忍者ブログ

制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

読書覚書:中国文明の特質・宗教と結社

資料=『世界歴史体系 中国史4 明-清』神田信夫・編、山川出版社1999

中国では2000年以上も「万人の万人に対する闘争」とでも言うべき状況が進行していた。これはまた「自律的団体結合の欠如を特質とする中国社会のありかた」とも表現される。これを過大評価すると「自由と活力と競争に富む社会」となるが、実は人々が散砂に近い状況でひしめきあっていたとも言えよう。中央権力はこの状態を維持し、更に散砂化を促進する事によって「平天下」の実現を目指してきたかに見える。官僚が横に連合する事は許されなかったし、民の連合は一族や郷村内の相互扶助のみに限定された。

しかし、中央権力のおとろえた明代後期に状況は変化した。明末清初は中国の歴史では稀な「結会・結社の時代」と言われ、また「民間宗教簇生(そうせい)の時期」とされる。

知識人だけでなく庶民に対しても陽明学が情熱的に伝道された事は、その傾向を促進した。無学な人々に対する羅教の普及もまたその傾向を強めた。陽明学と羅教は中国史では稀な人間結合をもたらす運動であったのである。陽明学は結局、党争の激化を招き、明朝崩壊の原因ともされた。羅教は民衆の無数の秘密結社と言う形で後世に継承された。

だが、中央権力は一貫して、民衆の血縁地縁を超える結合を危険視して弾圧したから、民衆の結社はすべて秘密結社の形を取らざるを得なかった。しかし、少なくとも数百年、おそらくは数千年の散砂の状態にあり続けた民衆は新しい結合の仕方に慣れていない。よく知っているのは皇帝が散砂の民衆を支配すると言う形式であった。しかも組織全体を権力から守らなければならない。

従って民衆の秘密結社は指導部のみが全体を把握し、構成員は横のつながりを持たないという組織原則にならざるを得なかった。民衆独自の結社においてまでも民衆は散砂であり続けなければならなかったのである。此処に中国文明の特質のひとつが示されていると言えよう。

※以上、この部分の文章は奥崎裕司・著※


《明代の白蓮教・無為教》(奥崎裕司・著より、要約)

明代の民衆宗教は儒教・仏教・道教が混合したものであったが、大きく二系統に分かれていた:

  • 「浄土信仰」&「弥勒信仰」⇒白蓮教(元末に成立)
  • 「無生父母信仰」⇒無為教(明代中期に成立)

白蓮教は南宋以来、近現代に至る中国民間の代表的宗教結社。初めは阿弥陀信仰(南宋の時代)であったが、勢力拡大を危険視されて弾圧される。元代になると一時は布教を許されたが、結局は、摩尼・白雲と並ぶ異端邪教の代表となった。元の末期頃、白蓮教に弥勒教が入って来たと言われており、弥勒下生により現世に理想社会が実現すると言う、現世救済の教義が速やかに成立した。

弥勒仏を名乗ったカリスマ的指導者はメシア的性格を持つため、白蓮教の教徒はしばしば反乱を起こした。紅巾の乱もそのひとつであり、明成立のきっかけになったが、後に明の皇帝になった洪武帝は、その後、白蓮教を妖術として弾圧し禁止した。

白蓮教結社はその後も反政府活動を続け、他方では密貿易や新田開発に手を染めていた。清の時代も活動は続き、義和団事件(1900)にも関与している。白蓮教の一派は少なくとも最近まで「在理教」などの名で続いていた。「在理」とは儒仏道三教の理の中に在るを言う。

白蓮教をはじめとする明・清時代の多くの宗教結社に共通している最大の点はカタストロフィ到来必然の信仰と強烈なメシア待望論であった(キリスト教タイプの終末思想=千年王国信仰と多くの共通点がある)。

嘉靖年間(明、嘉靖帝1522-1566)、李普明の創始した民衆宗教「黄天道」の宝巻「弥勒出西宝巻」の内容は以下の通り:

「弥勒の世は黄金や宝石で作られた美しい世界であり、果実や穀物が豊かに実り、人間はそれらを食して飢えず、貧窮に苦しむ者も居ず、気候は温和で乱れず、太平の春を謳歌する。人間は不老長寿となり、聡明で美貌、仁義礼智信の五徳は正され、何処に住む人々も心が同じとなり、みな兄弟姉妹のようになる。路に落ちている物を拾う者や盗賊が無くなり、金や銀を貯めておくなどという事は少しもしない。国法も無く穀物や税金を納めることも無い。92億の肉親姉妹が8万1000年の太平を享受し、昼には毎日まばゆいばかりの美しい着物で宴会をする。弥勒仏の治世が終われば人々は皆共に(天上の)都・斗宮に行って無生老母(嬢親)にまみえる」

