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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

読書ノート『鷲と蛇』対立の一致2

『鷲と蛇』―シンボルとしての動物/マンフレート・ルルカー著/林捷訳
《叢書・ウニベルシタス531》法政大学出版局1996

「第十二章 対立の一致」より必要部分を抜粋-2

ペルシアを起源とし、ローマ帝国で崇拝された光の神ミトラには、ライオンの頭と翼を持った彫像がある。その下半身には蛇が6回巻きついており、時間の神としての職分と解釈され、それゆえしばしばイランのゼルヴァン神(zervan)と同一視される。

この彫像表現は冥界への下降(descensus ad infernos)を意味するのであろうか。あるいは神はここでは、全宇宙がその周りを回る一種の世界軸を表しているのであろうか。ミトラス教における最高神は、おおよそギリシアのクロノスに対応し、天の神であり、全能者である。イタリアの地にも、例えばオスティア(古代ローマの港湾都市で現オスチアアンチカ)にあるミトラス神殿の彫像のように、この神への崇拝の痕跡が見出される。

ハドリアヌス帝時代のモデナ(イタリアのエミリア地方の都市)のレリーフには、黄道12宮の中に全能の神が立っており、肩越しに三日月が見え、その後に強靭な一対の翼が彫られている(石碑コレクション)。右手は雷光の束をつかみ、全身に1匹の蛇が巻きつき、蛇の頭は、世界を支配する神の頭のちょうど真上に来ている。ユーリウス・シュヴァーべはこの神に、天の蛇が巻きついている宇宙軸(axis mundi)を認めている。蛇もまた神によって創られ、神はその主であり、蛇を恐れる必要はないのだから、この描写は対立の統合、宇宙の調和を具現化したものといえる。古代的思弁により、クロノス神(Kronos)は、擬人化された時間(chronos)と同一視されたので、この神はその空間的・時間的広がりにおいて、全宇宙を支配するものとなった。

古代エジプト人の間では、自分の尾を咬む蛇は、〈生〉〈時間〉それに〈永遠〉をも意味していた。新王国時代の棺の上に描かれた蛇は、まさに至福のシンボルであり、永遠へと移行していく時間は、「実存的レベルにおけるすべての生き物に不死を保証する」存在であった。環状の蛇は、その形態から対立の克服を意味している。すなわち始めと終わりが環において重なり合い、すべての地上的なものは、永遠の中で止揚される。錬金術において、しばしばウロボロスは、すべての形姿が最終的にそこから生まれてくる、変容する物質のシンボルである。ウロボロスは、15世紀の人文主義文学によって取り上げられ、永遠のシンボルとして、エンブレムやバロック絵画〔例えばヴィース教会(オーバーバイエルンのシュタインガーデンにある巡礼地教会)の天井フレスコ画に描かれた永遠の門上の蛇〕、あるいはフリーメーソンの中に取り入れられた。フィリップ・オットー・ルンゲ(1777-1810,ドイツ・ロマン派の画家)は、1日の時である『朝』のための習作において、輪状の蛇を円の切片として描いているが、そこでは、再び永遠へと包み込まれていく時間の円環性が表現されている。

古代からキリスト教的中世後期を経てルネサンスに至るまで、時間の神はそのアトリビュートとして、蛇やウロボロスあるいは環状の龍を伴った有翼の姿として表された。

(参考書籍203pより,空間と時間の主としてのアポロン,3つの頭の蛇は時間のシンボル,『音楽の実践』ミラノ,1496年)フランキヌス・ガフリウス(1451-1522,ミラノの音楽学者)の『音楽の実践』(Practica Musice ミラノ,1496)の扉の木版画であるが、最上部にアポロンが、空間と時間の支配者として君臨している。彼の両脚はとぐろを巻く蛇の上に置かれ、蛇の3つの頭は大地(terra)の中にはまり込んでいる。狼の頭は過去を、ライオンの頭は現在を、犬の頭は未来を表している。

