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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

気象二極化・小考

気候変動・社会不安・そして卑弥呼台頭?/読売新聞2010.8.14
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20100813-OYT1T01311.htm

2世紀から3世紀にかけ、日本では、干ばつと大雨の時期を数十年ごとに繰り返すなど降水量が大きく変動していたことが明らかになった。名古屋大学の中塚武教授(地球化学)らが木の年輪を分析して突き止めたもので、列島はかつてない豪雨にも襲われていた。邪馬台国の卑弥呼は、その直後に台頭しており、中塚教授は、降水量の変動による社会の不安定化が背景にあったと指摘している。

中塚教授らは、長野県で発掘され、紀元前1世紀から紀元3世紀のものと判明している木曽ヒノキについて、年輪一つ一つに含まれる酸素を詳しく調べた。

酸素には、軽い酸素と少し重い酸素があり、軽い酸素を含む水の方が葉から蒸散しやすい。重い酸素が年輪に含まれる割合は、降水量が少なく、乾燥していた年ほど多くなる。これを利用し、1年単位で降水量の変化を再現した。観測記録のない時代の細かい降水量変化がわかったのは初めて。

その結果、日本の降水量は、1世紀半ばから短い周期で変動を繰り返すようになり、2世紀になると40-50年周期で大きく変動。これまでにない大雨が発生したこともわかった。

中塚教授は「降水量が長い周期で変化すると、小雨期に開発した水田が多雨期の洪水で壊されるなど、社会に大きな被害を与える危険性がある」と強調する。

卑弥呼の登場前、国内で大きな争いが続いたことは、中国の歴史書「魏志倭人伝」に記述されている。内乱の背景として鉄製武器の普及や天変地異が指摘されているが、詳細は不明だった。

※魏志倭人伝=日本の古代史に関する最古級の史料で、中国で3世紀にまとめられた魏の史書「魏志」に収められている。卑弥呼が女王になった経緯が「倭国乱れ相攻伐すること歴年、乃(すなわ)ち共に、一女子を立てて王となす」と記述されている。

古代日本の降水量の変化

【ここより当サイトのコメント&考察】・・・卑弥呼の話で、「気象変動のゆらぎのサイクルが長くなったり短くなったりした」という部分に、非常に興味を持ちました。グラフを見る限りでは、1世紀半ばは、おそらく3-5年周期で気象変動し、2世紀には40-50年周期で気象変動した…

(参考)・・・気象庁資料:冷夏と冷害の統計
http://www.data.kishou.go.jp/climate/cpdinfo/20th/2_1_1.htm

現在の北半球の猛暑(40℃くらい)と、南半球の酷寒(-25℃くらい)ですが…

単純に考えると、同時期にこれだけの気温差が出てくると、激しい対流が発生する筈…(お風呂を沸かしている時、冷水部分と温水部分に分かれていて、それが対流を起こしているのは、よく知られた話)

今年の冬は、本格的な「冬の嵐」が到来して、荒れ模様になるのでは…と思われました。これまた観測史に残るような大雪になるかどうか…は不明ですが、台風みたいな暴風を伴った嵐は、格段に増えるような気がする…(中高年の登山ブームはまだ続く気配ですし、今から、冬山と春山の遭難ニュースの多さが想像できるような気もする)…orz

更に考察すると、こうした極端な気象によってかき回される時代が続き、その次に、地球平均気温が定まったら再び大気が安定し、落ち着いた気象の時代が続く筈…将来の地球の平均気温が、過去のものより上昇しているかどうかは、さすがに分かりませんが…

現在の世界情勢を眺めると、第三次世界大戦前夜という雰囲気が濃密に漂っておりますし、軍事的な不安と一緒にまとめて、この気象問題への対応ができるのかというと、やはりムツカシイだろうなあと思われます。

