忍者ブログ

制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

2021.04.17ホームページ更新

気が付いたら1年近く間が空いてしまいました。

下記、更新しました。

▽《物語ノ本流》コーナー
http://mimoronoteikoku.tudura.com/astrolabe/content.html

第二部「タタシマ」/第八章「百鬼夜行」全80ページ

ライフワーク作品としているオリジナル和風ファンタジー漫画で、これまでに作成公開した正味ページ数=898ページになりました。描きに描きたり…というところですが、まだまだ続きます。

今回、新型コロナ問題が目まぐるしく、行動制限や時間制限が厳しくなる中での制作になりました。

「百鬼夜行」というネーミングと、現実の新型コロナ騒動がシンクロしたのは、なんとも不思議な気持ちです。ワクチンが普及し始める6月までは、大変かも知れませんが…

仕事の形態も随分と変わりました。テレワークとか。紙文書から電子文書への変更とか。

変わらざるを得なかったのか、それとも、大きく変わるタイミングだったのか…適応するのも一苦労というところです。


TOMITA_Akio@Prokoptas様ツイッター/紫色、染色、黄金、水銀、錬金術

https://twitter.com/Prokoptas/status/1419747532087824387
ニセムラサキは”偽-紫”の意ではなく”似せ-紫”の意。そのうち青味のものを「江戸紫」「今紫」、赤味のものを「京紫」「古代紫」と呼ぶが、たいていは蘇芳や藍を使って紫に近づけたものという。もちろん「蘇芳」という色名は別にある。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1419775542480433179
これに対して西方の紫(purple←πορφύρα)は、同名の2種の貝(Murex trunculusとPorpura haemastoma)の腺から採れる染料であり、それによって染められた布をも指す。それがいかなる色であるかもさることながら、いかなる色と認識されていたかが重要であると思われる。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1419777385520525318
先ず、πορφύραは血の色である。「大地はπορφύρα色に、血潮でもって濡れ浸し……」(Il.XVII,361)
これはまた海の色でもある。「河々は……山々からまっしぐらに、πορφύρα色なす潮路へ、轟々たる響きを立てて押し流れれば……」(IL.XVI,391)

https://twitter.com/Prokoptas/status/1419779305794531335
これだけでも充分に混乱させられるが、さらに πορφύρα は希臘人にとって虹の色でもある。「ポルピュラ色の虹を、死すべき人間どもへと、ゼウスが天蓋からして掛け渡したよう」(IL.XVII,547)そういう次第で、邦訳ではテキトーに訳されることになる。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1419782573526458375
サッポー詩(LP54)「πορφύρα色の衣(クラミュス)に身をつつんで 天空より舞いおり来る(エロース)」。訳者の沓掛良彦はこれを「くれない」と訳しているのだが、日本人には、もちろん、沓掛の訳の方がしっくりくるだろう。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1419790338965704707
紅花はエジプト原産で、日本には7世紀頃、その染色法とともに伝来したという。私見だが、この紅花染めの色とスミレ色(violet)との間にあるのが西方のπορφύρα→purple、日本の紫は蘇芳と藍との中間の色とみなしていいのではないかと思う。異論のある方はどうぞ。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420118112305774592
πορφύραはフェニキアの特産物であり、それ以外の地では輸入品であるから稀少価値を有した。エチオピア王は紫の衣裳を見て云ったという。「ペルシア人は人間もいかさまだが、その身につけるものもいかさまだ」(Hdt.III,22)。染色するのは生地の色を偽る、というのだ。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420119459381923840
焼く・煮る・炙る……こそ最初の物質変成つまり錬金術だというのがわたしの持論だが、第2の物質変成は染色だろう。染料は「顔料の場合と同様に……その色で織物を飾るのに使われるよりも先に、先ず人体に用いたのではないかと考えられる」(フォーブス『古代の技術史』下・II)

