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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

黒いお金「阿片」・2

にわか仕立てのテーマですが、ちゃんとしたシリーズを立てて、じっくり取り組んでみようと思います。「どこまで飛べるかは、神のみぞ知る」という事で…ちゃんとまとまったら、もしかしたらホームページ用に編集して公開するかも…ちょっと自信ないですが…

今回の調査は、清末期の暗黒時代にひしめいた秘密結社…と、阿片バブル上海・租界の変遷。

◆前知識/阿片取引の合法化、租界建築ラッシュ、阿片バブル時代の上海

1842年20万人、1900年100万人、1930年300万人。90%以上が国内移住者。阿片取引によるバブルが起きて建築ラッシュが進み、職を求める失業者が大量に集中したため、上海の人口が激増したといわれる。

当時の上海にはトイレが無く、「馬桶」という木製容器で用を足し、毎朝、糞尿処理業者が回って処理した。一緒に、人間や動物の死体も、リヤカーを引いた処理業者が処理していた。資料によれば、どの租界でも朝8時までは糞尿処理が終わらなかったため、死体も通りに転がっており、窓を開けられなかったらしい…(冷や汗)

上海中の糞尿処理業務を独占した会社の社長で糞尿処理業者の大元締めは、「桂姐」という中年女性。別名「糞尿大王」…らしい。彼女の夫が青幇の大ボスの1人で、表向きの仕事はフランス租界の巡捕房(警察)に雇われた巡査で、「黄金栄」と呼ばれていた(名前からして出来すぎだけど、本当に本名?)…orz

>>上海建築の推移

  • 1860年代=コンパンドーリック様式(ベランダをめぐらす簡素スタイル)
  • 1890年代=クイーン・アン・リバイバル様式(「アン女王復古スタイル」。ゴシック様式と西洋古典様式の混合、赤と黒のレンガを交互に重ねる)
  • 1910年代=ネオ・バロック様式(アールヌーボー様式はあまり入らなかった)
  • 1920年代=アールデコ様式(沙遜大廈サッスーン・ハウス1929竣工、河浜公寓エンバンクメント・ハウス1930竣工、都城飯店メトロポール・ホテル1929竣工、漢弥爾登大廈ハミルトン・ハウス1930竣工、華廈公寓キャセイ・マンション1928竣工、格林文納公寓グローヴナー・ハウス1931竣工、百楽匯大廈ブロードウェイ・マンション1934竣工、四行儲蓄会大楼パーク・ホテル1933竣工)

大量の難民のために投機目的で作られた大量生産型の住宅群もあった。店舗型住宅、里弄住宅(集合アパート)、天井住宅(江南の伝統形式)。圧倒的に多かったのが西洋アパートつながりの「里弄住宅」で、この後「里弄住宅」は近代住宅のモデルとして各地に広まる。

◆前知識/「会党」…世界大百科事典より抜粋編集

清代以降の非宗教的・反体制・秘密結社の総称。「会」も「党」も仲間の意味で、もとは単に「会」と言ったが、清末に孫文ら革命党が合作を働きかけてからは、「会党」と連用するようになった。権力の側から言えば反体制秘密結社のメンバーは「匪」であるが、「匪」は宗教的迷信を結合紐帯とする「教匪」と、宗教を持たぬか或いは主要な要素としない「会匪」とに大別され、後者が「会党」である。前近代には白蓮教など殆ど「教匪」だったのに対し、近代は「会党(会匪)」がメインだった。

阿片戦争・アロー戦争後、重税がかかり、かつてないほど大量の遊民が発生し、数多の「会党」が栄えた。その一部は移民(華僑・苦力)として国内外へ流れ、一部ははみ出し者(行商人・人足・博徒など)として社会差別を受けながら不安定に存在した。

※太平天国は、キリスト教の影響を受けた「教匪」だったという点で突出しており、膨大な失業者を吸収しながら膨張し、上海・南京を含む長江中下流域を支配したが、後に平定されて消滅したという事です。

★捻軍=太平天国と同時期に清に反抗した華北の武装勢力。1853年、太平天国が北伐を開始すると、安徽省・河南省の捻軍はこれに呼応していたるところで蜂起した。1855年、黄河の堤防が決壊すると、山東省・安徽省北部・江蘇省北部の多くの民衆が難民となり、捻軍に加入。10数年にわたって安徽・河南・山東・江蘇・湖北・陝西・山西・直隷の8省に展開した。

