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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

黒いお金「阿片」・わき道の考察

《考察テーマ》武器商人グラバー…明治維新はフリーメーソンの陰謀だったのか?

商人グラバーが属していたジャーディン・マセソン商会は、上海サッスーン商会と共に、フリーメーソン人脈にあった組織だったそうです。話の真偽は分かりませんが、どちらの商社も、その「怪しげな人脈の巣」は、ボンベイのイギリス東インド会社と、イギリスの首都ロンドンにあったと推測できます。

彼らは阿片業者でした。その活動の第一目的は、新たな阿片市場の開拓にあった筈です。

ところで、「フリーメーソンそのものに関して」ですが…;

当時の「霧の都ロンドン」の社交界は、シャーロック・ホームズ物語や吸血鬼&フランケンシュタイン&お化け屋敷といったゴシック・ホラー物語が人気を博し、心霊現象がブームだった上に、薔薇十字団運動とフリーメーソン運動が合体して、超オカルトな状況になっていました。

中心となったのは、オックスフォード大学やケンブリッジ大学の「オカルト趣味の各種研究&社交クラブ(=薔薇十字の名前を色々付けてたグループ)」です。ドイツの薔薇十字団があまりにも魅力的なものだったから、という事もあるかも知れませんが、この辺りは、一昔前の超能力ブームや新興宗教ブーム(富士山麓オウムetc)、怪談ブームを思わせるものがあります。

そんな中で、1867年にロンドンのメーソン会員であったロバート・ウェントワース・リトルとケネス・マッケンジーが、「イギリス薔薇十字団(SRIA)」を設立。理念的にはドイツ薔薇十字団のイギリスへの移植から始まったわけですが、スコットランド式メーソン的な儀式を取り入れたため、内部意見が合わず、何人か退団者を出しています。

この19世紀バージョン・フリーメーソンの内部紛糾には、イングランドとスコットランドの長きに渡る怨念と申しますか、文化的・政治的対立が絡んでいたようです。中世イングランド王エリザベス1世(在位1558-1603)の後が元スコットランド王ジェームズ1世(在位1567-1625)で、そのイギリスの王位継承システムを考えると、さすがに気が遠くなって混乱してまいりますが…^^;

そして、日本で明治維新が起きていた時代のイギリス王室は、ハノーヴァー朝(1714-1901)でした。神聖ローマ帝国選帝侯の血が入っていたのであります。そのままサクス=コバーグ=ゴータ朝(1901-1917)を経て現在のウィンザー朝(1917-)に改名。

解説できるほど詳しくは知らないのですが、ひとくちにイギリスといっても、その王室事情はかなり錯綜しているわけです。当然、ロンドン社交界で始まったばかりの「なんちゃって薔薇十字団フリーメーソン活動」も、かなり混沌としたものであったと推測できるのです。

現在は「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」。さらに海外移民が流れ込んでいるわけで、フリーメーソン含むロンドンのスピリチュアル社交界は、いっそう妙な事になっているのだろう…と、想像しております…^^;

…閑話休題…^^;;;;;;;;;

商人グラバーはジャーディン・マセソン商会の手先で、したがって、ゆくゆくは阿片を扱ってひと山当てようという「いかにも胡散臭い商人」だったと考えられますが、彼が1859年の長崎にやって来て、「日本をチェンジする!」とか何とか、夢見る若者を扇動し、ぶち上げるわけです。

ちなみに、坂本竜馬その他の方々が本当に「フリーメーソンの手先」だったかどうかは知りませんし、手先らしく行動したかどうかも分かりません。ですが、並みの日本人以上に過激派の素質があり、新時代に向かう想像力と行動力に恵まれていた…ということは、間違いなく確実だと思います。そして彼らは実際に、稀有のチャンスをつかんだのであり、それは評価されてしかるべきだと思います。

