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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

黒いお金「阿片」・7終

最終回です。この辺で、スピリチュアルな感じのまとめを:

・・・阿片戦争に始まる〈阿片経済〉と世界大戦の時代をずっと眺めてきまして、やっぱり「神さまみたいな存在」はいらっしゃるかも知れないなと思いました。何故か日本をエコヒイキされてる神さまっぽいです。

占い的に見ると、イギリスの産業革命以来、西洋列強による植民地経済が悲惨の度合いを増してきて、地球全体でのバランスが著しく崩れていたのがよく分かるのです(明や清の支配も結構ひどかったみたいです)。恐れ多くも神さま的視点で見ると、植民地経済は何としても終わらせなければならなかった筈で、何度か、運命的に「不自然なちょっかい」が出されたらしいのですね。そのひとつが、たまたま日本であった。

イギリスが阿片戦争をスタートして以来、植民地経済の環境が苛烈の度合いを増してきた訳で、神さまは、日本のお尻を思いっきり叩きまくった…らしいです。安政東海地震・南海地震。明治維新。

※個人的に、阿片押し売りのメーソン宇宙人=ウィリアム・ジャーディンにはちょっとムカつきます。理由は分かりませんが…あの世に帰って彼を捕まえたら、666×666×666×666×666×666回ぐらい、連続で丁寧にぶん殴ってみよう…と計画しております…☆

ともあれ、何故、日本がいきなり近代国家に変身できたのか、そして、ABCD包囲網が敷かれるまで十分な戦闘力が続いたのは何故なのか…というのは、占い的に見ても謎なのですね。その後も、ほぼ全世界を相手に回して、何年も戦えたわけですし。

日本は、最も濃い「光の相」と「闇の相」を両方とも背負うことになりましたが、結果的に、その重圧に耐え、植民地支配システムを終わらせ、最初は合法であった〈阿片経済〉を、徹底して非合法の存在に変えた訳です。日本が採った方法が世界にとってベストな方法だったかどうかは、今だに分かりませんが、当時の西洋列強はそろって帝国主義&世界征服植民地化事業に狂っていたのであり、ソビエト・カルトも同時に広まっており、当時の条件で、短期間で効率よく世界を変えるには、こういう「どす黒い方法」しか無かったのでは…と思われる節もあります。

戦後に関しては、こんなお話があります:

戦争末期、空から爆弾がいっぱい降ってきましたが、その頃、多くの女性の生理が止まったり、不妊症が増えていたそうです。それが、玉音放送のあった日から次々に回復したそうです(女性の身体は正直なのです…^^;)。そういう意味では、戦後ベビーブーム世代(団塊世代:1947-1949)は、戦後の祝福=神さまのご褒美としての意味もある訳です。ついでに言えば高度経済成長も、神さまのご褒美として授かったものだったのではなかろうか…と思っております。

戦中カルト教育の反動で、一部アカに狂った人が出たのは、いやはや何とも…大学まで進んだ団塊の不幸な一部が、東大紛争(1968-1969)で暴れまわった「世を滅ぼす赤い龍」の下僕で…高卒・中卒の団塊は、真面目で素朴な方も多いのですけれども…今更どうにもなりませんし、どうでも良いことではありそうですが…現首相の年齢を調べると、超・深刻ですね…^^;;;

いずれにせよ1950年以降の出生は占い的に言えば、「別の日本」を作る任務がある訳です^^

・・・この辺で前置き、おしまいです^^

今回は、まったく知らない事柄ばかりでしたので、文献の引用に留めます…^^;

★1960-1970年代のビルマにおけるマオイズムとCIAの麻薬戦争

>>かつてビルマ共産党はビルマ南部を活動の拠点にしていた。それがはるばるワ州の山奥まで引っ越してきたのは中国のおかげだ。中国がビルマ共産党を支援することを決めたのは1967年、文化大革命が猛威をふるっていた時期である。すでに中ソの蜜月時代は終わりを告げ、中国はソ連と親交を深めるビルマを敵視し、中国式社会主義、つまりマオイズムを輸出するため、ラングーン政府に反抗をつづけるビルマ共産党に目をつけた。

当時、人民解放軍情報部のトップだった康生(1898-1975)の肝いりで、すでに1950年代の初めから中国に亡命し、マオイズムに染まりきっていたビルマ共産党の幹部を、当時ビルマ中部で活動していた共産党軍本体ともども、ビルマ政府の権威が届いていないワ州周辺を含む中ビ国境地帯に送り込んだ。地元の土侯や国民党の残党らはこれに抵抗したが、中国の圧倒的な物量戦の前にはなす術が無く、2、3年で駆逐された。中国は、武器や弾薬、食糧などの物資だけでなく、革命の理想に燃える紅衛兵の若者を何千という単位で投入した。…現在もワ軍/党に中国人幹部が驚くほど多く、ともすれば中国人に牛耳られているように見えるのはそのためである。