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togetter覚書:近代以前の「山」

「橋本麻里さん、伊藤剛さん、おかざき先生らが展開されている『阿・吽 3巻』での丹生の里の記述から空海伝説、日本の鉱山、採掘技術、近代以前の「山」の情景にまつわる一連の考察が面白すぎて仕事が手につかない」

http://togetter.com/li/914955☆発言者アカウント,余談を省略

「丹生」という地名は、基本的には水銀から朱を作った場所、水銀鉱床、朱を作っている技能者の棲む集落に付けられる。奈良、三重、和歌山に多く、一部は香川や京都にもあるのだけれども。でも、日本で一ヶ所だけ、それがうまく当てはまらないところがある。群馬県富岡市の、貫前神社の奥だ。

群馬の丹生の歴史は古くて、10世紀前後には丹生神社という社名が記載されているのだけれども。でも、その辺りは新しい堆積岩で水銀鉱床はないし、甘楽の奥を考えても、ヒ素や銅鉛亜鉛鉱床はあっても、水銀鉱はない。なんでここに丹生の名が付いているのだろう?

伊勢の水銀は、日本で一番古くから知られるものです。続日本紀にすでに出てきます。

岐阜県の旧丹生川村もそうだったのでしょうか?

ああそうか。大野郡のそこがありましたね。あの辺は水銀鉱床は確かなかった、ような。川のずっと上に磁硫鉄鉱の鉱山がありますが、弁柄なのかしら・・・。

丹生川村、水銀出てますよ。「呂瀬(ろっせ)金山」です。約30年まえ現地に行きましたが、その10年くらい前に「水銀があるので」鉱山跡を全部埋めてしまったと地元のひとに聞きました。文献的には伊藤洋輔「岐阜県の鉱物」参照。

おかざき真里『阿・吽』3巻にも丹生の里が登場します。オトコ前な不死の美女「にうつ様」がツボった…(溜息)。

まだ3巻読んでないんです・・・。空海と水銀伝説は、今、古い死霊をかき集めて、当たってます。なかなか面白いですねこれ。

いやー、中国の神仙思想も絡まってきてしまうし、水銀は深くてうかつに手を出せませんが、ほんっとに面白いです。

調べてみると、えらく古いんですよね。今昔物語にもう水銀商の話が出てきますし、続日本紀に、伊勢、常陸、備前、伊予、日向、豊後の朱の話が出てきます。誰

そうですね、私の把握している範囲でも、文字資料だと「続日本紀」が最古。いま奈文研の木簡データベース検索で見たら、「丹生」で15件がヒットしました。同じく奈文研の古代地名検索システムでも丹生のつく地名は24件。既に失われた地名を探すにはいいかも。

おそらくは、推古天皇のころに、仏教渡来と同時に仏具関連の製造原料で水銀および辰砂が入ってきてるんでしょうね。そこから100年間の間に、辰砂が伊勢をはじめとして日本に存在しているのを見い出した人がいるはずです。そこの資料に行きあたらない。

ん。ごめんなさい間違い。確か弥生-古墳時代には辰砂は壁画にもう使われてたんです。そこで一回情報と技術の断絶があり、その後に仏教渡来で再燃してるんですよね。んで、江戸期にまた情報が大部分失われ、明治になるとまた国産水銀の開発が始まります。

そそ、いま「水銀朱は使ってまっせ」と書こうとしてました(笑)。「辰砂が伊勢をはじめとして日本に存在しているのを見い出した人」、ここで空海伝説になっちゃうのですかね。

朱の起源と歴史は、どっかで一回死霊を整理しないとよくわからないですね。明らかに、技術継承が数回断絶してるんですよね。たぶん、朱を水銀鉱から作れる専門職「丹生」が渡来人の血が強く、あまり技術をオープンにしなかったのではないかと。

