忍者ブログ

制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

読書ノート:平安貴族と陰陽師

『平安貴族と陰陽師―安倍清明の歴史民俗学―』繁田信一・著、吉川弘文館2005

・・・《病気への対応》・・・

平安貴族は、卜占や呪術によって病気に対処することを陰陽師の役割として求めていた。他にも、病人が出た場合、「験者」と呼ばれる密教僧を頼ることも多かった。

一般に、験者・医師(医家)・陰陽師の三者が病気治療に関わっていた。

安倍清明著『占事略決』によれば、病気の原因は「神」・「仏」・「霊鬼」・「呪詛」・「その他」と決まっており、卜占によって原因を絞るという診察が行なわれていた。

※「無数の可能性の中から原因を探す」という科学的な医術は、近代になってからの方法。

『占事略決』に見える病気の原因(資料より)

【神の類】
社神(やしろのかみ)・氏神・大歳神(おおとしがみ)・土公神(つちぎみのかみ)・水神(みずのかみ)・水上神(みなものかみ)・山神(やまのかみ)・道路神(みちのかみ)・竈神(かまどがみ)・廃竈神(すたれかまどのかみ)・馬祠神(うまのほこらのかみ)・儛神(まいのかみ)・形像(かたしろ)
【仏の類】
仏法・北辰(妙見菩薩、北君)
【霊鬼の類】
丈人(祖霊)・悪鬼・客死鬼(かくしき)・縊死鬼・溺死鬼・兵死鬼(へいしき=戦死者の亡霊)・乳死鬼(にゅうしき=夭逝者の亡霊)・道路鬼・厠鬼・求食鬼(ぐしょくき)・无後鬼(むごき=子孫を残さずに死んだ者の亡霊)・母鬼(もき=幼子を残して死んだ母親の亡霊)・疫鬼(えきき・疫病をもたらす鬼。裸形で槌を持ち、その槌で人の頭を殴って死をもたらす)
【呪詛】
呪詛(式神・貴布祢明神などの霊物)
【その他】
風病(風気)・宿食物誤・厨膳・毒薬

「風病」というのは、現在の風邪とは異なる病気であったらしい。症状としては「顔面の火照りや全身の倦怠感」、対応としては按摩(マッサージ)などが有効だった事が記録に見える。風病によって四肢に異常が生じる事が、ごく普通に生じたとされている。

重篤な症状としては「口や鼻より血を噴き出す」というのがあり、これで死んだ人もいたという記録がある。

なお、現代の研究では、「風病」とは、中程度以上の身体不調の症状を幅広く指すものであり、現代の病名としては、神経疾患から脳溢血・半身不随といった中枢性・末梢性神経疾患であったろうと見立てられている。

そして陰陽師は、この「風病」は神仏の祟りといった病気の原因と同列に扱っていた(病気それ自体としては扱わなかった)。診断を下すときは、「この身体不調の原因は祟りではありません、風気(風病)によるものです」といったような感じだった。

実際に病気の治療にあたるのは医師だが、陰陽師はその医薬や医術が有効であるか、安全であるかの保証に関わっていたらしい(=「占いによれば、この方法は良いでしょう」というような感じ)。昔の薬(漢方薬)は成分が安定せず、有効性にはかなり疑問符が付くレベルだった。

このように「風病」は恐れられたが、とりあえず医薬や医術で対応できる普通の病気であり、それよりももっと恐れられたのが、祟りによって重くなったり長引いたりする病気だった。こうした病気は特に「もののけ」と呼ばれ、非常に恐れられていたものだった。

【もののけの原因だとされた神】=稲荷社、宇佐宮、日吉社、春日社、貴布祢社、竈神、土公神

【もののけの原因だとされた仏】=妙見菩薩、聖天(しょうてん)、金峰山寺

当時の平安貴族たちは、「神は仏を嫌う」と考えていたため、神の祟りによる「もののけ」には陰陽師による禊祓(みそぎはらえ)が用いられ、仏の祟りによる「もののけ」には験者(密教僧)による御修法(みしゅほう)や加持祈祷が用いられた。鬼による「もののけ」には鬼気祭が用いられた(陰陽師が執り行なった)。


プチ・メモ・・・当時の医師が使った医薬や医術(陰陽師では無い)

  • 「韮(にら)」=お腹の症状全般に対する効果を期待された(下痢を止めるなど)。今は野菜の一種。
  • 「呵梨勒丸(かりろくがん)」=便秘解消薬
  • 「朴(ほお)」=風病の薬。朴はモクレン科の樹木であり、この樹皮や根皮を乾燥させたものが漢方薬の原料になる。多分、煎じて飲むから、液体の薬(=「熱い朴の汁」の記述あり)?
  • 「湯茹(ゆゆで)」=湯治。温浴によって身体を温める。

『紫式部の父親たち―中級貴族たちの王朝時代へ―』繁田信一・著、笠間書院2010

▼将来を占いで知ろうとする造酒正(みきのかみ)の書状▼

巳年男所望成敗如何。
_月_日      造酒正
陰陽頭殿

【解説】卜占の依頼状。「巳年の男の望むところの成否は如何でしょうか」という内容で、陰陽頭への卜占の、重ねての督促状に近いものらしい(「所望」の内容は、先に出した別の書状に書かれてあったはず。殆どの中級貴族は大きな財力を期待できる大国の受領国司を望んでいたから、この書状の主も、おそらく受領の地位を手に入れることを望んでいたものと思われる)。

当時の官位官職における出世レースでは、このように、大貴族に口利きを依頼するだけでなく、陰陽師に卜占を依頼したりしてその可能性を探っていたものらしい。

卜占の結果が程々に良いものであれば、返書の内容は以下のようになったと言われる:

