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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

黒いお金「阿片」・5

折り返し後半に入った感じです。調べるほどにすさまじい暗黒史の連続であるせいか、正直、悪霊に憑依されているような状態が続いておりますが…orz

私見になりますが、日本軍部の過激化は、当時の日本教育界での人材教育に失敗した…というのが大きかったと思います。その反動が今の日教組過激派の弊害として現れておるわけで、何でも「やりすぎ=100%教育カルト化」は、やはり良くないですね…^^;

不幸な事に、この教育カルト化が現場を覆ってしまったのが、かつての戦中日本であったのでは無いでしょうか。軍部上官の暴力=超パワハラがひどかったのも、大体はこの硬直化によると思います。上官の暴力や妙なカルト思想で、優秀な組織を維持できる筈が無いのですが…(しかも、下手に「教師気取り」を始めると、その異常な暴力性を第三者にも撒き散らすから、始末に負えない…)^^;

優秀な組織を支えるのは平凡な80%の自律的コミュニケーションであり、特別な20%の振る舞いも、その平凡な80%の基盤コミュニケーションが、いかに活発で中庸で健全な思考力&批判力を持っているか…に、全面的に依存しているのだと思います。

ゆえに、80%の基盤のささやかな自由を切り捨ててしまった日本軍部&教育界の、その後の暴走オウム・カルト化の運命は、まさしく情報遮断ゆえの自業自得であり、上層部の基本認識が間違っていた以上、その凋落は決まっていたと申せましょう。軍部の威信は、平手打ち懲罰などというような「超パワハラ」をもってしても、もはや回復不可能なものだったのだ、と推察するものであります…^^;

日本軍部は、自分の力ではもはや後戻りできないほどに、戦争に入れ込んでいたのです。敗戦をきっかけに、〈暗黒大陸&阿片経済〉という最強の魔物から、無理やりにでも引き剥がす機会が出来たわけで、日本全体で見ると、敗戦は或る意味、底なしの地獄からの、救済の面もあったと思うのです。

色々と真っ黒な気配はありますが、それは世代を超えて協力して、根気良く解決するべきものである…と申せましょう。美月は、今の日本も昔の日本も、「いかにも日本だ」と思いますし、やはり好きですね…^^ゞ

《1920年-1930年代》

軍閥割拠(1916-1928)つづき

1921年、中国共産党の結成、第一回中国共産党全国大会。モスクワは共産党を強力な武装ソビエト組織に仕立て上げるため、最初は国民党と接触し、孫文を操ろうとしたらしい。孫文は各地軍閥を征伐するための北伐を決心したが、北伐反対派の陳烔明と対立(陳烔明は孫文の追い出しに成功したものの、1923年頃までには広東から追い出された)

1922年、中華民国にて「孫文・ヨッフェ共同宣言」。この時より中華民国は国民党・中国共産党ともにソビエト革命を完遂するように、ソ連より指導される。1923年に孫文は、更なるソ連の指示を仰ぐため、蒋介石グループをソ連に派遣。1924年には、モスクワから50万ルーブル(全額200万ルーブルのうちの一部)が援助され、ウラジオストク-広東ルートでソ連の武器弾薬が運搬された。

1924年、華北の軍閥の勢力図が変わる。奉天派 vs 直隷派の戦争で、「クリスチャン将軍」馮玉祥が奉天派に寝返ったため、直隷派リーダー呉佩孚が敗北。曹錕大統領は馮玉祥の指図を受けて、呉佩孚を左遷。その結果、北京政府の威信は張作霖・馮玉祥・段祺瑞の3人が独占したが、張作霖が最強だった。馮玉祥は張作霖をつぶすべくソ連から武器弾薬援助を受けたが動きが鈍く、張作霖に生き延びるスキを与えた。

1910年代末の軍閥勢力

  • (満州地域)奉天派軍閥=張作霖(北洋派)…日本から援助
  • (北京政府)直隷派軍閥=馮国璋将軍(クリスチャン北洋派)後に名目上の首領・曹錕将軍、事実上の首領・呉佩孚…米英から援助
  • (浙江地域)安徽派軍閥=段祺瑞将軍(北洋派)…日本から援助
  • (華南連合)中華民国=国民党主席=孫文…浙江財閥&洪幇から援助。

図版は『中国革命とソ連/抗日戦までの舞台裏【1917-37年】』ボリス・スラヴィンスキー&ドミートリー・スラヴィンスキー・著、加藤幸廣・訳(2002、共同通信社)より