…1970年、ビルマ政府はソ連寄りの外交を方向転換し、中国と親しい関係を結ぶようになった。以後、中国は公式にはビルマ共産党の直接支援を取りやめるが、そこは国際政治の妙で、戦略物資は流入し続けたと言われる。また、資金繰りに苦しくなったビルマ共産党は、支配下のワ州、コーカン州、ムンヤン地区で、侵入直後に禁止したはずのケシ栽培(※)を復活させ、アヘン・ビジネスで荒稼ぎを始めた。

(※)実際には、共産党侵入直後の方がケシ栽培が増えたという証言がある。それまでは国民党の残党がうろついていただけだったが、1968年にビルマ共産党が侵入してきた後、中国との往来が盛んになり、「毛沢東語録」などを暗記させられたことから、それまでは中国語が聞かれなかった僻地にも、急速に中国語(雲南方言)が浸透することになったという。

近隣のインドシナは常にどこかが戦争状態にあり、金さえあれば武器の調達は容易だったはずだ。…by『ビルマ・アヘン王国潜入記』(草思社1998)高野秀行・著65-66p

>>ラオスは1954年に旧宗主国フランスが撤退してから1975年に共産化するまで、「ラオス国軍は、アメリカ国軍を除いて、世界で唯一、全予算をアメリカ合衆国に頼っている軍隊だ」と揶揄されたほどアメリカとの結びつきが強かった。当時は、そのラオス国軍の総司令官自身がヘロインの精製所や密輸ルートをコントロールしていたと言われ、同国のドラッグ・ビジネスの最盛期でもあった。そのお先棒を担いでいたのがCIAだ。

アメリカの著名な政治学者A・マッコイなどの研究によって、CIAは当時、タイ・ビルマ国境付近の少数民族にケシ栽培を奨励し、彼らからアヘンを安値で買い入れては(メソアメリカ&南米で)ヘロインに変え、それを軍資金にして同じ少数民族の男たちを反共産ゲリラの兵士として死地に赴かせ、莫大な数の犠牲者と難民を出したことが明らかになっている…by『ビルマ・アヘン王国潜入記』(草思社1998)高野秀行・著22p

★ベトナム戦争(1965-1975)におけるマオイズムとCIAの麻薬戦争

(1965.2.7の北爆を開戦として、1975.4.30のサイゴン陥落を終戦とする事が多い)

ベトナム戦争において、北ベトナムを応援する中国共産党は、米軍の慰安所に大量のヘロインを流した。これは一大阿片生産地となった「ゴールデン・トライアングル」と「援蒋ルート」を利用したものだった。また、このルートに食い込んで膨張した新手の阿片業者が、現在にまで続く問題になっていると推測される。

現在分かっている事は、このベトナム戦争下で展開した阿片ビジネス(ヘロインの輸送)に対して、周恩来が黙認、あるいは指導・援助していた事である。その結果、ベトナム帰りの兵士による阿片中毒が、アメリカ国内に蔓延したのだった。

>>マッコイによれば、50年代初期、CIAがビルマ側に逃げ込んだ国民党軍の支援に乗り出し、ここで栽培された阿片がラバの背でタイのチェンマイに運ばれ、CIA提供のヘリや飛行機でバンコクに送られるのを黙認したのがことのはじまりだった。

第一次インドシナ戦争でフランス情報部がラオスの少数民族に栽培を強制し、サイゴンの警察軍に販売権を与え、反ベトミン勢力育成の資金にした経緯は、日中戦争中、日本軍が内蒙古で栽培させた阿片で占領地行政の経費を賄ったのに似ている。が、フランス情報部とちがって、CIAはタイやラオスで、そして米国がゴ・ジン・ジェム政権をつくり介入したときも、その秘密活動資金を得るために麻薬取引に手を出したりはしていないという。

CIAが演じた役割は、副大統領のグエン・カオ・キがかれの空軍輸送機でラオスからサイゴンに運び込み、それが、かれの権力の源泉になり、分け前をめぐって政権内に暗闘がたえず、さらに69年末、香港から送り込まれた職人の手で、「黄金の三角地帯」でヘロイン製造がはじまり、これがベトナムの米軍兵士に売られ、70年代のはじめ、在ベトナムGIの15~20%、2万5000~3万7000人がヘロイン常用者になったという軍医の報告を知りながら、CIAも南ベトナムの米大使館も、何の手も打とうとしなかったことだという。

かれらは阻止すれば政府の崩壊につながることを知っていたからだ。ベトナムから手を引く事、これ以外に米国に流れ込むヘロインを防ぐ手立てはないというのが結論だった…by『オールド上海 阿片事情』山田豪一・著