これは無為教の影響を受けて成立した新しい白蓮教と言われている(つまり、古い方の白蓮教とは明らかに別物)。

無為教は羅清(らせい・羅祖)という人物が創始した。

「心は万物に先立って存在し、不増不減不生不滅であり、あらゆる事象による区別や拘束を受けず、完全無欠である。心(自己の本性)は絶対的なものである。この心は修行によって作られるものでもなく、証明される必要もなく完全無欠である。従って、この教えを無為教と言う(※ただし、心の探求・心の発見は重要であり、未熟者が本性の現成をとなえて心の探求をしないのは誤りである)」

※羅祖の大虚空は光であり禅宗の用語では「本来の面目」であった。王陽明と似た宗教的悟り(到良知)でありながら、「光に照らされ光に満ち満ちる体験をし、しかもそれが慈悲の光であり、慈悲によって体験できた(最高神と理想郷の実在を感得した)」という宗教体験に羅祖の特色がある。

羅祖は大乗的な方法を選び無為教の宗教結社を結成したが、民衆の間での拡大が著しく無数の結社を生んだだめ、既存の団体・官憲からは危険視され、明末新仏教とも対立した。後に無為教が弥勒下生信仰と結合すると更に弾圧されるようになった。

元々、無為教は白蓮教や弥勒信仰を邪教として遠ざけていたが、明末になると白蓮教も無為教も混合し変質した。その際、無為教の神「無生父母」は、男性神と分かれ、「無生老母」という女性神として成長した。「無生老母」には救世主としての性格も付与され、この神の主宰する理想郷は「真空家郷」と呼ばれた。無生老母は、民間信仰の女性神「観音」「泰山娘娘」「西王母」などとも混ざり合った。

羅教は、禅宗の民衆化したものとも言われており、禅宗と共通する問題を含んでいた。羅教や、羅教と混合した白蓮教には、霊体験志向と超能力志向があり、その方面での努力はするが、その他の修行や工夫は軽視する傾向があった。そのため、霊力(超能力)信仰が強まるという側面があった。

PR

読書覚書:明の亡命民(知識人)

資料=『世界歴史体系 中国史4 明-清』神田信夫・編、山川出版社1999

多くの読書人たちが、清軍に対して勝ち目の無いレジスタンスを続けた。明末清初の時期は、知識人にとって受難の時代であった。従来、知識人は学問をし、道徳を説いておれば良かった。しかし、この戦乱の時期には、学問や道徳では国家の危機を救うことのできない事に気付いた知識人たちは、絶望的なレジスタンスを戦ったわけであった。

《日本へ亡命した遺民》

明の滅亡前後に、「夷狄」清朝に屈従する事を嫌って、日本へ亡命した知識人たちがいた。中でも有名なのは、浙江余姚(よよう)県出身の朱舜水であろう。彼は明朝が滅亡するや、抗清レジスタンスに参加し、中国・ベトナム・日本の三角貿易に従事し、日本へも何度か来た事があったらしい。鄭成功の南京攻略戦に従軍したが、明朝復興の到底不可能な事を悟って、1659年、7度目に長崎を訪れたまま、再び帰国せず、日本に亡命した。1665年には水戸藩へ迎えられ、水戸光圀はじめ、水戸学派の学者たちと交わり、大きな影響を与えた。

浙江仁和(にんな)県の戴曼公(たいまんこう/諱=笠・りゅう)は明末の生員であったが、明朝滅亡後は戦乱を避けて医術に従事し、ことに痘科(天然痘)の治療を得意としていた。夷狄の清朝のもとにあるのを嫌って、1652年に長崎へ渡来して、日本での亡命生活を送った。周防の吉川侯にもちいられた。晩年、隠元に従って剃髪し、名を性易(せいい)と改めた。張斐文(諱=斐・ひ)も浙江余姚(よよう)県の読書人であったが、明朝の滅亡後、天下を遊歴して、ひそかに愛国の志士と交わり、明朝の復興を図ろうとしたが、結局なすところなく、日本の援助を求めようとして来日したが、成果をおさめることはできなかった。

