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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

黒いお金「阿片」・1

「黒いお金」の代表格が、19世紀-20世紀に植民地貨幣・物々交換用として流通した「阿片」だと思います。ですが、この「阿片通貨」が最も猖獗を極めた清朝末期~毛沢東の時代については全然知らないことばかりで、何も書けないのが実情です(カンペキな近代史オンチなのです・冷や汗&赤面)…;^^ゞ

(※最終的には「三反五反」というよく分からないキャンペーンで、前時代の植民地貨幣としての阿片は、根絶やしにされたらしい。最近、「ゴールデン・トライアングルの阿片ネットワーク」とか…曖昧な話をネットでちまちまと見かけますが、今まで全く知らなかったし、本当はどうなっているのか、よく分からないです)

恥ずかしながら、お勉強中です…間違ってるところもあるかも知れません…^^;

◆予兆1…揚州経済圏

河北省の河間県から滄州-徳州-済寧-徐州-淮安-揚州-鎮江-常州、長江河口部・上海に到るまでの「京杭大運河」流域は製塩業を生業とすることで名高い水郷地帯だった。水郷地帯で生産された塩は、網の目のように広がる水路を伝って大運河に集まり、揚州に運ばれ、そこで大規模な塩取引が行なわれる。取引が済むと、塩は海上船で全国各地に運ばれていった。

王朝が変わるたびに大運河の整備拡張が進み、塩生産が向上し、港湾整備が進んだ。揚州に荷揚げされる塩の量は増大し、元・明・清の三代にわたって、国庫を支える経済圏として繁栄する。清朝の康煕帝-乾隆帝の頃には、揚州での塩取引による税収は、国庫の25%を占めるようになった。

揚州経済圏の文化=点心料理、揚州料理、上海風呂、園林(庭園文化)etc.

◆予兆2…インドの阿片(2.5追記)

1521年:ポルトガル、インドに植民地を築いて東方貿易をスタート。インドで阿片が薬や嗜好品として使われているのを発見し、有力商品の一つとしてヨーロッパへ持ち帰っていた。マカオへも寄航するようになると、明との取引商品の一つにした。当時の明では、阿片は超富裕層の間での贅沢品だった。

1600年:イギリス東インド会社を設立/1602年:オランダ東インド会社設立
・・・東インド会社は、かの怪しげな「フリーメーソン」の巣窟だったらしい。
・・・1624-1662年にオランダは台湾を征服している。この征服期間を通じて、オランダ植民地インドネシアで広まっていた阿片喫煙の習慣が、台湾へ伝播したらしい?

1664年:清朝成立
・・・台湾には阿片・タバコが定着済み。タバコは南米から来た。漁師を通じて福建省にも台湾スタイルの阿片の風習が定着。やがて南部沿岸地方の人々が、阿片タバコに病み付きになってしまう。

紅茶文化が大流行し、イギリスは清から大量の茶・陶磁器・絹を買い付けていたが、莫大な貿易赤字を抱えてしまった。苦肉の策として、インドで高品質な阿片製品を開発して清に卸すことを思いつく。三角貿易の始まり。

清へ密輸された阿片は、1765年に200-300箱程度であったものが1821年には4000箱、1837年には3万4000箱に膨れ上がる。阿片戦争前夜の1838-1839年は約4万箱にのぼった。1箱あたりの阿片は60kg程度。清朝国家歳入の80%に相当する銀が国外に流出。清朝政府の禁令にも関わらず、阿片=上流社会の贅沢品として受け取られていたため、密輸利権を狙った業者跋扈が多くなる。清朝政府の取り締まりも、ひどいザルだった。

@ガンジス河中下流域:ベンガル阿片=「大土」(トップランク)、パトナ産阿片=「公班」「烏土」(超トップランク)
@インド中部~西部:マルワ阿片=「白皮」「白土」「小土」(トルコ産阿片を「小土」と言う事もあり)

◆予兆3…上海サッスーン商会(2.5追記)

1828年:ジェームズ・マセソン&ウィリアム・ジャーディン提携、広東にあった中国最初の外国商社を買収、「ジャーディン・マセソン商会(怡和洋行)」設立。阿片を専門に扱った。

