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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

「運命の巣」の考察

意識をどんどん深く沈めていくと、集合無意識と呼ばれる「運命の巣」のような領域に到達する。

この集合無意識は、「今ここにある自己」の有り様(現世の生活)を規定するところである。

社会が自分一人だけの行動で成り立っているものでは無いのと同じように、この集合無意識も、自分一人だけの意識で成り立っているものでは無い。

ここ集合無意識(意識の深層)の中では、他人と自分との意識の境界も、「殆ど無い」と言えるほどに薄い。他人が自分の鏡になり、自分が他人の鏡になるところである。

したがって「運命の巣」とは、「引き寄せの法則」が強烈に働くところでもあるといえる。

「自分」という紐―意識の深層に下ろされたDNAのような微細な紐―に、どのように他人の意識が引き寄せられているのかをじっくりと観察すると、自分の心の底で波打ち続けている様々な「感情的言葉」(=言霊の波動?=)が、まるで磁石のように、似通った波動の意識を引き寄せているという事が分かる。

磁石にへばりつく鉄の粉のように、自分の意識を構成している「紐」の各所に、びっしりと、名も知らぬ大勢の他人の意識の「紐のかけら」がへばりつくのである。その途方も無い重みが、己の意思も思考も行動も、まったく左右してしまうのである。

(どうやって「他人の意識のかけら」がへばりつくのかは知らない。意識の深層は精妙かつ緻密な構成になっており、数学的性質からして高次元の世界なのだろうし、多次元多面体の奇妙奇天烈よろしく、その辺の不思議は相応に在りなのだろう)

〆(’’;<…『蜘蛛の糸』(by芥川龍之介)のクライマックス・シーンが近いイメージか?

仏教の「業(カルマ)」というのは、いわば、これらの「〝自分〟という意識にびっしりとへばりついた見知らぬ鉄の粉のようなもの」を意味しているのでは?とすら思えるのである。

これら「びっしりとへばりついたもの」が、負のトラウマや嫉妬や怨嗟の波動に満ちていた存在であった場合、これらを駆除し、或いは浄化しない限りは、己を変えることも社会を変えることも出来ない。万有引力の法則よろしく、その重みに引きずられてしまうからである。

即ち、自らの意識の深層が、負のトラウマと怨嗟の感情に満ちていれば、その負の要素を次々に自らの身に引き寄せてしまうのである。負の要素の増幅&濃縮の中で、負の流れに引きずられるような形で、自らに授けられていたはずの運命を、自ら崩壊させてしまう、という現象も出てくるのである。

そこで、最初に、「透明な感情」をもって、自らの意識を満たす事で、意識の深層にびっしりとへばりついたものを駆除し、浄化をするのである(=「かがやかに、澄み明らかなる空」のイメージに近いと思われる。いわゆる「感謝」や「喜び」という感情が、そういう浄化イメージを、強力に生成するのだろうか?)

(「駆除」というのは、オカルト的な言葉で言えば「憑依を解く」というものになるか?)

すると、磁石の力が無くなって鉄粉が剥がれ落ちていくように、自己意識にへばりついていた見知らぬ他人の意識も剥がれ落ちていくのである。

その後で自己変容を起こし、新たな波動で自己意識を満たせば、その波動に見合った他人の意識が「引き寄せられてくる」のである(=他人の意識をも浄化し、新たな環境を構成するきっかけになる)

…ただし、自己の波動が成長・変容しない限りは、同じ事を延々と繰り返すのみである…

仏教者の場合は、浄化の究極の境地を「三昧(サマーディ)」と言うのであるが、三昧に到達した後で自己変容を起こさない限りは、やはり前と同じような波動のもの―旧世界―を引き寄せるのである。

意識の成長は、やはり深い意味での「出逢い」や「雷のようなインスピレーション」、「人生修行」を要求するものであるらしい。それも、極めて精妙な均衡バランスを要求するものである。

…現実のイデオロギーや思い込みや考え方を変えるのがどれだけ難しいかを思えば…深層意識の魂の分野における「成長」も「変容」も、なかなかに生じにくいものなのだ、という事も理解できると思われるのである。

「波動」「変容」と言葉で綴るのは簡単だが、それを成し遂げるのは、実に困難なのである…

…実際、主体的に打ち立てられるような「己の意思」、「己の思考」、「自我」などというものは、何処にも無いのである。己を動かすのは、不可思議なる大宇宙の流れである。身体と人生とは、大いなる宇宙からの贈与である。我々は皆、大いなる風の流れに舞うひとひらの雪片よりも更に軽く、大自然の操り人形に過ぎないのである…

