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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

研究:中華経済の近代史(前篇)

中華経済圏の歴史について、もう少し詳しく見てみる事は、「21世紀の中華」がどのように動くかを予測する上でも参考になるかと思いますので、チャレンジです。

《プレ近代(18~19世紀)の中華経済:明&清》

中華帝国の経済構造の基礎は、明・清の時代に確定しました。

宋・元(モンゴル)の後の大陸を支配した明帝国の、最初の課題は、まず何よりも、南北の経済格差であったろうと思われます(経済構造そのものも、異国レベルと言って良いほどに異なっていた)。

実際、前王朝であったモンゴル帝国も、華北・華南で同一の統治を行なっていません。 華南から発生した明は、華北を、自らの地元でもある華南(江南)の経済構造の中に同化しようとしました。

初期は、王朝交代に伴う激しい戦乱が収まっておらず、現物主義の決済システムとなりました。モンゴル帝国が保持していた紙幣制度の崩壊という事情もあり、貨幣は余り重視されなかったのです。

華北経済圏と華南経済圏…生産力も経済システムも全く異なる2つの経済圏を「中華経済」として統合し、なおかつ南北格差を解消するため、明は現物主義を取りました。初期の明政権の江南に対する弾圧・収奪は、過酷なものとなったのでした。

※土地・人民を調査した資料として、「魚鱗図冊」や「賦役黄冊」が有名です(太閤検地みたいなものでしょうか)。それに基づいて、物納や徴発という形で物資・労働力を直接に取り立てました。明朝の貨幣「永楽銭」が知られていますが、鉱山資源の枯渇もあって、実際には現物決済の補助的な役割しか無かったようです。

明の経済は、貨幣の流出を防止するため、モンゴル時代のグローバル経済とは違って、朝貢経済の復活と共に厳しい海禁(鎖国)政策を伴うものとなりました。「万里の長城」が明の時代に完成したのは、この鎖国政策の固持という理由によっています(実際、モンゴルも清も、万里の長城を越えて侵入する事は困難でした)。

一方、江南デルタでは、土砂堆積作用によって主要河川の流路が変化し、広大なエリアで水不足が起き、米作を断念せざるを得なくなりました。稲作メイン地帯は別地方に移りました(「蘇湖熟すれば天下足る」から「湖広熟すれば天下足る」へ)。

江南デルタの中央部では桑、木綿、麻、麦といった多様な商品作物が増え、いっそうの労働力の集約とマニュファクチュア(工場制手工業)の分業化が進みます。

江南経済は貨幣決済を強力に必要としましたが、明は現物決済主義です。そこで、江南地方では私鋳銭が増加しました(違法ではあります)。近隣の取引では様々な質の銅貨が一定の双方合意のもとに流通し、遠方の取引では広く共通価値が付与される貴金属=銀が使われました。

遠方取引(海外貿易)においては、ヨーロッパ大航海時代を迎えた事もあって、大口取引(絹・茶・磁器などの中華ブランド品)の需要が爆発的に増加しました。江南エリアでの付加価値生産力の上昇と商業発展に伴い、銀需要は飛躍的に高まります。

倭寇などの密貿易集団(海賊)が活躍した時代でもあります(※台湾の鄭成功が有名)。

※外国資本の流入による、この江南エリアの経済ビッグバンもまた、「量の問題」に帰結すると言えます。ヨーロッパ科学革命のような、将来の産業革命に連結してゆく「質における革新&革命」は、遂に発生する事はありませんでした。これは中華帝国の世界観や哲学史・科学史を考える上で、非常に興味深く、また厄介な問題でもあります

こうして明が保守した現物決済主義の経済システムは、グローバル的な時代変動の圧力の前で、立ち行かなくなりました。鎖国政策を続ける政府と、自由貿易を求める民間。相反するベクトルの中で、双方の距離は拡大し、身分や貧富などといった社会格差、大きくは南北格差も巨大になって、明は内乱で疲弊します。その明に取って代わったのが、清でした。

清は、明帝国の後裔という立場上、明の経済政策を概ね敷衍していました。

近現代の財政(国庫スタイル)とは、非常に異なったスタイルです。プレ近代の中華帝国には、「国庫(大蔵省・財務省)」という一括的な財務処理機関の概念がありませんでした。

理論上、国富はすべて皇帝の下に集結するのですが、実際の「国レベル税収項目」は「国レベルの支出項目」と一対一で連結していなかったのです。地方ごとに、(国庫的な)負担項目と負担レベルが決まっており、地方は中央の裁定に従って、個別に全額を納入しなければなりませんでした(差額による相殺は無し。つまり国税&地方税、国家財政&地方財政、という統一的な概念も無かった)。

このようにバラけた国富管理(歳入/歳出)を、限られた政府役人メンバーのみで正確に把握する事は不可能です。ゆえに、清は、定額管理財政を志向しました。

しかし実際の行政支配においては、国家予算の額が通年平均を超える事もままあります。このような事態に、定額管理財政は対応できません。そこで、不足分の予算を確保するために、臨時の追加徴発や付加税という形での収奪が、不定期に、かつ頻繁に行なわれました(国債という概念は生まれなかった)。

