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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

黒いお金「阿片」・5

折り返し後半に入った感じです。調べるほどにすさまじい暗黒史の連続であるせいか、正直、悪霊に憑依されているような状態が続いておりますが…orz

私見になりますが、日本軍部の過激化は、当時の日本教育界での人材教育に失敗した…というのが大きかったと思います。その反動が今の日教組過激派の弊害として現れておるわけで、何でも「やりすぎ=100%教育カルト化」は、やはり良くないですね…^^;

不幸な事に、この教育カルト化が現場を覆ってしまったのが、かつての戦中日本であったのでは無いでしょうか。軍部上官の暴力=超パワハラがひどかったのも、大体はこの硬直化によると思います。上官の暴力や妙なカルト思想で、優秀な組織を維持できる筈が無いのですが…(しかも、下手に「教師気取り」を始めると、その異常な暴力性を第三者にも撒き散らすから、始末に負えない…)^^;

優秀な組織を支えるのは平凡な80%の自律的コミュニケーションであり、特別な20%の振る舞いも、その平凡な80%の基盤コミュニケーションが、いかに活発で中庸で健全な思考力&批判力を持っているか…に、全面的に依存しているのだと思います。

ゆえに、80%の基盤のささやかな自由を切り捨ててしまった日本軍部&教育界の、その後の暴走オウム・カルト化の運命は、まさしく情報遮断ゆえの自業自得であり、上層部の基本認識が間違っていた以上、その凋落は決まっていたと申せましょう。軍部の威信は、平手打ち懲罰などというような「超パワハラ」をもってしても、もはや回復不可能なものだったのだ、と推察するものであります…^^;

日本軍部は、自分の力ではもはや後戻りできないほどに、戦争に入れ込んでいたのです。敗戦をきっかけに、〈暗黒大陸&阿片経済〉という最強の魔物から、無理やりにでも引き剥がす機会が出来たわけで、日本全体で見ると、敗戦は或る意味、底なしの地獄からの、救済の面もあったと思うのです。

色々と真っ黒な気配はありますが、それは世代を超えて協力して、根気良く解決するべきものである…と申せましょう。美月は、今の日本も昔の日本も、「いかにも日本だ」と思いますし、やはり好きですね…^^ゞ

《1920年-1930年代》

軍閥割拠(1916-1928)つづき

1921年、中国共産党の結成、第一回中国共産党全国大会。モスクワは共産党を強力な武装ソビエト組織に仕立て上げるため、最初は国民党と接触し、孫文を操ろうとしたらしい。孫文は各地軍閥を征伐するための北伐を決心したが、北伐反対派の陳烔明と対立(陳烔明は孫文の追い出しに成功したものの、1923年頃までには広東から追い出された)

1922年、中華民国にて「孫文・ヨッフェ共同宣言」。この時より中華民国は国民党・中国共産党ともにソビエト革命を完遂するように、ソ連より指導される。1923年に孫文は、更なるソ連の指示を仰ぐため、蒋介石グループをソ連に派遣。1924年には、モスクワから50万ルーブル(全額200万ルーブルのうちの一部)が援助され、ウラジオストク-広東ルートでソ連の武器弾薬が運搬された。

1924年、華北の軍閥の勢力図が変わる。奉天派 vs 直隷派の戦争で、「クリスチャン将軍」馮玉祥が奉天派に寝返ったため、直隷派リーダー呉佩孚が敗北。曹錕大統領は馮玉祥の指図を受けて、呉佩孚を左遷。その結果、北京政府の威信は張作霖・馮玉祥・段祺瑞の3人が独占したが、張作霖が最強だった。馮玉祥は張作霖をつぶすべくソ連から武器弾薬援助を受けたが動きが鈍く、張作霖に生き延びるスキを与えた。

1910年代末の軍閥勢力

  • (満州地域)奉天派軍閥=張作霖(北洋派)…日本から援助
  • (北京政府)直隷派軍閥=馮国璋将軍(クリスチャン北洋派)後に名目上の首領・曹錕将軍、事実上の首領・呉佩孚…米英から援助
  • (浙江地域)安徽派軍閥=段祺瑞将軍(北洋派)…日本から援助
  • (華南連合)中華民国=国民党主席=孫文…浙江財閥&洪幇から援助。

図版は『中国革命とソ連/抗日戦までの舞台裏【1917-37年】』ボリス・スラヴィンスキー&ドミートリー・スラヴィンスキー・著、加藤幸廣・訳(2002、共同通信社)より

1925年、孫文の死後、汪兆銘(国民政府議長)と胡漢民(国民政府外交部長)の対立が深まる。汪兆銘はコミンテルン工作員ボロディンと共産党から支持を受けており、共産党と上手くやっていた国民党のベテラン廖仲愷が謎の死を遂げると、廖仲愷殺害犯として胡漢民を糾弾し追放。汪兆銘とボロディンはこの結果、国民政府の主導権を握り、威信を高め続けている国民党の蒋介石将軍を、その地位から引きずり落とすべく、策謀を開始した。

