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〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)
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Behind Me — dips Eternity —
Before Me — Immortality —
Myself — the Term between —
Death but the Drift of Eastern Gray,
Dissolving into Dawn away,
Before the West begin —

`Tis Kingdoms — afterward — they say —
In perfect — pauseless Monarchy —
Whose Prince — is Son of None —
Himself — His Dateless Dynasty —
Himself — Himself diversify —
In Duplicate divine —

`Tis Miracle before Me — then —
`Tis Miracle behind — between —
A Crescent in the Sea —
With Midnight to the North of Her —
And Midnight to the South of Her —
And Maelstrom — in the Sky —
(721)
私のうしろに 永遠が沈み
私のまえには 不滅が沈む
私は その間の 束の間――
死は 東雲の灰色の漂いにすぎず
西の空が明らむまえに
霧散して 暁となる

死後には 神の国 と人は言うだろう
完璧で途切れることのない王国だと――
その王子は 無の息子
彼自身 時を超えた王朝
彼は 己れ自身を様々に変える
神の生き写しとして――

そうなれば 私の前には奇跡
私のうしろには奇跡――
その間に 海の三日月
その北は 真夜中
その南は 真夜中
そして空には 大渦巻――
(古川隆夫 訳)

To die is not to go ―
On Doom's consummate Chart
No Territory new is staked ―
Remain thou as thou art.
(1295,st.3)
死ぬことは行くことではない
完璧の運命図には
新たな領域など印されはしない
今在るごとく在るのだ
(古川隆夫訳)

A Wind that rose
Though not a Leaf
In any Forest stirred
But with itself did cold engage
Beyond the Realm of Bird —
A Wind that woke a lone Delight
Like Separation's Swell
Restored in Arctic Confidence
To the Invisible —
(1259)
風が立った
風はしかし いかなる森の
木の葉も揺らさず
鳥の領土を遙かに超えて
ひとり冷たく吹いて行った
別離の想いの高まるような
孤独の歓喜に目覚めた風は
極北を信じ 見えない世界に
帰っていった――
(古川隆夫訳)
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《考察のためのメモ》

時代の転換期である今、哲学は何を問うのか?(ダイヤモンド・オンライン)

◆哲学は「人生論」ではない

「哲学」という言葉を聞いて、皆さんはどのような学問だと思われるでしょうか? この問いに対して、日本ではおそらく、「人生論」をイメージする人が多いのではないでしょうか。「人生とは何ぞや? 」とか、「いかに生くべきか? 」といった問題を考えるのが、哲学というわけです。じっさい、Amazonで「哲学・思想」ジャンルの売れ行きランキングを調べてみると、たいてい、このタイプの本が上位を占めています。
たとえば、D.カーネギーの『人を動かす』や『道は開ける』は、この部門の長年にわたるベストセラーですし、最近ではマンガまで出版されています。ところが、哲学の研究者でカーネギーを哲学者と見なす人を、私は知りません。また、哲学の学会で、彼の本が問題になることもありません。
また、日本で「哲学」という場合、「誰某の『哲学』」をイメージすることが少なくありません。たしかに、哲学の学会に参加すると、哲学者の説を紹介したり、批評したりするのが主流となっています。論文や口頭発表のタイトルは、たいてい「○○(哲学者)における△△」という形を取ります。たとえば、「ヘーゲル『論理学』における〈反省〉の構造」といったタイトルです(このタイトルは、若かったころ私の論文で使用しました)。
ここから分かるように、哲学の研究とは、歴史上の偉大な人物(哲学者)の考えを紹介したり、解釈したりすることだと見なされているのです。そのため、大学院の哲学科に入って、最初に決めることは「誰(の学説)を研究するか」になります。哲学研究とは、ある哲学者の説を詳細に理解することだ、と考えられているからです。この作業を進めるには、哲学説にかんする先行研究をサーベイ(調査)する必要があります。こうして、「(誰某)専門家」が誕生するわけです。
問題なのは、そうした哲学説の研究者が、ただ学説にとどまって、その先に向かわないことです。おそらく、ホンモノの哲学者であれば、問題とする事柄(ひとまず「具体的な現場」と呼んでおきます)に直面し、それをどう捉えるか格闘しながら、理論を作り上げていったはずです。
したがって、哲学者の学説を理解するには、研究者はその学説だけでなく、さらに具体的な現場に赴き、自らもそれと格闘しなくてはなりません。具体的な現場こそが問題であって、哲学説を理解するには、哲学者が直面したその現場に迫っていく必要があるのです。
私たちが今、生きている現代世界は二つの革命――IT革命とBT(バイオテクノロジー)革命によって、大きな転換点にあるといえます。この時代に哲学者は過去の学説研究ではなく、どのように目の前で進展しつつある世界の変化を捉えているのでしょうか。