陳元贇(ちんげんぴん)は浙江杭州の出身で、万暦年間に進士に合格したと言われる。1621年春、中国沿海における倭寇の横行に抗議するため、長崎に渡来した。1638年に再び来日したが、長崎に着いて間も無く重病にかかり、そのまま滞在しているうちに明朝が滅亡したため、帰国を断念して日本へ亡命する事になった。後に尾張藩に召しかかえられ、学問や文学の才能を発揮した。また尾張公の命で、安南風の陶磁を製作し、後に「元贇焼(げんぴんやき)」と呼ばれた。

僧・隠元は福建福州で生まれ、生地の黄檗山万福寺で出家して、臨済禅を学んだ。その後、各地の名寺を巡歴し、修行、布教を続け、明朝滅亡の翌々年に万福寺に戻ってきた。同寺に留学していた日本の僧・逸念(いつねん・長崎興福寺の住持)の勧めに応じて、1654年、多くの従僧と共に来日した。その際、彼がわが国に伝来した隠元豆は有名である。翌1655年、京都妙心寺の龍渓に招かれて、摂津富田林(大阪府)の普門寺に住したが、彼の名声は天下に知れ渡るようになった。将軍徳川家綱は1658年、彼を江戸に招いて引見した上、山城国宇治郡大和山(京都府)に寺地を与えた。隠元は4年後、ここに黄檗山万福寺を創設した。彼の郷里の寺と全く同名であった。久しくマンネリズムに陥っていた日本の臨済禅に大きな刺激を与えた。ただし、4年後には弟子の木菴(もくあん)に住職をゆずって隠棲した。万福寺の建築様式は、当時の中国の禅寺の建築様式をそのまま移入したもので、極めて異国情緒に富んでいる。

浙江金華出身の東皐心越(とうこうしんえつ)は曹洞宗の名僧で、西湖の傍の永福寺に住していたが、明朝が滅んだ後、来日の意思を抱いていたところ、長崎県興福寺の住持澄一(ちょういつ)に招かれて、1677年に長崎へ渡来した。やがて徳川光圀に認められて、1683年に水戸へ移り、天徳寺の住職となった。彼は書画・篆刻に巧みで、また江戸の仏教界に明朝式の法式(ほっしき)を伝えた事で有名である。

※以上、この部分の文章は山根幸夫・著※


《感想》・・・お味噌汁などでお馴染みの具、インゲンマメの由来にオドロキです

清朝が野蛮だったかと言うと、そうでも無かったようです(ただし、処刑などの方法は、やはり無惨なものだったらしい)。異民族の王朝成立という出来事に対する知識人の様々な反応として、考えさせられるところがあります。辮髪の風習が、なかなか受け入れがたい物であったという事も、レジスタンスが続いた理由だという話

清朝の支配は、かなり長く続いたという事が知られていますが、「漢族的なもの」とビミョウにずれ続けていたらしいというのは、すこぶる興味深いところです(明朝の支配は、比較的に武断政治的なものだったようですが、極めて「漢族っぽい」と受け取られていたらしい)

清末の洪秀全は、キリスト教に染まり「太平天国の乱」を起こした知識人として有名ですが、反乱を起こす際、辮髪を拒否して長髪に変えたと言うエピソードがあり、「社会文化の定型的なサイン」としての「髪型」の重要性に、改めて思い至るところであります

下に引用した「恐怖に対する反応」の考察を更に延長してゆくと、大陸の一般の人民は、「巨大で理解不能なこちらの思惑を解しないおそるべきもの(=異民族王朝)」に対して、辮髪などの風習を受け入れて服従のサインを示す、つまり「長いもの(恐怖の対象)に巻かれる/自分が恐怖そのものになってしまえば、恐怖を恐怖と感じなくなる」というパターンが多かったのでは無いかと考察するものです

中国料理と言えば「満漢全席」です。歴史的には色々あったようですが、流石に胃袋の方では、異文化の出会いが上手く行っていたようです


日本人的感性による「クトゥルフ神話」プレイ=http://simizuna.exblog.jp/2686614

日本での「クトゥルフ神話的恐怖」の位置づけ

…一方日本でそういった「理解出来ないものがもたらす恐怖」とか「大いなる神は害をなすことがある」といったようなものが「恐怖の対象」として成立するかというと、そもそも日本というのは中国という巨大な怪物と常に渡りあってきた(後の時代には、それは西欧諸国だったりいまだとアメリカがまさにそうですな)という歴史的経緯があるため
・巨大で理解不能なこちらの思惑を解しないおそるべきもの
というのは単に、
・理解して何とか共存すべく交渉すべき存在
として捕らえられることになり、そうやって理解されたものはすでに「恐怖の対象」として成立しないことになります。日本のこういったスタンスを現す典型的な言葉として「和洋折衷」という言葉があります。あるいは、日本と中国の折衷料理として「卓袱料理」なんてものもあります。これは日本自体の地理的状況もありますが、日本に浸透している仏教的考え方の影響も大きいと思われます。キリスト教では別の世界の神とか概念といったものはすべて「悪魔」とか「異教」とか言って排除にかかりますが、仏教の世界ではそれらは仏教の神様の一つとして組み入れられていく、というスタンスの違いがあります。