…〝少年老い易く、学成り難し〟…或いは、〝…言葉移ろい易く、伝統成り難し…〟

そういった事柄を考えれば、数千年の時をかけた日本人の意識、そして長い伝統を持つ日本語、及び和歌は、やはりそれだけの大いなる霊威に満ちているのである。

…そして、日本語は同時に、今なお若く、未完成である…

今なお生ける「始原の言葉の神(言霊)」が息づき、「運命の巣」に最も近く、強力に渦巻いている陰陽呪術的言語なのであろうという事を、ひっそりと、つつましく、述べるものである。

《トンデモ試論=「運命の巣」の考察=終わり》

―関係が在るかも無いかも知れない記事コレクション―

覚書=井筒氏と司馬氏の対談
《司馬》なるほど。私は阿頼耶識についてはよくわからないんですけれども、ユングのいう無意識というものより、阿頼耶識のほうが、ずっと思想的に深そうですね。
《井筒》まるきり深いと思います。なんといっても長い伝統をもつヨガ修練の体験に方法論的に基づいていますからね。ユング的な無意識の場合には、その底はもう行かれない。ところが阿頼耶識の場合には、ユング的な集合無意識の底に潜んでいるもうひとつ底の無意識、つまり「無意識」とすらいえないような意識の深みまで、唯識は行っていると思います。(中略)阿頼耶識とは、第一義的には、意味が生まれてくる世界なんです。意味というのは、存在じゃない。存在じゃなくて「記号」なんです。(中略)それが言葉と結びつくと言語阿頼耶識になる。(中略)つまり、結局すべてコトバということですね。

出典=『十六の話』司馬遼太郎

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天才とは何か・考4&補遺(創作論)

中世ヨーロッパに生きた修道士にして学者ジョルダーノ・ブルーノは、こう言いました。

『諸君が広大な天空を見上げる時、太陽も諸惑星も地球の周りを回っているように見える。そして、青空は青い壁のように見える。この青い壁は、諸君の認識能力、知覚能力がそこまでしか達していないために、そのように見えるのだ。しかし、諸君の限られた感覚が壁しか見ようとしないところには、無限の空間が拡がっている。そこには無限の宇宙が存在しているのだ。』

青い壁。
認識の地平線。
この限界、世界と人間とを隔てる、強い呪縛にして制約。

従来の限界、あるいは認識の壁を突き破る。それは人類が成しうる、最も創造的な行為であります。

生物学的な脳みそにとっては、大事に大事に溜め込んでいたエネルギーを、今まさに壮大に燃やしつつ、新しいシナプスを創造してゆくプロセスとも言えますでしょうか。

天才という名の能力――スケールのデカい想像力と創造力は、そのシナプスの炎を、常人より大きく燃やすことができる。

ゆえに、それだけ遠くまで、「知」の火花が届く。

――天才とは何か。

その、最も共通的な要素で言うのなら。

壮大かつ深遠なる想像力と、たゆまざる創造力によって特徴づけられる存在だ、と言う風にまとめられるかな~と、思っているのであります。

おしまい

*****

【補遺/創作論】

「天才キャラクター」を表現するには、当然ながら、天才がちゃんと活躍する場が必須になります。

この辺、「そのキャラクターは、どの分野の天才であるのか」という設定要素が左右する部分なので、割とストーリーの舞台は限定されてくるように思われます。

ことに人間関係は重要な要素かも知れません。社会環境が悪かったために、あるいは周囲の理解が無かったために、貴重な才能を無駄につぶしてしまっていたと言う話は、多く聞かれるところであります。

オーソドックスに「そのキャラは学問の天才である」という風に設定した場合。

そのキャラクターが、その本領を発揮するのは、やはり学問の場ということになります。

リアル地球の古代であれば、アレクサンドリア大図書館のような舞台立てなど。

アレクサンドリア大図書館が、古代ヘレニズム科学の中心だったという話は有名です。プトレマイオス朝エジプト王国が元々純粋な学術研究を奨励していた事もあって、世界トップレベルの頭脳を呼び集める場となっていたとか……

逆に言えば、高度な学術書の蔵書数を誇る図書館だけがそこにあっても、その学術書の内容を読解し活用できるレベルの天才たちが集まって来なかったら、意味は無い……ということで。

此処はリアルの話になりますが

新しい学術文化の発展に必要なのは、戦争や狂信的ファシズム独裁などの政治的条件に囚われる事のない、自由な言論の場。

ただ、こういった場を維持するのに非常にお金がかかるのは確かで、いかに富強なパトロンや予算を確保し、配分・調整するかというところからして、難しいところかも知れません。

何を実績とし、学問的な成功とみなすかにもよりますが……有意義な成果がいつまで経っても現れなければ、投下した分の資金は「ムダ金だった」と判断されがちですね(汗)。

閑話休題。

学問の発祥の地は古代ギリシアでした。プラトンの「学園/アカデメイア」に始まる学問と教育の源流だったギリシアが、その後、天才たちが活躍する場(アレクサンドリア大図書館のような場)を構築しえなかったのは、政治的な要素が強まっていたためだそうです。

