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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

2021.12.12ホームページ更新

『物語ノ本流』にて
【第二部 タタシマ】…「第十章.東奔西走」を全ページ公開(オリジナル和風ファンタジー漫画)

『物語ノ傍流』にて
「猫天狗!」シリーズ、2つの短編を追加
・【猫天狗が光り舞う!~不惑の年のボーイ・ミーツ・ガール事件(海外版)】
・【猫天狗が光る!~密室の窓を金魚と泳ごう】


(何かの時の考察用メモ)

https://enlt.net/ps/Togoku3/「東国三社」(日本のパワースポット)
鹿島神宮・香取神宮・息栖神社は富士山を意識して配置された可能性あり。
富士山から見て、鹿島・香取・息栖の先の海から太陽が昇るように見えるのは5月第一週ごろ=日の出レイラインを構成。
東国三社から見て、富士山の頂上に太陽が没するように(ダイヤモンド富士)見えるのは11月第一週の頃。

●中央構造線メモ
阿蘇神社―(四国横断~淡路島南岸)―高野山―天河神社―伊勢神宮―豊川稲荷―諏訪大社(急角度で内陸に向かって折れ曲がる)―氷川神社―香取神宮―鹿島神宮

●https://twitter.com/sizukashirakawa/status/1456812091457761286
わざはひ(禍・難・災・祥)】神意として深く隠されているものが、そのしるしとしてあらわれるものを【わざ】といい、【わざはひ】という。【はひ】は【幸(さき)はひ】【賑(にぎ)はひ】と同じく、その作用として機能することをいう。

●https://twitter.com/sizukashirakawa/status/1470235558421331973
人の世に完全というものはない。究極のものを真といい、善といい、美という。真とは行き顚れて、その霊力の滅びずして残るもの、美とは犠牲として神に供えた羊の姿、善とは羊神判において神意を示す羊の姿を含む字である。そこには人の世界はない。それで人の究極は、その不完全態においてある

●https://twitter.com/sizukashirakawa/status/1470144883948396545
宗教はかつて、人を救うたかもしれない。しかし本当に救われたのは、愚昧随順の人たちだけであった。救われたというように思うだけで、救われるような人々であった。凡そ生物の全体に霊活を与えるもの、それが真の宗教である。その霊活なる秩序に身を投じることが、真の宗教であろうと思う。

●https://twitter.com/sizukashirakawa/status/1471368123538604035
世が乱れてまいりますと、あまりはっきりと作者が名告って批判をするということができなくなります。そういう時代に、童謡が生まれた…この【童】というのは、強制労働に服している、いわばなかば奴隷に近いような人々であります。

●https://twitter.com/sizukashirakawa/status/1475852637665120258
【道】はもと神の通路であった。その【道】が王の支配に帰したとき、神の世界は終わった。王がそのような支配を成就しえた根拠は、神に代わるべき【徳】をもつとされたからである。しかし【徳】は人によって実現されるものである。神の【道】と人の【徳】とは、本来はその次元を異にするものであった。

●https://twitter.com/sizukashirakawa/status/1479265118404083712
学問の世界でも、忠実な紹述者ばかりでは、何ごとにも発展はない。論難答問があって、はじめて展開がある。その論難答問を認めないような、権威主義の横行を許してはならない。【狂】とは、まずそのような権威を否定する精神である。そしてその否定を通じて、新しい発展をもたらす理性が生まれる。


(メモ)

●鷲巣繁男『行為の歌』より
風が吹いてゐる、
一本の骨の中に――。
骨の中には淋しい息がある。
或る日閉ぢ込められた運命だらうか。
骨の中に風が吹いてゐる。
何者だらう、生きてゐる時ふと聞いた風の声、
空を渡っていく鳥が告げた、この世の異変の前ぶれだったらうか。

●バックミンスター・フラー
Environment to each must be
“All that is, expecting me.”
Universe in turn must be
“All that is including me.”
The only difference between environment and universe is me......
The observer, doer, thinker, lover, enjoyer
それぞれの人にとって環境とは、
「私を除いて存在する全て」であるにちがいない。
それに対して宇宙は、
「私を含んで存在する全て」であるにちがいない。
環境と宇宙の間のたった一つのちがいは、私……
見る人、為す人、考える人、愛する人、受ける人である私