華夏大陸:分裂と統合の末の完結

五代十国時代:後梁初期における各地自立勢力の出自

華北地方

  • 晋:李克用:突厥沙陀部族長⇒河東節度使(太原府)⇒895晋王:5藩23州
  • 燕:劉仁恭:廬竜軍軍校⇒廬竜軍節度使(幽州)⇒909燕王:2藩12州
  • 岐:李茂貞:神策軍軍校⇒鳳翔節度使(岐州)⇒901岐王:8藩20州(のち2藩7州に後退)

四川地方

  • 前蜀:王建:塩賊⇒軍卒⇒剣南西川節度使(成都府)⇒903蜀王:9藩48州

江南地方

  • 楚:馬殷:木工⇒軍賊⇒武安軍節度使(潭州)⇒907楚王:3藩22州
  • 呉:楊行密:群盗⇒廬州軍卒⇒淮南節度使(揚州)⇒902呉王:5藩9州
  • 呉越:銭鏐:自衛団首領⇒鎮海軍節度使(杭州)⇒907呉越王:2藩11州
  • 閩:王審知:軍賊⇒武威軍節度使(福州)⇒909閩王:1藩5州
  • 南漢:劉隠:広州軍卒⇒静海軍節度使(広州)⇒909南海王:3藩32州
  • 荊南:高李興:商家下僕⇒朱全忠部曲⇒荊南節度使(江陵府)⇒924南平王:1藩3州

《以上、資料は『世界歴史体系 中国史3 五代-元』(山川出版社1997)より》


北魏以来、鮮卑系の遊牧騎馬民族の部族連合体としての勢力図を強く残していた隋唐帝国には、中央直轄の軍隊、つまり近代的な意味で言う「国軍」が存在しませんでした。軍閥・節度使といった、地方有力者の軍事力に抑止力を依存したため、反乱や外敵侵入に対応する際、指揮系統が混乱していた事が指摘されています。

五代十国時代は、中央の権威の弱体化に乗じての、節度使の群雄割拠の時代とも言えます。五代政権は、唐の中央官制と節度使の権力構造とを折衷した物となりました。

節度使の政権運営は、各地方における、軍部(軍閥)による政権掌握であると言う事も出来ます。多極化などの時代変化に伴い、多くの令外官が設けられました。禁軍(中央直轄の軍・親衛隊)の編成は、この変化に伴う物でした。

傭兵中心の軍が禁軍その他の軍部組織(≒国軍)に繰り上がったため、兵士は「民間からの徴用」では無く、給料を出して雇う、公務員的な存在となりました(『水滸伝』に出て来る兵士は、国家から給料をもらっている存在と語られています)。

必然として、国家財政における軍事費(人件費を含む)の割合は、唐帝国のシステムに比べると劇的に増大しており、重い負担となったという事が指摘されています。

なお、五代政権の中央官制と禁軍編成は少しずつ改編しながら宋代に受け継がれましたが、宋代になると武人の権限は大きく縮小され、再び「皇帝」の下、文人支配体制に移行して行きました。

この五代十国時代に起きた重要な変化は、華北・華南の人口分布が、古代とは様相を異にしていたという事、そして共通通貨としての銅銭の重要性が増していたという事です。

華北地方は、ユーラシアとつながる西域(シルクロード)を通じて襲来して来た数多の異民族の間で揺れ動き、綱渡りのような不安な政情が続いたため、人口流出が続きました。それに対して、長江デルタにあって水運が発達し、大量の人口を支える肥沃な土地が広がっていた華南地方では、群雄割拠があったものの経済的繁栄が続いたため、更なる人口流入が生じていたのです。

代々の帝国の戸籍からの推測ではありますが、以下のような変遷であったようです:

