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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

《八百万の神々》論

…或る人物が言う事には、日本は、大地の力がとても強いのだと言う。そして、古代から現代に至る、様々な《意識》―《時空》が、濃密に混ざり合っていると言う。「産土」、「地霊」、…言い方は色々あるが、一まとめで言えば「八百万の神々」である。

そして、八百万の神々が宿る日本列島の大地は、とても強い霊威を秘めている…

今、突きつけられているのは、「先人を超越する」という重いテーマであろう。

2011年から2012年に及ぶ《災禍の時空》が、日本人の変容を促す…

何を見て、何を学び、何を考えなければならないのか…何を変えなければならないのか。

…想像力は創造力でもある…

その模索の積み重ねが、2012年の結果となって表れる。だが、その結果が明らかに目に見えるようになるのは、更に数年の時を経た後の時代の事になるだろう。変容に伴う《破壊》と《創造》は、一朝一夕に出来るような仕事では無い。

その間、日本列島の大地は、まるで嵐の中の小船のように揺さぶられる筈である。地震も、流言蜚語も、放射能も、国家も、経済も…およそあらゆる《禍ツ霊(マガツヒ)》が沸き立っては崩れ、不安と災厄を撒き散らしながら震え続けるのであろう。まるで、古代神話の《常夜闇(トコヨノヤミ)》の時代のように…

…《常夜闇(トコヨノヤミ)》の到来は、深く眠り続けていた神々を叩き起こすものなのだ…

神々は物語をものがたり、人々はその物語を、我が身の生と死をもって生きる。人々が神々の物語を表現する時、人は神である。

神に祈っても、神は何もしない。神は人を救わない。

ただ神を感受した人の心に宿り、現世の人の命を通じて、無限の変容の物語をものがたる。

生と死の間を渡りゆき、変容を遂げてゆく四季折々の大自然…人も社会も、宇宙も、また変容する。神々の力とは、おのづから成長し変容し続ける大自然の、《無限》の力に他ならない。

…目の前の現実に真摯に対応する。その時、八百万の神々の力が発動するのである…

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詩的カメラ・オブスキュラ論

カメラ・オブスキュラ。

カメラを覗き込む時間は、不安定な夢の時間にも似ているかも知れない。

暗い押入れの戸に空いた小さな節穴を通して、此処ではない何処かに広がる世界を覗き込んで心躍らせている子供たち、その幼な心と、何も変わるところが無い。

それは、ある意味では、闇に沈んだ無垢な眼差しであり、人の世を演出する無数の言語に疲れた眼差しであり…

その眼差しが見るのは、漆黒の闇の中を放浪する夢、現在の中を同時進行する無数の過去と未来のかけら、無限の光彩と遠近法に彩られた混沌たる化学実験室、今まさに現実を創造しようとする未生の時空の裂け目。己の内なる意識と、外部の光景とは、まさに「眼差し」によって結び付けられる筈である。

…眼差し…

それは、人がこの現世(うつしよ)に生まれ出でて初めて表現する自己意識であり、また、老いて消えてゆこうとする瞬間にも表現される、最期の自己意識である。

ゲーテは言えり、「もっと光を…!」

清算されえぬ過去、危ういまでに不条理な現在(いま)、夢と未来との間を微塵に散らばる遠近法の系列、無数に裁断された時空の中で乱舞を続ける未生のコラージュの群れ…その重層する漆黒の意識の流れの中で、なおも狂おしく回転し続ける眼球が、カメラ・オブスキュラ。

未来など何処にも存在しないと知りつつ、それでも、未来なるオブジェを求めて、忙しく回転し続けるレンズ…カメラ・オブスキュラのシステムを収める様々な筐体、異形の杖の如き三脚、フード付きマントよろしく頭から被る黒布…それは、能役者の肉体に似ている…そして、レンズ。

…レンズは、フラジャイル。その〝眼差し〟こそが、フラジャイルなるもの…

写真家は、よく、「思ったとおりの写真になった/ならなかった」と言う。

己の内なる〈コトバ〉と、外なる〈カタチ〉とを結ぶ不安な「眼差し」…カメラ・オブスキュラ。

己が周縁を覗き込むのか、それとも、周縁が己を覗き込むのか…危ういばかりの、内外意識の緩衝地帯。

「眼差し」の中で、光彩の軌跡を辿って、究極まで圧縮された内外意識の遭遇が生み出す、世界公理の火花。

〈偶然〉と〈必然〉の出会いの結果としての、目眩めくような〝フォトジェニック〟…

それは、闇の中に生み落とされたひとつの遠近法の詩、または、時空を切り裂いたシャッターのエピソード。

フィルム写真は因数分解の詩歌に似ており、デジタル写真はフーリエ変換の詩歌に似ている、でも、そのカメラ・オブスキュラとしての、〝時光〟を結ぶ〈コトバ〉の呪術的本質は、ひとつも変わらないのかも知れない。