(コミンテルンは、共産党が国民党を食い荒らすように仕向けて、国民政府を「モスクワ&コミンテルン」の支配下に置こうとしていた…という報告がある。ソ連視察から帰国していた蒋介石は、この動きに気づいていた…らしい)

1926年、ソ連からの軍需物資が定期的に確保され、蒋介石は北伐をスタート。周囲には常にソ連から派遣された将軍が付き添う。北伐そのものは上手くいったが、「より赤く染まった共産党グループ」が資本家含む民衆の略奪を始め、国民党政府(中華民国)の評判を落とし始めたため、国民党・蒋介石グループとの関係が険悪になる。

日本軍部・工作機関も活動していたが、その主目的は軍事費調達のための阿片ビジネスの拡大と、満州支配の確定と、「まるっと大陸ソビエト化」の妨害だった。一方、ソ連の工作機関は中国共産党の一層のソビエト化を指導。蒋介石へも「ソビエト革命を指導」していた。国民党と共産党との対立《☆》が深くなり、蒋介石と結託した青幇が手を下して共産党を排除。その後、蒋介石は宋美齢と華やかな結婚式を挙げる(…この混沌とした神経が理解できない…^^;;:::)

《☆》国民党と共産党との対立

1927.3.21上海占領の時期に、国民党と共産党の権益抗争(財貨の分捕り合戦)が激化したと言う記録がある。ロシアではスターリンとトロツキーが抗争を繰り広げ、華南ではM・M・ボロディンを通じたコミンテルンの工作が過激化していた。

ボロディンは国民党政府をコントロール下に置くために、汪兆銘を使って蒋介石を権力の座から引き摺り下ろそうとしていた。当時の国民政府で対立していたのは国民党・蒋介石と共産党・汪兆銘だったと言われているが、幾つかの有力派閥の闘争も絡んでいたらしく、その実態は謎である。

3.21に、ソビエト顧問A・A・フメリョフ計画に従って上海で統一労働組合同盟が第3回ゼネストを宣言し、50万人~80万人の労働者部隊が応じて、かねてから準備されていたソ連の武器弾薬を使って上海を奪取。租界はパニックになり、列強は秩序回復のために上海占領を検討し始めたが、3.27に蒋介石が外国人記者インタビューで「我々に内部分裂は存在しない(=勿論ウソ)、群集が租界内に侵入することはない」と宣言し、パニックを抑えた。

上海の財閥や青幇は共産化を嫌っており、蒋介石を援助していた。4.3に上海に汪兆銘が現れたとき、汪兆銘が対立陣営の和解を成し遂げると思われていたらしい(実際に「和解宣言」行動があったため、後々まで誤解が広がる羽目になった)。しかし汪兆銘の努力は実らず、4月に入ってから共産党員の逮捕が相次ぎ、4.12クーデタに発展したのだった…

世界大恐慌1929~

日本の産業構造は、西洋列強の産業構造に比べると、はるかに未熟だった。当時は軽工業から重工業へ、巨大土木産業へと移り変わる時代であり、アメリカは巨大ダムなどの土木事業で切り抜けたが、日本の産業構造はそこまで成熟しておらず、社会の経済格差が広がるばかりで、長引く不況から自力で抜け出すことが出来なかった。農村の娘の身売りが急増したのも、この頃の話…(現代も、「百年に一度の経済危機」、「失われた10年」、「東アジア共同体(=戦前の発想みたい)」など、モタモタしているのを見てもよく分かる訳です…^^;)

※例えば、八幡製鉄所の第一号高炉に初めて火が入ったのが1901年。西洋の高炉はすでに200年の技術蓄積がありました。軍事技術に深く関わる製鉄技術だけでも、これだけの差があったのであり、30年かそこらで西洋の産業構造に追いつけた(何だか、歴史教科書はそんな感じの記述になっている…)と思っているのであれば、それは「宇宙人の妄想」としか言えないと思います…^^;

一方、大陸では、上海を中心に〈阿片経済〉が安定した成長を続けていたため、日本を含むいっそうの海外商人をひきつける市場となっていた。日本軍部は、反共作戦も加わって際限なく膨張する軍事費の調達のために、大陸で成長し続ける〈阿片経済〉に、ますます深く関与することになった。

※里見甫(さとみ・はじめ)=阿片王の異名をとる国際闇商人。青幇や紅幇と連携し、上海でのアヘン密売を取り仕切る里見機関を設立。関東軍が満州で生産した阿片を市場に卸し、その利益を関東軍の戦費(=関東軍の経営費の25%が阿片経済からの利益=)に充て、一部は汪兆銘政権に回した(反共作戦の工作費として)。ただし、里見自身は「コチコチの頭」になっていた日本軍部を見放しており、日本には関心が無く、お金儲けにしか興味が無かったらしい。