  • 前漢末(2頃)…北90%弱、南10%強
  • 晋代(280頃)…北60%強、南40%弱
  • 隋代(606頃)…北77%、南23%
  • 唐代(742頃)…北57%、南43%
  • 北宋(1080頃)…北35%、南65%(おそらく史上初の1億人超という推測がある)

五代十国時代における十国の国境線は、宋の統一後も広域行政区である「路」として継承されました。その後、元の中書行省(元帝国の独自の地方行政区画)を経て、現在の民族自治区を除く地方行政単位である「省」の境界にそのまま引き継がれます。

現在、この「省」が、地理的条件、風俗・習慣・言語(方言)、広域経済ブロック単位として機能していますが、それは、五代十国時代に由来を求める事が出来るのです。

五代十国時代は、特に華南地方(江南地方)の経済的躍進の時代でありました。各地方に分裂した勢力が、おのおの地元の経済振興策に集中したという側面があり、各地で地場産業が成長するきっかけになりました(特産品の創出など)。生産力の南北格差の始まりです。

地場産業(塩、茶、絹、綿、製紙、陶磁器、木工・竹工雑貨等)の生産物や物資は、 新興都市である「鎮(商業の拠点となる都市)」に集荷され、付加価値のついた商品になって広域流通圏の販路に乗り、 国境を越えて流通しました(大陸全土で起きた変化ではありましたが、華北よりも華南の方が活発でした)。

このような広域流通の発達は、必然として、共通通貨としての貨幣を、より強力に必要としました。銅銭は古代の頃から、高額商品を金や絹で決済すると言う実物経済の補助として使われていましたが、安定した唐の時代を経て、華夷秩序が及ぶとされるアジア圏(朝貢諸国)での、国際決済通貨(朝貢諸国におけるハードカレンシー)としての圧倒的なパワーを持つに至っていたのです(銅本位制)。

この「共通通貨」は、後の時代、イスラム諸国を降し世界帝国となったモンゴル帝国(元)の下で、ユーラシア諸国の経済活動と更に深く結び付きました(当時の西洋はイスラム経済の影響を大きく受けており、金銀複本位制。なお、イスラム諸国では銀鉱脈枯渇・精錬用の木材の減少のため銀不足が起き、アフリカ産の金貨が多くなりました。経済発展に伴う貨幣が十分に供給できず、小切手が一般化し、銀行業が発展していたと言われています)。そして更に後の、いわゆる大航海時代においては、スペイン・ポルトガルが主導した「銀」が、グローバル経済の基準となっていました(銀本位制)。

五代十国時代の群雄たちは、財政を左右する銅銭の確保に必死になった事が指摘されています。富国強兵政策を維持するため、群雄たちは様々な経済振興策を図り、商品作物を輸出して銅銭を輸入したり(後の時代、日本が宋から大量の銅銭を輸入したのも、この銅本位制の流れを受けたため)、ライバル国の交通網を封鎖したりしていました。

自国発行の銅銭の改鋳によって貨幣価値を切り下げ、この差から生じる対外的な利(輸出有利&為替有利)を得るという事も、商業経済が成長し続ける華南の諸勢力の間では、盛んに行なわれていました(より低品位の貨幣、つまり鉄銭・鉛銭の併用もありました)。対して華北勢力は、経済規模が小さい割に傭兵への俸給は大きい(軍の規模も、華南諸勢力に比べ相対的に大きいものだった)という条件があったため、商業振興よりも農業振興に集中し、銅本位制にこだわったと言う事が指摘されています。

五代十国の間に通貨は地域ごとにバラバラになり、租税の制度や流通手続きは煩雑になりました。この過度の貨幣市場の分裂が、群雄割拠を終わらせるきっかけともなりました。あたかも古代の秦帝国のように、統一政権による共通通貨の一元化が求められたのです。宋が天下統一を成し遂げたのは、地域差を容認しつつ着実に均一化を進めたためという指摘があります。

都市の光景もまた、大きく変わりました。唐代の間、平和が続いたため商業が発展し、それまで政治中心であった謹厳な古代都市は、「不夜城」とも呼び習わされるような娯楽を含んだ商業都市へと変貌を遂げていました(特に「揚州」が有名)。

古代においては長安・洛陽が即ち首都であるという認識がありましたが、貨幣経済の発達、流通の発達に伴い、富が通過する場所も移動していました。流通の大動脈たる大運河を擁する場所、即ち「開封(汴京)」が、機能的な面から新しい首都として認識されるようになりました。