★カンボジア内戦でも、ポルポト政権は排除できたが、地雷&麻薬禍の排除に苦労している。

《以上》

現在は、「援蒋ルート」の跡地に石油パイプライン(2012完成)が引かれようとしている。

(msn産経)[中国、ミャンマー経由の石油パイプラインを9月着工-中東依存の日本に影響も

>>【北京=野口東秀2009.6.18】ミャンマーから中国に通じる石油と天然ガスのパイプラインが、9月から全面着工されることが17日までに明らかになった。これにより、中国は中東やアフリカで産出される原油を不安定要因の多いマラッカ海峡や南シナ海を通さずに国内に運ぶことが可能となる。世界第2位の原油輸入国である中国にとって原油供給を安定させる動脈のひとつになるとみられ、中国が中東産原油への依存を強めるきっかけになる可能性もある。原油輸入の大半を中東に依存している日本にも影響を与えそうだ。

中国とミャンマーは今年3月、石油や天然ガスのパイプライン建設に関する合意文書に調印した。第一財経日報などによると、中国大手石油会社、中国石油天然ガス(ペトロチャイナ)関係者が15日、約20億ドルをかけたプロジェクトが9月に全面着工されることを明らかにした。

パイプラインはミャンマー西部の港湾都市シットウェーから中部マンダレーを経由して中国雲南省に入り、大理を通って昆明に達する。全長は約1100キロに及び、年間2000万トン、1日約40万バレルの石油輸送を見込む。天然ガスのパイプラインは2012年にも完成する見通し。最終的に広西省南寧まで延長され、年間120億立方メートルの輸送を予定している。

2003年に石油消費量で世界第2位となった中国は、08年5月に原油輸入量でも日本を抜いて世界第2位に躍り出た。国内で消費する石油の約6割を輸入に頼っており、07年の輸入元上位5カ国はサウジアラビア、アンゴラ、イラン、ロシア、オマーン。中東産が45%、アフリカ産が33%を占めている。

現在、中東やアフリカから中国に運ばれる原油のほとんどはマラッカ海峡を通過している。同海峡は通過する船舶が多く、海賊事件も多発しているほか、周辺国のインドネシアでは過去に華人排斥運動が頻発するなど不安定要因がつきまとう。南シナ海も南沙諸島の領有権問題などを抱えている。

エネルギーの安定供給を求める中国政府は、マラッカ海峡ルートへの依存からの脱却を模索していた。そこに外貨を稼ぎたいミャンマーとの思惑が一致し、パイプラインの建設となった形だ。石油消費量が増加の一途をたどる中国にとって、マラッカ海峡を回避することで原油の輸送コストを圧縮する効果もある。

パイプラインの建設をきっかけに中国が中東産原油の調達量を増やせば、08年で原油輸入の86.9%を中東に依存している日本の原油調達に影響が及ぶ恐れがあるほか、世界的な原油価格の上昇につながる懸念もある。

(現在の阿片問題―考察の参考)

  • 「黄金の三角地帯(ゴールデン・トライアングル)」=東南アジアのタイ、ミャンマー、ラオスのメコン川に接する山岳地帯を有する三国にわたる大三角地帯。ベトナム戦争~ビルマ=ミャンマー政情不安の頃(1950-1990年代)は、世界最大の麻薬・覚醒剤密造地帯であった。現在では経済成長や取締強化により、タイやラオスでの生産は減少傾向にある。
  • 「黄金の三日月地帯(ゴールデン・クレセント)」=中央アジア、アフガニスタンのニームルーズ州、パキスタンのバローチスターン州、イランの国境が交錯する地帯で、アフガニスタン東部のジャララバードから南部のカンダハルを経て南西部のザランジ南方へと続く三日月形の国境地帯。世界最大の麻薬・覚醒剤密造地帯。
  • ビルマのシナ化と地政学的影響/シナにつける薬-2007.10.7
  • 阿修羅掲示板:イスラエルの、我が祖国・中国/オルタナティブ通信-2007.11.27掲載-2007.12.2投稿(陰謀論を含む)
  • NHKスペシャル「日本軍と阿片」の音楽/たたかう音楽時評-2008.8.19

《おしまい》重いテーマでしたが、お付き合い戴きまして感謝しておりますm(_ _)m

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黒いお金「阿片」・6

心身ともにキツイ調査ですが、どんどん行きます(次の7で終了の予定です)^^;

・・・単なる直感ですが、日本の政界にも「軍閥」に似た組織はあるかも、と思いつきました。明治維新直後の日本社会では「華族」とか「士族」というのがあったそうで、廃藩置県の記憶も新しい頃なので、同郷の士族をまとめる、何らかの「幇/軍閥/藩閥」的な連結は、色濃く残っていたはずです。その徳川300年の構造が、150年やそこらで、そうたやすく崩れたとは思えないのですね。方言も含めて。それが戦争中の軍部上層部の、妙な「支離滅裂」につながっていたのではあるまいか…