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420120404165758977
とはいえ、「古代人が色に対して(さらには顔料や染料に対しても)、宗教的勝呪術的意味をもたせていたことに十分注意を向けるべきであって、色について論じる際は、古代人がそのような意味合いで色彩を用いていたという面を常に認識していなければならない」(フォーブス)。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420122759259033600
金属を染色することが初期錬金術の課題であったことは、テキスト上も確認できる。しかしそのことが、卑金属を貴金属に見せかけるという汚名の原因にもなる。「彩色や染色、あるいは変色といった諸現象に関心を抱くようになり、それを研究し始めたときに化学が成立したのである」

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420476527393734658
日本語では代表的な金属を色で区別する。あかがね=銅、しろがね=銀、くろがね=鉄、き(→「こ」に転音)がね=黄金、である(いずれも99%以上の純度であるが、100%でないことに注意)。が、このほかに「ま-かね」というものがある。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420477571297280002
「真金(Magane)」は日匍辞書に「金・黄金」となっていて、紛れはない。しかし、「真金(まかね)吹く 丹生の真朱(まそほ)の 色に出て 云はなくのみぞ 吾が恋ふらくは」(万葉XIV,3560)があり、ここでは鉄の意だとするのが定説であった。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420478706514939904
「吹く」といえばすぐに踏鞴(たたら)製鉄しか思い浮かばない研究者たちが定説をつくりあげていたせいである。これを真っ向から批判したのが廣岡義隆「「まかね」考」彼は大仏造営を根拠に、「黄金を葺き上げる(=鍍金する)」意と解釈した。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420499466918850560 「当時盛んであった造仏(大仏等)の際に、仏像への鍍金(葺く)の過程で金を水銀によって液状化して用いたところから(アマルガム法)、水銀の産地である丹生に掛ける枕詞の用例」と、論考は奈良の大仏が本来金ピカの金色像であったことが忘れられている盲点を衝いたといえる。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420503127065649157
しかし、なるほどアマルガム法による鍍金に水銀は不可欠であるが、だからといってそれが直接「丹生」を指すわけではない。まして、「真金吹く吉備の中山帯にせる 細谷川の音のさやけさ」(古今和歌集』)という歌が、同一の根拠で説明できないのは、いかにも苦しい。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420831438950133766
どうやら、「辰砂は赤い」という先入観・固定観念に人々はとらわれすぎているらしい。なるほど辰砂は赤い(左図)、しかし黒辰砂(右図)もあるし、黄土(おうど/きづち)も加熱すれば赤くなることは、先に見たとおりである。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420833134241665027
さらには、クロガネといわれる鉄も、自然界では赤い。左は砂鉄。右は、砂鉄のもととなる鉄の鉱床が地表に現れたもの。鉄元素が酸化して(つまり錆びて)赤くなる。自然界において金属はみな合金の形で存在する(唯一の例外とされる金も、多くは合金である)。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420836437147090946
岩見銀山は、当時の世界の銀の総産出量の1/3を産出していたという。世界遺産になるだけの理由があるのだ。それよりもっと早く、「黄金の国ジパング」伝説のもととなった平泉の黄金文化の金は、99%以上の純度だという。ところが、それはいかなる技術によって達成されたのか?

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420869713115029504
自然界の金属はみな合金の形で存在する(例外とされる金も多くは合金である)。合金は還元し、不純物は除去されて(精錬されて)初めて純粋の金属となる。「灰吹法は貴金属を卑金属から分離する方法としてはおそらく最も古く、また最も効果的なものである」(フォーブス)。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1420877555821780993
ところが、バビロニア時代から知られていたこの方法を、日本は16世紀まで知らなかったと通説は云う。しかし、貴金属と卑金属の分離の仕方は知らなかったが、金の精錬の仕方や、鍍金の仕方は知っていた(金ピカの大仏とはそういうことだ)などという理屈に合わぬことがあろうか?