※余談ですが、当時のジャーディン・マセソン商会の長崎代理人の名前が、ケネス・マッケンジー。イギリス薔薇十字団とフリーメーソンに所属していたオカルト趣味のケネス・マッケンジーと同一人物かどうかは分かりませんが、年齢的にはグラバーより数年先輩で、いかにもピッタリです。非常に興味深い偶然です…^^;

さて、ジャーディン・マセソン商会の本国イギリスは、日本に干渉する気満々だったようです。つまり、日本にも、清と同じような阿片消費市場を作るつもりだったのです。阿片戦争(1840-1842)に勝利した後、堂々と阿片を密輸できるようになり、1845年に日本に艦隊を派遣する閣議決定が下った…という物騒な話があります。

グラバーが「チェンジ!」をぶち上げたのは、その露払い的な意味があったと考えられます。

しかし、イギリスでは、阿片戦争後の後始末が大変で、特に翻訳の食い違いなどの整備に時間がかかったようです(今と同じで、清の役人や業者は、ルール外の行動を取って、イギリスの阿片業者を翻弄する人が多かったのでは…)。しかも清における膨大なルンペン層の増加によって、多数の「幇」の活動が過激化し、租界周辺の治安が急激に悪化しておったわけです。

  • イギリス・フランス租界を大混乱に陥れた太平天国の乱(1851-1864)。
  • ロシアの南下政策が全ヨーロッパの危機を招いたクリミア戦争(1854-1856)。
  • 第一次インド独立戦争(1857-1859)と呼ばれている、「セポイの反乱(インドの大反乱)」。
  • アロー号事件の調停が失敗してアロー戦争(1857-1860)。英仏連合軍で対応。

イギリスは、清・クリミア・インドに張り付いたまま、10年以上もの間、動けなかったのでした。

…そんなわけで、実際に日本に開国を迫ったのは、アメリカから来たペリーの黒船(1853)。

…結果的に、日本に居たグラバーは、矛盾に満ちた活躍をする事になった筈…^^;

グラバーは、薩摩・長州・土佐グループ、つまり討幕派に鉄砲と軍艦を売りつけます。その鉄砲をどこから仕入れて来たかというと、アメリカです。アメリカの南北戦争(1861-1865)が終わって、鉄砲がただ同然の値段であったので、それを持ってきて薩摩に20万丁くらい売りつけたという…

…これが、戊辰戦争(1868-1869)で、明治新政府の火力として活躍した武器です…^^;

そして明治新政府は、阿片に対して異様なまでの警戒心を持っていました。

政府発足してわずか3年目、1870年には阿片取締りのための法令を次々に打ち出し、日本主導の阿片専売制を確立。西洋列強による阿片の市場侵略を食い止めることに成功しました。

※阿片専売制の整備に際して、日本産阿片についても外国産阿片についても綿密に市場調査を行ない、諸外国と辛抱強く折衝し、買入価格を決定したと言うのだから驚きなのです(当時、阿片交渉を担当した官僚が、よほど優秀だったに違いない)…^^;;

西洋列強の干渉のはざまを、ギリギリまで有効活用したのが「明治維新」だったのです。それは必然として、「フリーメーソンの陰謀」を逆手に取った形となった…のでは無いでしょうか。〈阿片経済〉がすさまじい成長を遂げていた情勢の中で、密輸阿片が日本国内に蔓延しなかっただけでも、十分な成果であったと思います…

ジャーディン・マセソン商会その他、およびフリーメーソン的な商売人が、「明治維新」=「日本市場(二匹目のドジョウ)が独占できる/日本中を阿片漬けにして大儲け!(笑)」程度の、いかにも阿片業者的な目的を持っていたとすれば…

…実際の明治維新が完了したとき、フリーメーソン的な彼らは、結果的に、「カンペキな誤算だった…orz」を自覚した筈なのであります…^^;;;

…以上、〈黒いお金=阿片〉の視点から見た、「明治維新フリーメーソン陰謀説」についての、ささやかな考察でした…^^;