空海は大学中退して留学組ですよね。鉱産物の勉強はどこでしたんでしょうかね。

留学期間も短いですからね(ホントは10年のところを勝手に切り上げて帰国)。興味深いです。私も手許の資料をボチボチ調べてみます。

古代の水銀朱に関しては葬送儀礼との関連も深いのでその話題で「死霊を整理」という字面というのが妙にしっくりきます。

最近の研究がどうなっているのか存じませんが、早稲田大学の松田壽男先生による『丹生の研究―歴史地理学から見た日本の水銀』(1970)があり、その後出た『古代の朱』には同じく早稲田の矢嶋澄策さんが協力されています。取りあえず『古代の朱』読み直してみます。

その本は「東海鉱物採集ガイドブック」制作のとき参照しました。なお三重の丹生/水銀については、同書のコラムで三重の稲葉幸郎さんがお書きになっています。たしか私も加筆したはず。

『丹生の研究』にも、そこ水銀出る? という土地の記述がありましたね。あと即身仏になる際の五穀断ちを体内の水銀濃度を上げて死後の防腐をうながす効果をねらったものとする仮説は「?」でした。

それから、高知の韮生鉱山はマンガン鉱山ですが、これは「丹生」の転訛でいいかなと思っています。辰砂が出てるんですよね。先述の稲葉さんに聞いた話では、鉱山前の沢でパンニングすると自然水銀の粒が採れるんだそう。

え。韮生って、堆積性マンガン鉱床ですよね。そんなに辰砂が出てくるんですか?

私のブログ(http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20051003)に韮生の辰砂の写真載せてます。検索でみてください。辰砂は層状マンガン鉱床にはときおり伴われ、埼玉や奥多摩でも記録ありますね。大和鉱山からも出てます。

ホントだ。穴内のヤツですね。(http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20051003/p2)モグラ沢のちっこい辰砂ぐらいにしか思ってなかったので、こんなリッチなものがあるんだと思ってびっくりしました。

大和鉱山(奄美のほう)の辰砂は、鮮赤色、強い光沢の小結晶で、大M先生が「これはきっといいもんだぞ」と思って分析したら辰砂でした~、という。えーこのうえ辰砂まであるんじゃ、ますます分からなくなるじゃんと思いました。

あ、穴内でしたか。まー話の大筋には影響しませんね。なので「丹生の研究」に記されている福井の遠敷(おにゅう)は、層状マンガン鉱床に伴われるものなら可能性ありかなと。

そんな鉱床まで昔の人は気づいてたんですね。パンニングで鉱床探査するんですかね。北海道の辰砂鉱床は、みんな砂金掘りがパンニングで見っけだしたものですよね。

「東海鉱物採集ガイドブック」のコラムは、三重県のあのあたりの中世における水銀採掘についてもチラとですが言及していたはずです。

実証は難しいですけどね。(昔、マンガ持ち込み時代、水銀や金属を扱う山間非定住民・丹生氏の末裔がどうこうという伝奇モノを考えていて資料を集めていたことがあるのは内緒だ)

「東海鉱物ガイドブック」は、低変成度の層状マンガン鉱床と、変ハンレイ岩など超苦鉄質岩中の鉱物産地を入れられなかったのが心残りだったんだよね。(そしてTLに共著者の方がおられる)

(http://www1.lixil.co.jp/gallery/exhibition/detail/d_003358.html)森野旧薬園のある大宇陀は、ほかにたくさんの古い薬屋のある地域ですが、当初は水銀の産地だったと。推古天皇が薬猟をした記録もあるそうです。

ああ、そうですね。大宇陀の山地は水銀鉱床が多いです。今ざらっと見ただけでも、黒木鉱山、大蔵鉱山、大東鉱山、谷脇鉱山、岩清水鉱山、藤井鉱山、神戸鉱山、本郷鉱山、大峠鉱山、と。みんな水銀の鉱山です。

考古学情報/【其山有丹】中国の歴史書『三国志』「魏書」東夷伝倭人条(「魏志」倭人伝)には,倭人が丹(朱)を生産していたことが記されています。この丹が有る山とは,どこの山なのか。阿南市の若杉山遺跡は弥生時代から古墳時代に朱の原料となる辰砂を採掘したことがうかがえる日本で唯一の遺跡