西南戦争と戊辰戦争があったから、単純に言って考えられるのは「西南閥」と「戊辰閥」。聞くところによれば、例えば、麻生元首相は西南出身で、鳩山首相は戊辰出身(=選挙区が北海道だったでしょうか?)だという話なので、妙に適合するような、しないような…

  • 明治=西南閥の系統中心
  • 大正=微妙に戊辰閥の系統
  • 昭和=微妙に西南閥の系統(たとえば岸信介元首相は、山口県出身みたい)
  • 平成=西南閥(麻生氏)終わり・・・現在は戊辰閥(鳩山氏)

こうやって見ると、日本列島内部の東西問題はまだ堅固なんだなあと、縄文・弥生時代から関ヶ原を挟んで続いているおかしな怨念に、妙に感心してしまったり…現在は、さすがに華族・士族の記憶も薄れてきているみたいですが…皇室がありますから、そうでもないでしょうか。

全般的に見ると、小沢氏もそうなのですが、戊辰閥の系統は義理人情で動く方が多いみたいです。微妙に人治主義?その分、何だか政治がグズグズになったりとか、おかしな団体にひきずられたりとか。

戊辰閥の系統には「親分肌で優しい人が多い」と言えばそうなのでしょうが、戦争の後始末など、厳格な法治主義が問われる時代には余り向かないようです。どちらかといえば日本古層に近く、土着の風。反対に、法治主義やシビアな国際戦略の時代に向くのは、どちらかと言えば西南閥。開国時にイギリスの影響が強く入ったからかも知れませんが、殺人や裏切りが多いような、後味の悪いところがあるような…^^;

地方ごとの特徴があるのかも、という事で、時代に合わせて気質の組み合わせを上手く使えるようになれば良いかなあ、と思います。基本的には、日本は「和を以って貴しとなす」がポリシーだと思いますし…^^

・・・気ままでおかしな前置きは、以上です…^^;

1937盧溝橋事件・第二次上海事変・抗日戦線―日中戦争(1937-1945)…過程は省略

日中戦争が激化し、蒋介石は南京から重慶へ逃れた(重慶政府)。

蒋介石に対し、米英仏ソなどは、仏領インドシナやビルマ、雲南、新疆から重慶に通じる「援蒋ルート」によって、莫大な軍事経済援助を行っていた。この援助が続けられる限り、「いわゆる日中戦争」が長期化し、解決されないことは明白だった。

  • ベトナムのハイフォンからの<仏印ルート>
  • ラングーンから昆明に向う<ビルマルート>
  • 寧波、香港、広州などを経由する<南支ルート>
  • ソ連から新彊を経て入る<西北ルート>

この「援蒋ルート」をめぐる攻防戦(例えばインパール作戦が有名)を通じて、日本 vs 南京政府・アメリカ・イギリスという構図に広がっていった。ソ連もまた、日ソ中立条約が締結されるまで、独自に新疆方面などから蒋介石に支援物資を送った。欧州での対ドイツ戦に専念するために、日本軍を蒋介石問題に張り付けておきたかったのだと言われている。

この後、「援蒋ルート」を守るため、ABCD包囲が行なわれた。

太平洋戦争(1941.12.8-1945.9.2)がスタート。

一方、日中戦争中に、南京国民政府=汪兆銘政権(1940-1945)が成立。日本軍とは軍事協力せず、もっぱら共産ゲリラ討伐に動いていたと言われている。

日本軍占領下の上海では堂々とアヘン事業が行なわれ、満州・東北アヘンが大量に運び込まれた。上海の至るところに阿片市場ができ、当時の上海市長はあらゆる関係を利用して阿片事業から上前をはねるだけでなく、戒烟の名目で阿片を売りまくった(「戒烟局」という看板を掲げた施設で、阿片が吸えるようになっていた。阿片吸引者を登録制にし、特許証を交付して特許料を徴収するスタイル)

1945年=日本敗退。

日本敗退後の上海では、残された阿片を南京政府の特務が接収し、勝手に転売して暴利をむさぼっていた。まだ租界が残っていたので、租界内部の阿片がなかなか根絶されなかった上に、黒社会における密造・運搬などの手口が巧妙になった事もあって、取締りが困難だったと言われている。

また、日本国内でも内地への引揚げ者の中に阿片・モルヒネ・コカインの密売業者・吸引者が多く含まれており、手荷物の中に隠されて持ち込まれた麻薬の量、軍隊の中に戦略物資として残っていた麻薬在庫の量は、共に膨大だった。内地での中毒者が増えていたが、その理由は、飛行機の搭乗員や軍需工場の深夜作業に覚醒剤(ヒロポン)を使わせて作業させたケースが多かったからだと言われている。

