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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

メモ:媽祖の調査

◆媽祖(世界大百科事典より抜粋):

中国の航海守護神(女神)。民間では媽祖と称されたが、歴代朝廷の封賜を受け、宋では「霊恵妃」、元・明では「天妃」、清では「天后」と封号された。その信仰は宋代に福建の莆田地方で発生し、雨旱、疫病、盗賊などから住民を守護するものとされた。

元代になって海上交通が盛んになると、航海守護神として、(シナ)中・南部の沿海地域を中心に、北部の沿海地域にも広まり、官民の熱い信仰を得るようになり、明・清時代にも衰えることが無かった。

台湾・琉球・日本および南海地方など、広くアジア全域にも伝えられた。

媽祖の伝説は、絶えず変化・発展してきたが、明末の《天妃顕聖録》によれば、莆田の林愿の六女は、建隆元年(960年)3月23日生れ、幼時より仏教と道教になじみ、雍煕4年(987年)9月9日、道成って飛昇した。生前、機織中に精神が抜け出して、海上で遭難しかけた父を救助したが、母に呼び醒まされ、兄は救えなかったという。

また天后娘娘と呼ばれ、子授けや乳幼児の守護神としても信仰され、泰山娘娘と判然とせぬ面がある。

◆媽祖は中国語で「ニャンマ(娘媽=母)」とも称されるが、福建語(閩南語)で発音すると「ノモ」「ノマ」に近い音となる。鹿児島の野間岬、長崎の野母半島などの地名は、それに由来するとされており、特に野間岬には、媽祖を神体とし、林氏が代々の神主をつとめてきた野間権現が存在する。(『中国史4 明-清』山川出版社1999,143頁より抜粋)

【当サイトの考察・付記】

幾つかの信仰の複合体と思われる。それまで曖昧な共通点を保ちつつ漂っていた各種の信仰が、中世のある時期に、南シナ大陸沿岸・東南アジア・日本・琉球をめぐる南海系の海上流通ネットワークを築いていた海洋民の手で、「媽祖信仰」として、一応の完成を見たと思われる。

※歴史上、海洋民が海洋ネットワークを本格的につなぎ始めたのが中世であると考えられる。元々はアラブ商人の海洋進出に刺激されたものであっただろうが、東洋では長期航海に耐える大型のジャンク船が開発され、西洋でも羅針盤が導入され、大型の帆船が開発された。航海技術が非常に伸びた時代であった。

この抜粋から、日本の海洋民が関与した要素については、以下の3点が思い浮かぶ:

  1. おなり神信仰(妹神信仰/オトタチバナ姫信仰/舟魂祭祀・信仰)
  2. 織女信仰(瀬織津姫/天照大神の信仰にも関与している)
  3. 白鳥信仰(道教・仙術・古代呪術エトセトラ…の系統。例えば古代日本に影響を与えたヤマトタケル時代の道教呪術。ただし、この白鳥信仰は、もっと昔からあった大陸の信仰体系が入っているため、いっそう複雑な様相となっている)

後に、長崎からの要素が強くなり、マリア観音など、マリア信仰・観音信仰とも複合したと言われているが、その実態は、かなり「まだら」なものであったらしい。西洋キリスト教のアジア進出の時代とも重なっていたので、香港・マカオ・長崎で共通して、「媽祖」と「マリア」との混合が不定形的に起こったという事が考えられる。

・・・・・・資料各種・・・・・・

媽祖伝説(「媽祖信仰と長崎」個人研究ページ?)より抜粋:

媽祖は航海の守護神で、老媽(のうま)・娘媽・菩薩(ぼさ)・天妃・媽祖菩薩、天上聖母などと、いろいろの名で呼ばれ、福建省で起こった土俗的な信仰である。元代になると航海神として江南地方から北京へ糧米を運送するすべての船舶にまつられるようになった。

・・・(中略)・・・歴代の皇帝がそれぞれ贈り名をし、元の世祖は「天妃」、清の康煕は「天后」、清の道光は「天上聖母」という名前を贈った。

元・明の時代には、中国の沿海部において広く信仰されるにいたった。明の中期ごろからは道教の正統神の地位も与えられた。この信仰は、中国人の海外移住とともに台湾・琉球・東南アジア各地・日本などに伝えられた。…例[久米村の天妃廟

西川如見は1706年(宝永3)の『華夷通商考』の中で次のように述べている:

「長崎に来る唐人、船菩薩と号するは、第一媽祖なり。姥媽(のうま)とも号す。本、福建輿化の林氏の女、大海に没して神と成、神霊顕現にして渡海の船を護る。天妃の尊号を諡す。・・・観世音の化身と云。薩摩国(現在の鹿児島県)野間権現は則ち姥媽神也。野間は則ち姥媽の和音なり。」