いわゆる学閥です。

かつての偉大な業績を誇る古い学閥が力を持ち、固定観念も強固になった結果。

学問の自由が狭まって硬直化し、学問の交流も少なくなり、未来の学問をリードする天才を輩出できなくなって衰退していったという話がありました。

天才とは何か・考3

【天才たちの認識論&表現論】

天才が本を読む時。

「普通の人が本を読んでいるように」本を読んでいるのではないだろう――ということは、想像できるかも知れません。

天才が物事を観察する時も、やはり、「普通の人が普通に見ているように」見ているのではないだろうと思われます。

そこにあるのは、きっと、「浅読み」では無く「深読み」でしょう。

他人がどのように物事を認識しているのかは、想像するしかない部分です。

天才の視野がどのようなものなのか、天才がどのようにモノを見ているのか。

凡人に過ぎない身で、「天才たちの脳みその中で、いったい何が起こっているのか」を考察するのは、無謀なことであるかも知れません(汗)。でも、何とかして、考えてみましょう。

「天才たちは、インプット&アウトプットが、質・量ともに、ケタ外れである」

――という現象を考えると、詩を「深読み」する時のスキルが、そこにあるのではないかと考えられます。

詩の時空というのは、本質的&本源的に「現実的日常ではない、高圧縮の複合的な何か」に属しています。便宜のため仮に、その「高圧縮の複合的な何か」を、「無限/インフィニティ」と称します。

宗教者なら、その領域を「神」と言うかも知れませんし、昨今ハヤリのオカルトやスピリチュアルなら、「高次元」と言うかも知れませんね(笑)。

「詩の背後に広がる何かを認識する」という事は、「ボーイ・ミーツ・ガール」……じゃなくて「リアリティ・ミーツ・インフィニティ」という事でもある、という仮説を立てる事は出来ます(ナンチャッテ仮説ですが)。

この仮説は、「読む」という行為や「読み解く(推理する)」技術の意味についても、再考させるものになるのではないか、と思います。

読書経験が積み重なって来ると、だんだん難しい本も読めるようになると言うのは、我々凡人でも実感できるところです。思考や想像力の範囲が、言語や表現の蓄積と共に、成長し拡大していくのですね。

天才たちは、早くから言語の応用に熟練します。

それだけ、思考の力や想像力も、早くから発達する。「知の力」が強い。独自の「読み(推理)」の感性や技術を発達させるのも早いだろうと考えられます。

おそらく、それには、詩を「深読み」する時の技術が混ざっている。高度に熟練した思考や想像力の範囲は、インフィニティ領域の広大さ、深さにまで到達しているでしょう。

詩的表現というのは、本来は神話表現だったものであります。様々な意識レイヤーに干渉するように組み立てられた、総合的な(複合的な)表現です。

いちばん表層の意味だけを受け取り、解釈して――それが本当に詩を、神話を、そしてその奥底にある要素を、読み取ったことになるかどうか?

表層から深層のインフィニティに至る多種多様な分節のシリーズ、いわば、そこに折りたたまれている「倍音」を聞き取るような高精細な感性や技術が無いと、本当に効率的に「深読み」するというのは難しい。

インプット&アウトプットが質・量ともにケタ外れな天才たちは。

おそらく、熟練した感性――知的直観でもって、普通の人よりもずっと高精細なスケールで、インフィニティ領域の要素を、複合的に認識し、一気に解釈できるのかも知れない、と想像する事が出来ます。

天才たちならではの発達した詩的感性や詩的直観のスキルは、巫女が幻視するような先駆的なヴィジョンを捉えて翻訳する作業に対しても、意外に活用されているのではないかと思われます。

実際、革命的な概念を新しく提唱したり、学問的創造を成し遂げたりした天才たちのエピソードを調べてみると、不思議なインスピレーションや閃き、悟り、といった類が妙に多いのです。

「Eureka/ユーレカ!」

どうやら、その瞬間、壮絶な密度と深度を持った「何か(閃きショックのようなモノ)」が、脳みそと脊髄をガンガン駆け巡っていたり、「スコーン(急に扉が開いて空気がドッと通るような感じ?)」としたりしているらしい。

身体全身で感じる「それ(ユーレカ)」がそれくらい強烈だということは、インフィニティ領域から到来して来る、不意打ちのインプットの質量が、とてつもなくデカいということです。

大量の学習を積み重ねて、卓越した思考能力を持つに至った天才の脳みそで無いと、それほどの膨大な、不意打ちのインプットを処理できないだろうと、推測することはできます。

膨大なインプットに見合うアウトプットというのも、当然、常識にとらわれない強力な推理力や、スケールの大きな想像力というのを必要とする筈です。

それほどに訓練され、かつ固定観念から自由な脳みそでないと、世界を一変させるような革命的な学問的創造など出来はしない、のかも知れません。