●ゴダール「映画は現実の反映ではない。反映の現実だ」

●https://twitter.com/Prokoptas/status/1468308956041080832
総合的に判断して、古代エジプト人は、どうやら、魚を食べることに慎重であったようだ。先ず、「海の塩は不浄とみなされ……海に関係あるすべてのものと同様……邪悪の神セトの領域に属するものと考えられていた」(ストロウハル『古代エジプト生活誌』上巻)。


https://news.yahoo.co.jp/byline/moritamasamitsu/20211120-00268912

漂着した「軽石」は資源になる 沖縄県環境部が発表した軽石の分析結果
8月13日硫黄島から撮影された福徳岡ノ場の噴火の様子(提供 海上自衛隊第21航空群)
現場付近では凄まじい噴煙
福徳岡ノ場から北へおよそ60キロに位置する硫黄島で撮られたものです。噴煙の上部がカナトコ状になり、それ以上は雲が上昇することができない、いわゆる圏界面に達していることがわかります。また、火山雷(噴火の際に噴出した軽石や、火山灰などがぶつかりあって電気が生じたもの)が発生していることもわかります
いずれも、スマートフォンで撮影したものとのこと。60キロの距離というと、東京から神奈川県の丹沢くらいになります。これだけ離れた距離でこのような写真が撮れたことからも、噴火の規模は相当大きかったと言えるでしょう
また気象の上では、火山の噴煙が圏界面を越えて成層圏に入ると気候に影響が出ると考えられています。当時の小笠原付近の圏界面は約1万7000メートル。噴煙の高さは1万6000~1万9000メートルですから、噴煙の一部が成層圏に入った可能性も有ります

2021年8月 福徳岡ノ場で起きた令和初の国内プリニー式噴火と島の誕生と漂流軽石を見守る会
https://togetter.com/li/1762225

例の軽石完全に理解した(い)~現在までに分かっていること~
https://note.com/geomemorandum/n/nb22c82b8af80

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2021.08.15ホームページ更新

更新情報

▽《物語ノ本流》コーナー
http://mimoronoteikoku.tudura.com/astrolabe/content.html

第二部「タタシマ」/第九章「八重潮」全70ページ

(キャプション)不穏な思惑の漂う花洛朝廷をあとにして、一行は再び旅に出る。最終的な目的地は鎮西の国、九州。 最初の寄り道は明石海峡を渡った先の淡路島。そこでは奇怪な銅鐸盗難事件が発生していた…

制作期間3.5ヶ月となりました。

マンガハックへの公開:2021.05.04~2021.08.14の間に実施。

原稿の作業期間:2021.04.18~2021.08.13
なお、各パートをまたいで記録してある全体ノンブル番号においては、目次・表紙コミコミで、976ページに到達。


興味深い記事をメモ

●科学ニュースメディア@ナゾロジー
https://twitter.com/NazologyInfo/status/1410146587196542976

脳に光線を見せる「新しい錯覚」が見つかる
https://nazology.net/archives/91962
ある会社のロゴから新しい錯視が見つかりました。下の画像は円の中心から光の筋が見えます。この「光線」を見せる錯視は今までなかったそう。黒円の線の量が少ない箇所を明るい点と脳が誤認し、錯覚が起きるとNYUが報告しています。

2021.07.16付キャプチャ

●生物学的・脳科学的な話

「自由意思は存在するのか」という研究。

昔、治療の必要があって「左と右の脳みそを切り離す」という手術が行なわれていた事があったそうです。(今はやっていないと思います)

「自由意思は存在するのか」研究の一環で、手術の結果、左と右と別々の脳みそになった被験者さんを対象に、ある興味深い実験が行われました。

1.右側の脳みそに向かって、耳を通じて「向こうの角まで歩いて下さい」と依頼する。
2.被験者さん(右側の脳みそ)は、依頼された通りに角へ歩いて行く。
3.そこで、被験者さんの左側の脳みそに向かって、耳を通じて「あなたは何故、歩いているのですか?」と質問する。

…論理的に考えると。

左と右の脳みそは切れていて、連絡は無い筈なので。

右脳から情報を受け取っていない左脳は、「さあ?何故、私は歩いているのでしょう?何処へ?」というような反応をする筈…

4.被験者さん(左側の脳みそ)は、このように答えました「喉が渇いていたので、あの角にある自動販売機のジュースを買おうと思って歩いていたのです」

( ゚д゚)

