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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

華夏大陸:隋唐帝国を襲う〈投げ網〉

人間が自身を都市の内部へ囲い込んだ長大な歴史はついに人間の卑小化、矮小化を産みだしたのである。それと同時に都市的世界も銭の孔にまで萎縮した。・・・(中略)・・・そして、 古代以来の都市文明が銭の孔の中の虱にまで衰え果てたとき、北方から侵入した騎馬遊牧の異民族に世界の中心を明け渡した、その文明の創造者は江南の長江流域へ移住し、そこで文明の再生を図らなければならなかった。

これが、大室幹雄氏が『桃源の夢想』にて描く、古代の漢族による都市文明の終末、南方へと亡命して行かんとする、かつての中原を支配した帝国の終末の姿です。続く『園林都市』で、歴代南朝の都市の変容が描かれていますが、その都市の姿は、漢代バロックから遥かに遠くなった物として言及されています。

世界の神話的な中心から地理的に大きく逸脱し、城壁の欠如を初めとして従来の漢族の都の古典的な造形モデルからも逸脱した、歴代南朝の都市―― 交通エンジンは馬ではなく牛であり、牛歩の如く緩やかな歩み、清談に表現されるような細部に囚われた精神が、ロココ的とも言える園林世界像を現出しました。

そしてこの「園林都市」の中に興亡した南朝の文化遺産が、「干潟幻想/反園林都市」たる隋唐帝国の中に染み込み、 銭の孔の形をした〈投げ網〉よろしく、新興帝国をジワジワと呪縛して行ったと考える事が出来ます(=華北の人々は江南文化に憧れており、いわば江南コンプレックスを抱いていた)。

かつて、絢爛たるロココを現出した江南文化は、その富貴の文化的完成性の故に、 恐ろしい腐蝕作用の力を蔵していたと言えます。 この「反都市理念」をまとった園林の夢想、永遠普遍の腐蝕は、隋帝国のみならず、唐帝国にも作用したのです。

同じく、『桃源の夢想』より、引用

端的にいって、戦国期的な渾沌と自由の再来にも関わらず、世界解釈の枠組みが伝統として完成されすぎていたのである。そのため世界を初め、国家、社会、人間をめぐって未来を展望し、それらの新たな諸関係を構想し、世界解釈全体を構成しなおす想像力の潑溂はどこにも湧き起こらなかった。

唐帝国が完成した都市・長安は、〈後シナ文明〉の完成形、或いはその後の宋・元・明・清といった歴代帝国の都のロールモデルとして理解する事も可能です。その都市・長安は、これまた、やはり時の変遷と共に変貌した都市でした。最初は、城壁によって厳格に内/外を仕切る「檻獄都市」として登場したと言う事が、大室幹雄氏によって語られています。

以下に、大室幹雄・著『檻獄都市』の緻密な語りを引用

長安の外郭城は規模の大小に些少の差異はあれ、高さ3m、厚さ2mを越す土牆によって防禦され、画然と横長の矩形に区画された、蓋の無い巨大な平べったい箱に似た夥しい都市都市の集合にほかならなかったことが判かる (※補足=長安の外郭城=「坊」と呼ばれる街区によって構成される。「坊」全体の概数は110区)。感受の仕方によっては、これは戦慄的な恐ろしい光景、それ自体としては荒涼たる不気味な景観、権力の専横と倨傲だけが実現すること可能な反自然の構築、醒めて眺めれば壮大な奇観以外の何ものでもなかったといってよかろう。・・・(中略)・・・もうひとつ、景観の印象の表現を。高宗の代に完成された大明宮の前殿、龍首原頭の高みに建てられて大明宮の「外朝」だった含元殿からの眺望である。「天晴れ日朗(て)る毎に、終南山を南望すれば掌(て)を指さす如く、京城の坊・市・街陌は、俯視すれば檻の内に在る如し。蓋し其〔含元殿〕の高爽なればなり」・・・(中略)・・・相対的に天に近い含元殿の高所に立って、げに昊天上帝のご機嫌もうるわしい青天白日のもと、脚下に拡張する京城を俯瞰すれば、縄直の街路を挟んで、高く厚い黄土の直立する堆積に囲まれて碁盤目状にびっしりと詰まっている街区と市場の集合は一個一個が巨大な「檻」の群だというのである。それらの「檻」の内部に生きているのは羊たちであろうか?昊天上帝の愛息子と彼の忠良な臣下たちの富貴に眩んでいる遠眼には、それが牛羊の群であれ、人の男女老幼の群集であれ、現実にはさしたる差異はなかったといってもよかろう。少なくとも権力の高みから俯視した、この景観はわが巨大都市の殺伐を歴歴と具象化してはいた。
首都長安は世界を天下的に所有し支配する皇帝と、彼に禄仕する官僚たちが繫縛されていた底のない富貴願望の実現に奉仕する目的で設計され建設された檻獄都市であった。