論文ありました。日本古代朱の研究https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/36463/1/Gaiyo-5395.pdf

辰砂についての記述もあるのですね。染料の「藍」を調べていた時、『魏志倭人伝』に、正始4年(243)、倭王が魏に対して絳青縑(藍と赤、2色の糸で織りなした絹織物?)を献上したという記述があって驚いたことが。

気づいたらすごいディープな話になっていた…w 私は人文学系での最近の研究に関して、環境省国立水俣病総合研究センターでの総合的水銀研究推進事業「我が国における歴史的な水銀産生および利用等に関する実証的研究」あたりを掘っていこうと思います。

弥生・古墳時代は、辰砂を含んだ鉱石を砕いて、水の中でゆすって精製して朱にしていたんですよね。辰砂は密度が大きいので、砂よりも下に沈みます。もうちょっとして大陸から製錬技術が入ってくると

辰砂を含んだ鉱石を粉にして強熱し、分解させてできた水銀を一回蒸留して取り出します。これで集めた水銀をもう一回硫黄と加熱し、合成の辰砂(朱)を作っていたようです。こちらの方が取り出す効率が良いようです。

一緒に、二酸化硫黄(亜硫酸ガス)が出てきて、ひどく臭かったはずです。ですので、この絵であっているんではないでしょうか。

蒸留装置は、松田著『古代の朱』にあるようなものだったようですね。気密は保てないでしょうから、作業従事者は長生きできなかったでしょうね

やはり古い時代は水簸なんですね。勉強になりまふ。

四国の遺跡を調べると、やっぱり水簸だそうです。辰砂は重いので、それが一番やりやすいのでしょうね。鉱床を見つけるのも、川に入って岩盤の上にたまった砂を洗って、辰砂もしくは自然水銀を探して、川を遡行して鉱床探査してると思います。

ちょうどそこらへんを調べてたんですよね。空海の山師っぷりとか辰砂とか。偶然というのは恐ろしい・・・。

最初に河で探すのは出雲の砂鉄と同じですね。その後、山で鉄を掘り始め、流れた廃液が揖斐川を赤く汚し、下流の農耕民と争いになったという山と里の争いが、八岐大蛇(=汚染された河)伝説の背景だという話で以前も盛り上がったような。

というか、文明自体が…。平城京に大寺院を作りまくったおかげで、あの一帯の巨木は早い時期に伐り尽くされてしまったというのを、林業史の本で読んだ覚えがあります。

やっぱり、鉱業は環境保全とあんまり仲よく出来ないんですよね。。。鉄穴流しも同様に。

鉱業と冶金製錬は、強い火を使うので、木を切り炭を作るんですよね。鉄穴流しは範囲を広く掘って広く浅く散った砂鉄を集めるのでなおさら。やはり、金属文明こそが森を切る元凶なのでしょうね。

ああ、燃料用の用材の伐採は確かに大きいですね。

そうそう。坑道掘りは支保(坑木)を多く使うんですが、それよりも何よりも、冶金製錬に多量の木炭を使います。鉄は特に高温が必要なので、木炭でたたら吹きしていた時代は、周囲の山はみんな切られて禿山になったでしょうね。

戦後の植林政策で日本の山は杉の木一色になりましたが、それまでは実は禿山が多かったのではないかということ、これが鉱床を見つけやすい要因になっていたのではないか、ということ。続

見つけました辰砂から丹生の精製の道具の図は、沸騰させました水蒸気を集める陶器が描かれておりました。はてさて、今で言う公害の問題ともかなり背中合わせに暮らしていたのでは…と思いましたが、漫画では、まあ、触れずにおります

たぶんその頃は坑内水が排水できず、あの辺りで深い坑道掘りはできなかったのはご推測の通りです。西洋では錬金術師の一元素にされた水銀ですが、日本でも化学の黎明期の技術だったはずです。