この被験者さんは決して嘘を言った訳では無く。「本当に、自らの自由意思で(事前に依頼をされた覚えは無く!)、目的の角へ向かって歩こうと思っていた」ということでした。

そして実際、被験者さんは本当に喉が渇いていて、その目的地である角には、そのジュースを並べた自動販売機が存在していました。

( ゚д゚)

此処から先は、まだ論争が続いていて、決着していない部分であります(…だそうです)。結論は保留。

●中国の問題は『量の問題』に帰着する

世界史bot@history_theory
https://twitter.com/history_theory/status/1424902119304302594
山田慶児『混沌の海へ』朝日新聞出版 1975

中国人は、枚挙的な記述とその分類により、世界を体系的に把握しようとした。
だがそれは、世界の規則性と統一性を示しはしない。
それを把握するには別の原理が必用だった。
量的認識とパターン認識がそれである。
世界の多様性は、量への還元により一つの平面に射影される。
量的関係に何らかの規則性が発見されるならば、世界の統一的な像がその上に描き出されよう。
しかも、事物と現象の量的な把握は、国家統治や生産と流通の不可欠の手段でもある。
中国人は量的な観測・観察・測定・実験・調査・計算・記録・説明・思索のおびただしい資料を残している。
正史には志(誌)と呼ばれる部分があり、そこには量的認識の氾濫が見られる。
天体の位置と運動についての、暦計算についての、楽器の音程についての、祭器や車や衣服の規格についての、人口についての、官職の定員と俸給についての、刑法の量的規定についての、貨幣や経済政策や土木事業についての。
しかも、量は事実として投げ出されているだけでなく、量を秩序づけ、様々な量の間に連関をつけ、何らかの規則性を発見しようとする志向がそこに働いている。
中国の天文学は代数的天文学であり、ギリシアの幾何学的天文学との鮮やかな対照を示している。
天体の運動は、すべて仮想的な球面上において、赤道座標系に基づいて量的に把握される。 惑星系の幾何学的な構造は問われない。
観測された量はいくつかの現象の複合であるが、その諸要素を量的に分離しながら、ひたすら計算を進めてゆく。
それだけに、計算法の発展には目覚ましいものがあり、たとえばニュートンの補間公式に匹敵する補間法が生まれたのは6世紀、隋の時代だった。
中国人は、天体運動を自然に備わる数として捉えたのである。

2021.04.17ホームページ更新

気が付いたら1年近く間が空いてしまいました。

下記、更新しました。

▽《物語ノ本流》コーナー
http://mimoronoteikoku.tudura.com/astrolabe/content.html

第二部「タタシマ」/第八章「百鬼夜行」全80ページ

ライフワーク作品としているオリジナル和風ファンタジー漫画で、これまでに作成公開した正味ページ数=898ページになりました。描きに描きたり…というところですが、まだまだ続きます。

今回、新型コロナ問題が目まぐるしく、行動制限や時間制限が厳しくなる中での制作になりました。

「百鬼夜行」というネーミングと、現実の新型コロナ騒動がシンクロしたのは、なんとも不思議な気持ちです。ワクチンが普及し始める6月までは、大変かも知れませんが…

仕事の形態も随分と変わりました。テレワークとか。紙文書から電子文書への変更とか。

変わらざるを得なかったのか、それとも、大きく変わるタイミングだったのか…適応するのも一苦労というところです。


TOMITA_Akio@Prokoptas様ツイッター/紫色、染色、黄金、水銀、錬金術

https://twitter.com/Prokoptas/status/1419747532087824387
ニセムラサキは”偽-紫”の意ではなく”似せ-紫”の意。そのうち青味のものを「江戸紫」「今紫」、赤味のものを「京紫」「古代紫」と呼ぶが、たいていは蘇芳や藍を使って紫に近づけたものという。もちろん「蘇芳」という色名は別にある。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1419775542480433179
これに対して西方の紫(purple←πορφύρα)は、同名の2種の貝(Murex trunculusとPorpura haemastoma)の腺から採れる染料であり、それによって染められた布をも指す。それがいかなる色であるかもさることながら、いかなる色と認識されていたかが重要であると思われる。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1419777385520525318
先ず、πορφύραは血の色である。「大地はπορφύρα色に、血潮でもって濡れ浸し……」(Il.XVII,361)
これはまた海の色でもある。「河々は……山々からまっしぐらに、πορφύρα色なす潮路へ、轟々たる響きを立てて押し流れれば……」(IL.XVI,391)

