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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

黒いお金「阿片」・4

一応、資料に何度も目を通してみたのですが、何だかこちらの頭が混乱してきた事もあって、理解してないところが多いです。同じグループの中に派閥が3つも4つもあって、互いに「タヌキとキツネの化かし合い」を競っているようで、正直、訳が分からなくなってまいりました…^^;

今回のテーマは、魔都・上海の繁栄/軍閥割拠/中ソ国境の混乱。

  • 1865年=香港上海銀行を先駆として、欧米の金融機関が次々に上海営業スタート。
  • 1871年=香港と上海を結ぶ海底通信ケーブルが開通し、日本の長崎にも延伸。
  • 1882年=蒸気機関車が鉄路を走り始める(それまではラバが車両を牽引)

義和団の乱(1900-1901)…白蓮教系・義和拳教を奉じる秘密結社「義和団」による外国排斥暴動。

《1900年-1910年代》

列強・清国内の民間資本・各地の有力者によって大陸内に鉄道敷設が進む(敷設の目的には、鉱山採掘利権などが関わっていた)。清の民間資本家と各地有力者は利権回収運動を起こして鉄道利権を回収していたが、清朝の延命を図る北京政府がこれらの利権の国有化を進めると、再び外国借款の代償として諸外国に譲渡されるのは必至であるとして資本家&民衆の反対運動が起こり、これらの暴動が辛亥革命(1911)につながった。

阿片バブルに沸いた上海には、大陸各地から船員や港湾労働者、各種商人、難民、ヤクザが大量に流入し、出身の郷土単位ごとの互助組織「幇」を形成。最初は多くの「幇」があったらしいが、上海では(おそらく多くのヤクザ的抗争=械闘を通じて)、最終的に「紅幇」「青幇」の二大秘密結社が、「上海黒社会」の支配者になった。

※第二次世界大戦の直後のころは、上海住民の4人に1人が、黒社会に属する者だったらしい…^^;

上海は極東最大の都市として発展し、イギリス系金融機関の香港上海銀行を筆頭にアジア金融の中心となる。上海は魔都或いは東洋のパリとも呼ばれ、ナイトクラブやショービジネスが繁栄した。こうした上海の繁栄は、民族資本家(浙江財閥など)の台頭と労働者の困窮化をもたらし、労働運動が盛んになっていた。

【幇会三宝(幇の三資金源)】=烟(阿片)、賭(賭博)、娼(売春)

東清鉄道(ロシア帝国による鉄道工事=1898満州での権利取得&建設-1904完成)

※シベリア鉄道はイギリスを恐れさせ、日英同盟(1902)のきっかけとなった鉄道だった。

東清鉄道の地図資料=[http://keropero888.hp.infoseek.co.jp/map/eastchina.html

>>ウィキペディア「東清鉄道」より:

ロシア帝国は1891年2月にシベリア鉄道建設を正式決定し、5月よりその建設に着工した。1897年にウスリー線(ウラジオストク~ハバロフスク)が開通、続く1898年には中部シベリア線(オビ~イルクーツク)、1900年にはザバイカル線(ムィソーヴァヤ~スレチェンスク)もそれぞれ開通し、シベリア鉄道全線開通まで残るはアムール線(スレチェンスク~ハバロフスク)およびバイカル湖周辺のみとなっていたが、そのどちらも地勢が大変険しく建設が困難な状況であった。

その頃のロシアは、日清戦争(1894-1895)直後の日本による遼東半島の領有を三国干渉によって阻止しており、その見返りとして清国の李鴻章より満州北部の鉄道敷設権を得ることに成功していた(露清密約)。そのためロシアは、建設困難なアムール川沿いの路線ではなく、短絡線としてチタから満州北部を横断しウラジオストクに至る鉄道路線を構想し、1897年、形式上は露清銀行によって「東清鉄道株式会社」(大清東省鉄路)が設立された。