※ジャーディンは元・東インド会社の外科医でしたが、阿片が余りに儲かるので、阿片商売人に鞍替えした…という、とっても呆れた、医者の風上にも置けぬ不道徳な人物だったそうです。とっても戦闘的な性格で、阿片戦争につながる威嚇外交を提唱したのも、この元・お医者さん。心置きなく「宇宙人」と定義して良い人物だと思います。

★阿片戦争(1840-1842)…実際の戦闘については省略。南京条約(江寧条約)締結。外国商社はそれまでは広州にしか居留させてもらえなかったが、条約によって香港の割譲、および広東・厦門・福州・寧波・上海の港利用が可能になった。

1845年:上海の目抜き通り(現在の江西路と九江路の交差点)に「サッスーン洋行(沙遜洋行)」の支店オープン。本拠は東インド会社下のボンベイ。香港にも沙遜洋行の支店をオープンしていた。1870年代はインド阿片貿易の70%を扱うという巨大商社に成長(日本にもサッスーン邸宅があり、現在は神戸異人館になっている)。

★アロー戦争(1857-1860)…実質上、第二の阿片戦争。英仏関与。1857年天津条約締結により、阿片輸入の合法化とキリスト教布教の公認。1860年北京条約締結。天津の開港、イギリスに対し九龍半島の割譲、苦力貿易(実際は奴隷貿易)の利用が可能になった。

・・・1837年の清には外国の商社が39社存在。天津条約のあった1857年頃には約300社に急増。1903年には600社以上の商社がひしめいた。

1865年:「サッスーン洋行(沙遜洋行)」「ジャーディン・マセソン商会(怡和洋行)」「デント商会(宝順洋行)」は15人の代表発起人を決め、資本金500万ドルを投下して、同年3月、香港に「香港上海銀行」を設立。同年4月、上海で営業スタート。主要業務は、阿片貿易の儲けをイギリス本国に迅速に送金する事だった。

《補足》・・・

1839年、林則徐、阿片厳禁の方針に基づいて欽差大臣(皇帝の特命大臣)に任命され、広東へ派遣される。当時の広州・珠江沿いには外国人居留地があり、洋館が立ち並ぶ地域は特に「十三行街」と呼ばれていた。

林則徐は型破りな堅物で、外国の新聞や書物を通読し、異国理解に努めていた点で、ものすごく変わっていた。林則徐のブレーンであった魏源は、林則徐が収集していたイギリスやアメリカ合衆国の情報を委託され、それを元に『海国図志』を著した事で知られている。『海国図志』は、西洋諸国の軍事や産業について詳述した大部の書。

1841年、林則徐は阿片戦争の責任を負って左遷された。1842年に出版された『海国図志』は、1854年に日本版が出版され、幕末武士の必読の書になった。

熊本藩の儒家・横井小楠(よこい・しょうなん)は『海国図志』をよく読み、日本の将来の指針を論じた事で有名。『海国図志』を熟読した主な指導者に、吉田松陰、佐久間象山、村田氏寿、橋本左内、島津斉彬、松平慶永などが居る。勝海舟、坂本竜馬など維新志士にも、多大なる影響を及ぼした。

…ちなみに1853年はペリーの黒船。1854年は安政の東海地震・南海地震。多事多難…^^;