音楽(音階)と惑星と詩女神との関係が左右に示され、中央のドラゴンが全体を貫いている。惑星の列では上から恒星天の下に土星・木星・火星・太陽・金星・水星・月が並び、その右横に惑星の記号、左横に音階の全音・半音と旋法名が記されている。詩女神はゼウスがムネモシュネとの間に生んだ9人姉妹であり、恒星天のウラニアから月のクリオと続き、最後に地球がタリアと対応させられている。下部には四大元素が示され、上部には竪琴を持つアポロンが美の3女神にかしずかれる。アポロンは全体の指揮者の役割を演じる。ドラゴンはライオン(下)、狼(左)、犬(右)の3つの頭を持っており、それぞれ現在・過去・未来を表す。/『図説錬金術』吉村正和・著(河出書房新社2012)

蛇の姿をした時間のイメージは、20世紀においても見出される。例えばパウル・ツェラーン(1920-70,パリで詩作したユダヤ系ドイツ詩人)は、生と死の樹である糸杉の脇を抜け、現存在と様存在の潮流をくぐって我々を運んでいく「蛇の車」について歌っている。

蛇の車に乗り、
白い糸杉の脇を抜け、
潮をくぐって、
君は運ばれていく。/『息の転回』1967年

(中略)世界の両極性は、同時にそのリズムを生み出す。自然の内的な本質に従い、被造物と出来事は互いに内的な相応関係にある。深くものを観る人にとって、存在のリズムは二元的な生命分離ではなく、両極的な生命連関を映し出す。両極間の外見上の対立は、単に人間的・地上的な位置測定の原理に対応しているだけでなく、それ以上に、神的・天上的な位置測定の原理にも根を下ろしている。両極が存在する時、その両極は常に力の場の一部となる。鷲と蛇の口論も、つまりは両者がお互いを無視できないことを証している。

つまり〈上〉と〈下〉の代表者は、その内的本質に従い、互いに補完してひとつの全体を形作っており、まさに各々が互いの存在に関与しあっているのである。17世紀に描かれた1枚の錬金術の絵は、地球を2つの岩場の間の谷間に立つ第一質料(prima materia)として表している。一方の岩場には翼を羽ばたかせる鷲がおり、もう一方には龍に似た怪物が毒づいている。地球自体、その出現と存在からしてひとつの神秘であり、地球は子供として擬人化された哲学に乳房を含ませてる母である。

どの極も胚の中に他の極を含んでいるので、その各々のシンボルはそもそもアンビヴァレント、両面価値的である。

鷲は例えばガニュメデスの神話やローマの皇帝崇拝におけるように、選ばれた者を空に連れ去ることができる。しかし鷲はまた、プロメテウスの神話や獲物に襲い掛かる猛禽が神の裁きのシンボルとなる申命記(28,49)におけるように、懲罰のデーモンにもなることができる。生命を授ける力だけが鳥の姿をとって現れるのではなく、冥界の力もこの形象表現を使うことができる(中略:セイレーンの例)。ひとつの形姿がいかに容易に別の形姿に変わりうるか、またいかに各々の極が胚の状態で他の極に含まれているか、このことは鳥の姿をしたセイレーンが蛇体の河神アケオロスの娘たちと見なされている点に示されている。

他方、蛇の国に、その暗い本質と対立する光の胚も含まれている。世界という劇において、塵の中を這う動物が「常に悪を欲して、常に善を行う力の一部」(ゲーテ『ファウスト』第1部1335行メフィストフェレスの科白)として、しばしばその正体を現す。それゆえ、エードレン・フォン・ランプシュプリングの著作『哲学者の石に関する論考』(1625年)に登場する自らの尾を咬む龍は、精神なのである。

龍は毒で満たされているが、
毒を屁とも思わない。
龍は太陽の光線と炎を見る。
周囲に邪悪な毒を撒き散らし、
怒り狂って空中に跳びあがるので、
いかなる生き物も、龍に勝てない。

龍の毒から霊薬ができるが、
龍は毒をすばやく食べ尽くしてしまう。
毒の詰まった尾をむさぼり食うからだ。
これは龍がおのれの軀で行うこと。
その軀から芳しいバルサムが、
不思議な力と共に流れ出す。
ここですべての賢者は大歓声を挙げる。
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