天才とは何か・考3
【天才たちの認識論&表現論】
天才が本を読む時。
「普通の人が本を読んでいるように」本を読んでいるのではないだろう――ということは、想像できるかも知れません。
天才が物事を観察する時も、やはり、「普通の人が普通に見ているように」見ているのではないだろうと思われます。
そこにあるのは、きっと、「浅読み」では無く「深読み」でしょう。
他人がどのように物事を認識しているのかは、想像するしかない部分です。
天才の視野がどのようなものなのか、天才がどのようにモノを見ているのか。
凡人に過ぎない身で、「天才たちの脳みその中で、いったい何が起こっているのか」を考察するのは、無謀なことであるかも知れません(汗)。でも、何とかして、考えてみましょう。
「天才たちは、インプット&アウトプットが、質・量ともに、ケタ外れである」
――という現象を考えると、詩を「深読み」する時のスキルが、そこにあるのではないかと考えられます。
詩の時空というのは、本質的&本源的に「現実的日常ではない、高圧縮の複合的な何か」に属しています。便宜のため仮に、その「高圧縮の複合的な何か」を、「無限/インフィニティ」と称します。
宗教者なら、その領域を「神」と言うかも知れませんし、昨今ハヤリのオカルトやスピリチュアルなら、「高次元」と言うかも知れませんね(笑)。
「詩の背後に広がる何かを認識する」という事は、「ボーイ・ミーツ・ガール」……じゃなくて「リアリティ・ミーツ・インフィニティ」という事でもある、という仮説を立てる事は出来ます(ナンチャッテ仮説ですが)。
この仮説は、「読む」という行為や「読み解く(推理する)」技術の意味についても、再考させるものになるのではないか、と思います。
読書経験が積み重なって来ると、だんだん難しい本も読めるようになると言うのは、我々凡人でも実感できるところです。思考や想像力の範囲が、言語や表現の蓄積と共に、成長し拡大していくのですね。
天才たちは、早くから言語の応用に熟練します。
それだけ、思考の力や想像力も、早くから発達する。「知の力」が強い。独自の「読み(推理)」の感性や技術を発達させるのも早いだろうと考えられます。
おそらく、それには、詩を「深読み」する時の技術が混ざっている。高度に熟練した思考や想像力の範囲は、インフィニティ領域の広大さ、深さにまで到達しているでしょう。
詩的表現というのは、本来は神話表現だったものであります。様々な意識レイヤーに干渉するように組み立てられた、総合的な(複合的な)表現です。
いちばん表層の意味だけを受け取り、解釈して――それが本当に詩を、神話を、そしてその奥底にある要素を、読み取ったことになるかどうか?
表層から深層のインフィニティに至る多種多様な分節のシリーズ、いわば、そこに折りたたまれている「倍音」を聞き取るような高精細な感性や技術が無いと、本当に効率的に「深読み」するというのは難しい。
インプット&アウトプットが質・量ともにケタ外れな天才たちは。
おそらく、熟練した感性――知的直観でもって、普通の人よりもずっと高精細なスケールで、インフィニティ領域の要素を、複合的に認識し、一気に解釈できるのかも知れない、と想像する事が出来ます。
天才たちならではの発達した詩的感性や詩的直観のスキルは、巫女が幻視するような先駆的なヴィジョンを捉えて翻訳する作業に対しても、意外に活用されているのではないかと思われます。
実際、革命的な概念を新しく提唱したり、学問的創造を成し遂げたりした天才たちのエピソードを調べてみると、不思議なインスピレーションや閃き、悟り、といった類が妙に多いのです。
「Eureka/ユーレカ!」
どうやら、その瞬間、壮絶な密度と深度を持った「何か(閃きショックのようなモノ)」が、脳みそと脊髄をガンガン駆け巡っていたり、「スコーン(急に扉が開いて空気がドッと通るような感じ?)」としたりしているらしい。
身体全身で感じる「それ(ユーレカ)」がそれくらい強烈だということは、インフィニティ領域から到来して来る、不意打ちのインプットの質量が、とてつもなくデカいということです。
大量の学習を積み重ねて、卓越した思考能力を持つに至った天才の脳みそで無いと、それほどの膨大な、不意打ちのインプットを処理できないだろうと、推測することはできます。
膨大なインプットに見合うアウトプットというのも、当然、常識にとらわれない強力な推理力や、スケールの大きな想像力というのを必要とする筈です。
それほどに訓練され、かつ固定観念から自由な脳みそでないと、世界を一変させるような革命的な学問的創造など出来はしない、のかも知れません。