世界を乱舞する〈生〉と〈死〉が、ひとつの火花として結ばれ、焼き付けられるとき、それはカラーを持っていながら、モノクロームの深みに達することがある。

モノクロームとは、本質的に、冬の眼差しであり、死者の眼差しであり…

死の境地から生を眺めるとき、カメラ・オブスキュラという〈フラジャイルのコトバ〉は、無限に圧縮されたカラーの意識の中で、〝光〟と〝闇〟の本質を語り始めるように思われるのである。

それは生ける者が見る死者の夢…それとも、死せる者が生者をよそおって語る夢。

ときとして、カメラ・オブスキュラは、無限遠に分かたれた意識の断層を飛び越えることがある…

カメラ・オブスキュラ。眼差しのポエジー。

それは、ひとときの「眼差しの物語」…〝時光の幕間劇〟に他ならないのだ。

(ひとつの詩的な考察である)

制作プロットのメモ「宮島厳島」

第三部マレヒト@第四章「宮島厳島」プロット

日付は全てストーリー上の架空の旧暦のもの

■09/11■

鬼ノ城を出発。船団に同乗、瀬戸内海を渡る。鞆の浦に到着。

天候悪化のため鞆の浦で一日、停泊。鞆の浦は風待ち・潮待ちの港で、今のようにエンジン航行ではなく天然推力の航海では重要な位置にあった。瀬戸内海の全体の潮流が出逢う結節点でもある。

万葉集7-1182:海人小舟帆かも張れると見るまでに鞆の浦廻に波立てり見ゆ

万葉集7-1183:ま幸くてまたかへり見む大夫の手に巻き持てる鞆の浦廻を

■09/12■

鞆の浦を出発。尾道に到着。九鬼の手先の行商人が居て情報を交換。石見国で銀が出たので、周辺の業者たちが活発化している。

類仁王は御影王と少し話をする。人生観の変化や、今後の行動など。鬼ノ城で散々、人間の死を目撃した類仁王は、世の中をはかなむ気持ちになっていて、四国巡礼を強く希望。類仁王は尾道で下船し、別の船(巡礼者向けの船)で四国・今治港へ向かう。

今治港と南光坊(55番札所)が近い。類仁王、今治港で上陸し、四国巡礼へ出発。

(南光坊:愛媛県今治市別宮町にある真言宗御室派の寺院。四国八十八箇所第55番札所、本尊は大通智勝如来、ご詠歌=このところ三島に夢のさめぬれば別宮とても同じ垂迹)

尾道を出て、多島海を渡る。

船団、宮島へ向かう。カモさんの神出鬼没がすごいので、村上たちが前もってカモさんを拘束。厳島神社でいったん報告会。十三夜月の観月宴(社交パーティー&情報交換)も兼ねて。

■09/13■

カモさん一行、厳島神社にて十三夜月の観月宴に参列。

鏡も一張羅を着て、カモさんの従者として参列。

観月宴のひっそりした席のほうで、カモさんと厳島神社の神職をつとめる老賢者との会談。

瀬都の勾玉の件および、瀬都の過去、名前の由来など。神話編集の話題にも及ぶ。

神話の中での「神鏡」の役割などのディープなオカルト話が進行し、鏡は興味深く耳を傾ける。

(科白メモ)星の添え星。別の口伝曰く鏡の呪術、されば、しられざる星のかくてありなむ。その要の境に出づ。剣は分かち、玉は連ね響く。これ三種の神器の伝なり。

■09/14■

厳島を出発。四国へ渡る。カモさん一行は、海軍その他の面々とは別行動になる。

伊予の国・松山港へ向かう。

道後温泉へ宿泊。鬼ノ城の戦いの後なので、カモさんもすごく疲れている。湯治とまではいかないが休憩。

夜、入浴。鏡父子、少し話をする「これから、どうするか?」。鏡は、伊勢で斎宮から受けた助言のとおり、九州へ行ってみるつもり。「ヨドミに逢う」。鏡父、少し考えて、賛同を示す。

■09/15■

早朝、鏡父とカモさん、話。鏡父、息子の決断を尊重。親としては、一緒について行って後ろから見届けたいと話す。雨竜島を経由して高千穂へ。情勢が乱れて見通しも不透明になって来ているが、カモさん、可能な範囲で協力すると了承。