https://twitter.com/Prokoptas/status/1419779305794531335
これだけでも充分に混乱させられるが、さらに πορφύρα は希臘人にとって虹の色でもある。「ポルピュラ色の虹を、死すべき人間どもへと、ゼウスが天蓋からして掛け渡したよう」(IL.XVII,547)そういう次第で、邦訳ではテキトーに訳されることになる。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1419782573526458375
サッポー詩(LP54)「πορφύρα色の衣(クラミュス)に身をつつんで 天空より舞いおり来る(エロース)」。訳者の沓掛良彦はこれを「くれない」と訳しているのだが、日本人には、もちろん、沓掛の訳の方がしっくりくるだろう。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1419790338965704707
紅花はエジプト原産で、日本には7世紀頃、その染色法とともに伝来したという。私見だが、この紅花染めの色とスミレ色(violet)との間にあるのが西方のπορφύρα→purple、日本の紫は蘇芳と藍との中間の色とみなしていいのではないかと思う。異論のある方はどうぞ。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420118112305774592
πορφύραはフェニキアの特産物であり、それ以外の地では輸入品であるから稀少価値を有した。エチオピア王は紫の衣裳を見て云ったという。「ペルシア人は人間もいかさまだが、その身につけるものもいかさまだ」(Hdt.III,22)。染色するのは生地の色を偽る、というのだ。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420119459381923840
焼く・煮る・炙る……こそ最初の物質変成つまり錬金術だというのがわたしの持論だが、第2の物質変成は染色だろう。染料は「顔料の場合と同様に……その色で織物を飾るのに使われるよりも先に、先ず人体に用いたのではないかと考えられる」(フォーブス『古代の技術史』下・II)

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420120404165758977
とはいえ、「古代人が色に対して(さらには顔料や染料に対しても)、宗教的勝呪術的意味をもたせていたことに十分注意を向けるべきであって、色について論じる際は、古代人がそのような意味合いで色彩を用いていたという面を常に認識していなければならない」(フォーブス)。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420122759259033600
金属を染色することが初期錬金術の課題であったことは、テキスト上も確認できる。しかしそのことが、卑金属を貴金属に見せかけるという汚名の原因にもなる。「彩色や染色、あるいは変色といった諸現象に関心を抱くようになり、それを研究し始めたときに化学が成立したのである」

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420476527393734658
日本語では代表的な金属を色で区別する。あかがね=銅、しろがね=銀、くろがね=鉄、き(→「こ」に転音)がね=黄金、である(いずれも99%以上の純度であるが、100%でないことに注意)。が、このほかに「ま-かね」というものがある。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420477571297280002
「真金(Magane)」は日匍辞書に「金・黄金」となっていて、紛れはない。しかし、「真金(まかね)吹く 丹生の真朱(まそほ)の 色に出て 云はなくのみぞ 吾が恋ふらくは」(万葉XIV,3560)があり、ここでは鉄の意だとするのが定説であった。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420478706514939904
「吹く」といえばすぐに踏鞴(たたら)製鉄しか思い浮かばない研究者たちが定説をつくりあげていたせいである。これを真っ向から批判したのが廣岡義隆「「まかね」考」彼は大仏造営を根拠に、「黄金を葺き上げる(=鍍金する)」意と解釈した。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420499466918850560 「当時盛んであった造仏(大仏等)の際に、仏像への鍍金(葺く)の過程で金を水銀によって液状化して用いたところから(アマルガム法)、水銀の産地である丹生に掛ける枕詞の用例」と、論考は奈良の大仏が本来金ピカの金色像であったことが忘れられている盲点を衝いたといえる。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420503127065649157
しかし、なるほどアマルガム法による鍍金に水銀は不可欠であるが、だからといってそれが直接「丹生」を指すわけではない。まして、「真金吹く吉備の中山帯にせる 細谷川の音のさやけさ」(古今和歌集』)という歌が、同一の根拠で説明できないのは、いかにも苦しい。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420831438950133766
どうやら、「辰砂は赤い」という先入観・固定観念に人々はとらわれすぎているらしい。なるほど辰砂は赤い(左図)、しかし黒辰砂(右図)もあるし、黄土(おうど/きづち)も加熱すれば赤くなることは、先に見たとおりである。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420833134241665027
さらには、クロガネといわれる鉄も、自然界では赤い。左は砂鉄。右は、砂鉄のもととなる鉄の鉱床が地表に現れたもの。鉄元素が酸化して(つまり錆びて)赤くなる。自然界において金属はみな合金の形で存在する(唯一の例外とされる金も、多くは合金である)。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420836437147090946
岩見銀山は、当時の世界の銀の総産出量の1/3を産出していたという。世界遺産になるだけの理由があるのだ。それよりもっと早く、「黄金の国ジパング」伝説のもととなった平泉の黄金文化の金は、99%以上の純度だという。ところが、それはいかなる技術によって達成されたのか?