FriendFeedコメントより転載

《2010.2.10つぶやき》宋三姉妹の宋靄齢・宋慶齢・宋美齢についてネット検索でいろいろと眺めていたのですが、三女・宋美齢(蒋介石の夫人)が卒業した「ウェルズリー大学」って、ヒラリー・クリントンやマデレーン・オルブライト(アメリカ初の女性国務長官)の母校でもあるらしいのですね。これはちょっと意外でした。ヒラリー氏は女性初のアメリカ大統領になるか?と騒がれた女性ですし、「ウェルズリー大学」は、大きな権力を振るう女性(殆ど魔女的逸材?)が育ちやすいのでしょうか。宋家はフリーメーソンだったそうですし、オカルトな意味で考え込んでしまいました…^^;
はあ、そうだったのですか。ヒラリーもそうだったんですね。また孫文の革命は洪幇の支援を受けたればこそ「成功」したわけで、ここでも洪幇とフリーメーソンの関係がうかがえます。これはオカルトというより影の歴史を窺ううえで興味深い事項だと思います。ついでに述べておけば89年の天安門虐殺を逃れた学生リーダーたちを匿い海外へ逃亡させたのも洪幇のネットワークだったようです。つまり次に起こるべきシナ革命もたぶん洪幇はになうことになるのではないでしょうか? - 丸山光三
《返信》〈89年の天安門虐殺を逃れた学生リーダーたちを匿い海外へ逃亡させたのも洪幇のネットワーク〉そんな事があったのですか?全然知らなかったです。〈次に起こるべきシナ革命〉=可能性としてはありそうです。今の指導者層に民主化を進める意思が無ければ、近い将来、彼らが〈シナ革命〉という形でその役目を負うかも。今、「いわゆる中華五千年の歴史」で、初めて農民層が真面目に勉強しだしているんですね。都市からボランティア学生も入って、情報が増えているとか。国土が広大なので時間はかかりそうですが、「その時」がくれば、需要と供給の歯車が噛み合って、一気に情勢が流動化するかも知れませんね…^^;
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黒いお金「阿片」・3

今回はさらっと、歴史関連のピックアップと、地元住民の物騒な習慣についての調査。

大陸内部では様々なタイプの秘密結社があり、任侠タイプから、本物の犯罪者集団まで色々だったようです(…が、どちらも腕力に訴える、武闘派であることには変わりないかも…)^^;

資料=[清国の台湾領有と初期の経営]…「天地会と分類械闘」の部分より一部抜粋

先住民と比較して、移住民の抵抗が圧倒的に多く、かつ規模も大きかった原因の一つに、鄭氏政権崩壊後に顕在化した秘密結社である「天地会」の存在がある。天地会は政治的には異民族である満州王朝の打倒と、漢民族の明王朝の再興をめざし、経済的には孤立無援の移住民の互助を目的とする民間組織である。
天地会の名は、「天地を父母とし、盟員は兄弟」とするところに由来し、入会は互いに血の杯を交わす「挿血為盟」「飲血為盟」の儀式によって認められる。当時、移住民は単身の男子ばかりの状況にあり、義兄弟の契りを結ぶことで、清国政府に対抗すると同時に無聊を慰め、家族的な団結を強めることができ、異郷の地に生きる方途として、経済的にも社会的にも助け合ったのである。
清王朝に反感を抱き「血で固められた」集団だけに、いつどこで決起しても不思議ではなく、いったん事あればたちまち燎原の火となり清国政府を脅かした。
天地会の初期の活動には、政治的な動機が強く見られたが次第に薄れ、相互扶助の性格が顕著となって行った。移住民の増加とともに盟員も増え、やがて移住民の原籍地ごとの組織に枝分かれした。
朱一貴の役や林爽文の役において、短時間に台湾全域を席捲した背景には、天地会の組織的な動員力があり、また、失敗の一因には、ビン南系と客家系の反目があった。いわゆる「分類械闘」の問題は、ここに絡んでくる。