太平天国の乱を清の正規軍は鎮圧できず、やむを得ず地方の武装自衛集団を利用;

★湘軍=湖南省湘郷の曽国藩が湘軍の創始者。全国各地の人材が曽国藩の麾下に投じ、幕僚は300~400以上に上った。後にこれらの将帥や幕僚で総督になった者は15人、巡撫になった者は14人、その他の文武官も多数にのぼる。この湘軍出身者が洋務運動で大きな役割を果たすことになった。湘軍は清王朝を救ったが、漢人が政界の中心に進出するきっかけを作った。

★淮軍=清朝の重臣李鴻章が1862年に編成した地方軍。淮軍は2年間で6千人強から6万~7万人に拡大し、清軍の中で最も装備が充実した部隊となった。この淮系軍閥を基礎として、後に北洋軍閥が形成された。

太平天国が崩壊した後は、会党は反清の伝統を持つほとんど唯一の社会勢力として残っていたから、清末の革命党は彼らを革命のために利用しようとした。

「興中会」は華南の三合会、華中の哥老会の幾つかの山堂の首領と連絡して、会党と革命党の連絡組織としての「興漢会」をつくり、さらに海外の洪門(致公堂)とも連絡した。また「華興会」「光復会」も哥老会と結んでそれぞれ「同仇会」「竜花会」を組織した。それらはいずれも会党が革命党の理論と指導を受けて出来たものである。これは会党の歴史に新局面を開いたが、その歴史的役割は、基本的に辛亥革命で終わった。

・・・【天地会】(台湾、福建)・・・

「天地会」とは対外呼称。みずからは「洪門」と名乗る。異称に「三合会(珠江流域、広東)」「三点会」など。

広東や福建出身の沖仲士の秘密組織。蘇北地区の賊軍「捻軍」や「幅軍」、江南の太平天国軍(1851-1864)に流れる者もあったが、殆どは地場産業である製塩に関わった。

康煕(1662-1722)初年、鄭成功の抗清闘争が失敗した後、華南地方に起源するとされ、乾隆(1736-1795)末年、台湾での林爽文の反乱(1786-87)から官憲の注目を浴びる。〈反清復明〉、〈滅満興漢〉を宗旨に掲げた厳格な規律を持つ集団で、19世紀を通じてその流れを汲む異名の諸組織が繰り返し各地で暴動を起こしている。

例えば、1855年に黄河が大氾濫して河の流れが大きく変わると、大運河の交通が途絶して数十万人もの船乗りや沖仲士が失職し、当時「太平天国」と結んでいた下部組織の「小刀会」が清朝政府に対し暴動を起こした。

※太平天国の乱も拡大した1853年9月、「小刀会」が上海県城を占拠し、付近の住民を上海租界に押しやったという事件があった。上海租界は大量の難民で溢れ、外国当局は糞尿処理や死体処理、治安維持などのため、「青幇」と結託したという。

太平天国の乱は、キリスト教客家・洪秀全が起こした反乱(=革命?)。清朝政府の弱体化をもくろんでいた西洋列強は、南京(天京)政府を樹立した太平天国と脈を通じていたが、アロー戦争後、阿片売買合法化などの調停が有利に進むと、西洋列強は清朝政府に肩入れして、太平天国を潰すほうに回った。

・・・【紅幇(洪幇)】(長江中流域内陸部、華南)・・・

スローガンは「劫富済貧(富める者を劫掠して貧しい者を救済する)」。阿片戦争(1840-1842)の後に上海が開港し、阿片取引を独占したのが広東省の潮州出身の商人たち(元「三合会」のメンバー)で、彼らが新たに秘密組織「紅幇」を作った。

上海の共同租界を地盤にして阿片販売を担当し、国産(清)の阿片も含めて最盛期の1880年代には、年間2万2000箱(全体の20%)をさばく。

「ジャーディン・マセソン商会(怡和洋行・イギリス)」「サッスーン洋行(沙遜洋行・ユダヤ系)」「新サッスーン洋行(旧サッスーン洋行の弟分)」「E・パパニー(アラブ系)」「哈合(清の業者?)」などと取引。