さらに1898年3月、旅順大連租借条約が結ばれると、ハルピンから大連、旅順に至る南満州支線の敷設権も獲得し、満州支配を進めた。東清鉄道本線は満州里からグロデコヴォ間1510キロで、シベリア鉄道と連結させるために西側は満州里とキタイスキ・ラズエズトーを結ぶザ・バイカル鉄道355キロ(完成1901年)、東側はグロデコヴォとニコリスク・ウスリスキーを結ぶウスリー鉄道97キロ(完成1903年)も建設された。南満州支線772キロも1903年1月に完成している。最後の綏芬河・グロデコヴォ間10キロが完成し、シベリア鉄道と完全に連結したのは1903年7月、日露戦争(1904-1905)勃発の半年前であった。

日露戦争(1904-1905)

実際の戦闘については省略。極東におけるロシアの南下政策が止まり、日本は満州利権をロシアから奪う形となった。これ以降、華北・華中・華南全土におけるロシアvs日本の抗争が激化する。ロシアの工作はモンゴル・新疆方面に集中。

第一次世界大戦(1914-1918)…数々の資料があるので省略

第一次世界大戦の戦場となったヨーロッパで、鎮痛剤として、阿片が急に広まる。阿片中毒の害に脅かされた事により、阿片を禁止する国際条約の整備が進んだ。イギリスがこれを真面目に施行し始めたため、イギリス租界における紅幇の勢力が衰退。大陸の〈阿片経済〉は地下経済となり、第一次世界大戦バブルと絡んで、いっそう濃密に発展拡大する。

ロシア革命1917―シベリア出兵1919(日米連合)…数々の資料があるので省略

このころ、ロシア革命の混乱から逃れてきたロシア難民が上海に流れ込み、都市サービス・娯楽産業に従事した。第一次世界大戦によるバブルで上海経済が膨張し、阿片消費量も増大。日本の商社が多数、上海に進出。

《1910-1920年代》

軍閥割拠(1916-1928)

1911年の辛亥革命で孫文を初代大統領とする「中華民国」が成立していたが、1912年から袁世凱(北洋軍閥)が大統領となった。内ゲバの末に袁世凱が皇帝を自称して「中華帝国」としたが、1916年に袁世凱が死ぬと、大陸は軍閥割拠状態になった。(※1928-1949=南京国民政府)

>>中華民国について詳しく=[中華民国というペテン]シナにつける薬-2008.1.19

互いに争った軍閥は互いに莫大な資金を必要とし、急速に〈阿片経済〉に組み込まれていった。このネットワークを提供したのは多数の国際的な闇商人であったらしい。最も活躍したのが青幇(当時のボス=杜月笙)で、彼らが暴利と言ってよいほどの最大の利益を上げた(確実なデータは無いが、そういう風に推測できる)

杜月笙は四川軍閥のルートを持っており、一大阿片産地となっていた四川省重慶市に「三鑫公司」支店を開き、ヘロインの産地直送をスタート。四川省軍閥の「ヘロイン大王」こと陳坤元と「阿片大王」こと葉清和が、現地の精製工場を経営したという。当時のヘロイン取引量=250万元/月(=3000万元/年)

  • 1920年代後半の全阿片消費量=10億元超/年(内、大陸阿片=8億元、海外阿片=2億元)
  • 上海における〈阿片経済〉の利益=4000万元~1億元/年
  • 単純に逆算すれば、各地の軍閥や海外闇商人があげた阿片の利益=9億元超/年

1920年代には阿片禁止令が施行され、衰退した紅幇に代わって、阿片取引は青幇&フランス租界の独壇場になった。外国商社は密輸ビジネスにいそしみ、各地の軍閥の地元で闇阿片が公然と増産され、また軍閥は、「領地」内の護送ビジネスからも利益を挙げた。「京杭大運河」周辺の種々利益が大きかったのはいうまでも無い。張作霖の軍閥が支配した満州では、東清鉄道ルートを使った〈満州阿片フリーマーケット〉が繁栄した。