資料:械闘について[械闘:中国・新興国・海外ニュース&コラム | KINBRICKS NOW(キンブリックス・ナウ)

(考察)

械闘とは、同郷人を結集した私的闘争のことだそうです。水争いや土地争いなどの武闘が大きくなったもので、徹底化した場合は、相手の村落を断絶させる事もあった。人々は、コロニーを要塞化(=円楼)し、必要に応じて、鎌や鍬や包丁を持って戦った。闘争の終結には卓越した組織力と調停力が問われ、ここに任侠派(?)-秘密結社としての「天地会」が発達する理由があったと考えられる…

清によって強制された大型移民が、この事態を招いた(?)

少数の家族単位での移動の場合はお互いに融合しやすいが、部族単位の大移動は、殆どの場合、先住民との間に大きな緊張を生む。また、出身地コロニーごとに分かれるために、部族ごとの習慣差も言語差も保存されやすく、移民側には、ことさらに自らの伝統を墨守するという心理が生まれやすいという事が指摘されている。

清が追いやった被征服民が「客家」として発達したのは、こうした心理的事情が大きかったと思われる。広東省等の一部地域では、清代には、土着民と客家の双方で合計50万人を超える死傷者を出すといった械闘が生じた事が知られている。こうした闘争の中で、自らの「漢人」としての正当性の主張が盛んに行なわれ、いつしか「客家=正統な漢人」が定説として広まっていったのが、実情ではなかったか。

また、土着の民との緊張を強いられるコロニー生活の特殊性が、後に強力な指導者を輩出する苗床となった事は容易に推測できる。「天地会」の組織力と、「客家リーダー」の指導力とが、奇跡の合体を果たしたのが、例えば孫文政権という現象だったのだろうと考えられる…

(世界情勢)

クリミア戦争(1854-1856)…ロシアvsオスマン=トルコの争いに、トルコ利権を狙う西洋列強が入り乱れた凄惨な戦争。この戦争資金の大部分が、植民地を中心に展開した〈阿片経済〉による莫大な利益でまかなわれていた。その後の世界大戦の資金も同じ。

アロー戦争(1857-1860)はクリミア戦争の後の調停中に起きており、西洋列強は清国問題とクリミア問題、さらには太平天国(1851-1864)問題に同時に当たらなければならなかったため、日本への介入に隙間が出来たと考えられる。この間に日本では明治維新への動きが高まった。

当時のアメリカは、西洋列強によるラテンアメリカ独立ブームを警戒して、相互不干渉を旨とするモンロー主義(1823-1890)を採っていたが、内部矛盾の拡大により南北戦争(1861-1865)が起きたため、太平天国の乱が起きた清や明治維新に走り出した日本に干渉するだけの余裕が無かった(ちなみに戊辰戦争で使われた各種小火器は、南北戦争のお下がり)。アラスカは元ロシア領土(1784-)だったが、クリミア戦争後、アラスカがイギリスに渡ることを恐れていたロシアから、領土買取(1867年調印、720万ドル)を行なった。その後のアラスカは第1次ゴールドラッシュに沸いて人口が増え、石油採掘も始まった[アラスカの歴史

※1815年、ロシア商人(露米会社の社員)がハワイのカウアイ島にエリザベート要塞を建設していたが、時のハワイ国王カメハメハ1世が直ちにロシア人を追い出したため、ハワイはロシア領土にならなかったという一幕があった。しかし、その後アメリカ人入居者に乗っ取られ、1898年にハワイ王国は滅んだ(=孫文が1894年ハワイで「興中会」を立ち上げた時、まだハワイ王国は存在していたのだった…)。

ロシア=新疆地方の工作に熱心だった。1856年に雲南省で回民(ムスリム)の蜂起が起こると、ムスリム系の反乱は陝西省・甘粛省へも広がり、新疆へ伝播。コーカンド・ハン国のウイグル人武将ヤークーブ・ベクがこの機に乗じてイギリスの支援を受けて天山南路を支配。この騒動で中央アジアが混乱すると、かねてから3ハン国を手中に収めていた帝政ロシアは、急にイリ地方を軍事占領した。1881年ペテルブルグ条約でイリ返還・新疆をロシアに解放。