FriendFeedコメントより転載

<揚州経済圏>ですが、まさにこの経済圏は京杭大運河の心臓部で、この運河交通を裏で取り仕切ったのがかの青幇でした。もちろん麻薬も主要な取引対象だったのです。青幇は、他の主要な黒社会である三合会(珠江流域、広東)、哥老会(揚子江上中流、四川湖南など)、天地会(台湾、復建)が洪幇(紅幇とも書く、読音は同じ)として連合しつねにお上に対抗していたのとは異なり、蒋介石政権に取り入り美味い汁を吸い続けました。 - 丸山光三
また<上海風呂>ですが、わたし自身は体験しておりませんが開高健の小説<玉砕ける>にその詳細が描写されています。垢取りをしてくれるのが特徴です。またこの垢取りの「職人」はすべて揚州人です。それだけではなく、上海における下層労働、とくに「馬桶」というおまるの中身を回収する業者に代表される、現代日本のいわゆる「3K」労働に従事するのはほとんどが揚州人です。ゆえに上海人は揚州人をさげすんで「江北人(ガンボニン)」と呼んでいます。ちなみに「上海閥」といわれた江沢民はこの揚州出身ですから上海人は当然のように「江北人(ガンボニン)」と軽蔑しています。 - 丸山光三
サッスーンは、もともとイラクにいたユダヤ人でのちインドに移住し、さらに英国植民地をつたって東へと渡り上海に根を下ろし、ついには上海の闇の支配者にまで登りつめました。フリーメーソン・メンバーといわれています。上海で一番目立つ和平飯店はそのペントハウス部分はヴィクター・サッスーンの住まいでもありました。このサッスーンの日本駐在員を勤めたのが長崎の武器商人グラバーといわれています。その関連で坂本竜馬や伊藤俊辅などはフリーメーソン・メンバーであるか、あるいはその謀略の駒であった可能性があります。明治維新はアメリカ独立、フランス革命などとならぶフリーメーソンによる「革命」であった可能性はかならずしも否定できないということです。 - 丸山光三
《返信》コメントありがとうございます。青幇・三合会・哥老会・天地会・洪幇(紅幇)…洪門会の他にそんなにあるんですか…^^;…どうも青パンツ・赤パンツ・虎パンツというようなシロモノでもなさそうな…図書館に行って調べてきませんと。同じ上海閥の中にも色々な人が混ざってる…と、やっぱり大陸は広いですね。「馬桶」のエピソードは『シナにつける薬』で拝読しておりましたが、聞くだに強烈だと思いました。江沢民の出身の件は意外でした。何か偉そうにしている様子だったので、北京の何処かから上海に天下りしてきた人なのかなと思ってました。
えっと、洪門会、すなわち洪幇(紅幇)で、それは三合会・哥老会・天地会のアリアンツのようなものと考えていいと思います。つまり大きくわけて赤(紅)と青の二つということでわかりやすいでしょう。ただしシナの黒社会は洪門会がメインストリームで青幇は傍流です。青幇はおもに上海を縄張りにしていたのですが、中共統治以後は香港に逃れ台湾にも勢力を伸ばしたようですが、世界中の華僑社会にネットワークを張り巡らす洪門会の規模にはかなわないでしょう。- 丸山光三
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黄金の呪い「黒いお金」

前回、チラッと「黒いお金」という言葉を使いました。

「黒いお金」。これは実在するそうです。私たちが使っている普通のお金と、見かけ上は変わったところはありません。紙幣はちゃんとした紙幣の顔をしているし、貴金属はちゃんとした貴金属の顔をしています…ただ、憑いているもの…というか、魔力のパワーが、圧倒的に違う。

錬金術や鉱物の資料をあさっていて、ひょんな事でこの知識を仕入れたのですけれども…

ええと、『ジークフリート』などに代表されるドラゴン王権伝説は、余りにも有名なので、大抵の方はご存知だろうと思います。この王権伝説の故郷は、中央ユーラシアにあります。だいたいの物語シナリオから想像するに、大地のどこか、深い裂け目の中に輝く鉱脈、あるいは鉱床を象徴的に物語ったものなのであろう…という説を立てております。

それは、最初は銅鉱床(高品質な黄銅鉱)であったと思われます。これはプロ・シナ文明も同じでした(後に、黄色が最高位のカラーと定められた)。歴史を下って、金鉱床…黄金により重きが置かれるようになります。そのきっかけというのがよく分からないのですが、世界史をざざっと眺めてみる限りでは、おそらくローマ帝国が震源であったろうと思われます。

※黄金で貨幣を造った最初の国は、現トルコに栄えたリディア王国(紀元前7世紀-紀元前547年)です。黄金を含む貨幣が製造されたのは、紀元前3世紀から紀元前1世紀ごろであったろうと言われています。その貨幣は金色に輝いていたので、「エレクトロン貨」と呼ばれました。カルタゴでは「エレクトラム貨」と呼ばれ、古代地中海交易における共通通貨の役割を果たしていました。ちなみに『聖書』で有名な「ユダの裏切り」のエピソードで出てくるのも、何故か「金貨」ですね…^^;