https://twitter.com/Prokoptas/status/1421208370434904067
西方では、金(Au)と銀(Ag)との合金は琥珀金(ἤλεκτρον→ラテン語electrum)と呼ばれた。これを合金として単独の金属から外し、それまで金属と認められなかった水銀(Hg)を加えて「古代七金属」が成立した。図は最古の貨幣とされるエレクトロン貨(B.C.6)。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1421210292353073158
かくして、古代七金属、七惑星、虹の七色、音楽の七音階が関連づけられ、相俟って「宇宙は音楽を奏でている」といったピュタゴラスの正しさを証明しようとした。虹の色を「各色の帯のはばが、音楽の音階の間の高さに対応していると結論」したのはニュートンであったという。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1421231458903986182
金は、金属のまま自然界に存在しうるほとんど唯一の金属である。したがって、”根気さえあれば”純金を得ることができる。「カリフォルニアでは99%の金が発見されたが、その平均は88.4%……オーストラリアでは95%、日本では砂金で62〜90%、鉱脈金で57〜93%である」(フォーブス)。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1421235609838886912
しかし、「鉱山や鉱床でとれるほとんどすべての自然金は天然の合金で、時折かなりの量の銀を含み、たいていは若干の銅と痕跡量の鉄を含んでいる」(フォーブス)。先の「灰吹法」は、金や銀の貴金属を卑金属から分離する方法であって、金と銀を分離させるわけではない。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1421240365323935744
日本の金山はその方法を確実に知っていた。──金を粘土と食塩と混ぜ、その混合物の入った坩堝を木炭炉の中で赤熱状態で12時間加熱。それから鉢を取り除き、その金を熱い塩水で洗って生成した塩化銀を流し去る(フォーブス)。いわゆる「塩化法」と云われるものである。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1421242651370684416
奥州の黄金文化について、技術的なことについて研究者たちは不思議なほど沈黙している。奈良の大仏の鍍金についても然りである。先に、ベンガラの発色をよくするため、縄文人は素材を海水に漬けておくことを経験的に知っていたことの重要性を指摘しておいた。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1421595555461943299
「鉱床の分布・配列は、地帯構造に左右され……わけても水銀鉱床は、世界的にみて著しい偏在性を示している……すなわち、環太平洋地域と、地中海・ヒマラヤ地域の二つの大きい造山地帯に、ほとんど集約的に配列している」(矢嶋澄策)

https://twitter.com/Prokoptas/status/1421598890286067712
日本列島は環太平洋にすっぽり入るわけだから、水銀の歴史がないはずはないのだが、ほとんど研究されていない。「丹」とか「丹生」という地名に目をつけてこれに日本史の立場から先鞭をつけたのが松田寿男で、これに化学の立場から共働したのが先の論考の著者・矢嶋澄策という。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1421603117771071489
とはいえ、彼らは文字記録を根拠に据えるため、当然、文字記録のないそれ以前のことについては口を噤む(それが研究者の矜恃というものであろうが)。しかも、重要な技術は大陸から伝わったという固定観念からはどうしても免れないらしい。とはいえ、その成果は重要である。


TOMITA_Akio@Prokoptas様ツイッター/天津甕星

https://twitter.com/Prokoptas/status/1415450030291390480
日本神話に星が出るのは、天神から葦原中国の平定を命ぜられたフツヌシ、タケミカヅチが、「天に悪神あり、名を天津甕(アマツミカ)星と曰ふ。亦名は天香香背男(アマノカカセヲ)。請ふ先づ此の神を誅ひて、然して後に下りて葦原国を撥はむ」と答えたと(書紀・神代下)。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1415450373679026179
この香香背男を、「最後まで「服はぬ」天津甕星……明けの明星として、他の星々が消えた後も燦然と光を放って、独り暁天に残る金星の姿を神格化したもの」という解釈は、たぶん、正しいであろう。しかし、その解釈が陰陽五行説を下敷きにしたものであるところに不満が残る。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1415453096658960386
方位を知るため或いは農作業の目安にするような星は「当(あて)星」「役(やく)星」などと呼ばれる。星座神話を欠く民族においても、そういった星の伝承は多い。プレイアデスとオーリーオーンはそういう星として(仮令星座としては知らなくても)よく知られていた。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1415759552557977601
「カカセヲ」はおそらく「輝く」と同根の語(吉野裕子ならカカは蛇の古語だと云うだろうが、カカセヲに言及しているかどうかは未調査)。そういえばカカセヲを祭神とする神社の多い県の1つ茨城には、東日本で初めての色彩壁画が発見された古墳虎塚古墳があったはず。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1416150459140747265
アマテラスがニニギに葦原中国を治めさせようとした時、そこは「多(さわ)に蛍火の光(かかや)く神、及び蝿声(さばへな)す邪しき神有り。復草木に能く言語(ものいふこと)有り」(神代下)という。これが日本列島における文字で記録しえた最古の相であったとみてよかろう。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1416153013685784582
そこでは、樹木のそよぎに神意を伺ったというドードーネ神託所の伝説も信じることができる。古代の人々は「土地や河海、岩石や樹木、鳥・獣・虫・魚など自然界のあらゆる事物には神(精霊)が宿り、それらのさまざまな変異はそれを占有する神の意志の顕現であると信じていた」