青幇のボス杜月笙は、前ボス黄金栄に代わって権力を振るう。フランス租界の治安悪化に付け込み、フランス当局を脅迫して、最新式の武器供与を獲得していた。その際に、租界における阿片の闇取引の公認と賭博場の営業許可も付いていた(フランス官僚も、青幇からの賄賂で篭絡されていたと言われる。ちなみに青幇は糞尿処理やゴミ処理を独占しており、労働者ストライキを扇動する事で租界のインフラを止め、フランス当局を脅迫していたという)

1919.7.15=カラハン宣言…東清鉄道についての疑念が大きくなり、中ソ関係がさらに複雑骨折する伏線となったらしい。多国間でも対応が揉める。事情説明があまりにも奇々怪々なのですが、情勢の変化を機敏に利用できなかった上に、大陸情勢に最悪の形で飛び込む羽目になった日本外交って、一体…^^;;;

モンゴル情勢(1919-1920)

安徽派-北京政府はソビエト工作によって確立したモンゴルの自治を破壊しようとした。

1919年、軍隊と共にウルグ(後のウランバートル)に押しかけた徐世昌将軍は、モンゴル自治政府バダムドルジ閣僚会議議長に対して、ボグド・ゲゲン(活仏)、閣僚、閣僚代理が署名した「自治を放棄する請願書」を出すように要求。その請願書を元に、中国大総統の名前でモンゴル自治を廃止する旨を宣言。

このため、モンゴル民族解放運動の機運が高まり、それに乗じてコサックのG・M・セミョーノフ&R・F・ウンゲルンが中央アジア帝国を樹立するべく征服活動を拡大。ちなみにセミョーノフはチンギスハンの子孫を名乗っていた。

1921年、ウンゲルンはウルグを占領し、ボグド・ゲゲンを汗として即位させ、北京政府を大混乱に陥れた。同じ頃、張作霖は殆ど絶対的な満州君主となっており、北京からウンゲルン討伐軍を要求されていたが、その動きは鈍かった。その結果、モンゴル周辺では、コミンテルンに指導されたモンゴル革命グループ(後にモンゴル・パルチザン)と北京政府(その実は軍閥)とセミョーノフ&ウンゲルン(コサックで反革命勢力)が分立するという奇怪な状況になる。

これについてコミンテルン・極東書記局は次のように記録した:

「ウンゲルンによるモンゴル奪取は、コミンテルンとソビエト・ロシアが革命基地を失う脅威を作り出した。…沿海州はセミョーノフ、モンゴルはウンゲルン男爵、満州は張作霖というように黒い緩衝地帯が日本によって作られている。…コミンテルンとソビエト・ロシアの戦闘任務は、この緩衝地帯、少なくともモンゴルの鎖を壊すことである」


FriendFeedコメントより転載

《管理人の呟き》現代の満州阿片ビジネス。張作霖・張学良の軍閥がよみがえったのかと思いました。シンクロし過ぎ…^^;/日本向け覚醒剤製造,ウラジオストクで薬物拠点摘発:ロシア連邦保安局は13日、極東ウラジオストクで覚せい剤の一種アンフェタミンを製造していた薬物密売グループの拠点を捜索し、複数のロシア人の男を拘束したと発表した。同保安局は、ロシア国内だけでなく日本向けの製造拠点だったとみて調べている。拘束者の中には、薬物犯罪で日本での服役経験があり、改名を繰り返していた2人のほか、かつてロシア科学アカデミーに所属していた化学専門家も含まれているという。グループは薬物を高く売りさばける日本への密売ルートを構築していたというが、同保安局は日本での密売先などについては公表していない(2010.2.13ウェブニュースより)
だんだんと深みにはまって行くようですね、ダイジョウブですか?このあたりの歴史は状況が絡み合って非常に複雑だし国共両側からの歴史「認識」つまり捏造歪曲があるので日本や欧米の歴史家も苦労するところでしょう。毛沢東などが田舎の山村地帯でゲリラ戦を実行している30年代も、情報封鎖で上海などではほとんどその事実が知られてなかったようです。今だって農村が実際どんな状況にあるのかシナの都会でも、まして外国ではわかりません。「革命」はすでにかなり深く進捗しているかも知れませんよ。 - 丸山光三
《返信》脳みその混乱が続いておりますが、休養を取りましたので大丈夫だと思います。軍閥時代の記録を見て、殆どは単純な逆算や憶測に過ぎないのですが、"一つの中国"というよりは、"部族割拠&テロリスト割拠の状態のアフガニスタン"だと思いました。この時代は、世界的にもアル・カポネとか、国家権力に匹敵する無法マフィアが大きく輝いた時代だったみたいですね。必然として、闇商人ネットワークとか、"政治とカネ"的な地下人脈が急成長した時代…と見て間違いないかと。現代の国際金融グループとか、黒い噂の殆どが、この時代に出来たものみたいですね…
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黒いお金「阿片」・わき道の考察