唐帝国を彩った帝都は、長安と洛陽。 長安が「檻獄都市」だったのに対し、洛陽は「仏教的トポス」としての姿を見せました。

唐・第三代皇帝・高宗の代、宮殿の増改築による都市・長安のいびつな変形、「象徴性の深層において、この巨大都市は頸骨が折れて、頭部が異様に脱臼してしまったと見立てるほかはない」と言う有様に乗じて、唐帝国を大いに揺るがし、〈シナ文明〉に代わる新たな文明の予兆を見せた時代がありました。

それが則天武后の時代、武照革命(大周革命)とも記される時代です。しかし、これもまた、あの江南の園林都市の影が差した結果なのか、政治文化の拠点としての洛陽を徹底的に破壊した事実の他には、文明的な意味合いは無かったようです(江南コンプレックスの呪縛、恐るべし!)。

大室幹雄氏による、武照の大周革命論評(『檻獄都市』大室幹雄・著/三省堂1994):

武太后の専政と革命とが、辛辣で覚醒的なリアリズムと夢想的な理想主義と壮麗広大なシンボリズムとのアマルガムによって神都を光被し尽した、すなわち現実と夢想と象徴が混融する妖しげな巨大趣味(メガロマニイ)の実現によって、東都洛陽を万象の秘儀が顕現し交響する場として文字通りに神秘な都に変成することに成功した
(中略)…宇宙の神秘が示現した聖母神皇の都をあげての壮大なカーニヴァル、20年間ぶっつづけに興行された世界芝居、あるいはこの文明の開始以来最初の女性として、世界の中心に聳立する宇宙軸を祀る単一至尊の天子-皇帝に再生した彼女自身の生の浄福をことほぐ祝祭、 それが大周革命の本体であった。…
さして広くもない神都洛陽にこれほど多種莫大な天下=世界の力が凝集して、その力のたぎりの中心から断乎として集中的に強烈に、壮麗誇大に多彩な表現として現前したこと――顧みれば、本書の前篇『干潟幻想』で、天下=世界のほぼ全域に拡散して遊ばれた、始原児皇帝煬帝の世界遊戯を、彼の独自な心情をも勘案して、江南ロココ崩れの擬似バロックと呼んだのだが、それとの対比において、われわれは武照の支配した世界、より適切には閻浮提における彼女の「化城」に現前した精神と物質のメガロマニィ的な創造をバロックと呼ぼう。

(※当サイトにおける解釈&補足=もっぱら天空のみに定位された、垂直的な力の上昇の意思をバロック的な精神と呼ぶ。武照が力の限り破壊し変成した天上志向の帝国が、すなわち神都洛陽であった。その支配の下、洛陽は、弥勒下生のバロック・ユートピア、あるいはバロック都市として展開した。しかし、その実態は、秘密警察組織が活躍する「(恐怖政治)テロル都市洛陽」でもあった)

則天武后が押し通した仏教革命は、 シナ・イデオロギー都市を仏教イデオロギー都市に改造するという形で進行しましたが、〈後シナ文明〉の第一原理――「シナ化都市化」そのものを変容させると言う事態には至りませんでした。 その代わり、〈後シナ文明〉を彩る事になる、新たな革命思想が定着しました。

つまり、 従来の「儒教・道教(陰陽五行説)を基にしたシナ・イデオロギー的な革命思想」に対して、「弥勒下生信仰イデオロギーによる救済としての革命思想」が加わったと考える事が出来ます。このニュータイプの革命思想は、20世紀の文化大革命にも及んだ事が指摘されています。

武照の弥勒信仰という外部思想を利用した革命は空前ではあったが、しかし絶後ではなかった。彼女の仏教革命は後世に深甚な影響を及ぼす事になったのである。/【シナの変容】革命の変質
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