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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

時事メモ:霊と再生の物語

東日本大震災・関連@https://gendai.ismedia.jp/articles/-/80810

霊の記憶とコミュニティの再生:興味深い部分をメモ

2万人2000人近い死者を出した東日本大震災は、私たちが記憶している災害の中でも別格だった。建物という建物が壊れ、社会のインフラがことごとくなぎ倒され、街そのものが消え去ったのである。

合理的で予測可能だったはずの社会が一瞬にして崩壊してしまったのだ。それだけに、時間や空間がねじ曲がったような想像を絶する出来事が起こっても不思議ではなかった。そのひとつが霊的ともいえる不思議な体験である。

震災の年の初盆あたりから、被災地にまるで「あの世」と「この世」の結界が破れたかのように「幽霊」があらわれた。

(中略)

震災から数ヵ月ほど経った頃だったが、被災地を見に行って帰ると、突然人格が変わったかのように凶暴になった男性がいた。地元でオガミサマと呼ばれる霊媒師に見てもらったら、霊に憑依されていたという。

お祓いはできても成仏させることは出来ないと言われ、お寺を探して除霊をしてもらったら、津波で亡くなった男性の霊が憑いていたことがわかったという憑依体験もある。

それだけではない。30人近い津波で亡くなった人の霊に憑かれた女性もいたのだ。 霊に憑依されたと聞いても、当時は関心がなかったので聞き流していたが、憑依された事例はその後も聞いた覚えがあるので、震災からしばらくは珍しくなかったのだろう。

しかし、社会のインフラが少しずつ回復していくと、「あの世」と「この世」の結界も修復されていくように、幽霊はあらわれなくなった。

【「この世」と「あの世」の物語】

それにしても、どうしてこんな不思議な体験をするのだろう。

私たちは大切な人と繋がりながら、それぞれ自分の物語を創っている。おそらく人類は他者とつながることで集団をつくり、進化してきたからだろう。人は物語を生きる動物なのだ。その物語では自分が主役であり、その人にとって大切な人は重要なキャストとして登場する。

過去から現代へ、そして未来へと続くはずのその物語が、津波という不可抗力の力によって突然立ち切られた。大切なキャストを失って、未来の物語が創れなくなった遺族は、悲しみと共に途方に暮れるしかない。

ところが、霊的ともいえる不思議な体験で亡くなったあの人の存在を感じた瞬間、断ち切られた物語は一瞬にしてつながる。やがて「あの世」と「この世」の境界が曖昧になっていくにつれて、遺された者は悲しみが溢れていた物語を再生の物語に創り変えることができるのである。

むろん、そのきっかけは霊的な体験でなければならないことはない。ごく些細なことであっても、遺された人の物語に重要な役割を見いだせれば充分なのだ。生者と死者がつながるきっかけになってくれれば、新たな物語が創られていくのである。

そう書きながら、ふと気づく。もしそうであるなら、何も不思議な体験は東日本大震災だけではないのではないか。大きな悲しみを抱えたとき、人は誰もがそんな体験をするのではないか。不思議な体験は、いわば人間に内在している自己治癒力ではないか、と――。

【霊的な体験で再生の物語が始まる】

グリーフケアという言葉が浮かぶ。

グリーフケアには、大きな悲しみや喪失感を抱えた人が専門家によるサポートによって立ち直っていくイメージがある。しかし、実際に大切な人を喪った者が悲しみから立ち直っていく過程は、他者による治癒ではなく、言葉やちょっとした出来事をきっかけにした自己治癒である。人に備わった自己再生の能力といってもいい。グリーフケアのケアとは、セルフケアのケアなのだ。

大きな悲しみを背負いながら、霊的な体験をきっかけに死者とつながることで、再生の物語を発見するのだろう。私が被災地で出会ったのはそんな人たちだった。

新たな物語を創り始めたとき、悲しみを共有できる人、あるいは悲しみを受け止めてくれる人に語ることができれば、その物語はより確固としたものになっていく。創り直すことで、遺された者は大切なあの人と今を生き直すことができるのである。

阪神・淡路大震災の時はこうした霊的体験をあまり耳にしなかったのは、体験しなかったのではなく、耳を傾ける人がいなかったのだろう。

75年も前の沖縄戦で、北部にあるヤンバルの森を逃げまどっていたとき、先に戦死した兄の案内で生き延びたという話を聞いたこともある。

想像を絶するような体験をしたとき、時間や場所を問わず、合理的に解釈できない不思議な体験をするなら、それは人に内在する自己治癒力なのかもしれない。ユング心理学でいう人間の無意識の深層に存在するという集合的無意識ともいえるだろう。

人は合理的であると同時に非合理的な存在である。戦後の日本は非合理的なものを拒絶して、あまりにも合理的なものだけを大切にしてきた。しかし、人は死に際して、霊的な体験のように非合理的なことをしばしば体験する。

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