1925年、孫文の死後、汪兆銘(国民政府議長)と胡漢民(国民政府外交部長)の対立が深まる。汪兆銘はコミンテルン工作員ボロディンと共産党から支持を受けており、共産党と上手くやっていた国民党のベテラン廖仲愷が謎の死を遂げると、廖仲愷殺害犯として胡漢民を糾弾し追放。汪兆銘とボロディンはこの結果、国民政府の主導権を握り、威信を高め続けている国民党の蒋介石将軍を、その地位から引きずり落とすべく、策謀を開始した。

(コミンテルンは、共産党が国民党を食い荒らすように仕向けて、国民政府を「モスクワ&コミンテルン」の支配下に置こうとしていた…という報告がある。ソ連視察から帰国していた蒋介石は、この動きに気づいていた…らしい)

1926年、ソ連からの軍需物資が定期的に確保され、蒋介石は北伐をスタート。周囲には常にソ連から派遣された将軍が付き添う。北伐そのものは上手くいったが、「より赤く染まった共産党グループ」が資本家含む民衆の略奪を始め、国民党政府(中華民国)の評判を落とし始めたため、国民党・蒋介石グループとの関係が険悪になる。

日本軍部・工作機関も活動していたが、その主目的は軍事費調達のための阿片ビジネスの拡大と、満州支配の確定と、「まるっと大陸ソビエト化」の妨害だった。一方、ソ連の工作機関は中国共産党の一層のソビエト化を指導。蒋介石へも「ソビエト革命を指導」していた。国民党と共産党との対立《☆》が深くなり、蒋介石と結託した青幇が手を下して共産党を排除。その後、蒋介石は宋美齢と華やかな結婚式を挙げる(…この混沌とした神経が理解できない…^^;;:::)

《☆》国民党と共産党との対立

1927.3.21上海占領の時期に、国民党と共産党の権益抗争(財貨の分捕り合戦)が激化したと言う記録がある。ロシアではスターリンとトロツキーが抗争を繰り広げ、華南ではM・M・ボロディンを通じたコミンテルンの工作が過激化していた。

ボロディンは国民党政府をコントロール下に置くために、汪兆銘を使って蒋介石を権力の座から引き摺り下ろそうとしていた。当時の国民政府で対立していたのは国民党・蒋介石と共産党・汪兆銘だったと言われているが、幾つかの有力派閥の闘争も絡んでいたらしく、その実態は謎である。

3.21に、ソビエト顧問A・A・フメリョフ計画に従って上海で統一労働組合同盟が第3回ゼネストを宣言し、50万人~80万人の労働者部隊が応じて、かねてから準備されていたソ連の武器弾薬を使って上海を奪取。租界はパニックになり、列強は秩序回復のために上海占領を検討し始めたが、3.27に蒋介石が外国人記者インタビューで「我々に内部分裂は存在しない(=勿論ウソ)、群集が租界内に侵入することはない」と宣言し、パニックを抑えた。

上海の財閥や青幇は共産化を嫌っており、蒋介石を援助していた。4.3に上海に汪兆銘が現れたとき、汪兆銘が対立陣営の和解を成し遂げると思われていたらしい(実際に「和解宣言」行動があったため、後々まで誤解が広がる羽目になった)。しかし汪兆銘の努力は実らず、4月に入ってから共産党員の逮捕が相次ぎ、4.12クーデタに発展したのだった…

世界大恐慌1929~

日本の産業構造は、西洋列強の産業構造に比べると、はるかに未熟だった。当時は軽工業から重工業へ、巨大土木産業へと移り変わる時代であり、アメリカは巨大ダムなどの土木事業で切り抜けたが、日本の産業構造はそこまで成熟しておらず、社会の経済格差が広がるばかりで、長引く不況から自力で抜け出すことが出来なかった。農村の娘の身売りが急増したのも、この頃の話…(現代も、「百年に一度の経済危機」、「失われた10年」、「東アジア共同体(=戦前の発想みたい)」など、モタモタしているのを見てもよく分かる訳です…^^;)

※例えば、八幡製鉄所の第一号高炉に初めて火が入ったのが1901年。西洋の高炉はすでに200年の技術蓄積がありました。軍事技術に深く関わる製鉄技術だけでも、これだけの差があったのであり、30年かそこらで西洋の産業構造に追いつけた(何だか、歴史教科書はそんな感じの記述になっている…)と思っているのであれば、それは「宇宙人の妄想」としか言えないと思います…^^;

一方、大陸では、上海を中心に〈阿片経済〉が安定した成長を続けていたため、日本を含むいっそうの海外商人をひきつける市場となっていた。日本軍部は、反共作戦も加わって際限なく膨張する軍事費の調達のために、大陸で成長し続ける〈阿片経済〉に、ますます深く関与することになった。

