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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

古代科学漂流の章・中世5

【原始キリスト教の分裂・・・ネストリオス派の破門】

東ローマ文化は、基本的には、ギリシャ古典の流れを汲んでいました。しかし、313年、コンスタンティヌス帝のミラノ勅令によるキリスト教公認に伴い、ローマの学問・文化は、次第にキリスト教会のコントロール下に置かれるようになってゆきます。

380年、バチカンに初代サン・ピエトロ寺院(バシリカ式=プレ-ロマネスク様式)が建立され、392年、キリスト教はローマ帝国の国教になります。

ローマ帝国は、396年に東西分割されました。東の領土に含まれるのは、ギリシャ、バルカン半島、小アジア、シリア、エジプト。西の領土にはローマ、ガリア、ブリタニア、ヒスパニア。しかし西側は、ゲルマン勢力が急速な拡大と定着を続けており、もはや西ローマ帝国としての体を成していませんでした。

このような情勢の下、古典文明の主力がビザンティン(コンスタンティノープル)に移った事は重要です。初期の東ローマ帝国においては、アンティオキア、ベイルート、ガザ、エデッサといった各都市が、それぞれ学芸文化の中心地を担っていました(後に十字軍の侵略・略奪を受けて、各種文献ともども、灰燼に帰す事になる)。

アウグスティヌス(354-430)による『神の国』(413-417著)などの教父神学が興隆した時代であり、アリストテレスの論理学とプラトンのイデア論は、キリスト教の教義の解釈・拡張・擁護のために援用されるようになりましたが、この作業に伴ってグノーシス派との教義論争が深まり、教会分裂が激しくなりました。

※実を言えば、この教会分裂が、ローマ帝国の弱体化及び東西分割を招いたという説もあります。聖徳太子が「和をもって尊しと成す」で始まる『憲法十七条』を制定したのが604年なのですが、このタイミングを見ると、聖徳太子は、キリスト教会分裂とローマ帝国分裂について、何らかの事情を推察していた可能性が考えられます^^;

ここで注目する教会分裂は、431年に生じた教会分裂です。

シリアのアンティオキアを本拠地としていたネストリオス派は、431年のエフェソス公会議で異端宣告され、破門されました。ちなみにネストリオスは、コンスタンティノープル総主教だった人物で、シリア人キリスト教徒からの支持が高く、必然としてシリア人は、この公会議の決定を拒絶したのであります。彼らは、教義として「両性論(キリストは、神性と人性を同時に持つという論)」を提唱していました。

見かけ上神学的問題に発するこのキリスト教の分裂の背景には、文化の衝突が潜んでいた、という分析もなされています。つまり、シリア語、コプト語、アルメニア語などの勃興に支えられた地域文化が、支配的・侵略的文化たるグローバル化ギリシャ文化に対して、異議申し立てを始めたのだという事です。

【原始キリスト教の四分五裂・・・中世ヨーロッパ異端の種子】

帝政ローマに栄えた原始キリスト教会の五本山は以下のとおり・・・ローマ教会/コンスタンティノープル教会/アンティオキア教会/エルサレム教会/アレクサンドリア教会。

元々、ネストリオス派はアンティオキア教会閥に属した一派です。このアンティオキア派閥は、マリアを神の母とする教義に異を唱えていたという事です。この派閥に対抗していたのがアレクサンドリア教会閥で、代表者はキリルという人でした。彼がネストリオス派の追放を企てたという事です。

アレクサンドリア教会閥が推し進めていたマリア信仰は、別の説によれば、エジプト秘儀の一種であったイシス崇拝が、下敷きになっているという事です。つまりイシス崇拝=マリア崇拝=エジプト型の女神信仰です。キリル率いるアレクサンドリア教会閥が、イシス=マリアの神性を掲げて布教をしていたのは、その意味で自然な流れであったと申せましょう。

さらにアレクサンドリア教会閥は、ネストリオス派の「両性論(キリストに神性と人性を認める)」に比べて、キリストの人性を大きく削り落とした教義を持っていました。これを極端化すると、「単性論(非カルケドン派=キリストに神性のみを認める)」になります。

「単性論」は、451年のカルケドン公会議で異端宣告され、排斥されました。そのため、単性論派を非カルケドン派とも言います。単性論派もまた、東方に活路を見出し、高度学術書のシリア語訳を多く生み出し、シリア・ヘレニズムの立役者として活躍しました。現在も、コプト正教会やシリア正教会は単性論を継承しています。

なお、2世紀から4世紀は、キリスト教外典が盛んに記された時代でした。今日数えられている合計74のキリスト教外典のうち、42のグノーシス主義外典があると言われています。「ナグ・ハマディ文書」がコプト語で記されていたという事実は、エジプトが原始キリスト教の中心地であった事を示唆しています。カルケドン公会議で異端判定を受けたコプト教会は、グノーシス主義との関わりが深い教会でした。

また、エジプトは錬金術・黒魔術・ヘルメス思想などのオカルト科学の発祥地でもあります。当時、コプト語は、ヘブライ語やラテン語とならんで、黒魔術をたしなむ者の公用語のひとつだったそうです。

エジプトで発達したグノーシス主義・神秘主義は、ヨーロッパにおける二元論異端(この世を神と悪魔の対立の場と考える)に引き継がれ、パウロ派、ボゴミール派、カタリ派などの中世ヨーロッパの異端として、後世に大いなる影響を及ぼす事になります…

《続く》


仮説に過ぎませんが、このキリスト教会の正統・異端論争を通じて、ローマ・カトリックがカルト化・変質したのではないかという可能性があります。著しい「正統権威」の集中は、必然としてその教団を特権集団となし、カルト化せずにはおきません。更に、ローマ・カトリックは以後、ゲルマン人と交渉を持ち、脱税特権を保ちつつ、西欧の政治に積極的に干渉するようになります(カール大帝の戴冠を通じて、コンスタンティノープル圏から独立)。

さらに、ゲルマン人の統一帝国形成と相続問題による内紛、ヴァイキングが海岸を荒らしまわり、かつスラブやルス(古ロシア)、ハザール他の中央アジア勢力、アラブ=イスラーム勢力の間に緊張が走っていた8世紀から9世紀という時代は、聖像(イコン)破壊運動が生じ、布教方法の問題で東西ローマ教会が揺れ動いた時代でもありました。その後のコンスタンティノープル側つまり正教会は、ブルガリアやスラブ、新興国キエフ公国との外交に悩みつつ、ローマ・カトリックとは異なる布教活動を行なう事になったのであります。

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