◆現代哲学は 「人間の時代」のその次を考える?

ここであらためて「人間」概念に着目したいと思います。というのも、IT&BT(バイオテクノロジー)革命が、今までの「人間」概念を根底から変えてしまうからです。
それを確認するために、フランスの哲学者ミシェル・フーコーが提示した「人間の死」という考えから始めることにしましょう。フーコーは構造主義が流行していた1960年代に、『言葉と物―人文科学の考古学』(1966年)を出版し、その最後で「人間の終わり」を次のように宣言しています。
人間は、われわれの思考の考古学によってその日付の新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。もしもこうした配置が、あらわれた以上消えつつあるものだとすれば、われわれはその可能性くらいは予感できるにしても、さしあたってなおその形態も約束も認識していない何らかの出来事によって、それが―八世紀の曲がり角で古典主義的思考の地盤がそうなったようにくつがえされるとすれば―そのときにこそ賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと。
フーコーの「人間の終わり」という考えには、ニーチェの「神の死」という思想が前提にされています。ニーチェの「神の死」という思想は『ツァラトゥストラ』(1883~85年)で語られていますが、その原型は『悦ばしき知識』(1882年)のなかで「神の殺害」という形で登場します。
「神の殺害」というニーチェの表現を使いながら、フーコーは近代における「〈人間〉の時代」と結びつけています。神を殺害することによって、「〈人間〉の時代」が始まる、というわけです。
フーコーは『言葉と物』の最後で、現代における「人間の終わり」を示唆しました。けれども、残念なことに、彼はそれ以後について何も語っていません。それに対して、「神の死」を語るニーチェは、同時に「人間」の彼方をも語っています。『ツァラトゥストラ』のなかで、彼は次のように述べているのです。
わたしはあなたがたに超人を教える。人間とは乗り超えられるべきものである。あなたがたは、人間を乗り超えるために、何をしたか。(中略)人間は、動物と超人のあいだに張り渡された一本の綱である。(中略)人間において偉大な点は、彼が一つの橋であって、目的ではないことだ。
「神を殺害した人間」によって、「近代」という時代が始まりますが、ニーチェはこの「人間」を超克すべきだと主張しています。彼の言葉でいえば、「超人(人間を超える)」への道を歩まなくてはならないのです。ニーチェは予言者のようにこの言葉を繰り返していますが、まさに現代(ニーチェにとっての現代)はその始まりと言えるでしょう。
ニーチェやフーコーは、「人間の終わり」や「人間の超克」を語っていましたが、そのとき想定されていたのは「生身の人間」ではなく、あくまで「概念としての人間」でした。その点では、彼らの思想は抽象的なままだったと言えます。
ところが、バイオテクノロジーの発展によって、その思想が現実味を帯びてきたのです。こうした気配を嗅ぎとって、20世紀末に、ドイツの哲学者ペーター・スローターダイクが、バイオテクノロジーによる人間の改変を擁護しているともとれる考えを講演で発表します。
スローターダイクはその講演でニーチェの表現(「育種」)を利用しながら、「人間というものは、その内のある者が自らの同類を育種する一方で、他の者たちは前者によって育種されるような獣である」と述べました。これがまさに、人間に対する遺伝子操作の肯定と理解されたわけです。講演が行なわれたのは、「体細胞クローン羊」のニュース(1997年発表)直後ということもあって、ドイツではセンセーショナルな受け取られ方をしたのです。
このスローターダイクの講演に対して、「ドイツの良心」と呼ばれるハーバマスやその周辺の思想家たちが反発し、大きな論争になったのです。ここでスローターダイクの講演そのものの意義を確認しておきたいと思います。というのも、スローターダイクの講演は、バイオテクノロジーの問題を、歴史的な視点から捉えているからです。
スローターダイクによると、「人間」を遺伝子操作する現代は、ポスト人間主義的時代と呼ばれていますが、ここで人間主義(ヒューマニズム)という言葉には注意が必要です。周知のことですが、ルネサンス以来、人文学は「Humanities」とされますので、ヒューマニズムは「人文主義」でもあります。
つまり、ルネサンス以降の近代において、ヒューマニズムは書物による研究(人文学)であると同時に、人間を中心にした「人間主義」でもあったのです。スローターダイクは、こうした近代の「人文主義=人間主義」が現代において終焉しつつある、と宣言したわけです。
ルネサンス以降の近代社会では、印刷術によって可能となった書物の研究である「人文主義(ヒューマニズム)」と、人間を中心におく「人間主義(ヒューマニズム)」が展開されてきました。ところが、現代において、こうした近代ヒューマニズムが終焉しつつあるのです。
一方で情報通信技術の発展(IT革命)によって書物にもとづく「人文主義」が、他方で生命科学と遺伝子工学の発展(BT革命)によって「人間主義」が終わろうとしています。近代を支配した書物の時代と人間の時代が、今や終わり始めたのです。