【数的データ】・・・陸海軍が戦略物資として保管していた麻薬:
生阿片52,722kg/粗製モルヒネ2,844kg/粗製コカイン35kg/コカ葉17,000kg/エクゴニン195kg
(※敗戦後、半年経った時点でのデータであり、半年の間に闇に流れた分は不明だという)

この結果、日本では終戦後6年のうちに、ヒロポン、セドリン、パーテンなどの乱売・乱用を招き、一時は150万人もの人々が乱用者となったという記録がある。また、日本国内に残った朝鮮人による海外からの密輸阿片の供給と、暴力団の資金の需要とが結びつき、新たな麻薬中毒者が水面下で急増した。これには売春の増加が関わっていた。折りしも第1次インドシナ戦争でフランスが敗退して、ベトナム戦争にアメリカが介入していた頃で、アメリカ基地周辺で公然と売春が行なわれ、外貨稼ぎのひとつとなっていた頃の事であった。

一方、南京国民政府は、それまでの軍事費の累積によって膨大な財政赤字を抱えた。アメリカなどの援助金は、蒋介石・宋子文・孔祥煕・陳果夫(陳立夫)の四大家族の私腹を肥やす事に使われたと言われており、人民の反発が高まった。

国民党 vs 共産党の内戦スタート。

1949年=中華人民共和国の成立。

雲南省・ビルマに逃れた国民党勢力は、「大陸反攻」を決意して山中に立てこもる。1950年に成立した台湾国民政府からの援助物資もまた、「援蒋ルート」を通って運ばれた。この「援蒋ルート」が貫通する山岳地帯は、「ゴールデン・トライアングル」と呼ばれる一大阿片生産地となっており、〈阿片経済〉によって国民党残党の勢力を支えた。

朝鮮戦争(1950-1953)…実際の戦闘については省略。

同時期に中国共産党は阿片根絶のキャンペーンを展開。各省平均で4人に1人が阿片中毒者であり、大都市になると住民の半分以上が阿片喫煙者であったと言われる。

朝鮮戦争を通じてアメリカ資本主義への憎悪が高まり、「反革命罪」が明文化された。さらに戦時体制を維持するため「三反五反(1951-1953)」運動が奨励され、「反革命分子」のレッテルを張られた者は次々に処刑されたと言われている。

>>「三反」は1951年に提唱された国家機関または国営企業に対する指針。
「反貪汚」(反汚職)
「反浪費」
「反官僚主義」
>>「五反」は1952年に提唱された私営企業に対する指針。
「反行賄」(賄賂しない)
「反偸税漏税」(脱税しない。「偸」は「盗む」の意)
「反偸工減料」(仕事の手を抜き、原料をごまかさない)
「反盗騙国家財産」(国家財産を盗まない)
「反盗窃国家経済情報」(国家経済情報の悪用をしない)

この「三反五反」運動に使われた労力があまりに多かったため、例えば天津市では卸売業の取引が半減、銀行の融資が停止したという報告がある。

こうした流通遮断は全国に広がり、「京杭大運河」を筆頭とする水運流通もストップした。結果的に表面上は、シナ本土より〈阿片経済〉を消滅させる事になった(※阿片=日常の消耗品であったため、流通遮断による影響を大きく受けた。台湾国民政府が維持した「援蒋ルート」を除く)

その後、毛沢東・周恩来は、急激に不足した国家財源をまかなうため、再び〈阿片経済〉を復活させたと言う話がある。

熱帯に属しながら標高が高く、冷涼な貴州省・雲南省がケシ栽培にうってつけであり、山岳地帯が主要な生産地となったと言われている。一般に平地の富裕な「漢人」ではなく、山岳地帯の貧しい少数民族がケシ栽培を担当した。必然として、政府の意思に関わらず、地方の富裕な漢人が少数民族を搾取する構図が多かった。

特に雲南省は「民族の十字路」という立脚条件の元にあり、1960年代以降、東南アジア方面に急速に〈阿片経済〉が普及する役割を果たした。これは東南アジアへのマオイズムの輸出と同時に行なわれ、戦争と共に莫大な利益を生み出した。

また、戦後経済において〈阿片経済〉は、各国のヤクザ組織やCIA組織、新興宗教組織、ゲリラ・テロ組織の資金源として活用され、いっそう繁栄しているのが現実であると言われている。先進国における薬物乱用の風潮と、貧困国における密造・密輸ビジネスとがペアになっているため、根絶が困難となっている。

黒いお金「阿片」・5

折り返し後半に入った感じです。調べるほどにすさまじい暗黒史の連続であるせいか、正直、悪霊に憑依されているような状態が続いておりますが…orz

私見になりますが、日本軍部の過激化は、当時の日本教育界での人材教育に失敗した…というのが大きかったと思います。その反動が今の日教組過激派の弊害として現れておるわけで、何でも「やりすぎ=100%教育カルト化」は、やはり良くないですね…^^;