《考察テーマ》武器商人グラバー…明治維新はフリーメーソンの陰謀だったのか?

商人グラバーが属していたジャーディン・マセソン商会は、上海サッスーン商会と共に、フリーメーソン人脈にあった組織だったそうです。話の真偽は分かりませんが、どちらの商社も、その「怪しげな人脈の巣」は、ボンベイのイギリス東インド会社と、イギリスの首都ロンドンにあったと推測できます。

彼らは阿片業者でした。その活動の第一目的は、新たな阿片市場の開拓にあった筈です。

ところで、「フリーメーソンそのものに関して」ですが…;

当時の「霧の都ロンドン」の社交界は、シャーロック・ホームズ物語や吸血鬼&フランケンシュタイン&お化け屋敷といったゴシック・ホラー物語が人気を博し、心霊現象がブームだった上に、薔薇十字団運動とフリーメーソン運動が合体して、超オカルトな状況になっていました。

中心となったのは、オックスフォード大学やケンブリッジ大学の「オカルト趣味の各種研究&社交クラブ(=薔薇十字の名前を色々付けてたグループ)」です。ドイツの薔薇十字団があまりにも魅力的なものだったから、という事もあるかも知れませんが、この辺りは、一昔前の超能力ブームや新興宗教ブーム(富士山麓オウムetc)、怪談ブームを思わせるものがあります。

そんな中で、1867年にロンドンのメーソン会員であったロバート・ウェントワース・リトルとケネス・マッケンジーが、「イギリス薔薇十字団(SRIA)」を設立。理念的にはドイツ薔薇十字団のイギリスへの移植から始まったわけですが、スコットランド式メーソン的な儀式を取り入れたため、内部意見が合わず、何人か退団者を出しています。

この19世紀バージョン・フリーメーソンの内部紛糾には、イングランドとスコットランドの長きに渡る怨念と申しますか、文化的・政治的対立が絡んでいたようです。中世イングランド王エリザベス1世(在位1558-1603)の後が元スコットランド王ジェームズ1世(在位1567-1625)で、そのイギリスの王位継承システムを考えると、さすがに気が遠くなって混乱してまいりますが…^^;

そして、日本で明治維新が起きていた時代のイギリス王室は、ハノーヴァー朝(1714-1901)でした。神聖ローマ帝国選帝侯の血が入っていたのであります。そのままサクス=コバーグ=ゴータ朝(1901-1917)を経て現在のウィンザー朝(1917-)に改名。

解説できるほど詳しくは知らないのですが、ひとくちにイギリスといっても、その王室事情はかなり錯綜しているわけです。当然、ロンドン社交界で始まったばかりの「なんちゃって薔薇十字団フリーメーソン活動」も、かなり混沌としたものであったと推測できるのです。

現在は「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」。さらに海外移民が流れ込んでいるわけで、フリーメーソン含むロンドンのスピリチュアル社交界は、いっそう妙な事になっているのだろう…と、想像しております…^^;