右、御教書以到来之時推之巳年男之御所望可令成就給欤。但被祈請仏神者弥不可有其疑欤。ム恐惶謹言。
即日      陰陽頭

【意味】「右のことにつきましては、お手紙が私の元に到着しました時刻を手がかりとして占いましたところ、巳年生まれの男性のご希望は、実現なさるに違いないのではないのでしょうか。ただし、仏や神に祈願なされば、あなたのご成功については、いよいよ疑う余地などあるはずもないのではないでしょうか。(取るに足らない者が)恐れ畏まりながら謹んで申し上げます/即日に/陰陽頭」

▼高僧に熾盛光法の勤修を依頼する手紙▼

熾盛光之法以吉日可被修之由有其仰。番僧浄衣令染何色乎。壇供等支度早可注給也。為令下料物也。敬白。
_月_日      前備中守
謹上 東塔阿闍梨御坊

【意味】熾盛光法(しじょうこうほう)を吉日に勤修なさるようにとのこと、殿より仰せがありました。つきましては、修法(すほう)を補佐する僧たちの法衣は、どのような色に染めさせましょうか。また、修法の壇に置く供物として用意しなければならない品々につきましても、早いうちに書き出してお示しいただきたいところです。もちろん、殿の財産を管理する倉に必要な物品を供出させるために他なりません。軽輩が敬いつつ申し上げます。/_月_日/前備中守/謹上(きんじょう) 東塔阿闍梨御坊(とうとう-の-あじゃり-ごぼう)

【解説】修法=仏の力を借りる呪術。熾盛光の法(しじょうこう-の-ほう)というのは熾盛光仏頂という仏の力にすがろうという修法である。釈迦如来の忿怒の化身と見なされていた熾盛光仏頂を頼る御修法は、天変地異が確認されたとき、その後に予想される災厄を鎮めるために用いられたということである。上記書状が出された頃、日蝕・月蝕・台風・地震などが起きていた可能性があるという。この書状を書いた人物は、上級貴族の執事(家司)を務めていた中級貴族。

▼後冷泉天皇の泰山府君祭都状(この書状の「親仁」部分は後冷泉天皇による自筆署名)▼

謹上 泰山府君都状
南閻浮州大日本国天子親仁年廿六 献上 冥道諸神一十二座
 銀銭二百四十貫文 白絹一百二十疋 鞍馬一十二疋 勇奴三十六人
右、親仁謹啓泰山府君冥道諸神等。御践祚之後未経幾年。而頃日蒼天為異変黄地致妖物怪数々夢想紛々。司天陰陽勘奏不軽其微尤重。若非蒙冥道之恩助何攘人間之凶厄哉。仍為攘禍胎於未萌保宝祚於将来敬設礼奠謹献諸神。昔日、崔夷希之祈東岳延九十之算趙頑子之奠中林授八百之祚。古今雖異精誠惟同。伏願垂彼玄鑒答此丹祈。払除災厄将保宝祚。刪死籍於北宮録生名於南簡。延年増算長生久視。親仁謹啓。
永承五年十月十八日      天子親仁謹状

【読み下し】謹みて泰山府君に都状を上ぐ/南閻浮州(なんえんぶしゅう)大日本国天子親仁年廿六の冥道(みょうどう)諸神一十二座に献上す/銀銭二百四十貫文 白絹一百二十疋 鞍馬一十二疋 勇奴三十六人/右、親仁の泰山府君・冥道諸神等に謹みて啓(もう)す。御践祚の後、未だ幾年を経ず。而るに、日頃、蒼天は異変を為して黄地(おうち)は妖(よう)を致し、物怪(もっけ)は数々(すす)にして夢想は紛々(ふんぷん)たり。司天(してん)の陰陽(おんみょう)は軽(かろ)かざるを勘(かんが)へ奏(そう)せば、其の微(しるし)は尤も重からん。若(も)し冥道の恩助を蒙(こうむ)るに非ずんば、何ぞ人間の凶厄を攘(はら)はん哉(や)。仍(よ)りて、禍胎を未萌(みめい)に於いて攘(はら)ひて宝祚(ほうそ)を将来に於いて保たんが為に、敬ひて礼奠(れいてん)を設けて謹みて諸神に献ず。昔日、崔夷(さいい)の之を希みて東岳に祈るに九十の算を延べ、趙頑(ちょうげん)の之を子(のぞ)みて中林に奠(まつ)るに八百の祚を授く。古今は異なると雖も、精誠(せいせい)の惟(おも)ひは同じからん。伏して願ふに、彼の玄鑒(げんかん)を垂れて此の丹祈(たんき)に答へよ。災厄を払ひ除きて将に宝祚を保たんとせよ。死籍(しじゃく)を北宮に於いて刪(けず)りて生名を南簡に於いて録(しる)せよ。年を延べて算を増し、長く生きて久しく視(み)ん。親仁の謹みて啓(もう)す。

【解説】「都状」=陰陽師の行なう呪術の中で陰陽師によって読み上げられた文書。有力な皇族や上級貴族は、こうした都状(神々への嘆願書)を自筆せず、読み書きに熟達した文章家に代筆させるものだった。大抵の場合、代筆を行なう文章家は、漢籍故事に詳しい中級貴族(文人貴族)が務めた。「勇奴」=屈強な奴隷。「践祚」=即位。「宝祚」=帝位。「親仁(ちかひと)」=後冷泉天皇の諱(いみな)。即位前は親仁親王だった。書状が出された当時は数え年26才。「司天の陰陽」=陰陽寮による卜占の結果。「玄鑒(げんかん)」=「人の振舞いを全てみそなわす《神の眼》」と言うような意味。

PR