不幸な事に、この教育カルト化が現場を覆ってしまったのが、かつての戦中日本であったのでは無いでしょうか。軍部上官の暴力=超パワハラがひどかったのも、大体はこの硬直化によると思います。上官の暴力や妙なカルト思想で、優秀な組織を維持できる筈が無いのですが…(しかも、下手に「教師気取り」を始めると、その異常な暴力性を第三者にも撒き散らすから、始末に負えない…)^^;

優秀な組織を支えるのは平凡な80%の自律的コミュニケーションであり、特別な20%の振る舞いも、その平凡な80%の基盤コミュニケーションが、いかに活発で中庸で健全な思考力&批判力を持っているか…に、全面的に依存しているのだと思います。

ゆえに、80%の基盤のささやかな自由を切り捨ててしまった日本軍部&教育界の、その後の暴走オウム・カルト化の運命は、まさしく情報遮断ゆえの自業自得であり、上層部の基本認識が間違っていた以上、その凋落は決まっていたと申せましょう。軍部の威信は、平手打ち懲罰などというような「超パワハラ」をもってしても、もはや回復不可能なものだったのだ、と推察するものであります…^^;

日本軍部は、自分の力ではもはや後戻りできないほどに、戦争に入れ込んでいたのです。敗戦をきっかけに、〈暗黒大陸&阿片経済〉という最強の魔物から、無理やりにでも引き剥がす機会が出来たわけで、日本全体で見ると、敗戦は或る意味、底なしの地獄からの、救済の面もあったと思うのです。

色々と真っ黒な気配はありますが、それは世代を超えて協力して、根気良く解決するべきものである…と申せましょう。美月は、今の日本も昔の日本も、「いかにも日本だ」と思いますし、やはり好きですね…^^ゞ

《1920年-1930年代》

軍閥割拠(1916-1928)つづき

1921年、中国共産党の結成、第一回中国共産党全国大会。モスクワは共産党を強力な武装ソビエト組織に仕立て上げるため、最初は国民党と接触し、孫文を操ろうとしたらしい。孫文は各地軍閥を征伐するための北伐を決心したが、北伐反対派の陳烔明と対立(陳烔明は孫文の追い出しに成功したものの、1923年頃までには広東から追い出された)

1922年、中華民国にて「孫文・ヨッフェ共同宣言」。この時より中華民国は国民党・中国共産党ともにソビエト革命を完遂するように、ソ連より指導される。1923年に孫文は、更なるソ連の指示を仰ぐため、蒋介石グループをソ連に派遣。1924年には、モスクワから50万ルーブル(全額200万ルーブルのうちの一部)が援助され、ウラジオストク-広東ルートでソ連の武器弾薬が運搬された。

1924年、華北の軍閥の勢力図が変わる。奉天派 vs 直隷派の戦争で、「クリスチャン将軍」馮玉祥が奉天派に寝返ったため、直隷派リーダー呉佩孚が敗北。曹錕大統領は馮玉祥の指図を受けて、呉佩孚を左遷。その結果、北京政府の威信は張作霖・馮玉祥・段祺瑞の3人が独占したが、張作霖が最強だった。馮玉祥は張作霖をつぶすべくソ連から武器弾薬援助を受けたが動きが鈍く、張作霖に生き延びるスキを与えた。

1910年代末の軍閥勢力

  • (満州地域)奉天派軍閥=張作霖(北洋派)…日本から援助
  • (北京政府)直隷派軍閥=馮国璋将軍(クリスチャン北洋派)後に名目上の首領・曹錕将軍、事実上の首領・呉佩孚…米英から援助
  • (浙江地域)安徽派軍閥=段祺瑞将軍(北洋派)…日本から援助
  • (華南連合)中華民国=国民党主席=孫文…浙江財閥&洪幇から援助。

図版は『中国革命とソ連/抗日戦までの舞台裏【1917-37年】』ボリス・スラヴィンスキー&ドミートリー・スラヴィンスキー・著、加藤幸廣・訳(2002、共同通信社)より

1925年、孫文の死後、汪兆銘(国民政府議長)と胡漢民(国民政府外交部長)の対立が深まる。汪兆銘はコミンテルン工作員ボロディンと共産党から支持を受けており、共産党と上手くやっていた国民党のベテラン廖仲愷が謎の死を遂げると、廖仲愷殺害犯として胡漢民を糾弾し追放。汪兆銘とボロディンはこの結果、国民政府の主導権を握り、威信を高め続けている国民党の蒋介石将軍を、その地位から引きずり落とすべく、策謀を開始した。

(コミンテルンは、共産党が国民党を食い荒らすように仕向けて、国民政府を「モスクワ&コミンテルン」の支配下に置こうとしていた…という報告がある。ソ連視察から帰国していた蒋介石は、この動きに気づいていた…らしい)