…閑話休題…^^;;;;;;;;;

商人グラバーはジャーディン・マセソン商会の手先で、したがって、ゆくゆくは阿片を扱ってひと山当てようという「いかにも胡散臭い商人」だったと考えられますが、彼が1859年の長崎にやって来て、「日本をチェンジする!」とか何とか、夢見る若者を扇動し、ぶち上げるわけです。

ちなみに、坂本竜馬その他の方々が本当に「フリーメーソンの手先」だったかどうかは知りませんし、手先らしく行動したかどうかも分かりません。ですが、並みの日本人以上に過激派の素質があり、新時代に向かう想像力と行動力に恵まれていた…ということは、間違いなく確実だと思います。そして彼らは実際に、稀有のチャンスをつかんだのであり、それは評価されてしかるべきだと思います。

※余談ですが、当時のジャーディン・マセソン商会の長崎代理人の名前が、ケネス・マッケンジー。イギリス薔薇十字団とフリーメーソンに所属していたオカルト趣味のケネス・マッケンジーと同一人物かどうかは分かりませんが、年齢的にはグラバーより数年先輩で、いかにもピッタリです。非常に興味深い偶然です…^^;

さて、ジャーディン・マセソン商会の本国イギリスは、日本に干渉する気満々だったようです。つまり、日本にも、清と同じような阿片消費市場を作るつもりだったのです。阿片戦争(1840-1842)に勝利した後、堂々と阿片を密輸できるようになり、1845年に日本に艦隊を派遣する閣議決定が下った…という物騒な話があります。

グラバーが「チェンジ!」をぶち上げたのは、その露払い的な意味があったと考えられます。

しかし、イギリスでは、阿片戦争後の後始末が大変で、特に翻訳の食い違いなどの整備に時間がかかったようです(今と同じで、清の役人や業者は、ルール外の行動を取って、イギリスの阿片業者を翻弄する人が多かったのでは…)。しかも清における膨大なルンペン層の増加によって、多数の「幇」の活動が過激化し、租界周辺の治安が急激に悪化しておったわけです。

  • イギリス・フランス租界を大混乱に陥れた太平天国の乱(1851-1864)。
  • ロシアの南下政策が全ヨーロッパの危機を招いたクリミア戦争(1854-1856)。
  • 第一次インド独立戦争(1857-1859)と呼ばれている、「セポイの反乱(インドの大反乱)」。
  • アロー号事件の調停が失敗してアロー戦争(1857-1860)。英仏連合軍で対応。

イギリスは、清・クリミア・インドに張り付いたまま、10年以上もの間、動けなかったのでした。

…そんなわけで、実際に日本に開国を迫ったのは、アメリカから来たペリーの黒船(1853)。

…結果的に、日本に居たグラバーは、矛盾に満ちた活躍をする事になった筈…^^;

グラバーは、薩摩・長州・土佐グループ、つまり討幕派に鉄砲と軍艦を売りつけます。その鉄砲をどこから仕入れて来たかというと、アメリカです。アメリカの南北戦争(1861-1865)が終わって、鉄砲がただ同然の値段であったので、それを持ってきて薩摩に20万丁くらい売りつけたという…

…これが、戊辰戦争(1868-1869)で、明治新政府の火力として活躍した武器です…^^;

そして明治新政府は、阿片に対して異様なまでの警戒心を持っていました。

政府発足してわずか3年目、1870年には阿片取締りのための法令を次々に打ち出し、日本主導の阿片専売制を確立。西洋列強による阿片の市場侵略を食い止めることに成功しました。

※阿片専売制の整備に際して、日本産阿片についても外国産阿片についても綿密に市場調査を行ない、諸外国と辛抱強く折衝し、買入価格を決定したと言うのだから驚きなのです(当時、阿片交渉を担当した官僚が、よほど優秀だったに違いない)…^^;;