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420869713115029504
自然界の金属はみな合金の形で存在する(例外とされる金も多くは合金である)。合金は還元し、不純物は除去されて(精錬されて)初めて純粋の金属となる。「灰吹法は貴金属を卑金属から分離する方法としてはおそらく最も古く、また最も効果的なものである」(フォーブス)。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420877555821780993
ところが、バビロニア時代から知られていたこの方法を、日本は16世紀まで知らなかったと通説は云う。しかし、貴金属と卑金属の分離の仕方は知らなかったが、金の精錬の仕方や、鍍金の仕方は知っていた(金ピカの大仏とはそういうことだ)などという理屈に合わぬことがあろうか?

https://twitter.com/Prokoptas/status/1421208370434904067
西方では、金(Au)と銀(Ag)との合金は琥珀金(ἤλεκτρον→ラテン語electrum)と呼ばれた。これを合金として単独の金属から外し、それまで金属と認められなかった水銀(Hg)を加えて「古代七金属」が成立した。図は最古の貨幣とされるエレクトロン貨(B.C.6)。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1421210292353073158
かくして、古代七金属、七惑星、虹の七色、音楽の七音階が関連づけられ、相俟って「宇宙は音楽を奏でている」といったピュタゴラスの正しさを証明しようとした。虹の色を「各色の帯のはばが、音楽の音階の間の高さに対応していると結論」したのはニュートンであったという。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1421231458903986182
金は、金属のまま自然界に存在しうるほとんど唯一の金属である。したがって、”根気さえあれば”純金を得ることができる。「カリフォルニアでは99%の金が発見されたが、その平均は88.4%……オーストラリアでは95%、日本では砂金で62〜90%、鉱脈金で57〜93%である」(フォーブス)。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1421235609838886912
しかし、「鉱山や鉱床でとれるほとんどすべての自然金は天然の合金で、時折かなりの量の銀を含み、たいていは若干の銅と痕跡量の鉄を含んでいる」(フォーブス)。先の「灰吹法」は、金や銀の貴金属を卑金属から分離する方法であって、金と銀を分離させるわけではない。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1421240365323935744
日本の金山はその方法を確実に知っていた。──金を粘土と食塩と混ぜ、その混合物の入った坩堝を木炭炉の中で赤熱状態で12時間加熱。それから鉢を取り除き、その金を熱い塩水で洗って生成した塩化銀を流し去る(フォーブス)。いわゆる「塩化法」と云われるものである。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1421242651370684416
奥州の黄金文化について、技術的なことについて研究者たちは不思議なほど沈黙している。奈良の大仏の鍍金についても然りである。先に、ベンガラの発色をよくするため、縄文人は素材を海水に漬けておくことを経験的に知っていたことの重要性を指摘しておいた。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1421595555461943299
「鉱床の分布・配列は、地帯構造に左右され……わけても水銀鉱床は、世界的にみて著しい偏在性を示している……すなわち、環太平洋地域と、地中海・ヒマラヤ地域の二つの大きい造山地帯に、ほとんど集約的に配列している」(矢嶋澄策)

https://twitter.com/Prokoptas/status/1421598890286067712
日本列島は環太平洋にすっぽり入るわけだから、水銀の歴史がないはずはないのだが、ほとんど研究されていない。「丹」とか「丹生」という地名に目をつけてこれに日本史の立場から先鞭をつけたのが松田寿男で、これに化学の立場から共働したのが先の論考の著者・矢嶋澄策という。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1421603117771071489
とはいえ、彼らは文字記録を根拠に据えるため、当然、文字記録のないそれ以前のことについては口を噤む(それが研究者の矜恃というものであろうが)。しかも、重要な技術は大陸から伝わったという固定観念からはどうしても免れないらしい。とはいえ、その成果は重要である。