蒸留、江戸時代ではランビキですが、日本の化学の歴史で、一番最初に蒸留装置を作って蒸留精製したのが水銀だと思ってます。

たぶんにこのへんの技術は唐または隋からの輸入でしょうから、そちらを当たっていかないといけなくなりますね

三巻で勤操の眼が青いという描写をしましたが、たぶんに当時のほうが国際交流活発でしたよね

そうでしょうね。外国から、もしくは渡来人からうまく技術を引き継いだものと思います。

日本史の中では、奈良時代と桃山時代が特に国際交流の盛んな時代とされてますね。いま東大寺に行くと、アジアからの観光客が大勢訪れていて周囲で日本語がまったく聞こえない、なんて状況もありますが、まさに当時はそんな雰囲気だったろうな、と。

はい。はい。遣唐使を調べていてちょっと面白いことも見つけました(たぶん漫画に描くので秘密)が、当時の…言語一つをとっても多種多様であったろうと想いをはせます。

『東海鉱物採集ガイドブック』の三重の丹生についての記述は、中世の丹生採取は風化土壌など表土を採取しきったと思われるため、痕跡を見出しにくく、そのため現在水銀の鉱徴が見つかるのが中央構造線の片側に集中してしまうが、実際は両側に水銀の鉱徴地があったと推測される…といった内容でした。(本が出てこないので記憶で書いてます)

あんなに鉱床が見つかるのの説明がつく、お仰っていて、もちろん推察の文章ではありますが印象に残りました。拙著でただいま奈良・平安の山を描いていて、例えば高野山・比叡山は現在杉の木だらけですけれども、当時の人たちが山を駆けるのに、あんなに高く見通しが悪い木ばかりではなかっただろうと。かといって他に仮説もたてられず連載を続けているのですが、ずっと頭にあります。お名前出して失礼いたしました。

東大寺建立による森林伐採を原因とした水銀鉱床発見というのもあるのでしょうが、おそらく、丹生と呼ばれる渡来人を多く含んだ人たちは、深い森から水銀鉱床を発見探鉱する技術を持ってたんでしょうね。そして空海も。

そうなのですよ。昔の絵を見るとほとんどが岩山で。それが水墨画の様式美と捉えるか、事実禿山が多かったのか。答えを出せず少し気持ち悪いまま描いております。並行して時間がある時に調べたい(その前に仏教のこともいろいろと)

その辺の技術の具体的な記述をずっと探しております…本編にはそれ程影響しない部分なので個人的に「気持ち悪さ」を無くすために。(わからないまま描くってものすごく気持ち悪いのです)

もうちょっと死霊を集めてみますね。今昔物語にある水銀商(みずかねあきない)も、蜂を自在に扱う、俗人の人智を超えた畏怖すべき存在としての色があります。彼らもまた、丹生の末裔だったのでしょう。

個別にどの山が、という話は難しいですが、コンラッド・タットマン『日本人はどのように森をつくってきたのか』(築地書館)は、古代・近世の森林伐採の状況について、たとえば桓武帝の森林利用に関する政策なども紹介しています。こんな図も載ってます。右は推定図ですけれども。

※コンラッド・タットマン『日本人はどのように森をつくってきたのか』https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784806722403

絵画について、特に近世以前に景観を描いたものは、あまり実景との関連はないことが多いです。まだ景観の写生という意識がないので。水墨画が主題としているのはあくまで「胸中の山水」であり、せいぜいあるとしても中国の風景で、日本の、現にそこにある風景ではありません。雪舟の「天橋立図」は日本の風景を水墨で描いた非常に珍しい作品ですが、あれも絵師の視点は、航空機でなければ到達することもできない上空に置かれています。近世以前に描かれた絵は仏画や中国の風景、貴人の肖像など、「描くに足る」対象をモチーフとしており、凡庸な「日本の風景」は対象になり得ませんでした。それでも中世末期に洛中洛外図や名所絵が少しずつ登場し、実際そうであったように都市を描いているのか、絵師あるいは施主の願望が含まれているのかという議論はありつつも、景観年代を論じる手がかりになっていくのです。