西洋列強の干渉のはざまを、ギリギリまで有効活用したのが「明治維新」だったのです。それは必然として、「フリーメーソンの陰謀」を逆手に取った形となった…のでは無いでしょうか。〈阿片経済〉がすさまじい成長を遂げていた情勢の中で、密輸阿片が日本国内に蔓延しなかっただけでも、十分な成果であったと思います…

ジャーディン・マセソン商会その他、およびフリーメーソン的な商売人が、「明治維新」=「日本市場(二匹目のドジョウ)が独占できる/日本中を阿片漬けにして大儲け!(笑)」程度の、いかにも阿片業者的な目的を持っていたとすれば…

…実際の明治維新が完了したとき、フリーメーソン的な彼らは、結果的に、「カンペキな誤算だった…orz」を自覚した筈なのであります…^^;;;

…以上、〈黒いお金=阿片〉の視点から見た、「明治維新フリーメーソン陰謀説」についての、ささやかな考察でした…^^;


FriendFeedコメントより転載

《2010.2.10つぶやき》宋三姉妹の宋靄齢・宋慶齢・宋美齢についてネット検索でいろいろと眺めていたのですが、三女・宋美齢(蒋介石の夫人)が卒業した「ウェルズリー大学」って、ヒラリー・クリントンやマデレーン・オルブライト(アメリカ初の女性国務長官)の母校でもあるらしいのですね。これはちょっと意外でした。ヒラリー氏は女性初のアメリカ大統領になるか?と騒がれた女性ですし、「ウェルズリー大学」は、大きな権力を振るう女性(殆ど魔女的逸材?)が育ちやすいのでしょうか。宋家はフリーメーソンだったそうですし、オカルトな意味で考え込んでしまいました…^^;
はあ、そうだったのですか。ヒラリーもそうだったんですね。また孫文の革命は洪幇の支援を受けたればこそ「成功」したわけで、ここでも洪幇とフリーメーソンの関係がうかがえます。これはオカルトというより影の歴史を窺ううえで興味深い事項だと思います。ついでに述べておけば89年の天安門虐殺を逃れた学生リーダーたちを匿い海外へ逃亡させたのも洪幇のネットワークだったようです。つまり次に起こるべきシナ革命もたぶん洪幇はになうことになるのではないでしょうか? - 丸山光三
《返信》〈89年の天安門虐殺を逃れた学生リーダーたちを匿い海外へ逃亡させたのも洪幇のネットワーク〉そんな事があったのですか?全然知らなかったです。〈次に起こるべきシナ革命〉=可能性としてはありそうです。今の指導者層に民主化を進める意思が無ければ、近い将来、彼らが〈シナ革命〉という形でその役目を負うかも。今、「いわゆる中華五千年の歴史」で、初めて農民層が真面目に勉強しだしているんですね。都市からボランティア学生も入って、情報が増えているとか。国土が広大なので時間はかかりそうですが、「その時」がくれば、需要と供給の歯車が噛み合って、一気に情勢が流動化するかも知れませんね…^^;

黒いお金「阿片」・3

今回はさらっと、歴史関連のピックアップと、地元住民の物騒な習慣についての調査。

大陸内部では様々なタイプの秘密結社があり、任侠タイプから、本物の犯罪者集団まで色々だったようです(…が、どちらも腕力に訴える、武闘派であることには変わりないかも…)^^;