伝統的な都市構造から見ると、「開封(汴京)」は、中心部が妙に傾斜し、内城・外城の至る所に商業施設が進出した異例なタイプの都市と言えますが、同時に、今日の都市に随分近い雰囲気でもあったろうと思われます。五代十国時代から宋の滅亡まで首都であり続けた都市でしたが、金の侵攻により運河が荒廃し南北分断されると、富の集積地としての機能を失いました。その後は運河の再建はあったものの、再び首都の座に返り咲く事はありませんでした。

宋代には既に、商人活動を制限する古代の「市制」が崩壊していました。特に「瓦市(がし)」と呼ばれる歓楽街があり、酒楼、演芸場、飲食店などの店が出ており、白話文学(後の『水滸伝』や『西遊記』の元となる)や戯曲(『西廂記』、『琵琶記』)などの都市文化が育まれました。

都市の商人たちは「行」と呼ばれるギルドを作り(手工業者の場合は「作」)、多くの場合は同郷単位で団結していましたが、仏教や道教といった伝統的な民間信仰を通じて団結したり、媽祖信仰や白蓮教のような新興宗教を通じて団結したりする場合も多かったようです。これらの組織は、それぞれ固有の守護神を持っていました。

農業に関わる民衆の仲間内の団体の場合は、「社」と呼ばれていました。例えば水利施設は元々国家管理下にありましたが、おおむね唐代末期の頃、国家のあり方が古代の頃から変容すると共に、民衆が組合を作って施設を管理するようになったのです。

こうした「行」「作」「社」といった民衆の団体は、王朝交代の混乱期に際し、強力なカリスマ指導者を得ると容易に秘密結社と化し、自分たちの土地を防衛するために、或いは混乱に乗じて利を確実にするために、しばしば反乱に加わったと考えられます(勿論、情勢によっては、その逆のケースもあったと思われます)。

隋の時代の大運河の建築に始まる交通網の整備、及び流通の進展が、貨幣(共通通貨)経済の普及拡大と共に大陸の各地方を重層的に結び付け、国家そのものの変容、都市と地方のあり方の変容を促していたのです。

この変容は、「古代そのままの中華(華夷秩序)世界観の拡大」に強固に裏打ちされていた事もあって、大陸の分裂混乱期を劇的に短くする方向に作用しました。

実際、古代における分裂混乱期としての魏晋南北朝&五胡十六国時代は、300年から400年も続きましたが、唐宋変革期における分裂混乱期としての五代十国時代は、ほんの50年ほどにしかならなかったのでした。

地域ブロック単位の群雄割拠としては、五代十国・宋の時代が最後と思われます。この分裂の時代を最後に、華夏大陸は、国土としては分割不可能な広域ブロック単位として完結し、遼・金といった、陸続たる征服王朝の帝国となったと考える事が出来ます。

偶然かどうかは不明ですが、帝国の名乗りの由来や解釈も一変しました。従来は地名に由来する帝国名を名乗りましたが、新たな征服王朝である「元」の国名は、『易経』の「大いなるかな乾元」に由来していると言われています。そして、続く「明」は火徳とされ、「清」は水徳とされています。

いささかオカルト的な話になりますが、五行説で言えば、「元」から新たに始まった征服王朝の並びは、「相剋」の関係になります。この関係に従うと、どうやら「中華民国」は土徳、「中華人民共和国」は木徳のようです。古代の帝国が、王朝交代に際して「相生」の繋がりをこじつけた事と比べると、実に対照的ではあります。

「文明におけるパラダイム・シフトという側面から見ると、如何な物か?」という疑問は、無きにしも非ずです。唐宋変革において分裂と混乱の時代が続いたにも関わらず、知識人(≒士大夫)の定義や、科挙に伴う社会的・人生的成功に相当する「富貴のレイヤー」がいっそう固定された事は、重要です。中断の期間はあったものの、1000年を超えて、清帝国の末期まで強固に続くという伝統的な社会構造。それはやはり、「大いなるかな乾元」が示した、〈後シナ文明〉の文明的完結の姿であり、「一つの終わりと始まり」であったと申せましょう。

〈中華の投げ網〉に呪縛された帝国。古代都市の時代から続く、強固な華夷秩序に憑依されている世界観(及び宇宙観)と、都市に集中する富貴(或いはエリート文化)志向。

中国史上の反体制運動の指導者となった知識人として、唐末期の黄巣、清末期の洪秀全などが有名ですが、彼らが科挙試験の優秀な落第者であった事実は、「華たる者のプライド」という心理的コンプレックスと合わせて、様々に考えさせられる物があると申せます。