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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

詩的カメラ・オブスキュラ論

カメラ・オブスキュラ。

カメラを覗き込む時間は、不安定な夢の時間にも似ているかも知れない。

暗い押入れの戸に空いた小さな節穴を通して、此処ではない何処かに広がる世界を覗き込んで心躍らせている子供たち、その幼な心と、何も変わるところが無い。

それは、ある意味では、闇に沈んだ無垢な眼差しであり、人の世を演出する無数の言語に疲れた眼差しであり…

その眼差しが見るのは、漆黒の闇の中を放浪する夢、現在の中を同時進行する無数の過去と未来のかけら、無限の光彩と遠近法に彩られた混沌たる化学実験室、今まさに現実を創造しようとする未生の時空の裂け目。己の内なる意識と、外部の光景とは、まさに「眼差し」によって結び付けられる筈である。

…眼差し…

それは、人がこの現世(うつしよ)に生まれ出でて初めて表現する自己意識であり、また、老いて消えてゆこうとする瞬間にも表現される、最期の自己意識である。

ゲーテは言えり、「もっと光を…!」

清算されえぬ過去、危ういまでに不条理な現在(いま)、夢と未来との間を微塵に散らばる遠近法の系列、無数に裁断された時空の中で乱舞を続ける未生のコラージュの群れ…その重層する漆黒の意識の流れの中で、なおも狂おしく回転し続ける眼球が、カメラ・オブスキュラ。

未来など何処にも存在しないと知りつつ、それでも、未来なるオブジェを求めて、忙しく回転し続けるレンズ…カメラ・オブスキュラのシステムを収める様々な筐体、異形の杖の如き三脚、フード付きマントよろしく頭から被る黒布…それは、能役者の肉体に似ている…そして、レンズ。

…レンズは、フラジャイル。その〝眼差し〟こそが、フラジャイルなるもの…

写真家は、よく、「思ったとおりの写真になった/ならなかった」と言う。

己の内なる〈コトバ〉と、外なる〈カタチ〉とを結ぶ不安な「眼差し」…カメラ・オブスキュラ。

己が周縁を覗き込むのか、それとも、周縁が己を覗き込むのか…危ういばかりの、内外意識の緩衝地帯。

「眼差し」の中で、光彩の軌跡を辿って、究極まで圧縮された内外意識の遭遇が生み出す、世界公理の火花。

〈偶然〉と〈必然〉の出会いの結果としての、目眩めくような〝フォトジェニック〟…

それは、闇の中に生み落とされたひとつの遠近法の詩、または、時空を切り裂いたシャッターのエピソード。

フィルム写真は因数分解の詩歌に似ており、デジタル写真はフーリエ変換の詩歌に似ている、でも、そのカメラ・オブスキュラとしての、〝時光〟を結ぶ〈コトバ〉の呪術的本質は、ひとつも変わらないのかも知れない。

世界を乱舞する〈生〉と〈死〉が、ひとつの火花として結ばれ、焼き付けられるとき、それはカラーを持っていながら、モノクロームの深みに達することがある。

モノクロームとは、本質的に、冬の眼差しであり、死者の眼差しであり…

死の境地から生を眺めるとき、カメラ・オブスキュラという〈フラジャイルのコトバ〉は、無限に圧縮されたカラーの意識の中で、〝光〟と〝闇〟の本質を語り始めるように思われるのである。

それは生ける者が見る死者の夢…それとも、死せる者が生者をよそおって語る夢。

ときとして、カメラ・オブスキュラは、無限遠に分かたれた意識の断層を飛び越えることがある…

カメラ・オブスキュラ。眼差しのポエジー。

それは、ひとときの「眼差しの物語」…〝時光の幕間劇〟に他ならないのだ。

(ひとつの詩的な考察である)

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