※里見甫(さとみ・はじめ)=阿片王の異名をとる国際闇商人。青幇や紅幇と連携し、上海でのアヘン密売を取り仕切る里見機関を設立。関東軍が満州で生産した阿片を市場に卸し、その利益を関東軍の戦費(=関東軍の経営費の25%が阿片経済からの利益=)に充て、一部は汪兆銘政権に回した(反共作戦の工作費として)。ただし、里見自身は「コチコチの頭」になっていた日本軍部を見放しており、日本には関心が無く、お金儲けにしか興味が無かったらしい。

1931満州事変―1932上海事変…実際の経過については省略

張作霖の死後、満州の〈阿片経済〉は日本・朝鮮の阿片業者の手に渡った。この件で張学良は日本を怨敵と見なし、1929年の禁煙令で日本・朝鮮の阿片ルートを潰して回っていた(粛清も行なった)。張学良は阿片王国と化していた熱河省・湯玉麟政権からの阿片流入を黙認するばかりでなく、自ら阿片ビジネスに積極的に関わって莫大な利益を挙げ、兵器工場を運営し、軍閥を維持した。

※満州鉄道の爆発事件などは、張作霖グループの阿片業者ルート vs 日本&朝鮮グループの阿片業者ルートにおける阿片ビジネスの市場争いが表面化した事件に過ぎなかった、という説もあるようです。日本関東軍も、「大陸の軍閥」と化しておったわけです。そして実際に、満州鉄道は、阿片ビジネスの大動脈でした。〈黒いお金〉に狂ってしまうと、みんな頭が変になるみたいです。『阿片、妖花アラウネ物語・・・20世紀を暗黒と化した黄金の指輪の呪い』というタイトルで、壮大な物語が書ける筈です。ただ、あまりにも変な人々が活躍しているみたいなので、英雄ファンタジー物語ではなく、ゾンビ&ホラー物語だと思いますが…^^;;

後に日本・関東軍は「満州国」を建国して張学良を排除したが、日本主導の傀儡政権下の阿片専売制を確立し安定させるために、張学良の時代に発達していた熱河からの闇阿片ルートを整理する必要に迫られたという。

1931-1936剿共作戦

蒋介石による、反共を兼ねた北伐。作戦費用は上海の阿片取引から得られた軍事費。中国共産党は全滅寸前だったが、張学良による西安事変(1936蒋介石監禁)を通じて国共合作へと移る。

1935年にソ連から満州国への東清鉄道の売却交渉があった。この最悪のタイミングが、南京政府の姿勢をぐらつかせることになった。更に新疆省に空港が置かれ、ソ連からの貿易物資が急速に流れ込み、中国共産党に対しての工作が前にも増して活発化。

モンゴル人民共和国-ソ連間に、軍事協力含む相互援助議定書締結。当時の日本・関東軍は満州を支配しており、華北へ兵力を進めてモンゴルと衝突していたため、より奇怪な状況になった。日本政府・関東軍の外交に比べるとソ連の外交の方が洗脳的かつ味わいがあり、一枚上手だったという事になるかと思われる…^^;

・・・西安事変(1936蒋介石監禁)にいたる伏線の解説

・・・剿共作戦に伴う共産党「長征」について。ソ連派リーダーが失脚し、「いわゆる毛沢東が指揮権を掌握したと言われている」が、その実態はかなり奇々怪々なものだったらしい(共産党の再建を指導したのは周恩来だったらしい…^^;)

長征を続けていた共産党は、各地の村で略奪を行ない、その中に含まれていた阿片を、食料や武器弾薬と交換できる最も価値の高い共通通貨(活動資金)として利用。革命本拠地では近くにケシ畑を作り、阿片を製造して近隣の市場でさばき、活動資金を得ていた。抗日戦線の成立後は、南京政府からの資金(=これも阿片による利益=)が期待できたため、体面の都合上、ケシ畑の栽培はストップしたと言われている。