中国の煉丹術については、島尾永康『中国科学史』(朝倉書店)で一章を割いて詳述されていますね。これ非常に面白いです。古代編はそれほど長くないですし、さらっと読めるかと。

やはりイメージ上の風景画であり憧れの対象でなければモチーフたり得なかったのですね。禿山かどうか以前に あんな断崖絶壁、奇岩が日本には無いなあと。なるほどなるほど。ありがとうございます

とはいえ、社寺参詣曼荼羅や寺社縁起などに描かれたものは、それなりに当時の景観とも連続性があると思います。今度、平安時代の密教仏具(ナマ)の見学に行きましょう。

伝統和歌で見る愛国論・雑考

先日、いつもお世話になっている丸山さまから和歌を頂きました。

m(_ _)m <ステキなお歌を、どうもありがとうございます

夏草の茂り茂れるその道を君と歩みし日暮れさびしき

これを見て、ふと思い出したのが、若山牧水の短歌いくつか…:

  • けふもまたこころの鉦を打ち鳴らし打ち鳴らしつつあくがれて行く
  • 幾山河越えさり行かばさびしさの果てなむ国ぞ今日も旅行く
  • 忘却のかげかさびしきいちにんの人あり旅をながれ渡れる
  • 山ねむる山のふもとに海ねむるかなしき春の国を旅ゆく

…ちまたで、愛国論とか愛国教育とか色々言われておりますが、昔からの日本人が抱いてきた愛国感情(の、ようなもの)は、現在もてはやされている熱烈な愛国感情とは、少しばかり感情の向いてゆくベクトルが違っていたのではないかな…と、思われるこの頃です。

伝統和歌の世界は、ことさらに目立つ形で、現代的な意味での燃えるような愛国の心は歌いませんが、機会があるごとに、ひっそりとした形で、祈るように表現してきた愛国の心があったのではないか…と、想像しています。古くは神代の時代まで遡るのですが、素戔嗚尊の和歌とか。

八雲立つ出雲八重垣つま籠みに八重垣つくるその八重垣を

この歌の解釈は広く知られていますが、万葉仮名バージョンは以下:

夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微爾夜幣賀岐都久流曽能夜幣賀岐袁

この歌を取り巻く物語から切り離してみると、別の光景が見えてきます。

「つま」に当たる「都麻」といえば「都麻津姫」という神。「都麻津姫」は樹木の神として知られておりまして、伊太祁曽神社の祭神・五十猛命の妹神という位置づけになっています。「ツマ」は建物を築くために製材した材木。

…以上の意味で鑑賞してゆくと、「建国の歌」と言えなくも無い…

(伊太祁曽神社の系統の神々は、伊太祁曽三神とも言われ、五十猛命、大屋津姫命、都麻津姫命という風になっています。昔はそれなりに、小ぶりといえどもちゃんとした国の神さまだったそうですが、今は、林業や建築業の神さまという事になっています。五十猛命は、「八雲立つ」を歌った素戔嗚尊の御子にあたる神さまだそうです)

日本の神々は、その神話も来歴もえらく錯綜しておりまして、万葉仮名というのも、結構、謎に満ちています(研究者は意味を定められなくて悩んでいらっしゃるかも知れませんが、色々な解釈が出来て、怪しくて、楽しいです…)^^;

一種の曖昧な仮説になりますが、「八雲立つ」は、かつては国を愛でる歌であり、王ないしは祭司王にあたる人物が、何らかの国家的な祭祀で、国を守護する大いなる神に捧げた歌だったのではないか…と、想像しております(個人的には、「始祖の歌」というにふさわしい、スケールの大きさを感じます)。