この媽祖信仰は、わが国には永禄年間に薩摩の野間(媽祖の一名「のうま」が語源といわれる)山をはじめとして、常陸の水戸(現在の茨城県水戸市)や磯原(現在の茨城県鹿島市)、そして、津軽(現在の青森県)の大間村などにも伝えられて、媽祖をまつる祠などが建立されている。

媽祖と呼ぶのは福建方言で母親の意である。風浪危急のときは媽祖と呼べば神がざんばら神のまま駆けつけてすぐ救ってくれる。もし天妃と呼べば冠をきちんとかぶって現れるので間に合わない恐れがある。したがって船乗りは媽祖と呼ぶのが常であったとも言われる。

◇海神媽祖菩薩と唐船(長崎の記録)
長崎に来航する唐船には、必ずこの媽祖が祀られており、長崎港に碇泊中は、唐船から降ろした媽祖を安置する祠堂が必要となった。当初は船宿や知人の家などに預けたのであろうが、しだいに来航する唐船の数が増加して、郷幇(同郷出身者の仲間組織)が結成されると、その集会所が安置場所とされるようになった。
この集会所がのちに唐寺として整備されたのである。故に、輿福寺をはじめとする福済寺や崇福寺の創建当初は、その創建当初の形態は、媽祖を祀る道教の桐堂としての性格が強かったようである。
媽祖は船が入港中はこれを船から降ろし祠に祀ったり、出港時には祠から再度船に載せていた。この上げ下ろしを菩薩揚げ、菩薩卸しといった。

サントリー文化財団の研究より要約:

  • 日本で確認されていた媽祖像は26例(wikipediaより:現在、江戸時代以前に伝来・作成された媽祖像は、南薩摩地域を中心に現在30例以上確認されている)
  • マカオで9例、台湾で14例の媽祖像と関連諸像に注目
  • 伝承はもちろん銘文も必ずしも当てにならないのは注意
  • 同時代の絵画資料に女神・女性像との比較が重要
  • 大分県の媽祖像がかぶる冠の鳥の意匠=キリスト教の鳩とは無関係であり、中国明代の女性がつける鳳凰冠を彫刻化したもの
《中国の媽祖信仰》…マカオ・台湾
@福建系移住民による港市建設と廟の建立
@先行していた観音信仰との関係
@関帝・保生大帝・臨水夫人など他の中国神やポルトガル人が持ち込んだマリア信仰との並存
@Wikipedia◇台湾には福建南部から移住した開拓民が多数存在した。これらの移民は媽祖を祀って航海中の安全を祈り、無事に台湾島へ到着した事を感謝し台湾島内に媽祖の廟祠を建てた。台湾最初の官建の「天后宮」は台南市にある大天后宮であり、国家一級古蹟に指定されている。
《日本列島の媽祖(天妃)信仰》
@渡来した中国人が持ち込んだ(※南シナ系海洋民の間で広がっていた航海神としての媽祖信仰)
@在来の船玉信仰や神火霊験譚と結びついて、日本人船乗りや漁民の間にも拡がっていた(鹿児島・長崎)
@宮城県七ヶ浜町で新たに確認した画像=茨城県礒原の天妃刷像や青森県大間の天妃像と同じ図像=東日本における媽祖信仰の展開
@『和漢船用集』や『増補諸宗仏像図彙』など江戸時代に普及した諸書=船玉神やその「絵姿」として媽祖が登場
@江戸時代の日本における媽祖(天妃)信仰の拡がりは従来考えられていたよりも広く深い
@Wikipedia◇江戸時代前期に清より来日し、水戸藩二代藩主徳川光圀の知遇を得た東皐心越が伝えたとされる天妃神の像が、茨城県水戸市の祇園寺に祀られている。また、それを模したとされる像が、北茨城市天妃山の弟橘姫神社、大洗町の弟橘比売神社(天妃神社)、小美玉市の天聖寺にも祀られている。
@Wikipedia◇青森県大間町の大間稲荷神社には、天妃媽祖大権現が祀られている。元禄9年に大間村の名主伊藤五左衛門が水戸藩から天妃(媽祖)を大間に遷座してから300周年を迎えた1996年(平成8年)以降、毎年海の日に「天妃祭」が行われている。この大間稲荷神社は台湾の媽祖信仰の総本山である雲林県の北港朝天宮と姉妹宮である。
@要約者付記◇沖縄のオナリ神信仰(=妹神信仰=)とも結びついた可能性あり=今日でも、をなり神の信仰は、フナト(舟人)の間には根強く、特に漁船には、をなり神を祭る習わしである。これは、をなりにあたる女性の髪三本を貰い受け、これを御神体として帆柱の根元に舟魂として祭るのである/[奄美に生きる日本古代文化]の【をなり神のパート4】より抜粋