FriendFeedコメントより転載

そういえば周恩来についての考察はあそこでストップしたままですね、お恥ずかしいことです。実を言えばこれに関してはもう失念していました。はたして周恩来伝を継続する意味があるのかどうかも疑問です。中共問題は毛や周がいたころとはすっかり変容してしまいました。名前だけは共産党を名乗ってはいても、もう党の内外で共産主義を信奉しているものは誰もいないでしょう。ネオ・マオイストらしき動きはあるものの、彼らにしても党批判の方便として毛を持ち出しているにすぎないのでしょう。むしろ国民党の歴史や黒社会の歴史を紐解いてみた方が現在と将来の中共理解に益するような気もしています。それへのとっかかりも<シナにつける薬>で始めてはいたのですが、ただしわたしにはもうその力も意欲も薄れています。つまりわたしにはもうどうでもいい問題に思えてきてしまったのです。しかしまた何かのきっかけで再燃してくるかも知れぬ「おき火」はまだもっているとは思いますが。 - 丸山光三
《返信》コメントありがとうございます*^^*…こういうタグイのテーマは、思い立ったときでないと、なかなか気力が続かないかも知れませんね。少し妙な言い方になりますが、善悪いずれにせよ、毛沢東・周恩来の生きていた時代…「昭和」という時代は、何につけても破滅的なエネルギーが充満していた、或る意味「熱い時代」でもあったのかも…と思っております。大きな戦争を死に物狂いで生き残ってきた「巨人」がまだ生きていて、なお信じがたいレベルの闘争に明け暮れている…というのは、ちょっと想像外の部分もあります。「中国共産党=江沢民&胡錦濤&習近平っぽい」というイメージなので…;^^ゞ
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黒いお金「阿片」・4

一応、資料に何度も目を通してみたのですが、何だかこちらの頭が混乱してきた事もあって、理解してないところが多いです。同じグループの中に派閥が3つも4つもあって、互いに「タヌキとキツネの化かし合い」を競っているようで、正直、訳が分からなくなってまいりました…^^;

今回のテーマは、魔都・上海の繁栄/軍閥割拠/中ソ国境の混乱。

  • 1865年=香港上海銀行を先駆として、欧米の金融機関が次々に上海営業スタート。
  • 1871年=香港と上海を結ぶ海底通信ケーブルが開通し、日本の長崎にも延伸。
  • 1882年=蒸気機関車が鉄路を走り始める(それまではラバが車両を牽引)

義和団の乱(1900-1901)…白蓮教系・義和拳教を奉じる秘密結社「義和団」による外国排斥暴動。

《1900年-1910年代》

列強・清国内の民間資本・各地の有力者によって大陸内に鉄道敷設が進む(敷設の目的には、鉱山採掘利権などが関わっていた)。清の民間資本家と各地有力者は利権回収運動を起こして鉄道利権を回収していたが、清朝の延命を図る北京政府がこれらの利権の国有化を進めると、再び外国借款の代償として諸外国に譲渡されるのは必至であるとして資本家&民衆の反対運動が起こり、これらの暴動が辛亥革命(1911)につながった。

阿片バブルに沸いた上海には、大陸各地から船員や港湾労働者、各種商人、難民、ヤクザが大量に流入し、出身の郷土単位ごとの互助組織「幇」を形成。最初は多くの「幇」があったらしいが、上海では(おそらく多くのヤクザ的抗争=械闘を通じて)、最終的に「紅幇」「青幇」の二大秘密結社が、「上海黒社会」の支配者になった。

※第二次世界大戦の直後のころは、上海住民の4人に1人が、黒社会に属する者だったらしい…^^;

上海は極東最大の都市として発展し、イギリス系金融機関の香港上海銀行を筆頭にアジア金融の中心となる。上海は魔都或いは東洋のパリとも呼ばれ、ナイトクラブやショービジネスが繁栄した。こうした上海の繁栄は、民族資本家(浙江財閥など)の台頭と労働者の困窮化をもたらし、労働運動が盛んになっていた。

【幇会三宝(幇の三資金源)】=烟(阿片)、賭(賭博)、娼(売春)

東清鉄道(ロシア帝国による鉄道工事=1898満州での権利取得&建設-1904完成)

※シベリア鉄道はイギリスを恐れさせ、日英同盟(1902)のきっかけとなった鉄道だった。

東清鉄道の地図資料=[http://keropero888.hp.infoseek.co.jp/map/eastchina.html

>>ウィキペディア「東清鉄道」より:

ロシア帝国は1891年2月にシベリア鉄道建設を正式決定し、5月よりその建設に着工した。1897年にウスリー線(ウラジオストク~ハバロフスク)が開通、続く1898年には中部シベリア線(オビ~イルクーツク)、1900年にはザバイカル線(ムィソーヴァヤ~スレチェンスク)もそれぞれ開通し、シベリア鉄道全線開通まで残るはアムール線(スレチェンスク~ハバロフスク)およびバイカル湖周辺のみとなっていたが、そのどちらも地勢が大変険しく建設が困難な状況であった。

その頃のロシアは、日清戦争(1894-1895)直後の日本による遼東半島の領有を三国干渉によって阻止しており、その見返りとして清国の李鴻章より満州北部の鉄道敷設権を得ることに成功していた(露清密約)。そのためロシアは、建設困難なアムール川沿いの路線ではなく、短絡線としてチタから満州北部を横断しウラジオストクに至る鉄道路線を構想し、1897年、形式上は露清銀行によって「東清鉄道株式会社」(大清東省鉄路)が設立された。