岡本裕一朗・著

拝読した小説作品(創作ポータルサイト「小説家になろう」掲載):

『ロシアンルーレットで異世界へ行ったら最強の魔法使いになってしまった件(第一部)』
http://ncode.syosetu.com/n5935dl/(2016.08.13連載開始-2016.09.07連載終了)

あらすじやタグの記載内容を見て、最初は割と警戒心を持って読み始めていたのですが、意外に正統派の王道ファンタジーになっていて、続きのパートを楽しみにしながら読み進める事ができました。一定以上のレベルのテンションを保ちながらシリーズ連載を続けると言うのは、プロの小説家でも難しい作業だと思います

序盤に置かれてあります「SF風味になっている転移篇」は、「元の世界から、これ程にも遠くまで来てしまったのだ」という科学的なリアリティを感じさせられる部分でした。この「世にも奇妙な物語」めいた序盤の数篇は、ユーモア感覚も含めて、割とお気に入りのパートになっています

※地上世界に降りた途端に、SF風味がかき消えたという点では、流石に一瞬、呆気にとられました(笑)

本編のストーリーの流れが、メリハリを付けられた状態(ホノボノ展開と緊迫展開が交互に出る感じ)で良く考えられており、「主人公は、いつ異世界の魔法の力に目覚めるのだろうか」という点では、随分ヤキモキさせられました(笑)

一方で、所々、「どんな光景が広がっているのか」という描写が薄くなった部分では、主人公の置かれた状況が余り良く分からなくなっていました。しかし、モンスターとの対決などの盛り上がるシーンや心理的な集中シーンでの描写については、ドキリとさせられる部分がありました

ストーリー情景の描写バランスが取れて来れば、前作『異世界の彼女が…』でも見られた色彩表現の鮮やかさと共に、作風の中で最大の魅力ポイントになる可能性があると思いました

なお、モンスターや魔物は異世界の定番ですが、どうやって現れて来るのか説明が無いので、その辺は、ちょっと分かりにくかったかなと思います。第二部以降で、主人公が異世界に詳しくなってくると、だんだん分かって来るのでしょうか?

