様相を呈しました。

※最も典型的だったのが満洲の軍閥政権です。満洲では大豆が貿易取引の主力商品になりました。華北各地の開港場で起きていた貿易取引量の増大と共に、著しい経済成長を遂げます。中央からの分立状態は大きく、満洲の実質的支配者として権力を振るったのが、張作霖でした。張作霖政権は、100種以上の民間私幣を整理統合し、「奉天票(紙幣)」という満洲共通通貨を発行しました。

当然、清朝末期の中国知識人は、この有様について「中央集権的な統一国家、国民経済の進展に逆行する」と批判はしましたが、彼らもまた地方有力者の一であり、その行動は、在地権力の支持に向かいました(=つまり、「地方の群雄割拠をいっそう固定化する」事につながっていました。発言と行動が、互いに逆だったのです)。

孫文が主導した辛亥革命(1911)は、この「群雄割拠に向かうベクトル」の一つだったと言えます。実際、辛亥革命の後、13省が相次いで「独立」を宣言しています。

清朝末期の混乱を彩り、そして清滅亡に結びついたのは、こうした中央と地方の対立でした。

元・李鴻章の部下であった袁世凱は、清朝政府の中央集権化プロジェクトに協力しつつも、多くの政変を切り抜けて独自の権力基盤を構築し、辛亥革命においては、清朝の弱体化を見越して、孫文と手を結びました。袁世凱が予期したとおり、孫文をリーダーとする中華民国は支持基盤が弱く、清朝・宣統帝(最後の皇帝)の退位と引き換えに、袁世凱を孫文の後任として迎える事になりました。

しかし、多くの地方軍閥は袁世凱政府という新たな中央集権プロジェクトに反発し、第三革命(1916)を起こしました。袁世凱は失脚、および死亡し、その後は、地方軍閥の抗争の時代となります。

(1914年、第1次世界大戦が勃発すると袁世凱政権は中立を宣言したが、日本はドイツ基地のある青島を占領、翌15年に袁世凱政府に対し「二十一カ条の要求」を提出。5月、最後通牒を突きつけられた袁世凱政府は要求を受諾、激しい非難を受ける。袁世凱は帝政宣言を発して乗り切ろうとしたが、反・袁世凱運動として第三革命が発生、日英露仏の列強も帝政を支持しなかった)

袁世凱が清朝から引き継いだ形となった中央集権化プロジェクトの一つに、大陸全土の共通通貨(国幣national currency)「袁世凱銀元」の発行があります。これは、雑多な地方通貨の整理統合を目論むものでもありました。

袁世凱の死後、この「銀元」を兌換紙幣として、中国銀行券(中央銀行券)が継続的に発行されました。皮肉な事に、袁世凱の死をもって葬り去られる筈だった、この中央銀行券が地方通貨を駆逐し、ひいては地方軍閥割拠の状況を打開する事になります。

※第一次世界大戦で莫大な国費を失った西洋各国は、財源枯渇により金本位制を放棄。それまで下落が続いていた銀価は一転して急騰し、中央銀行の財源(元は関税など、金額がハッキリしている部分)に余剰金が生じ、中国では政府銀上昇、民間銭下落という状況となった。従って、中央政府発行の銀行券は財源余剰によって信用の裏づけが強化され、中央政権が起こした国債が成功するという画期的な結果をもたらした。折りよく、上海を中心とした内地で、民族資本の黄金期と言って良い程の活況(バブル経済)を呈したため、この中央銀行券は大量に流通した。