https://twitter.com/Prokoptas/status/1416155791468339201
「自然界の事物を自分のものとして占拠したり手を加えて使用しようとする場合、それに先立って必ず神との交渉が必要であると考えていた。つまり、人はその営為に先立って神に対する祭儀を行わなければ、神の妨害にあってそれを安全・確実に進めることはできないと信じていた」。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1416160055108456457
かかる自然観がそのまま保持されることは難しい。例えば樹木を伐採する際に行われる「鳥総立(トブサタテ)」が好例である。
[1]伐採してよいかどうか神に伺いを立てる。
[2]許しが得られたら、遷移していただくためトブサを立てる。
[3]これを他所へ遷脚して後に伐木する。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1416162489599856642
しかるに今やその意味が忘れられ、伐木後に、それも申し分け程度に立てられる。これを平林章仁は「神々の没落」として跡づける(『鹿と鳥の文化史』)。人の営為の妨げとなるような神は祟り神・偽りの神として速やかに他所へ遷却・追放されなければならないというわけである

https://twitter.com/Prokoptas/status/1416164033837809665
「なんじら日本人知らずや、われら昔、この列島の大地に年ふる土蜘蛛の精霊なり。われら地のそこに沈められた呪いを忘れず、いまこそ時を得て、君が代を討ちほろぼし、千数百年のとしつきを越え、われらが世を打ち立てんとよみがえりきたり」
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/yaziuma/kowa1.html

PR

時事メモ:霊と再生の物語

東日本大震災・関連@https://gendai.ismedia.jp/articles/-/80810

霊の記憶とコミュニティの再生:興味深い部分をメモ

2万人2000人近い死者を出した東日本大震災は、私たちが記憶している災害の中でも別格だった。建物という建物が壊れ、社会のインフラがことごとくなぎ倒され、街そのものが消え去ったのである。

合理的で予測可能だったはずの社会が一瞬にして崩壊してしまったのだ。それだけに、時間や空間がねじ曲がったような想像を絶する出来事が起こっても不思議ではなかった。そのひとつが霊的ともいえる不思議な体験である。

震災の年の初盆あたりから、被災地にまるで「あの世」と「この世」の結界が破れたかのように「幽霊」があらわれた。

(中略)

震災から数ヵ月ほど経った頃だったが、被災地を見に行って帰ると、突然人格が変わったかのように凶暴になった男性がいた。地元でオガミサマと呼ばれる霊媒師に見てもらったら、霊に憑依されていたという。

お祓いはできても成仏させることは出来ないと言われ、お寺を探して除霊をしてもらったら、津波で亡くなった男性の霊が憑いていたことがわかったという憑依体験もある。

それだけではない。30人近い津波で亡くなった人の霊に憑かれた女性もいたのだ。 霊に憑依されたと聞いても、当時は関心がなかったので聞き流していたが、憑依された事例はその後も聞いた覚えがあるので、震災からしばらくは珍しくなかったのだろう。

しかし、社会のインフラが少しずつ回復していくと、「あの世」と「この世」の結界も修復されていくように、幽霊はあらわれなくなった。

【「この世」と「あの世」の物語】

それにしても、どうしてこんな不思議な体験をするのだろう。

私たちは大切な人と繋がりながら、それぞれ自分の物語を創っている。おそらく人類は他者とつながることで集団をつくり、進化してきたからだろう。人は物語を生きる動物なのだ。その物語では自分が主役であり、その人にとって大切な人は重要なキャストとして登場する。