さらに1898年3月、旅順大連租借条約が結ばれると、ハルピンから大連、旅順に至る南満州支線の敷設権も獲得し、満州支配を進めた。東清鉄道本線は満州里からグロデコヴォ間1510キロで、シベリア鉄道と連結させるために西側は満州里とキタイスキ・ラズエズトーを結ぶザ・バイカル鉄道355キロ(完成1901年)、東側はグロデコヴォとニコリスク・ウスリスキーを結ぶウスリー鉄道97キロ(完成1903年)も建設された。南満州支線772キロも1903年1月に完成している。最後の綏芬河・グロデコヴォ間10キロが完成し、シベリア鉄道と完全に連結したのは1903年7月、日露戦争(1904-1905)勃発の半年前であった。

日露戦争(1904-1905)

実際の戦闘については省略。極東におけるロシアの南下政策が止まり、日本は満州利権をロシアから奪う形となった。これ以降、華北・華中・華南全土におけるロシアvs日本の抗争が激化する。ロシアの工作はモンゴル・新疆方面に集中。

第一次世界大戦(1914-1918)…数々の資料があるので省略

第一次世界大戦の戦場となったヨーロッパで、鎮痛剤として、阿片が急に広まる。阿片中毒の害に脅かされた事により、阿片を禁止する国際条約の整備が進んだ。イギリスがこれを真面目に施行し始めたため、イギリス租界における紅幇の勢力が衰退。大陸の〈阿片経済〉は地下経済となり、第一次世界大戦バブルと絡んで、いっそう濃密に発展拡大する。

ロシア革命1917―シベリア出兵1919(日米連合)…数々の資料があるので省略

このころ、ロシア革命の混乱から逃れてきたロシア難民が上海に流れ込み、都市サービス・娯楽産業に従事した。第一次世界大戦によるバブルで上海経済が膨張し、阿片消費量も増大。日本の商社が多数、上海に進出。

《1910-1920年代》

軍閥割拠(1916-1928)

1911年の辛亥革命で孫文を初代大統領とする「中華民国」が成立していたが、1912年から袁世凱(北洋軍閥)が大統領となった。内ゲバの末に袁世凱が皇帝を自称して「中華帝国」としたが、1916年に袁世凱が死ぬと、大陸は軍閥割拠状態になった。(※1928-1949=南京国民政府)

>>中華民国について詳しく=[中華民国というペテン]シナにつける薬-2008.1.19

互いに争った軍閥は互いに莫大な資金を必要とし、急速に〈阿片経済〉に組み込まれていった。このネットワークを提供したのは多数の国際的な闇商人であったらしい。最も活躍したのが青幇(当時のボス=杜月笙)で、彼らが暴利と言ってよいほどの最大の利益を上げた(確実なデータは無いが、そういう風に推測できる)

杜月笙は四川軍閥のルートを持っており、一大阿片産地となっていた四川省重慶市に「三鑫公司」支店を開き、ヘロインの産地直送をスタート。四川省軍閥の「ヘロイン大王」こと陳坤元と「阿片大王」こと葉清和が、現地の精製工場を経営したという。当時のヘロイン取引量=250万元/月(=3000万元/年)

  • 1920年代後半の全阿片消費量=10億元超/年(内、大陸阿片=8億元、海外阿片=2億元)
  • 上海における〈阿片経済〉の利益=4000万元~1億元/年
  • 単純に逆算すれば、各地の軍閥や海外闇商人があげた阿片の利益=9億元超/年

1920年代には阿片禁止令が施行され、衰退した紅幇に代わって、阿片取引は青幇&フランス租界の独壇場になった。外国商社は密輸ビジネスにいそしみ、各地の軍閥の地元で闇阿片が公然と増産され、また軍閥は、「領地」内の護送ビジネスからも利益を挙げた。「京杭大運河」周辺の種々利益が大きかったのはいうまでも無い。張作霖の軍閥が支配した満州では、東清鉄道ルートを使った〈満州阿片フリーマーケット〉が繁栄した。

青幇のボス杜月笙は、前ボス黄金栄に代わって権力を振るう。フランス租界の治安悪化に付け込み、フランス当局を脅迫して、最新式の武器供与を獲得していた。その際に、租界における阿片の闇取引の公認と賭博場の営業許可も付いていた(フランス官僚も、青幇からの賄賂で篭絡されていたと言われる。ちなみに青幇は糞尿処理やゴミ処理を独占しており、労働者ストライキを扇動する事で租界のインフラを止め、フランス当局を脅迫していたという)