  1. 元々そこに棲息していて、野生動物みたいに身を隠しながら現れて来る?
  2. 超能力があり、何処かに隠されている魔境やモンスター異次元から、自力でテレポーテーションして、いきなり現れて来る?
  3. モンスターや魔物の原料となる邪悪なマナもまた存在していて、誰かの魔法でイメージ化&召喚されて、現れて来る?

あとは、「やはり異世界標準という事なのだろうか」とジワジワ来たのは、精霊だという少女・リムの存在です。人物紹介の場で「精霊だ」と紹介されても、リムに注がれる人々の視線の、唖然とするほどの、変化の無さ。精霊と言うのはそんなに普遍的な存在なのか、それとも「自称・精霊(見習い)」が余りにも多いのか…それとも子供フィルター…

ひそかに、「異世界の不思議」と名付けました(笑)

序盤の転移篇を含めて、第一部の中で完全に回収されていない伏線が、幾つか見受けられました。第二部以降のストーリー展開の何処かで、いつか、スッキリ回収される事を期待したいと思います

目下の疑問は、主人公は果たして、(おそらくはパーティーのパートナーとなる)仲間たちに、「自分は本当は異国人ではなく異世界人だ」という事を明かすのかどうか?…ですね


《ファンアート》

登場回数の多いキャラクターについては、だんだん具体的な絵につながるイメージが溜まって来ました。ラフ程度ではありますが、個人的に感じたイメージを、色彩イラストに起こしてみました:

主人公の人相については、第一部の最終話に至ってもなおボンヤリとしたままだった…という事もあり、こんな感じになってしまいましたが…(キャラのイメージ「ぶち壊し」になっていましたら申し訳ありません・汗)

ちょっと考えてみましたが、ストーリーを進める上では、主人公キャラだけは、不特定多数的なボンヤリしたイメージのままの方が却って良いのかも知れません。この辺りは、主人公キャラの人相や特異性をハッキリさせる事で物語世界に引き込む"漫画&アニメ(グラフィック)"とは違う、"小説(テキスト)"ならではの手法のひとつであり、メリットでもありますね

2017/05/21画像作成&追加=第一部のクライマックス場面の想像図(7-047~7-048)

Molldiaz:モルディアス=ドイツ語のモル(音楽用語:短調)とスペイン名ディアスを合体

2017/03/21画像作成&追加=第一部の初登場の時から「是非、描いてみたい」と思っていた魅力的なキャラですが、なかなか印象が固まらなくて、すごく時間が掛かってしまいました。一癖も二癖もある人物は、だいたい描きにくいタイプでして、この爺さんの場合、様々な面を見せて来る物ですから、最大公約数をまとめるのが何ともハードでした(笑)

モル爺さん描画イメージのモデルになった、リアル歴史人物が3人居ます⇒世界三大提督、ジョン・ポール・ジョーンズ、ホレーショ・ネルソン、東郷平八郎

マントのデザインの方でも、「肩から胸にかけての丸型ルーン文字似のパターン刺繍」が気になりまして、「どんなデザインのマントだと、これが映えるんだろう?」と、数ヶ月間、ウンウン考えておりました。そして、2月の記事に出て来た『ロードス島戦記』女性キャラ着用の黒マントを見て、「こんな感じかな~」と、まとめました

第一部の最終盤のところで、モル爺さんとリムが祖父と孫のように向き合うシーンがあったので、「目の色は相応に似通っているのでは?」と考え、それっぽくしています(正しくは金色の目では無いですけど、ハシバミ系の曖昧な色合いを付けたので、金色にも緑色にも茶色にも灰色にも見えると思います)

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ツイッター=徒然草
漫画ハック=コミック物語の公開中

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