論文(PDFファイル)=「拡大する《中国世界》-媽祖信仰というカギで解いてみると-」
http://www.for.aichi-pu.ac.jp/tabunka/journal/1-4-2.pdf樋泉克夫・著

《当方の歴史研究の上で、興味のある部分を抜粋&転載2012.12.22記》

華僑は血縁(同族)、地縁(同郷。同一方言)、業縁(同業)の「三縁」を相互扶助の紐帯として、ことば・風俗習慣・進行・たべものなどの異なる環境である異境、いいかえるなら異文化に囲まれながら日々の生活を送る。この他、神縁(同一民間土俗信仰)、物縁(同一物産)もまた、彼らが異境において生き抜くためにはなくてはならない縁だといえる。異境における相互扶助の紐帯である血縁、地縁、業縁、神縁、物縁を一括りにして「五縁」と呼ぶ。
本小論では五縁の1つである神縁に焦点を当て、宋代に福建の漁村で生まれた媽祖信仰を一例に、媽祖信仰が空間的にどのように拡大し、時間的にどのような経緯をたどって現在にいたったのかを跡付けると同時に、それが現在ではどのような役割を果たしているのかを検証してみたいと思う。この作業は、とりもなおさず媽祖信仰を縁とする人々の空間的・時間的広がりを再確認することにつながるはずだ。

(中略)

…いま、『1995年 澳門媽祖信仰歴史文化検討会論文集』に拠って、廟が建立された主な地点を時間の経過にしたがって追ってみると、次のようになる。なお廟の名称は異なるが、本尊は全て媽祖である。また、●は中国本土、○は台湾、◎はそれ以外の地点をしめす。
●湄洲島・天妃廟=宋天聖年間(1022-1031)
●山東省登州・天后聖母廟=宋崇寧年間(1102-1106)
●山東省長島県廟島・顕応宮=宋宣和四(1122)
●浙江省寧波・天后宮=宋紹熙二(1191)
●福建省泉州・聖妃宮=宋慶元二(1196)
●浙江省杭州・聖妃廟=宋開禧年間(1205-1207)
●江蘇省鎮江・恵妃廟=宋嘉熙二(1238)
●広東省広州・聖妃廟=宋嘉熙四(1240)
●江蘇省上海・聖妃廟=宋咸淳七(1271)
◎香港/南宋咸淳十(1274)林氏夫人廟(宋代)/天后廟(元代)/聖妃廟(明代)/天后廟(清代)/現在、50-60ヶ所の末廟あり○元至元十八(1281):澎湖島に娘媽宮を建設
●江蘇省太倉劉家港・天妃宮=元至元二十三(1286)
●天津・天后宮=元泰定三(1326)
◎沖縄/下天下妃宮=明永楽二十二(1424)
◎マカオ/媽祖閣=明弘治元(1488)
○明嘉靖四十二(1563):娘媽宮を拡充
◎マレーシアのマラッカ/青雲亭=明隆慶元(1567)
◎フィリピンのルソン島南部Taal Batangas/天上聖母廟
◎長崎/興福寺(通称「南京寺」=1623年、泉州寺(別名「漳州寺」)=1628年、崇福寺(一名「福州寺」)=1628年。共に仏教寺院だが、境内に媽祖を持つ。当時は明清交替時期。1616年に後金(1636年に大清と改める)建国、1644年に明滅亡。
◎インドネシアのジャカルタ/金徳院=1650年前後
◎ベトナムの会安(ホイアン)・天后廟=清乾隆六(1741)年の記録に「明後期に各省の船長が創建」
○清順治十八(1661):台湾での最初の天后宮を彰化鹿港に建立
○清康熙元(1662):鹿耳門(現在の台南安南区)に媽祖廟を建設
●遼寧省錦州=清雍正三(1725)
◎シンガポール・恒山亭=清道光八(1828)
●山東蓬莱県蓬莱斯閣・天后宮=清道光十七(1837)
◎ミャンマーのヤンゴン/慶福宮=清咸豊十一(1861)
●山東省烟台・天后宮=清光緒十(1884)
◎タイのバンコク/順興宮=清同治十(1871)

コメント・メモより転載

数年前のインドネシア大地震による津波被害があったときのことです。タイのリゾートで貸しボート業を営んでいたある台湾人女性が、みずからの危険を顧みず海へ漕ぎ出し多くの人を救助したとのこと。彼女は<媽祖>そのものだと尊敬され感謝されたそうです。そうだったのかもしれませんし、台湾人の深層意識に潜む媽祖への畏敬の念が、危急のときに際して彼女の行動を規定していたのかもしれません。神話と宗教の人に与える奥深い影響を感じました。 - 丸山光三

とても深いお話で、返信内容が思いつきませんでした…《管理人》

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