資料=[清国の台湾領有と初期の経営]…「天地会と分類械闘」の部分より一部抜粋

先住民と比較して、移住民の抵抗が圧倒的に多く、かつ規模も大きかった原因の一つに、鄭氏政権崩壊後に顕在化した秘密結社である「天地会」の存在がある。天地会は政治的には異民族である満州王朝の打倒と、漢民族の明王朝の再興をめざし、経済的には孤立無援の移住民の互助を目的とする民間組織である。
天地会の名は、「天地を父母とし、盟員は兄弟」とするところに由来し、入会は互いに血の杯を交わす「挿血為盟」「飲血為盟」の儀式によって認められる。当時、移住民は単身の男子ばかりの状況にあり、義兄弟の契りを結ぶことで、清国政府に対抗すると同時に無聊を慰め、家族的な団結を強めることができ、異郷の地に生きる方途として、経済的にも社会的にも助け合ったのである。
清王朝に反感を抱き「血で固められた」集団だけに、いつどこで決起しても不思議ではなく、いったん事あればたちまち燎原の火となり清国政府を脅かした。
天地会の初期の活動には、政治的な動機が強く見られたが次第に薄れ、相互扶助の性格が顕著となって行った。移住民の増加とともに盟員も増え、やがて移住民の原籍地ごとの組織に枝分かれした。
朱一貴の役や林爽文の役において、短時間に台湾全域を席捲した背景には、天地会の組織的な動員力があり、また、失敗の一因には、ビン南系と客家系の反目があった。いわゆる「分類械闘」の問題は、ここに絡んでくる。

資料:械闘について[械闘:中国・新興国・海外ニュース&コラム | KINBRICKS NOW(キンブリックス・ナウ)

(考察)

械闘とは、同郷人を結集した私的闘争のことだそうです。水争いや土地争いなどの武闘が大きくなったもので、徹底化した場合は、相手の村落を断絶させる事もあった。人々は、コロニーを要塞化(=円楼)し、必要に応じて、鎌や鍬や包丁を持って戦った。闘争の終結には卓越した組織力と調停力が問われ、ここに任侠派(?)-秘密結社としての「天地会」が発達する理由があったと考えられる…

清によって強制された大型移民が、この事態を招いた(?)

少数の家族単位での移動の場合はお互いに融合しやすいが、部族単位の大移動は、殆どの場合、先住民との間に大きな緊張を生む。また、出身地コロニーごとに分かれるために、部族ごとの習慣差も言語差も保存されやすく、移民側には、ことさらに自らの伝統を墨守するという心理が生まれやすいという事が指摘されている。

清が追いやった被征服民が「客家」として発達したのは、こうした心理的事情が大きかったと思われる。広東省等の一部地域では、清代には、土着民と客家の双方で合計50万人を超える死傷者を出すといった械闘が生じた事が知られている。こうした闘争の中で、自らの「漢人」としての正当性の主張が盛んに行なわれ、いつしか「客家=正統な漢人」が定説として広まっていったのが、実情ではなかったか。

また、土着の民との緊張を強いられるコロニー生活の特殊性が、後に強力な指導者を輩出する苗床となった事は容易に推測できる。「天地会」の組織力と、「客家リーダー」の指導力とが、奇跡の合体を果たしたのが、例えば孫文政権という現象だったのだろうと考えられる…

(世界情勢)

クリミア戦争(1854-1856)…ロシアvsオスマン=トルコの争いに、トルコ利権を狙う西洋列強が入り乱れた凄惨な戦争。この戦争資金の大部分が、植民地を中心に展開した〈阿片経済〉による莫大な利益でまかなわれていた。その後の世界大戦の資金も同じ。

アロー戦争(1857-1860)はクリミア戦争の後の調停中に起きており、西洋列強は清国問題とクリミア問題、さらには太平天国(1851-1864)問題に同時に当たらなければならなかったため、日本への介入に隙間が出来たと考えられる。この間に日本では明治維新への動きが高まった。

当時のアメリカは、西洋列強によるラテンアメリカ独立ブームを警戒して、相互不干渉を旨とするモンロー主義(1823-1890)を採っていたが、内部矛盾の拡大により南北戦争(1861-1865)が起きたため、太平天国の乱が起きた清や明治維新に走り出した日本に干渉するだけの余裕が無かった(ちなみに戊辰戦争で使われた各種小火器は、南北戦争のお下がり)。アラスカは元ロシア領土(1784-)だったが、クリミア戦争後、アラスカがイギリスに渡ることを恐れていたロシアから、領土買取(1867年調印、720万ドル)を行なった。その後のアラスカは第1次ゴールドラッシュに沸いて人口が増え、石油採掘も始まった[アラスカの歴史