1919.7.15=カラハン宣言…東清鉄道についての疑念が大きくなり、中ソ関係がさらに複雑骨折する伏線となったらしい。多国間でも対応が揉める。事情説明があまりにも奇々怪々なのですが、情勢の変化を機敏に利用できなかった上に、大陸情勢に最悪の形で飛び込む羽目になった日本外交って、一体…^^;;;

モンゴル情勢(1919-1920)

安徽派-北京政府はソビエト工作によって確立したモンゴルの自治を破壊しようとした。

1919年、軍隊と共にウルグ(後のウランバートル)に押しかけた徐世昌将軍は、モンゴル自治政府バダムドルジ閣僚会議議長に対して、ボグド・ゲゲン(活仏)、閣僚、閣僚代理が署名した「自治を放棄する請願書」を出すように要求。その請願書を元に、中国大総統の名前でモンゴル自治を廃止する旨を宣言。

このため、モンゴル民族解放運動の機運が高まり、それに乗じてコサックのG・M・セミョーノフ&R・F・ウンゲルンが中央アジア帝国を樹立するべく征服活動を拡大。ちなみにセミョーノフはチンギスハンの子孫を名乗っていた。

1921年、ウンゲルンはウルグを占領し、ボグド・ゲゲンを汗として即位させ、北京政府を大混乱に陥れた。同じ頃、張作霖は殆ど絶対的な満州君主となっており、北京からウンゲルン討伐軍を要求されていたが、その動きは鈍かった。その結果、モンゴル周辺では、コミンテルンに指導されたモンゴル革命グループ(後にモンゴル・パルチザン)と北京政府(その実は軍閥)とセミョーノフ&ウンゲルン(コサックで反革命勢力)が分立するという奇怪な状況になる。

これについてコミンテルン・極東書記局は次のように記録した:

「ウンゲルンによるモンゴル奪取は、コミンテルンとソビエト・ロシアが革命基地を失う脅威を作り出した。…沿海州はセミョーノフ、モンゴルはウンゲルン男爵、満州は張作霖というように黒い緩衝地帯が日本によって作られている。…コミンテルンとソビエト・ロシアの戦闘任務は、この緩衝地帯、少なくともモンゴルの鎖を壊すことである」


FriendFeedコメントより転載

《管理人の呟き》現代の満州阿片ビジネス。張作霖・張学良の軍閥がよみがえったのかと思いました。シンクロし過ぎ…^^;/日本向け覚醒剤製造,ウラジオストクで薬物拠点摘発:ロシア連邦保安局は13日、極東ウラジオストクで覚せい剤の一種アンフェタミンを製造していた薬物密売グループの拠点を捜索し、複数のロシア人の男を拘束したと発表した。同保安局は、ロシア国内だけでなく日本向けの製造拠点だったとみて調べている。拘束者の中には、薬物犯罪で日本での服役経験があり、改名を繰り返していた2人のほか、かつてロシア科学アカデミーに所属していた化学専門家も含まれているという。グループは薬物を高く売りさばける日本への密売ルートを構築していたというが、同保安局は日本での密売先などについては公表していない(2010.2.13ウェブニュースより)
だんだんと深みにはまって行くようですね、ダイジョウブですか?このあたりの歴史は状況が絡み合って非常に複雑だし国共両側からの歴史「認識」つまり捏造歪曲があるので日本や欧米の歴史家も苦労するところでしょう。毛沢東などが田舎の山村地帯でゲリラ戦を実行している30年代も、情報封鎖で上海などではほとんどその事実が知られてなかったようです。今だって農村が実際どんな状況にあるのかシナの都会でも、まして外国ではわかりません。「革命」はすでにかなり深く進捗しているかも知れませんよ。 - 丸山光三
《返信》脳みその混乱が続いておりますが、休養を取りましたので大丈夫だと思います。軍閥時代の記録を見て、殆どは単純な逆算や憶測に過ぎないのですが、"一つの中国"というよりは、"部族割拠&テロリスト割拠の状態のアフガニスタン"だと思いました。この時代は、世界的にもアル・カポネとか、国家権力に匹敵する無法マフィアが大きく輝いた時代だったみたいですね。必然として、闇商人ネットワークとか、"政治とカネ"的な地下人脈が急成長した時代…と見て間違いないかと。現代の国際金融グループとか、黒い噂の殆どが、この時代に出来たものみたいですね…

黒いお金「阿片」・わき道の考察

《考察テーマ》武器商人グラバー…明治維新はフリーメーソンの陰謀だったのか?