1931満州事変―1932上海事変…実際の経過については省略

張作霖の死後、満州の〈阿片経済〉は日本・朝鮮の阿片業者の手に渡った。この件で張学良は日本を怨敵と見なし、1929年の禁煙令で日本・朝鮮の阿片ルートを潰して回っていた(粛清も行なった)。張学良は阿片王国と化していた熱河省・湯玉麟政権からの阿片流入を黙認するばかりでなく、自ら阿片ビジネスに積極的に関わって莫大な利益を挙げ、兵器工場を運営し、軍閥を維持した。

※満州鉄道の爆発事件などは、張作霖グループの阿片業者ルート vs 日本&朝鮮グループの阿片業者ルートにおける阿片ビジネスの市場争いが表面化した事件に過ぎなかった、という説もあるようです。日本関東軍も、「大陸の軍閥」と化しておったわけです。そして実際に、満州鉄道は、阿片ビジネスの大動脈でした。〈黒いお金〉に狂ってしまうと、みんな頭が変になるみたいです。『阿片、妖花アラウネ物語・・・20世紀を暗黒と化した黄金の指輪の呪い』というタイトルで、壮大な物語が書ける筈です。ただ、あまりにも変な人々が活躍しているみたいなので、英雄ファンタジー物語ではなく、ゾンビ&ホラー物語だと思いますが…^^;;

後に日本・関東軍は「満州国」を建国して張学良を排除したが、日本主導の傀儡政権下の阿片専売制を確立し安定させるために、張学良の時代に発達していた熱河からの闇阿片ルートを整理する必要に迫られたという。

1931-1936剿共作戦

蒋介石による、反共を兼ねた北伐。作戦費用は上海の阿片取引から得られた軍事費。中国共産党は全滅寸前だったが、張学良による西安事変(1936蒋介石監禁)を通じて国共合作へと移る。

1935年にソ連から満州国への東清鉄道の売却交渉があった。この最悪のタイミングが、南京政府の姿勢をぐらつかせることになった。更に新疆省に空港が置かれ、ソ連からの貿易物資が急速に流れ込み、中国共産党に対しての工作が前にも増して活発化。

モンゴル人民共和国-ソ連間に、軍事協力含む相互援助議定書締結。当時の日本・関東軍は満州を支配しており、華北へ兵力を進めてモンゴルと衝突していたため、より奇怪な状況になった。日本政府・関東軍の外交に比べるとソ連の外交の方が洗脳的かつ味わいがあり、一枚上手だったという事になるかと思われる…^^;

・・・西安事変(1936蒋介石監禁)にいたる伏線の解説

・・・剿共作戦に伴う共産党「長征」について。ソ連派リーダーが失脚し、「いわゆる毛沢東が指揮権を掌握したと言われている」が、その実態はかなり奇々怪々なものだったらしい(共産党の再建を指導したのは周恩来だったらしい…^^;)

長征を続けていた共産党は、各地の村で略奪を行ない、その中に含まれていた阿片を、食料や武器弾薬と交換できる最も価値の高い共通通貨(活動資金)として利用。革命本拠地では近くにケシ畑を作り、阿片を製造して近隣の市場でさばき、活動資金を得ていた。抗日戦線の成立後は、南京政府からの資金(=これも阿片による利益=)が期待できたため、体面の都合上、ケシ畑の栽培はストップしたと言われている。


FriendFeedコメントより転載

そういえば周恩来についての考察はあそこでストップしたままですね、お恥ずかしいことです。実を言えばこれに関してはもう失念していました。はたして周恩来伝を継続する意味があるのかどうかも疑問です。中共問題は毛や周がいたころとはすっかり変容してしまいました。名前だけは共産党を名乗ってはいても、もう党の内外で共産主義を信奉しているものは誰もいないでしょう。ネオ・マオイストらしき動きはあるものの、彼らにしても党批判の方便として毛を持ち出しているにすぎないのでしょう。むしろ国民党の歴史や黒社会の歴史を紐解いてみた方が現在と将来の中共理解に益するような気もしています。それへのとっかかりも<シナにつける薬>で始めてはいたのですが、ただしわたしにはもうその力も意欲も薄れています。つまりわたしにはもうどうでもいい問題に思えてきてしまったのです。しかしまた何かのきっかけで再燃してくるかも知れぬ「おき火」はまだもっているとは思いますが。 - 丸山光三
《返信》コメントありがとうございます*^^*…こういうタグイのテーマは、思い立ったときでないと、なかなか気力が続かないかも知れませんね。少し妙な言い方になりますが、善悪いずれにせよ、毛沢東・周恩来の生きていた時代…「昭和」という時代は、何につけても破滅的なエネルギーが充満していた、或る意味「熱い時代」でもあったのかも…と思っております。大きな戦争を死に物狂いで生き残ってきた「巨人」がまだ生きていて、なお信じがたいレベルの闘争に明け暮れている…というのは、ちょっと想像外の部分もあります。「中国共産党=江沢民&胡錦濤&習近平っぽい」というイメージなので…;^^ゞ
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