TOMITA_Akio@Prokoptas様ツイッター/天津甕星

https://twitter.com/Prokoptas/status/1415450030291390480
日本神話に星が出るのは、天神から葦原中国の平定を命ぜられたフツヌシ、タケミカヅチが、「天に悪神あり、名を天津甕(アマツミカ)星と曰ふ。亦名は天香香背男(アマノカカセヲ)。請ふ先づ此の神を誅ひて、然して後に下りて葦原国を撥はむ」と答えたと(書紀・神代下)。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1415450373679026179
この香香背男を、「最後まで「服はぬ」天津甕星……明けの明星として、他の星々が消えた後も燦然と光を放って、独り暁天に残る金星の姿を神格化したもの」という解釈は、たぶん、正しいであろう。しかし、その解釈が陰陽五行説を下敷きにしたものであるところに不満が残る。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1415453096658960386
方位を知るため或いは農作業の目安にするような星は「当(あて)星」「役(やく)星」などと呼ばれる。星座神話を欠く民族においても、そういった星の伝承は多い。プレイアデスとオーリーオーンはそういう星として(仮令星座としては知らなくても)よく知られていた。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1415759552557977601
「カカセヲ」はおそらく「輝く」と同根の語(吉野裕子ならカカは蛇の古語だと云うだろうが、カカセヲに言及しているかどうかは未調査)。そういえばカカセヲを祭神とする神社の多い県の1つ茨城には、東日本で初めての色彩壁画が発見された古墳虎塚古墳があったはず。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1416150459140747265
アマテラスがニニギに葦原中国を治めさせようとした時、そこは「多(さわ)に蛍火の光(かかや)く神、及び蝿声(さばへな)す邪しき神有り。復草木に能く言語(ものいふこと)有り」(神代下)という。これが日本列島における文字で記録しえた最古の相であったとみてよかろう。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1416153013685784582
そこでは、樹木のそよぎに神意を伺ったというドードーネ神託所の伝説も信じることができる。古代の人々は「土地や河海、岩石や樹木、鳥・獣・虫・魚など自然界のあらゆる事物には神(精霊)が宿り、それらのさまざまな変異はそれを占有する神の意志の顕現であると信じていた」

https://twitter.com/Prokoptas/status/1416155791468339201
「自然界の事物を自分のものとして占拠したり手を加えて使用しようとする場合、それに先立って必ず神との交渉が必要であると考えていた。つまり、人はその営為に先立って神に対する祭儀を行わなければ、神の妨害にあってそれを安全・確実に進めることはできないと信じていた」。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1416160055108456457
かかる自然観がそのまま保持されることは難しい。例えば樹木を伐採する際に行われる「鳥総立(トブサタテ)」が好例である。
[1]伐採してよいかどうか神に伺いを立てる。
[2]許しが得られたら、遷移していただくためトブサを立てる。
[3]これを他所へ遷脚して後に伐木する。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1416162489599856642
しかるに今やその意味が忘れられ、伐木後に、それも申し分け程度に立てられる。これを平林章仁は「神々の没落」として跡づける(『鹿と鳥の文化史』)。人の営為の妨げとなるような神は祟り神・偽りの神として速やかに他所へ遷却・追放されなければならないというわけである

https://twitter.com/Prokoptas/status/1416164033837809665
「なんじら日本人知らずや、われら昔、この列島の大地に年ふる土蜘蛛の精霊なり。われら地のそこに沈められた呪いを忘れず、いまこそ時を得て、君が代を討ちほろぼし、千数百年のとしつきを越え、われらが世を打ち立てんとよみがえりきたり」
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/yaziuma/kowa1.html