過去から現代へ、そして未来へと続くはずのその物語が、津波という不可抗力の力によって突然立ち切られた。大切なキャストを失って、未来の物語が創れなくなった遺族は、悲しみと共に途方に暮れるしかない。

ところが、霊的ともいえる不思議な体験で亡くなったあの人の存在を感じた瞬間、断ち切られた物語は一瞬にしてつながる。やがて「あの世」と「この世」の境界が曖昧になっていくにつれて、遺された者は悲しみが溢れていた物語を再生の物語に創り変えることができるのである。

むろん、そのきっかけは霊的な体験でなければならないことはない。ごく些細なことであっても、遺された人の物語に重要な役割を見いだせれば充分なのだ。生者と死者がつながるきっかけになってくれれば、新たな物語が創られていくのである。

そう書きながら、ふと気づく。もしそうであるなら、何も不思議な体験は東日本大震災だけではないのではないか。大きな悲しみを抱えたとき、人は誰もがそんな体験をするのではないか。不思議な体験は、いわば人間に内在している自己治癒力ではないか、と――。

【霊的な体験で再生の物語が始まる】

グリーフケアという言葉が浮かぶ。

グリーフケアには、大きな悲しみや喪失感を抱えた人が専門家によるサポートによって立ち直っていくイメージがある。しかし、実際に大切な人を喪った者が悲しみから立ち直っていく過程は、他者による治癒ではなく、言葉やちょっとした出来事をきっかけにした自己治癒である。人に備わった自己再生の能力といってもいい。グリーフケアのケアとは、セルフケアのケアなのだ。

大きな悲しみを背負いながら、霊的な体験をきっかけに死者とつながることで、再生の物語を発見するのだろう。私が被災地で出会ったのはそんな人たちだった。

新たな物語を創り始めたとき、悲しみを共有できる人、あるいは悲しみを受け止めてくれる人に語ることができれば、その物語はより確固としたものになっていく。創り直すことで、遺された者は大切なあの人と今を生き直すことができるのである。

阪神・淡路大震災の時はこうした霊的体験をあまり耳にしなかったのは、体験しなかったのではなく、耳を傾ける人がいなかったのだろう。

75年も前の沖縄戦で、北部にあるヤンバルの森を逃げまどっていたとき、先に戦死した兄の案内で生き延びたという話を聞いたこともある。

想像を絶するような体験をしたとき、時間や場所を問わず、合理的に解釈できない不思議な体験をするなら、それは人に内在する自己治癒力なのかもしれない。ユング心理学でいう人間の無意識の深層に存在するという集合的無意識ともいえるだろう。

人は合理的であると同時に非合理的な存在である。戦後の日本は非合理的なものを拒絶して、あまりにも合理的なものだけを大切にしてきた。しかし、人は死に際して、霊的な体験のように非合理的なことをしばしば体験する。

柱を立てるということ

書籍『山に立つ神と仏 柱立てと懸造の心性史』(講談社2020年)ISBN978-4-06-519899-5

オビ文:
柱を立てるとはどういう行為だったのか。神を祀り天地の通路を探った古代人の憧憬は、高く太い柱を求め、さらに神仏の近くへと山に分け入る。山中の聖なる岩座に建てられる堂舎は懸造(かけづくり)と呼ばれ、人々が観音や顕現に伏し、籠もり、修行する拝所となる。山中の岩、窟、湧水に神仏を感じ霊験を求める日本人。形としての山岳建築に、浄所への畏敬と崇拝の心性を読む。


●古代の祭祀所

『書紀』神代巻:「吾は則ち天津神籬(あまつひもろき)及天津磐境(あまついわさか)を起こし樹(た)てて、当(まさ)に吾孫(すめみま)の為に斎(いわ)ひ奉(まつ)らむ」