「3世紀の危機」の後、ローマ帝国の財政はなかなか安定せず、経済改革と新貨幣発行の必要に迫られます。この新貨幣が「ソリドゥス金貨」と呼ばれるもので、「ソルジャー(ソリドゥス金貨のために戦う人)」の語源ともなっています。優秀な傭兵を雇うためのお金でもあったのです。昔も今も、兵士の愛国心にはバラツキがありますが、お金に対する忠誠心の強さは一貫しているという事です。傭兵が常に優秀な兵になるのは、その為だそうです。

つまり、ソリドゥス金貨は、経済復興と共に、戦争資金としての役割も果たしました。

あまり気持ちの良い話ではないのですが、ここからが「黒いお金」のオカルト。

ソリドゥス金貨が活躍した時代は、全ヨーロッパを荒廃させた中世の内戦と、奴隷貿易の時代でもありました。当時は、金貨よりも銀貨の方が流通していましたので、銀を押さえたものの方が勝ち。その中で、ひときわ活躍したのが南ドイツの銀鉱山。後に欧州一の豪商フッガー家のものとなり、神聖ローマ帝国を裏側から支配する魔術的道具となります。

色々ありましたが、東方交易を通じたルネサンス・バブルがあって、ヨーロッパに銀貨が大量に流通した事は、ヨーロッパの経済力を飛躍的に高めました。この過程で三十年戦争が起き、大量の死者が出ています。フランスでは、重商主義を採用した太陽王ルイ14世の時代を迎えていました。ちなみにルイ14世は諸国と多くの戦争を行なった王様で、その戦費拡大は、フランス財政をものすごく圧迫していました(…だから重商主義という新手の魔法で、お金を調達した訳ですが…何とも「おフランス」らしく、恐ろしいお話です…^^;)

この貨幣経済の拡大は、大航海時代を経由してヨーロッパの世界制覇をも導いてゆくのですが、この過程で、金銀鉱山を抱えていた南北アメリカで再び奴隷貿易が行なわれ、また、大量の血が流れました。アステカやインカでヨーロッパ人が何をしたかはここでは省きますが、金・銀・銅、貨幣の種類は違えど、「黒いお金」の目覚ましい拡大には、必ず戦争と流血を伴ってきたという事が言えます。

…〈経済〉と〈戦争〉は、同じ事象のうらおもて。キリスト教やら何やらは、惨めにも、この視点から見る限りでは、「黒いお金」のおまけ、「信念添加物」的な存在に過ぎなかったのでした…

ここで再び《物語》の始原に戻れば、黄金の魔力の基本は、ドラゴン王権伝説にあります。

物語的思考というのはだいたい「こじ付けと迷信と妄想」のタグイに入るものですが、『聖書』でサタン(=悪魔)を龍(=ドラゴン/リヴァイアサン)と表現している、その恐ろしいまでの物語的直観の一致に、驚かざるを得ません。

ドラゴンが守っていたのは、『指輪物語』に語られる魔性の黄金ではなかったか…それは、黒く輝く太陽に祝福されたモノであり、「黒いお金」の魔力の源であり、地上に掘り出されれば、人の世に無限の闘争と流血をもたらす「呪われし黄金の指輪」ではなかったか…

それは、人間の負の部分…〈闇の相〉と強く連結する性質を持っている。自分には霊的感覚はありませんが、それでも、金・銀・銅といった鉱物から召喚されてきた恐るべき魔力は、やはり、霊的磁気とでも言うような電気的磁気的な性質を持っているはずである…という、変な確信があります。

…「黒いお金」はさらに「黒いお金」を呼ぶ。さらに流血を呼ぶ。人間の血に入っているのは、鉄です。その鉄が、「黒いお金」に呼ばれて、新たな人間に新たな血を流させるのかも知れません。その魔力が紙幣の形で凝縮するのか、それとも金・銀・銅・レアメタルといった貴金属の形で凝縮するのかは、時代によって異なっていますが…

大部分、オカルト的な説明になっていますが…物語的には、真実であろうと考えています。日本某所にも、その「黒いお金を司る神」の祭祀場(と言うよりも霊的エネルギーのツボ?)があるそうです。先人がさすがにその禍々しさを察していたらしく、何百年もかけて複雑な呪術的結界を施して、厳重に封印しているという事ですが…さすがに「死の呪い」であるだけに、今でも自殺志願者が集中していますし、幽霊ホラー話がとてもたくさんです…(ヒント=なまよみの国。「なまよみ」=「半黄泉」です)