商人グラバーが属していたジャーディン・マセソン商会は、上海サッスーン商会と共に、フリーメーソン人脈にあった組織だったそうです。話の真偽は分かりませんが、どちらの商社も、その「怪しげな人脈の巣」は、ボンベイのイギリス東インド会社と、イギリスの首都ロンドンにあったと推測できます。

彼らは阿片業者でした。その活動の第一目的は、新たな阿片市場の開拓にあった筈です。

ところで、「フリーメーソンそのものに関して」ですが…;

当時の「霧の都ロンドン」の社交界は、シャーロック・ホームズ物語や吸血鬼&フランケンシュタイン&お化け屋敷といったゴシック・ホラー物語が人気を博し、心霊現象がブームだった上に、薔薇十字団運動とフリーメーソン運動が合体して、超オカルトな状況になっていました。

中心となったのは、オックスフォード大学やケンブリッジ大学の「オカルト趣味の各種研究&社交クラブ(=薔薇十字の名前を色々付けてたグループ)」です。ドイツの薔薇十字団があまりにも魅力的なものだったから、という事もあるかも知れませんが、この辺りは、一昔前の超能力ブームや新興宗教ブーム(富士山麓オウムetc)、怪談ブームを思わせるものがあります。

そんな中で、1867年にロンドンのメーソン会員であったロバート・ウェントワース・リトルとケネス・マッケンジーが、「イギリス薔薇十字団(SRIA)」を設立。理念的にはドイツ薔薇十字団のイギリスへの移植から始まったわけですが、スコットランド式メーソン的な儀式を取り入れたため、内部意見が合わず、何人か退団者を出しています。

この19世紀バージョン・フリーメーソンの内部紛糾には、イングランドとスコットランドの長きに渡る怨念と申しますか、文化的・政治的対立が絡んでいたようです。中世イングランド王エリザベス1世(在位1558-1603)の後が元スコットランド王ジェームズ1世(在位1567-1625)で、そのイギリスの王位継承システムを考えると、さすがに気が遠くなって混乱してまいりますが…^^;

そして、日本で明治維新が起きていた時代のイギリス王室は、ハノーヴァー朝(1714-1901)でした。神聖ローマ帝国選帝侯の血が入っていたのであります。そのままサクス=コバーグ=ゴータ朝(1901-1917)を経て現在のウィンザー朝(1917-)に改名。

解説できるほど詳しくは知らないのですが、ひとくちにイギリスといっても、その王室事情はかなり錯綜しているわけです。当然、ロンドン社交界で始まったばかりの「なんちゃって薔薇十字団フリーメーソン活動」も、かなり混沌としたものであったと推測できるのです。

現在は「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」。さらに海外移民が流れ込んでいるわけで、フリーメーソン含むロンドンのスピリチュアル社交界は、いっそう妙な事になっているのだろう…と、想像しております…^^;

…閑話休題…^^;;;;;;;;;

商人グラバーはジャーディン・マセソン商会の手先で、したがって、ゆくゆくは阿片を扱ってひと山当てようという「いかにも胡散臭い商人」だったと考えられますが、彼が1859年の長崎にやって来て、「日本をチェンジする!」とか何とか、夢見る若者を扇動し、ぶち上げるわけです。

ちなみに、坂本竜馬その他の方々が本当に「フリーメーソンの手先」だったかどうかは知りませんし、手先らしく行動したかどうかも分かりません。ですが、並みの日本人以上に過激派の素質があり、新時代に向かう想像力と行動力に恵まれていた…ということは、間違いなく確実だと思います。そして彼らは実際に、稀有のチャンスをつかんだのであり、それは評価されてしかるべきだと思います。

※余談ですが、当時のジャーディン・マセソン商会の長崎代理人の名前が、ケネス・マッケンジー。イギリス薔薇十字団とフリーメーソンに所属していたオカルト趣味のケネス・マッケンジーと同一人物かどうかは分かりませんが、年齢的にはグラバーより数年先輩で、いかにもピッタリです。非常に興味深い偶然です…^^;

さて、ジャーディン・マセソン商会の本国イギリスは、日本に干渉する気満々だったようです。つまり、日本にも、清と同じような阿片消費市場を作るつもりだったのです。阿片戦争(1840-1842)に勝利した後、堂々と阿片を密輸できるようになり、1845年に日本に艦隊を派遣する閣議決定が下った…という物騒な話があります。

グラバーが「チェンジ!」をぶち上げたのは、その露払い的な意味があったと考えられます。

しかし、イギリスでは、阿片戦争後の後始末が大変で、特に翻訳の食い違いなどの整備に時間がかかったようです(今と同じで、清の役人や業者は、ルール外の行動を取って、イギリスの阿片業者を翻弄する人が多かったのでは…)。しかも清における膨大なルンペン層の増加によって、多数の「幇」の活動が過激化し、租界周辺の治安が急激に悪化しておったわけです。