つらつらと述べましたが、「八雲立つ」は、おそらく文献に記録された中では、最古の愛国の歌(…というよりは、神に捧げる歌…)とも結論できる…と、思っています。

…時代を下って、ヤマトタケルの和歌。

やまとはくにのまほろばたたなづく青がき山ごもれる大和しうるわし

これもまた、ジャンルとしては愛国の歌であります(神話の筋を考えると望郷&鎮魂の歌)。

思うに、日本人の伝統的な愛国心というのは、数百年の時を超えて、こういった詩的な「漂流のかなしみ」「さびしさ」を湛えた和歌群に集約されていったのでは無かろうか…(と、大胆に思考してみる)…;^^ゞ

その心は「かなしき落日の国」、「さびしさの果てなむ国」。鎮魂の心。

…鎮魂の心というのは、およそ人類が到達しうる中では、非常に複雑で、高度な感情だと思います。日本語の「かなしみ」というのも、概ね二通りの意味がありまして、「悲しみ」と「愛(かな)しみ」とがありますが、本来は、その二通りの感情の入り交ざった、淡くて深い、透明な情操のことを言い表していたようです。

※メジャーな言葉で言えば、日本語での「あはれ」が、だいたいそれに相当するのだと思います。個人的な考えですが、「あはれ」という詩的な情は、神々の感情とか、限りない広さと深さを持つ世界に、とても近いものであるように思っています。何か霊妙なものと共振している雰囲気といいますか、あまり上手く言えませんが…

…今、ちょっと心配しているのは、世の中はずい分複雑になってきたけれども、人によっては、感情とか感受性の方は、ずい分単純化しているらしい、という風潮です。

世の中の出来事を観察すると、「喜怒哀楽」への共感どころか、「快・不快」という極めて原始的なレベルで、行動や反応を決めているとしか思えない…という人も、それなりに見られるのではありますね…(「イジメやアオリ炎上が楽しい」とか「邪魔な人はポアする」とか、そういう類の人々は、特に共感能力や霊能力が退化してしまっているように感じます…アセアセ)

…色々考えてみましたが、生活環境や文明条件の変化が大きいようです。鉄筋コンクリートとアスファルトに囲まれた大都市の中で、「あはれ」の感情をはぐくむのはとても難しいものがあると思いますし、今の日本人に要求されているのは、そうした伝統文化&経済活動では無く、『モダン・タイムス(byチャップリン)』のごとき近代経済活動であります…

そのうち、権力や金銭の多寡とか、口をはばかる夜の娯楽の度合いだけで、「快・不快」を決める人も出てくるんじゃ無いかと思っています。そうなったら、この発達したコンピュータ社会システムや、高度経済社会を考えると、笑うにも笑えない悲喜劇でありますが…(あ、もしかしたら、闇のスピリチュアル世界政府とか、そういったフリーメーソン的・陰謀論的な方々は、そういう世界を創造しようとしているんでしょうか☆)…^^;

…何だか、表題からどんどん、ブレていってしまいました…(しかも混乱してるかも・苦笑)

スピリチュアルブームの方では、「悲しみや苦しみや怒りを手放して、嬉しさや幸せだけを感じなさい」というような、ちょっと発信者の人間性のありようについて悩んでしまうような呪文パターンが流行っておりますが…^^;;;;;;

(普通の日本人が、その類の呪文に呪縛され、流されているままである…というのは不思議ですが、それくらい現代社会でのストレスが強くて、人によっては自殺を考えるほどに切羽詰まっている、というのが現実なのかも知れない…)

グローバル化、急激なバブル経済の後に続く長い長いデフレ、急速に進む少子高齢化(人口減少社会)、災害多発の時代というのは、およそわが国が初めて出会う事態ではあります。その急速な社会の変化が、もしかしたら、日本人の伝統的な情操の基底構造をも、揺さぶっているのかも知れません。

…とはいえ、ふと振り返れば、日本にはまだ緑の山があり、流れる川があるのです。

「喜怒哀楽」や「大自然」への豊かな共感能力は、崩れないでほしいと祈るものであります…