※1815年、ロシア商人(露米会社の社員)がハワイのカウアイ島にエリザベート要塞を建設していたが、時のハワイ国王カメハメハ1世が直ちにロシア人を追い出したため、ハワイはロシア領土にならなかったという一幕があった。しかし、その後アメリカ人入居者に乗っ取られ、1898年にハワイ王国は滅んだ(=孫文が1894年ハワイで「興中会」を立ち上げた時、まだハワイ王国は存在していたのだった…)。

ロシア=新疆地方の工作に熱心だった。1856年に雲南省で回民(ムスリム)の蜂起が起こると、ムスリム系の反乱は陝西省・甘粛省へも広がり、新疆へ伝播。コーカンド・ハン国のウイグル人武将ヤークーブ・ベクがこの機に乗じてイギリスの支援を受けて天山南路を支配。この騒動で中央アジアが混乱すると、かねてから3ハン国を手中に収めていた帝政ロシアは、急にイリ地方を軍事占領した。1881年ペテルブルグ条約でイリ返還・新疆をロシアに解放。

日本=1867年に大政奉還があった。このときから明治維新がスタートし、戊辰戦争(1868-1869)や西南戦争(1887)を通じて旧体制の整理が進み、最終的に近代の立憲体制が確立したのが1889年(1885年=伊藤博文、初代総理大臣)。

清国=西太后の独裁を迎える(1861クーデタ-1889引退したが光緒帝の背後で権力を振るう)。その後、西太后派の李鴻章(北洋艦隊の頭で洋務運動の推進派)と光緒帝派の重臣らが宮廷内権力闘争を演じたが、日清戦争(1894-1895)で中断。ちなみに1894年、孫文がハワイで秘密結社「興中会」を結成している。孫文は1883年に香港で洗礼を受けたクリスチャン客家(1915年、日本で浙江財閥-宋家三姉妹の次女・宋慶齡と結婚)

日清戦争(1894-1895)…朝鮮半島の内乱をきっかけに、清と日本とで軍事衝突。結果、台湾割譲。日本統治下の台湾では阿片専売制が敷かれ、日本にとって効率の良い国庫歳入源となった。

一方、1896年に「露清密約」が李鴻章とロシアの間で結ばれていた。日本の帝国主義的アクションに対して、協力して妨害するという内容で、全ての港へのロシア軍の出入り自由化と、満州経由ウラジオストク行き「東清鉄道」の敷設権利が付いていた。さらに2年後、ロシアは遼東半島の大連を25年間租借し、旅順を軍事基地とした。この基地が義和団の乱(1900-1901)の際に役立つ事になるが、日本にとっては地政学的脅威だった。

にわか勉強なので、少し混乱してるかも。つづく…^^;


FriendFeedコメントより転載

宋家三姐妹は上海生まれですが、本貫は海南島ですから、浙江財閥とはいえないと思います。まあかってに入れている人もいるようですが概念の乱用でしょう。ところで孫文には日本女に産ませた娘がいたのはご存知ですか?その方は宮川冨美子といって平成二年に82歳で亡くなりました。田中建之『横浜中華街』(中公新書)に記載があります。 - 丸山光三
「浙江財閥」は単に「浙江の名の元に集まって活躍した財閥」くらいにしか考えてなかったです。複雑な事情があるみたいですね…^^;宋三姉妹の父親も、チャーリー宋・宋耀如・宋嘉樹・チャン-ウェンと4つの名前があって怪しげな人みたいですし(他にも名前があるみたいですが…)。広東省出身・孫文と海南島出身・宋とで、同じ南海岸の者同士、気が合ったのでしょうか。孫文に日本人の奥さんと娘さんが居るとは知らなかったです。。。