⇒「神籬」と「磐境」がどのような構造物なのかは明らかではないが、幾つか歴史遺跡の事例はある。特に「懸造」は信仰対象の岩(磐座)に関係する。

古代の事例=沖ノ島(福岡県・宗像大社沖津宮)
=4世紀後半~5世紀半ば「岩上祭祀」巨岩上部の平らな部分に小石を正方形に並べて祭壇とし、銅鏡や碧玉、滑石製祭具などを置いて祭祀を行なった。
=5世紀後半以降~「岩陰祭祀」巨岩が軒のように突き出た岩の陰に祭祀場所が移る。
=8世紀ごろ~巨岩と祭場が分離、岩から離れた露天の平坦地に定着。

縄文遺跡の事例=真脇遺跡、チカモリ遺跡
=紀元前1000~紀元前350年「環状列柱」タイプ。柱を立てて山を遥拝する形式だったと考えられる。それ以前はトーテムポール状彫刻柱、ついで大型の石棒を立てる形式。

●神と人の境を示す「柱」

『常陸国風土記』

古老(ふるおきな)のいへらく、石村(いはれ)の玉穂の宮に大八洲(おほやしま)馭(しろ)しめしし天皇(継体天皇)のみ世、人あり。箭括の氏の麻多智、郡より西の谷の草原を截(きりはら)ひ、墾闢(ひら)きて新に田に治(は)りき。此の時、夜刀の神、相群れ引率て、悉尽(ことごと)に到来たり。左右に防障(さ)へて、耕佃(たつく)らしむることなし。(俗(くにひと)いはく、蛇を謂ひて夜刀の神と為す。其の形は、蛇の身にして頭に角あり。率引て難を免るる時、見る人あらば、家門を破滅し、子孫継がず。凡て、此の郡の側の郊原(のはら)に甚(いと)多に住めり。)是に、麻多智、大きに怒の情を起こし、甲鎧を着被けて、自身仗(ほこ)を執り、打殺し駈逐らひき。乃ち、山口に至り、標の梲を堺の堀に置て、夜刀の神に告げていひしく、「此より上は神の地と為すことを聴さむ。此より下は人の田と作すべし。今より後、吾、神の祝(はふり)と為りて、永代に敬ひ祭らむ。冀くは、な祟りそ、な恨みそ」といひて、社を設けて、初めて祭りき、といへり。即ち、還(また)、耕田(つくりだ)一十町余を発(おこ)して、麻多智の子孫、相承けて祭を致し、今に至るまで絶えず。其の後、難波の長柄の豊前の大宮に臨軒(あめのしたしろ)しめしし天皇(孝徳天皇)のみ世に至り、壬生連(みぶのむらじ)麿(まろ)、初めて其の谷を占めて、池の堤を築かしめき。時に、夜刀の神、池の辺の椎株に昇り集まり、時を経れども去らず。是に、麿、声を挙げて大言(たけ)びらく、「此の池を修めしむるは、要は民を活かすにあり。何の神、誰の祇(くにつかみ)ぞ、風化(おもむけ)に従はざる」といひて、即ち、役の民に令(おほ)せていひけらく、「目に見る雜の物、魚虫の類は、憚り懼るるところなく、随尽(ことごと)に打殺せ」と言ひ了はる応時(そのとき)、神(あや)しき蛇避け隠りき。謂はゆる其の池は、今、椎井の池と号(なづ)く。池の回に椎株あり。清泉出づれば、井を取りて池に名づく。即ち、香島に向ふ陸の駅道なり。

「標の梲」=「大きな杖」の意味。小ぶりながら「柱」と理解する事も可能。開発に伴って、神と人の境界に柱を立てて標識とした事例が増えていた。

●「遥拝」+「神の領域の象徴として一本の柱を立てる」

諏訪大社=6年に1度、巨木の柱を立てる「御柱祭」=山を遥拝する場所に拝殿だけが存在し、それに巨木の柱を立てる神事が付属する。

地鎮祭の時に建てられる祭儀用の柱「大極柱」。屋内の柱「大黒柱」。柱を立てることが諸霊を鎮めることにつながると観念されていた。

神社建築「心御柱」(伊勢神宮)、「岩根御柱(いわねみはしら)」(出雲大社)。

●天と地をつなぐ「柱」

天武天皇七年条、十市皇女の急死事件「新宮(にひみや)の西丁(にしのまつりごとどの)の柱に霹靂(かむとき)す」

「柱に霹靂(かむとき)す」という記述は「柱に落雷した」という意味になる。過去記述、推古天皇二十六年条、舶(つむ)を造るための大木を伐ろうとした時、或る人「霹靂(かむとき)の木なり、伐るべからず」