  • イギリス・フランス租界を大混乱に陥れた太平天国の乱(1851-1864)。
  • ロシアの南下政策が全ヨーロッパの危機を招いたクリミア戦争(1854-1856)。
  • 第一次インド独立戦争(1857-1859)と呼ばれている、「セポイの反乱(インドの大反乱)」。
  • アロー号事件の調停が失敗してアロー戦争(1857-1860)。英仏連合軍で対応。

イギリスは、清・クリミア・インドに張り付いたまま、10年以上もの間、動けなかったのでした。

…そんなわけで、実際に日本に開国を迫ったのは、アメリカから来たペリーの黒船(1853)。

…結果的に、日本に居たグラバーは、矛盾に満ちた活躍をする事になった筈…^^;

グラバーは、薩摩・長州・土佐グループ、つまり討幕派に鉄砲と軍艦を売りつけます。その鉄砲をどこから仕入れて来たかというと、アメリカです。アメリカの南北戦争(1861-1865)が終わって、鉄砲がただ同然の値段であったので、それを持ってきて薩摩に20万丁くらい売りつけたという…

…これが、戊辰戦争(1868-1869)で、明治新政府の火力として活躍した武器です…^^;

そして明治新政府は、阿片に対して異様なまでの警戒心を持っていました。

政府発足してわずか3年目、1870年には阿片取締りのための法令を次々に打ち出し、日本主導の阿片専売制を確立。西洋列強による阿片の市場侵略を食い止めることに成功しました。

※阿片専売制の整備に際して、日本産阿片についても外国産阿片についても綿密に市場調査を行ない、諸外国と辛抱強く折衝し、買入価格を決定したと言うのだから驚きなのです(当時、阿片交渉を担当した官僚が、よほど優秀だったに違いない)…^^;;

西洋列強の干渉のはざまを、ギリギリまで有効活用したのが「明治維新」だったのです。それは必然として、「フリーメーソンの陰謀」を逆手に取った形となった…のでは無いでしょうか。〈阿片経済〉がすさまじい成長を遂げていた情勢の中で、密輸阿片が日本国内に蔓延しなかっただけでも、十分な成果であったと思います…

ジャーディン・マセソン商会その他、およびフリーメーソン的な商売人が、「明治維新」=「日本市場(二匹目のドジョウ)が独占できる/日本中を阿片漬けにして大儲け!(笑)」程度の、いかにも阿片業者的な目的を持っていたとすれば…

…実際の明治維新が完了したとき、フリーメーソン的な彼らは、結果的に、「カンペキな誤算だった…orz」を自覚した筈なのであります…^^;;;

…以上、〈黒いお金=阿片〉の視点から見た、「明治維新フリーメーソン陰謀説」についての、ささやかな考察でした…^^;


FriendFeedコメントより転載

《2010.2.10つぶやき》宋三姉妹の宋靄齢・宋慶齢・宋美齢についてネット検索でいろいろと眺めていたのですが、三女・宋美齢(蒋介石の夫人)が卒業した「ウェルズリー大学」って、ヒラリー・クリントンやマデレーン・オルブライト(アメリカ初の女性国務長官)の母校でもあるらしいのですね。これはちょっと意外でした。ヒラリー氏は女性初のアメリカ大統領になるか?と騒がれた女性ですし、「ウェルズリー大学」は、大きな権力を振るう女性(殆ど魔女的逸材?)が育ちやすいのでしょうか。宋家はフリーメーソンだったそうですし、オカルトな意味で考え込んでしまいました…^^;
はあ、そうだったのですか。ヒラリーもそうだったんですね。また孫文の革命は洪幇の支援を受けたればこそ「成功」したわけで、ここでも洪幇とフリーメーソンの関係がうかがえます。これはオカルトというより影の歴史を窺ううえで興味深い事項だと思います。ついでに述べておけば89年の天安門虐殺を逃れた学生リーダーたちを匿い海外へ逃亡させたのも洪幇のネットワークだったようです。つまり次に起こるべきシナ革命もたぶん洪幇はになうことになるのではないでしょうか? - 丸山光三
《返信》〈89年の天安門虐殺を逃れた学生リーダーたちを匿い海外へ逃亡させたのも洪幇のネットワーク〉そんな事があったのですか?全然知らなかったです。〈次に起こるべきシナ革命〉=可能性としてはありそうです。今の指導者層に民主化を進める意思が無ければ、近い将来、彼らが〈シナ革命〉という形でその役目を負うかも。今、「いわゆる中華五千年の歴史」で、初めて農民層が真面目に勉強しだしているんですね。都市からボランティア学生も入って、情報が増えているとか。国土が広大なので時間はかかりそうですが、「その時」がくれば、需要と供給の歯車が噛み合って、一気に情勢が流動化するかも知れませんね…^^;