1926年、ソ連からの軍需物資が定期的に確保され、蒋介石は北伐をスタート。周囲には常にソ連から派遣された将軍が付き添う。北伐そのものは上手くいったが、「より赤く染まった共産党グループ」が資本家含む民衆の略奪を始め、国民党政府(中華民国)の評判を落とし始めたため、国民党・蒋介石グループとの関係が険悪になる。

日本軍部・工作機関も活動していたが、その主目的は軍事費調達のための阿片ビジネスの拡大と、満州支配の確定と、「まるっと大陸ソビエト化」の妨害だった。一方、ソ連の工作機関は中国共産党の一層のソビエト化を指導。蒋介石へも「ソビエト革命を指導」していた。国民党と共産党との対立《☆》が深くなり、蒋介石と結託した青幇が手を下して共産党を排除。その後、蒋介石は宋美齢と華やかな結婚式を挙げる(…この混沌とした神経が理解できない…^^;;:::)

《☆》国民党と共産党との対立

1927.3.21上海占領の時期に、国民党と共産党の権益抗争(財貨の分捕り合戦)が激化したと言う記録がある。ロシアではスターリンとトロツキーが抗争を繰り広げ、華南ではM・M・ボロディンを通じたコミンテルンの工作が過激化していた。

ボロディンは国民党政府をコントロール下に置くために、汪兆銘を使って蒋介石を権力の座から引き摺り下ろそうとしていた。当時の国民政府で対立していたのは国民党・蒋介石と共産党・汪兆銘だったと言われているが、幾つかの有力派閥の闘争も絡んでいたらしく、その実態は謎である。

3.21に、ソビエト顧問A・A・フメリョフ計画に従って上海で統一労働組合同盟が第3回ゼネストを宣言し、50万人~80万人の労働者部隊が応じて、かねてから準備されていたソ連の武器弾薬を使って上海を奪取。租界はパニックになり、列強は秩序回復のために上海占領を検討し始めたが、3.27に蒋介石が外国人記者インタビューで「我々に内部分裂は存在しない(=勿論ウソ)、群集が租界内に侵入することはない」と宣言し、パニックを抑えた。

上海の財閥や青幇は共産化を嫌っており、蒋介石を援助していた。4.3に上海に汪兆銘が現れたとき、汪兆銘が対立陣営の和解を成し遂げると思われていたらしい(実際に「和解宣言」行動があったため、後々まで誤解が広がる羽目になった)。しかし汪兆銘の努力は実らず、4月に入ってから共産党員の逮捕が相次ぎ、4.12クーデタに発展したのだった…

世界大恐慌1929~

日本の産業構造は、西洋列強の産業構造に比べると、はるかに未熟だった。当時は軽工業から重工業へ、巨大土木産業へと移り変わる時代であり、アメリカは巨大ダムなどの土木事業で切り抜けたが、日本の産業構造はそこまで成熟しておらず、社会の経済格差が広がるばかりで、長引く不況から自力で抜け出すことが出来なかった。農村の娘の身売りが急増したのも、この頃の話…(現代も、「百年に一度の経済危機」、「失われた10年」、「東アジア共同体(=戦前の発想みたい)」など、モタモタしているのを見てもよく分かる訳です…^^;)

※例えば、八幡製鉄所の第一号高炉に初めて火が入ったのが1901年。西洋の高炉はすでに200年の技術蓄積がありました。軍事技術に深く関わる製鉄技術だけでも、これだけの差があったのであり、30年かそこらで西洋の産業構造に追いつけた(何だか、歴史教科書はそんな感じの記述になっている…)と思っているのであれば、それは「宇宙人の妄想」としか言えないと思います…^^;

一方、大陸では、上海を中心に〈阿片経済〉が安定した成長を続けていたため、日本を含むいっそうの海外商人をひきつける市場となっていた。日本軍部は、反共作戦も加わって際限なく膨張する軍事費の調達のために、大陸で成長し続ける〈阿片経済〉に、ますます深く関与することになった。

※里見甫(さとみ・はじめ)=阿片王の異名をとる国際闇商人。青幇や紅幇と連携し、上海でのアヘン密売を取り仕切る里見機関を設立。関東軍が満州で生産した阿片を市場に卸し、その利益を関東軍の戦費(=関東軍の経営費の25%が阿片経済からの利益=)に充て、一部は汪兆銘政権に回した(反共作戦の工作費として)。ただし、里見自身は「コチコチの頭」になっていた日本軍部を見放しており、日本には関心が無く、お金儲けにしか興味が無かったらしい。