日本=1867年に大政奉還があった。このときから明治維新がスタートし、戊辰戦争(1868-1869)や西南戦争(1887)を通じて旧体制の整理が進み、最終的に近代の立憲体制が確立したのが1889年(1885年=伊藤博文、初代総理大臣)。

清国=西太后の独裁を迎える(1861クーデタ-1889引退したが光緒帝の背後で権力を振るう)。その後、西太后派の李鴻章(北洋艦隊の頭で洋務運動の推進派)と光緒帝派の重臣らが宮廷内権力闘争を演じたが、日清戦争(1894-1895)で中断。ちなみに1894年、孫文がハワイで秘密結社「興中会」を結成している。孫文は1883年に香港で洗礼を受けたクリスチャン客家(1915年、日本で浙江財閥-宋家三姉妹の次女・宋慶齡と結婚)

日清戦争(1894-1895)…朝鮮半島の内乱をきっかけに、清と日本とで軍事衝突。結果、台湾割譲。日本統治下の台湾では阿片専売制が敷かれ、日本にとって効率の良い国庫歳入源となった。

一方、1896年に「露清密約」が李鴻章とロシアの間で結ばれていた。日本の帝国主義的アクションに対して、協力して妨害するという内容で、全ての港へのロシア軍の出入り自由化と、満州経由ウラジオストク行き「東清鉄道」の敷設権利が付いていた。さらに2年後、ロシアは遼東半島の大連を25年間租借し、旅順を軍事基地とした。この基地が義和団の乱(1900-1901)の際に役立つ事になるが、日本にとっては地政学的脅威だった。

にわか勉強なので、少し混乱してるかも。つづく…^^;


FriendFeedコメントより転載

宋家三姐妹は上海生まれですが、本貫は海南島ですから、浙江財閥とはいえないと思います。まあかってに入れている人もいるようですが概念の乱用でしょう。ところで孫文には日本女に産ませた娘がいたのはご存知ですか?その方は宮川冨美子といって平成二年に82歳で亡くなりました。田中建之『横浜中華街』(中公新書)に記載があります。 - 丸山光三
「浙江財閥」は単に「浙江の名の元に集まって活躍した財閥」くらいにしか考えてなかったです。複雑な事情があるみたいですね…^^;宋三姉妹の父親も、チャーリー宋・宋耀如・宋嘉樹・チャン-ウェンと4つの名前があって怪しげな人みたいですし(他にも名前があるみたいですが…)。広東省出身・孫文と海南島出身・宋とで、同じ南海岸の者同士、気が合ったのでしょうか。孫文に日本人の奥さんと娘さんが居るとは知らなかったです。。。

黒いお金「阿片」・2

にわか仕立てのテーマですが、ちゃんとしたシリーズを立てて、じっくり取り組んでみようと思います。「どこまで飛べるかは、神のみぞ知る」という事で…ちゃんとまとまったら、もしかしたらホームページ用に編集して公開するかも…ちょっと自信ないですが…

今回の調査は、清末期の暗黒時代にひしめいた秘密結社…と、阿片バブル上海・租界の変遷。

◆前知識/阿片取引の合法化、租界建築ラッシュ、阿片バブル時代の上海

1842年20万人、1900年100万人、1930年300万人。90%以上が国内移住者。阿片取引によるバブルが起きて建築ラッシュが進み、職を求める失業者が大量に集中したため、上海の人口が激増したといわれる。

当時の上海にはトイレが無く、「馬桶」という木製容器で用を足し、毎朝、糞尿処理業者が回って処理した。一緒に、人間や動物の死体も、リヤカーを引いた処理業者が処理していた。資料によれば、どの租界でも朝8時までは糞尿処理が終わらなかったため、死体も通りに転がっており、窓を開けられなかったらしい…(冷や汗)