・・・【哥老会】(揚子江上中流、四川湖南など)・・・

異名「哥弟会」。太平天国(1851-1864)滅亡後、湘軍解散に伴って湘軍人脈を呑み込みつつ、長江流域一帯に勢力分布。もとは〈反清復明〉の伝統を持つ下層民の相互扶助的組織だったが、列強侵略の時代、排外暴動の組織者として有名。1891年の長江流域での一連の暴動はその最大のものだが、のち辛亥革命の際にも重要な役割を果たした。

・・・【青幇(清幇)】(揚州、上海、租界)・・・

清王朝初期に淮河流域で組織された大運河の荷役労働者の自衛的団体「安清道友」がその源流とされる。船乗り、沖仲士、強盗、匪賊、博徒、浮浪者などを1万人以上含み、闇塩を輸送する小船を700隻以上持っていたといわれる(当時の清王朝では、塩は専売制だった。政府の許可を受けていない塩を生産し取引すると罰せられた)。このルートが阿片の密輸に活躍した。

阿片戦争後の社会変容に伴って発生した膨大なルンペン層を包含する組織として、清王朝末期、上海などの開港場を中心に阿片の運搬その他の都市サービス業を担当し、強大な勢力を確立した。もとは反政府集団だったが、太平天国の乱(1851-1864)を通じた上海租界周辺の無政府化に乗じて外国租界当局と結託し、租界における官憲的地位を築いた。

とりわけ蒋介石を援助して1927.4.12クーデタを行なってからは、国民党支配のための非公然暴力機関(ギャング)として重要な役割を果たした。

◆資料(感謝です)


FriendFeedコメントより転載

《管理人の呟き》図書館で資料収集をねばってみたのですが、秘密結社のことが全く載っていないのでビックリしました…^^;その代わり、上海エリアに詳しい観光ガイドブックを手に入れたので、ポイントとなる記述を少しずつマークしてみようと思います。観光ガイドブックはたいてい、移動ルートや距離感覚、現地名などのチェックが便利なので、意外に役立ちます。…そういえば、普通の歴史資料には"京杭大運河"の地図解説が載っていないのですね。こんな大運河が見えないなんて、いったい何を見ているんでしょうか…謎です。
上海についてなら『上海歴史ガイドマップ』(木之内誠、大修館)がお勧めです。特色は、それぞれの重要な建物に中共以前、以後、現在の地名が色分けで示されていて歴史探索にはもってこいです。巻末の解説も役に立ちます。著者はわたしが80年代なかごろ上海に遊学していた時、同じ大学に研究生として滞在されていました。そのため著者が撮影された当時の写真はわたしの脳裏にある光景そのままです♪ - 丸山光三
《返信》資料のご紹介ありがとうございます*^^*その本は知りませんでした…探してみますね。それにしても今回ビックリしたのは、数字データに現れた上海エリアの急膨張でした。1855年に黄河方面が洪水で壊れた後の変動が特に壮絶で、揚州経済圏の莫大な富が急に南へ移動したんだな…という事がよく分かって、複雑な気持ちになりました。あと、秘密結社の主張が、殆ど〈滅満興漢〉とか〈反清復明〉なんですね。清末期の混乱で、そのイデオロギーを核にして、〈秘密結社・青幇etc=客家=太平天国=クリスチャン客家=上海財閥=浙江財閥=南京国民政府=蒋介石〉という強烈な"フリーメーソン的-上海阿片マネー人脈"に育ったのかなあ、と思っています(とっても大雑把な妄想です。何となく調査予定です)
〈滅満興漢〉とか〈反清復明〉などのスローガンは洪幇のものです。青幇のほうはというとイデオロギーはどうでもよくて麻薬などのビジネスが大事だったようです。そんなこともあってシナ民衆の間での青幇の評判はよくありません。日本とのアナロジーでいえば、洪幇=任侠、青幇=893、という感じでしょうか♪青幇が利権の結びつきで蒋介石べったりだったのに比して、より「愛国」「愛民」的な洪幇は中共へも大挙合流し一大勢力になりました。朱徳、賀龍、鄧小平などはみな洪幇(なかでも哥老会)の人間です。とくに鄧小平の父親は四川における哥老会の大親分だったということです。またそれらの人脈は客家とも関連してきているのはご指摘の通りです。ここでは、洪幇=任侠、青幇=893、という基本図式を知っておいていただきたくコメントしました♪ - 丸山光三
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