ここに、官僚汚職(私的かつ不法な収奪、および差額の着服)の基盤が、強固に確立し定着する余地がありました。

清は、共通決済通貨として「銀」を公認しています。銅鉱山の開発を進めたため銅貨も増えましたが、明スタイルを引き継ぐものとなったため、貨幣管理に国家権力が介入する事はありませんでした。

そのため地方では多種多様な私幣(現地通貨)が弾力的に運用され、専門の金融業(銀行業、信用投資、保険業、帝国内部の共通の株券・証券など)が発達しませんでした。

「関税」の扱いもまた同様です。それは、清の海禁政策の実施において、帝国の内と外を峻別する「国境」概念と結びつくことはありませんでした。内地の交通・流通を、国境および国境外(客家・華人経済圏の及ぶ限り)にまで延長したものとして、取立てが行なわれていたのです。

※この「国境」「関税」に対する定義の曖昧さは、現代にまで持ち込まれているようです。中華帝国の版図の野放図な拡大現象は、これで説明できるかも知れません。ボンヤリとした定義の都合上、「中華帝国」における「国境」は、無制限に膨張する性質を持っていると言えるでしょう

さて、清の時代に、領土の膨張を遥かに凌駕する勢いで、激しい人口増加があった事が知られています。この人口増加は「パイ(限られた土地・資源)の奪い合い」を激化させ、社会における貧富の格差をいっそう拡大しました。昔に比べると、働いても働いても収入が増えない…すなわち人件費(賃金)の著しい低下という形で、「量の問題」がここにも発生していたのです。

こうした社会は、必然として摩擦や紛争(械闘)が増えます。これらを中心になって処理したのが、民間結社、つまり地縁・血縁を基盤とする中間団体でした。こうした団体は、私幣(現地通貨)運用に関して強い権限を持っており、その価値を保証するため、しばしば密貿易にも関わったと考えられます。

以上のボンヤリとした国境概念、華人(私幣)経済圏の増加、膨大な貧民の発生といった変化が、緻密に張り巡らされた密貿易ネットワーク(地下経済)を発達させました。密貿易を専門とする秘密結社は、星の数ほど存在した事が知られています。

《近代化直前(19世紀アヘン経済発生~アヘン戦争とその後)の中華経済》

清における国家と民間の経済の巨大な乖離の故に、アヘン経済は成功しました。

清はアヘンを禁じていましたが、無数の秘密結社が、国内需要にこたえて大量のアヘン取引を行なったのです。塩の密輸市場を遥かに超える勢いで、アヘン市場が急成長した事が知られています。

元々、海外貿易における大口取引では、国家公認の少数大手の貿易商がメインでした。外国商人の注文に応じて、清の商人が国内から商品を買い付けるという形です。イギリスの場合、発達した株式や銀行によって巨大資金を集め、大口発注を増やすことが可能でした。それに対して清公認の商人は、各地方から資金を集める事が不可能でした。貿易量の増大と共に、金融処理の限界が来てしまったのです。

清公認の商人は、イギリス各国に借金して運転資金を捻出する羽目になりましたが、返済能力が無いため倒産する商人が多く、商取引は滞りました。

そこに非公認の華人貿易商、つまり秘密結社が進出する余地があったのです。非公認の華人貿易商は、外国から資金を提供され、貿易商品の買い付けを担当しました。いわゆる買辦企業の始原です。非公認であるため、私利を追求しての密輸も脱税も、日常的に行なわれていたと推察できます。

アヘン貿易もまた、このような密貿易の容易な構造の中で、発達したのです。更に言えば、アヘンは銀に代わる高額決済通貨としての価値があったため、国内流通においては、大きな混乱は無かったと言われています。

※清帝国から大量の銀が流出しましたが、アメリカ西海岸やオーストラリアのゴールドラッシュにより、新たな中華ブランド商品の消費市場が生まれたため、銀は再び清帝国に流入し始めました。その様相を見ると、総じて、買辦企業(華人商人)の方が取引の主導権を持っていたとも言えます。それゆえ、不満を持った外国企業との間で、しばしば紛争が起きました。アヘン戦争は、その拡大版として理解する事が可能です。

買辦企業を運営する華人商人と外国商人は、アヘン戦争などの大きな紛争を重ねながらも、結託の度合いを増します。アヘン戦争後に条約が結ばれ、その結果、爆発的に増加した貿易取引は、外国商社と華人商人がメインです。そこには、条約によってより参入の度を増した外国商人による、現地銀行の設立がありました(新たな金融業の発生)。

外国銀行は、外国商社に対する融資や、華人との貿易取引における送金決済を処理すると共に、外国通貨建ての現地通貨を発行しました。清にとっては、従来の、国境を曖昧とする華人(私幣)経済圏の拡大版と言えるものであります。

対して、清国内の金融業務を担当したのが、土着金融機関の「票号」「銭荘」でした。「票号」「銭荘」は、業務拡大にあたり、やはり清国内から資金を集める事が出来ず、外国資本の融資に頼っていました。

海外・外部からの資本流入によって貿易量が増加し、江南デルタを中心とする流通経済が(地下経済も含めて)極度に活性化するという、現代中国でも見られる他力的な経済発展スタイルは、明・倭寇(ヨーロッパ大航海時代)の頃から既に存在していたと言えます。そして、その発展の有様は、常に「質の革命」を伴わず、「量の増大」のみの現象となりました。

「量の問題」は、ここにも共通して見られるものであります。

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