上海中の糞尿処理業務を独占した会社の社長で糞尿処理業者の大元締めは、「桂姐」という中年女性。別名「糞尿大王」…らしい。彼女の夫が青幇の大ボスの1人で、表向きの仕事はフランス租界の巡捕房(警察)に雇われた巡査で、「黄金栄」と呼ばれていた(名前からして出来すぎだけど、本当に本名?)…orz

>>上海建築の推移

  • 1860年代=コンパンドーリック様式(ベランダをめぐらす簡素スタイル)
  • 1890年代=クイーン・アン・リバイバル様式(「アン女王復古スタイル」。ゴシック様式と西洋古典様式の混合、赤と黒のレンガを交互に重ねる)
  • 1910年代=ネオ・バロック様式(アールヌーボー様式はあまり入らなかった)
  • 1920年代=アールデコ様式(沙遜大廈サッスーン・ハウス1929竣工、河浜公寓エンバンクメント・ハウス1930竣工、都城飯店メトロポール・ホテル1929竣工、漢弥爾登大廈ハミルトン・ハウス1930竣工、華廈公寓キャセイ・マンション1928竣工、格林文納公寓グローヴナー・ハウス1931竣工、百楽匯大廈ブロードウェイ・マンション1934竣工、四行儲蓄会大楼パーク・ホテル1933竣工)

大量の難民のために投機目的で作られた大量生産型の住宅群もあった。店舗型住宅、里弄住宅(集合アパート)、天井住宅(江南の伝統形式)。圧倒的に多かったのが西洋アパートつながりの「里弄住宅」で、この後「里弄住宅」は近代住宅のモデルとして各地に広まる。

◆前知識/「会党」…世界大百科事典より抜粋編集

清代以降の非宗教的・反体制・秘密結社の総称。「会」も「党」も仲間の意味で、もとは単に「会」と言ったが、清末に孫文ら革命党が合作を働きかけてからは、「会党」と連用するようになった。権力の側から言えば反体制秘密結社のメンバーは「匪」であるが、「匪」は宗教的迷信を結合紐帯とする「教匪」と、宗教を持たぬか或いは主要な要素としない「会匪」とに大別され、後者が「会党」である。前近代には白蓮教など殆ど「教匪」だったのに対し、近代は「会党(会匪)」がメインだった。

阿片戦争・アロー戦争後、重税がかかり、かつてないほど大量の遊民が発生し、数多の「会党」が栄えた。その一部は移民(華僑・苦力)として国内外へ流れ、一部ははみ出し者(行商人・人足・博徒など)として社会差別を受けながら不安定に存在した。

※太平天国は、キリスト教の影響を受けた「教匪」だったという点で突出しており、膨大な失業者を吸収しながら膨張し、上海・南京を含む長江中下流域を支配したが、後に平定されて消滅したという事です。

★捻軍=太平天国と同時期に清に反抗した華北の武装勢力。1853年、太平天国が北伐を開始すると、安徽省・河南省の捻軍はこれに呼応していたるところで蜂起した。1855年、黄河の堤防が決壊すると、山東省・安徽省北部・江蘇省北部の多くの民衆が難民となり、捻軍に加入。10数年にわたって安徽・河南・山東・江蘇・湖北・陝西・山西・直隷の8省に展開した。

太平天国の乱を清の正規軍は鎮圧できず、やむを得ず地方の武装自衛集団を利用;

★湘軍=湖南省湘郷の曽国藩が湘軍の創始者。全国各地の人材が曽国藩の麾下に投じ、幕僚は300~400以上に上った。後にこれらの将帥や幕僚で総督になった者は15人、巡撫になった者は14人、その他の文武官も多数にのぼる。この湘軍出身者が洋務運動で大きな役割を果たすことになった。湘軍は清王朝を救ったが、漢人が政界の中心に進出するきっかけを作った。