「霹靂」=雷神が地上に降臨する神聖な事、と考えられていた。「霹靂の木」とは、天地をつなぐ聖なる道筋(※天照大神を天に送り上げた天柱を想起)。天地をつなぐ媒介としての「柱」観念の文脈上に、十市皇女を葬送する前文の「霹靂」があると理解できる。

●修験の行場/懸造建築の変遷

「かけづくり」=平安末~室町(中世)にわたって、山間に造られる寺社や僧房、隠棲の為の建物など、とくに宗教的な性格を持つ建造物に対して使われた用語。つまり、この言葉は山岳信仰(神仏習合)に関わって造成された建築を特に示していた。床下の柱を長く伸ばして支え上げられた建物、工法を示す様式的用語。当時、修験が駆ける険しい山道を「懸け路(かけじ)」と言った。

中世の修験関係の礼拝殿や礼殿は信仰対象の岩山前面に建ち、内部の間仕切がほぼ無い等、基本的な構成は共通している。

信仰対象の根底には岩や湧水などの自然物があった。懸造の作られた巨岩が古代の磐座である事例は多い。懸造という造形が日本の山岳における宗教建築の成立と展開に深くかかわると共に、その土着的な側面と重層性を体現する造形である事を示す。

歴史的に眺めれば、懸造の成立とその形式の変遷については、奈良時代以来の観音霊場で9世紀半ばに広く信仰を集めた石山、長谷、清水寺の礼堂・舞台が最も早く、平安時代の前半頃と考えられる。

9世紀後半~主に京畿周辺の建物、天台・真言系寺院の修行地や、平安後期の「聖の住所」として急速に発展した新興霊場に、懸造が見られるようになる。これら平安期の懸造では、岩などの信仰対象を内陣部分あるいは内陣床下に包摂する形式をとり、創建当初は平入(平正面)であったと考えられる。

平安後期~鎌倉初期=三仏寺投入堂など、地方も含めて、岩窟内や、険しく屹立する大岩の上・側面に、岩に取り付くように建てられた懸造(小規模な建築)が現れる。平安前期のものと同じく平入(平正面)。行場の険しい場所に建てられた懸造は、引き続き中世末まで数多く認められ、遺構の総数からみて鎌倉・室町時代がその盛期。

鎌倉中期以降~妻入(妻正面)形式が圧倒的に多くなる。造形的に見ても、妻入の方が、垂直性が際立って表出される。立地条件に応じて正面三間ていどの建物が立てられる場合が多い。特に不動寺本堂などに見られる、屋根が岸壁に直接接続するなど、大岩や岩窟に密着・密接した形式が顕著。

総じて、特に平安末から鎌倉初期に聖と呼ばれる行者が険しい行場に造成した物は、床下の柱も長大で力強く、それ以前の時代の懸造様式に比べて、垂直性が非常に強調されるようになっている。平地における摂関期浄土教の俗化や享楽主義に反発して山岳に入った験者や聖の信仰的態度と対応しており、山岳の修行者に対する摂関院政期の人々の期待から造り出されたと考える事が出来る。

鎌倉・室町時代の懸造=引き続き強い垂直性が強調されている。信仰対象の岩や岩窟といっそう密着して造成されている
⇒自然との一体化や捨身苦行を理想とした修験的な宗教観が反映。