…例えば「黒い黄金」の呪いは、黄金仏像の呪いにすれば[こんなものでしょうか]…

…ものすごく怪談なお話なので、おくちなおしに、芸術的な内容の付記をば…^^;

《付記》…この方(=『世界という大きな書物』のブログ主さま)は詩人だなあと思います^^

http://twitter.com/mnnakajist/status/7408827361
〝一枚でもいい写真が撮れると、何かが成仏した気持ちになる。秋の日差しのなかに、そこでそれぞれに光を浴び、風に揺らいでいる草の葉や枝や穂たち。それらがどんな風に生きているのか、1/2秒程度の遅いシャッターなので、シャッターを押すまでにそれをじっくりと感じる。〟
http://twitter.com/mnnakajist/status/7408877529
〝そしてその美しさに触れ、満たされたわたし自身の秋も、いい写真が撮れると、成仏した気持ちになる。〟
http://twitter.com/mnnakajist/status/7408993593
〝主に光が透過している葉を撮るので、---その美しさ!---カブリが出て失敗することも多い。〟
http://twitter.com/mnnakajist/status/7409134836
〝写真を撮るとは、成仏させること。〟

ある種の写真作品はむしろ、《絵画=陰影の芸術》と言うよりは、音楽やポエジーのような、瞬間と瞬間の間を縫っていく《韻律の芸術》に似ているところがあるのかも知れません。例えば、音楽で言う長調と短調が、撮影者の手を通過して、ネガの陰影に転写されているとか…

「写真はエネルギー相の残像であり、残像はエネルギー相の記憶である(=なんちゃって箴言=)」…、「数学は魂の音楽であり、音楽は魂の数学である(作者不詳の箴言)」のもじりですが、いかがでしょうか…*^^*

心に残る箴言

今までの人生で出会ってきて、いつまでも記憶に残っている箴言を並べてみました:

◆ロマン・ロラン
英雄は自分のできることをした人だ。
凡人は、できることをせずに、できもしないことを望む。

◆アメリア・エアハート
勇気は、安らかな暮らしを得るために必要な投資だ。
それを知らない人間は、小さなことにつまづき続けるだろう。

◆ジョン・キーツ
知性を高める唯一の方法は、どんなことについても断定しないこと、
すなわち自分の精神をあらゆる思想に対して広く開けておくことである。

◆中村勘九郎
型をしっかり覚えた後に、「型破り」になれる。

★《未来の危機を回避する「三脈の法」》

潜在意識・集団意識の不思議さを感じる。表層意識では気づかないだけで、私たちの身体は、極めて優秀な「運命予知アンテナ(見えざる器官)」を張り巡らしているようです。

三脈之法のやり方

  • 左手の親指と中指を下顎骨の左右の動脈に当てる
  • 右手の指を左手の動脈に当てる
  • 何もない時は三か所の脈が一致しているが、大きな災いが起きる前には三か所の脈がバラバラに打つ(死脈)

普段は三脈が一致しているが、大きな厄災迫る時は、脈が乱れて一致する事がない。数日以内に何も起こらず、再度、脈を診て異常が無ければ災難が通り過ぎた事になる。

なぜ脈の乱れで危険を察知できるのか
潜在意識は差し迫る危険を察知すると、その「危険信号」を本人に気付かせ、危険を回避する行動をとらせようとする。そこで、体調に影響を及ぼして脈を乱したり、夢という形を借りてメッセージを送るなどの手段が取られるのである。

★「我が上の、星は見えぬ」
易者の言葉で、他人の事は占えるが自分の事は分からない、という意味

★「空白の時間/無用の用」…文献は不明(メモしていなかった為)
人は何も「しない」空白の時間があってこそ、内省や創造と言われるような内的作業が可能になるもので、そこでボンヤリと様々なことに思いを巡らしてみたり、自分自身との対話を行なったりします。また、その退屈さゆえにどこかに新しい世界はないかと模索してみたり、とりとめもない空想に耽ったりするものです。このように自由な精神活動こそが、人類の文明や文化を築いてきた根源でもあると言えるでしょう。「頭」はいつも大声で主張してきますが、一方の「心」の方は普段は小さな声で囁くだけです。その「心」の声を聞き届けるには、どうしても空白の時間が欠かせないという場合も多いのです。