★淮軍=清朝の重臣李鴻章が1862年に編成した地方軍。淮軍は2年間で6千人強から6万~7万人に拡大し、清軍の中で最も装備が充実した部隊となった。この淮系軍閥を基礎として、後に北洋軍閥が形成された。

太平天国が崩壊した後は、会党は反清の伝統を持つほとんど唯一の社会勢力として残っていたから、清末の革命党は彼らを革命のために利用しようとした。

「興中会」は華南の三合会、華中の哥老会の幾つかの山堂の首領と連絡して、会党と革命党の連絡組織としての「興漢会」をつくり、さらに海外の洪門(致公堂)とも連絡した。また「華興会」「光復会」も哥老会と結んでそれぞれ「同仇会」「竜花会」を組織した。それらはいずれも会党が革命党の理論と指導を受けて出来たものである。これは会党の歴史に新局面を開いたが、その歴史的役割は、基本的に辛亥革命で終わった。

・・・【天地会】(台湾、福建)・・・

「天地会」とは対外呼称。みずからは「洪門」と名乗る。異称に「三合会(珠江流域、広東)」「三点会」など。

広東や福建出身の沖仲士の秘密組織。蘇北地区の賊軍「捻軍」や「幅軍」、江南の太平天国軍(1851-1864)に流れる者もあったが、殆どは地場産業である製塩に関わった。

康煕(1662-1722)初年、鄭成功の抗清闘争が失敗した後、華南地方に起源するとされ、乾隆(1736-1795)末年、台湾での林爽文の反乱(1786-87)から官憲の注目を浴びる。〈反清復明〉、〈滅満興漢〉を宗旨に掲げた厳格な規律を持つ集団で、19世紀を通じてその流れを汲む異名の諸組織が繰り返し各地で暴動を起こしている。

例えば、1855年に黄河が大氾濫して河の流れが大きく変わると、大運河の交通が途絶して数十万人もの船乗りや沖仲士が失職し、当時「太平天国」と結んでいた下部組織の「小刀会」が清朝政府に対し暴動を起こした。

※太平天国の乱も拡大した1853年9月、「小刀会」が上海県城を占拠し、付近の住民を上海租界に押しやったという事件があった。上海租界は大量の難民で溢れ、外国当局は糞尿処理や死体処理、治安維持などのため、「青幇」と結託したという。

太平天国の乱は、キリスト教客家・洪秀全が起こした反乱(=革命?)。清朝政府の弱体化をもくろんでいた西洋列強は、南京(天京)政府を樹立した太平天国と脈を通じていたが、アロー戦争後、阿片売買合法化などの調停が有利に進むと、西洋列強は清朝政府に肩入れして、太平天国を潰すほうに回った。

・・・【紅幇(洪幇)】(長江中流域内陸部、華南)・・・

スローガンは「劫富済貧(富める者を劫掠して貧しい者を救済する)」。阿片戦争(1840-1842)の後に上海が開港し、阿片取引を独占したのが広東省の潮州出身の商人たち(元「三合会」のメンバー)で、彼らが新たに秘密組織「紅幇」を作った。

上海の共同租界を地盤にして阿片販売を担当し、国産(清)の阿片も含めて最盛期の1880年代には、年間2万2000箱(全体の20%)をさばく。

「ジャーディン・マセソン商会(怡和洋行・イギリス)」「サッスーン洋行(沙遜洋行・ユダヤ系)」「新サッスーン洋行(旧サッスーン洋行の弟分)」「E・パパニー(アラブ系)」「哈合(清の業者?)」などと取引。

・・・【哥老会】(揚子江上中流、四川湖南など)・・・

異名「哥弟会」。太平天国(1851-1864)滅亡後、湘軍解散に伴って湘軍人脈を呑み込みつつ、長江流域一帯に勢力分布。もとは〈反清復明〉の伝統を持つ下層民の相互扶助的組織だったが、列強侵略の時代、排外暴動の組織者として有名。1891年の長江流域での一連の暴動はその最大のものだが、のち辛亥革命の際にも重要な役割を果たした。