近世期(戦国期~江戸期)、山岳修験が里に定着し、里修験・里山伏が増える。庶民向けの布教活動が盛んになる。それと共に、懸造も形式化してゆく。

近世期の懸造の構築の例:
石垣積と縁通りの柱のみが懸造形式(知恩院勢至堂など)。
大岩や岩窟から離れた平入の懸造形式(広島県尾道市千光寺本堂、石川県那谷寺本堂、岐阜県日龍峯寺本堂など)。
岩に関係しない懸造と本堂(兵庫県豊岡市観音寺宝楼閣、赤穂市妙見寺観音堂など)~建物の大部分は、整地され石垣の積まれた平坦地に建ち、前面一間通りあるいは最前列の縁束柱だけが懸造で造られている。

古代・中世の懸造の在り方から見れば、整地され石垣の積まれた地盤上に建ち、前面一間通りあるいは最前列の床束柱だけが懸造の形式は、古代・中世のものを形骸化して模倣した形式と言える。立地も、山岳から平地への移動が多くなる。それに伴い「舞台造り」という用語も現れる(懸造の前面吹き放ち部分を、単に「舞台」と呼ぶ捉え方が増えて来ていた)。

近世における懸造の垂直的な表現の退行には、中世の巣直的な意匠を水平的な意匠へ変容させようとする志向がはたらいていたように見える。(中略)市中や庭園の懸造は、産学の自然と険難で信仰的な関係を持っていた中世までの懸造を、鑑賞的で優美な水平的に展開する平地の諸建築へと融合する試みであり、その結果、山岳の垂直的な意匠には、平地の水平的な意匠に対する好みが反映する事になった(中略)このような経緯は山岳に建てられた懸造でも同様で、山岳とは言っても、中世までの懸造が人里はなれた山間にあったのに対して、近世の懸造は集落の近辺に建てられたものが多くなり、そこでは中世に見られた行場の厳しさは姿を消してしまう。すなわち、そこでも平地の鑑賞的な態度が支配的になったのであり、それによって中世の垂直的な意匠は退行し、平地の水平的な志向が反映するようになったとの考察が有効であるように思われる。

●象徴としての垂直性、柱の象徴性/柱を立てる行為は魂を揺り動かす

柱と梁で構成される日本建築はまず、一本の柱を立てることから始まる。立てられた柱の垂直性は、おそらく山の神と人をつなぐ象徴と捉えられ、その造形は縄文時代の巨大列柱から「岩根御柱」「心柱」「心御柱」へと引き継がれる。
そして修験者が山に入り、常設の建築を造ると、建物は自然の信仰対象に密接密着して床下柱が長く伸びる懸造をつくる、その柱の垂直的表現は自然と一体化しながら見る者、使う者を魅了する。懸造の代表的な遺構である三仏寺投入堂が見る者を引き付けて離さない理由はここにある。
険難な行場を登り、はじめて投入堂に出会った人々が涙を流す訳は、懸造という造形の中に、緑深い山への信仰、柱立てから始まる日本建築の原像が反映しているからである。

【柱立てが関わる修験道の神事の例】

◎「柱松」=屋外の儀礼。高い柱を立てて山伏がこれに駆け上り、火打石で火を付けて人々の煩悩を焼き尽くす。山伏の験力を競う験比べとしての側面があった。おそらくお盆の頃の儀礼。

◎「柱源」=屋内の儀礼。供養法、護摩とも。口伝で伝えられる秘法中の秘法とされる。十界修行の後、最後に正灌頂と合わせて授けられる。中央の壇板の上の奥に鼎状の水輪を置き、その中央の穴に閼伽札(修法者自身を示す)、その両脇に黒布に包まれた乳木二本(柱、金剛界・胎蔵界)を立てて儀式を行う。

柱源の「柱」は宇宙万物の柱を指す。「源」は天地陰陽和合の本源を指す。宇宙の形成や修験者を、天と地を結ぶ柱として、生命の再生を表している。つまり修験者自身が天と地を結ぶ柱になることを意味する儀礼と考えられる。

◎峰入りの通常の儀式
修験者が集まって儀式を行う建物(長床など)では、修験者の最高位である大先達は必ず、祭壇に最も近い柱を背に座る。

※修験道と建築の柱、懸造の柱との関連についてはまだ研究の段階ではあるが、山岳信仰における「柱」の重要性は疑いを入れない。