1931満州事変―1932上海事変…実際の経過については省略

張作霖の死後、満州の〈阿片経済〉は日本・朝鮮の阿片業者の手に渡った。この件で張学良は日本を怨敵と見なし、1929年の禁煙令で日本・朝鮮の阿片ルートを潰して回っていた(粛清も行なった)。張学良は阿片王国と化していた熱河省・湯玉麟政権からの阿片流入を黙認するばかりでなく、自ら阿片ビジネスに積極的に関わって莫大な利益を挙げ、兵器工場を運営し、軍閥を維持した。

※満州鉄道の爆発事件などは、張作霖グループの阿片業者ルート vs 日本&朝鮮グループの阿片業者ルートにおける阿片ビジネスの市場争いが表面化した事件に過ぎなかった、という説もあるようです。日本関東軍も、「大陸の軍閥」と化しておったわけです。そして実際に、満州鉄道は、阿片ビジネスの大動脈でした。〈黒いお金〉に狂ってしまうと、みんな頭が変になるみたいです。『阿片、妖花アラウネ物語・・・20世紀を暗黒と化した黄金の指輪の呪い』というタイトルで、壮大な物語が書ける筈です。ただ、あまりにも変な人々が活躍しているみたいなので、英雄ファンタジー物語ではなく、ゾンビ&ホラー物語だと思いますが…^^;;

後に日本・関東軍は「満州国」を建国して張学良を排除したが、日本主導の傀儡政権下の阿片専売制を確立し安定させるために、張学良の時代に発達していた熱河からの闇阿片ルートを整理する必要に迫られたという。

1931-1936剿共作戦

蒋介石による、反共を兼ねた北伐。作戦費用は上海の阿片取引から得られた軍事費。中国共産党は全滅寸前だったが、張学良による西安事変(1936蒋介石監禁)を通じて国共合作へと移る。

1935年にソ連から満州国への東清鉄道の売却交渉があった。この最悪のタイミングが、南京政府の姿勢をぐらつかせることになった。更に新疆省に空港が置かれ、ソ連からの貿易物資が急速に流れ込み、中国共産党に対しての工作が前にも増して活発化。

モンゴル人民共和国-ソ連間に、軍事協力含む相互援助議定書締結。当時の日本・関東軍は満州を支配しており、華北へ兵力を進めてモンゴルと衝突していたため、より奇怪な状況になった。日本政府・関東軍の外交に比べるとソ連の外交の方が洗脳的かつ味わいがあり、一枚上手だったという事になるかと思われる…^^;

・・・西安事変(1936蒋介石監禁)にいたる伏線の解説

・・・剿共作戦に伴う共産党「長征」について。ソ連派リーダーが失脚し、「いわゆる毛沢東が指揮権を掌握したと言われている」が、その実態はかなり奇々怪々なものだったらしい(共産党の再建を指導したのは周恩来だったらしい…^^;)

長征を続けていた共産党は、各地の村で略奪を行ない、その中に含まれていた阿片を、食料や武器弾薬と交換できる最も価値の高い共通通貨(活動資金)として利用。革命本拠地では近くにケシ畑を作り、阿片を製造して近隣の市場でさばき、活動資金を得ていた。抗日戦線の成立後は、南京政府からの資金(=これも阿片による利益=)が期待できたため、体面の都合上、ケシ畑の栽培はストップしたと言われている。


FriendFeedコメントより転載

そういえば周恩来についての考察はあそこでストップしたままですね、お恥ずかしいことです。実を言えばこれに関してはもう失念していました。はたして周恩来伝を継続する意味があるのかどうかも疑問です。中共問題は毛や周がいたころとはすっかり変容してしまいました。名前だけは共産党を名乗ってはいても、もう党の内外で共産主義を信奉しているものは誰もいないでしょう。ネオ・マオイストらしき動きはあるものの、彼らにしても党批判の方便として毛を持ち出しているにすぎないのでしょう。むしろ国民党の歴史や黒社会の歴史を紐解いてみた方が現在と将来の中共理解に益するような気もしています。それへのとっかかりも<シナにつける薬>で始めてはいたのですが、ただしわたしにはもうその力も意欲も薄れています。つまりわたしにはもうどうでもいい問題に思えてきてしまったのです。しかしまた何かのきっかけで再燃してくるかも知れぬ「おき火」はまだもっているとは思いますが。 - 丸山光三
《返信》コメントありがとうございます*^^*…こういうタグイのテーマは、思い立ったときでないと、なかなか気力が続かないかも知れませんね。少し妙な言い方になりますが、善悪いずれにせよ、毛沢東・周恩来の生きていた時代…「昭和」という時代は、何につけても破滅的なエネルギーが充満していた、或る意味「熱い時代」でもあったのかも…と思っております。大きな戦争を死に物狂いで生き残ってきた「巨人」がまだ生きていて、なお信じがたいレベルの闘争に明け暮れている…というのは、ちょっと想像外の部分もあります。「中国共産党=江沢民&胡錦濤&習近平っぽい」というイメージなので…;^^ゞ