・・・【青幇(清幇)】(揚州、上海、租界)・・・

清王朝初期に淮河流域で組織された大運河の荷役労働者の自衛的団体「安清道友」がその源流とされる。船乗り、沖仲士、強盗、匪賊、博徒、浮浪者などを1万人以上含み、闇塩を輸送する小船を700隻以上持っていたといわれる(当時の清王朝では、塩は専売制だった。政府の許可を受けていない塩を生産し取引すると罰せられた)。このルートが阿片の密輸に活躍した。

阿片戦争後の社会変容に伴って発生した膨大なルンペン層を包含する組織として、清王朝末期、上海などの開港場を中心に阿片の運搬その他の都市サービス業を担当し、強大な勢力を確立した。もとは反政府集団だったが、太平天国の乱(1851-1864)を通じた上海租界周辺の無政府化に乗じて外国租界当局と結託し、租界における官憲的地位を築いた。

とりわけ蒋介石を援助して1927.4.12クーデタを行なってからは、国民党支配のための非公然暴力機関(ギャング)として重要な役割を果たした。

◆資料(感謝です)


FriendFeedコメントより転載

《管理人の呟き》図書館で資料収集をねばってみたのですが、秘密結社のことが全く載っていないのでビックリしました…^^;その代わり、上海エリアに詳しい観光ガイドブックを手に入れたので、ポイントとなる記述を少しずつマークしてみようと思います。観光ガイドブックはたいてい、移動ルートや距離感覚、現地名などのチェックが便利なので、意外に役立ちます。…そういえば、普通の歴史資料には"京杭大運河"の地図解説が載っていないのですね。こんな大運河が見えないなんて、いったい何を見ているんでしょうか…謎です。
上海についてなら『上海歴史ガイドマップ』(木之内誠、大修館)がお勧めです。特色は、それぞれの重要な建物に中共以前、以後、現在の地名が色分けで示されていて歴史探索にはもってこいです。巻末の解説も役に立ちます。著者はわたしが80年代なかごろ上海に遊学していた時、同じ大学に研究生として滞在されていました。そのため著者が撮影された当時の写真はわたしの脳裏にある光景そのままです♪ - 丸山光三
《返信》資料のご紹介ありがとうございます*^^*その本は知りませんでした…探してみますね。それにしても今回ビックリしたのは、数字データに現れた上海エリアの急膨張でした。1855年に黄河方面が洪水で壊れた後の変動が特に壮絶で、揚州経済圏の莫大な富が急に南へ移動したんだな…という事がよく分かって、複雑な気持ちになりました。あと、秘密結社の主張が、殆ど〈滅満興漢〉とか〈反清復明〉なんですね。清末期の混乱で、そのイデオロギーを核にして、〈秘密結社・青幇etc=客家=太平天国=クリスチャン客家=上海財閥=浙江財閥=南京国民政府=蒋介石〉という強烈な"フリーメーソン的-上海阿片マネー人脈"に育ったのかなあ、と思っています(とっても大雑把な妄想です。何となく調査予定です)
〈滅満興漢〉とか〈反清復明〉などのスローガンは洪幇のものです。青幇のほうはというとイデオロギーはどうでもよくて麻薬などのビジネスが大事だったようです。そんなこともあってシナ民衆の間での青幇の評判はよくありません。日本とのアナロジーでいえば、洪幇=任侠、青幇=893、という感じでしょうか♪青幇が利権の結びつきで蒋介石べったりだったのに比して、より「愛国」「愛民」的な洪幇は中共へも大挙合流し一大勢力になりました。朱徳、賀龍、鄧小平などはみな洪幇(なかでも哥老会)の人間です。とくに鄧小平の父親は四川における哥老会の大親分だったということです。またそれらの人脈は客家とも関連してきているのはご指摘の通りです。ここでは、洪幇=任侠、青幇=893、という基本図式を知っておいていただきたくコメントしました♪ - 丸山光三