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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

《歴史研究》華夏大陸と海・2

華夏大陸と海・1]から続く・・・魏晋南北朝の華夏大陸と周辺情勢

中原を支配する王朝が、前漢から後漢へ移り変わる頃――中原の帝国や西域の帝国の変容に刺激されて、草原の世界もまた変容してゆきました。気象パターンは激しく変わり(飢饉・蝗害が頻発)、巨大な匈奴帝国の分裂・崩壊を促すと共に、数多の遊牧騎馬民族によるユーラシア世界の再編を促したのです(この世界再編は、後に、欧州におけるゲルマン民族大移動の原因となりました)。

衰退した匈奴に取って代わり、草原のシルクロード流通において特権的な地位を勝ち取ったのは、鮮卑です(後漢と協力して、他の部族=北匈奴・烏桓の後漢への侵入を抑制)。鮮卑は概ねトルコ系の民族で、多くの部族の連合体でもありました。3世紀初頭には既に部族君長の世襲制が成立しており、慕容・宇文・乞伏・拓跋・禿髪などの鮮卑系諸族があった事が知られています。彼らが、後の魏晋南北朝時代の主役です。

朝鮮半島北部・高句麗(前37-668)の周辺は、国境紛争や人口流出(徙民)で俄然騒がしくなります。そして朝鮮半島南部には、馬韓・弁韓・辰韓(2-4世紀)がありました。大陸の各地方から追われた様々な民族がバラバラに流入しており、習俗も文化も異なったパターンで入り乱れていたと言われています。

朝鮮半島沿岸部や済州島(耽羅)には、海上流通に関わる倭人コロニーが増加していたと考えられます。彼らは華南の稲作漁労民に由来する道教文化を持っており、また日本の古代シャーマン文化とも共通するものでした。日本では、奴国(=奴国の王は57年に後漢に使いを送り、皇帝から「漢委奴国王」金印を授かる)や邪馬台国など、多くの小国が生まれていました。

そして時代は、後漢末に移ります。黄巾の乱(184)が発生し、赤壁の戦い(208)をきっかけにして大陸勢力が大きく三分された頃、最大の勢力を持って〈シナ文明〉の後継者を称したのが、北部辺境流入の遊牧騎馬勢力を擁していた魏(曹操、220-265)、そしてそれに取って代わった晋(司馬炎、265-420)でした。

止め処も無い分裂抗争に彩られた八王の乱、及び五胡十六国時代を含む魏晋南北朝時代は、〈シナ文明〉の落日の時代でもありました。中央の弱体化に伴い、大陸の周縁部には(海も含めて)、一層の動揺と活性化がもたらされたのです。乱立する冊封関係や仏教普及を通じて、周辺国同士の政治事情もまた大きく変化します。西域交易や海上交易が進展した時代でもありました。

◆各地で進行する胡漢複合と国際情勢と周辺諸国の変化◆

華北で進行した鮮卑系のシナ化・中央集権化は、皇帝の「中華宇宙論的な意味での権威を高める」という目的のもと、「憑依」的な過程を辿ったという事が、大室幹雄氏によって指摘されています。(大陸全土の胡族と漢族との間で、民族と文化のシャッフルが盛んに起きました。胡漢複合と言うそうです・別の言い方もあるそうです)

北ベトナムでは、漢人が建国した南越(秦滅亡の際に辺境の官僚が建国-前111・武帝)という国がありました(1009年の大越国・李朝成立で、中国から独立したとされています。華南に居た越人がベトナムへ南下し、建国)。

一方、中・南部ベトナムでは、チャム人によるチャンパ王国が建国されました(192-1832、時代によって林邑・占城・環王などの名があり、実態は連合王国だったらしい)。林邑の土着の区長である区連という人物が、この地を支配していた後漢の日南郡に対して蜂起したのがきっかけですが、当時の後漢は黄巾の乱に始まる大動乱の中にあり、この反乱を鎮圧する力がありませんでした。領土を確定したチャンパは、海上交易国家として、中国とインド・ペルシアの中継交易で栄えます。3-4世紀頃に仏教やレンガ建築を初めとするインド文化が流入し、インド風の言葉も増加したと言われています。

日本でも更なる動きがありました。『魏志倭人伝』に記録される邪馬台国の女王・卑弥呼が、239年に魏に使者を送り、「親魏倭王」の封号を授かったのです。魏(三国時代)の冊封体制に組み込まれる事で、落日の時代にあってなお輝かしい〈シナ文明〉の威光を背景に、自らの地位や正当性を周辺諸国にアピールするという、政治的な行動であったと考えられます。

同じ現象は西域でも進行しました。青海地方に栄えた吐谷渾(4-8世紀、鮮卑系)は、北朝とも南朝とも冊封関係を結び、朝貢・中継貿易を行なう事で、次第にシルクロード含む西域の強国となりました。北朝(洛陽)とはシルクロードで結びつき、南朝(蜀地方)とは黄河上流地帯を通じて結びつきました。早期から仏教が盛んでした。

◆南北朝の冊封関係と国際戦略の戦い…破られてゆく華北包囲網◆

北魏勢力の拡大を恐れた南朝は、その初期より冊封関係を通じて、北魏を封じ込めるための国際包囲網を築いていました(※ウィキペディア「冊封体制」の項目を参照)。

439年の記録によれば、北魏はこの年、河西・涼州の北涼王国を征服、華北統一を確実にしました。同じ439年、「鄴善、亀茲、疏勒、焉耆、高麗、粟特、渇盤陁、破洛那、悉居半等の国がみな使節を派遣して朝貢した」という記録があり、涼州が東北アジア-西域を連結する戦略的要衝だった事を示しています。華北における北朝(北魏)の確立は、東北アジア-西域(中央アジア)間の流通路の確定でもありました。

450年、北魏・太武帝は50万の大軍により南朝の宋を攻めて長江の北岸に達した時、宋の太祖に、以下のような、「おまえの考えなど、まるっとお見通しだ!」という内容の書状を送った事が知られています。

⇒「この頃、関中で蓋呉(がいご)という人物が反逆し、隴右(ろうゆう)の地の氐や羌を扇動しているが、それはおまえが使いを遣わして誘っていることである。……また、おまえは以前には北方の芮芮(ぜいぜい/柔然)と通じ、西は赫連(十六国の一、夏国を建国した匈奴・赫連氏)、蒙遜(河西地帯にあった匈奴・沮渠蒙遜しょきょ-もうそん)、吐谷渾と結び、東は馮弘(ふうこう/十六国の一、北燕の主)、高麗(高句麗)と連なる。凡そ此の数国、我みなこれを滅したり」

日本では倭の五王の時代ですが、この頃の山東半島は、倭国をはじめとする東夷諸国の南朝への使節派遣において、その中継地として大きな役割を果たした事が指摘されています。

(※410年に南朝東晋の将軍・劉裕が、山東半島にあった鮮卑慕容部・南燕国を滅ぼし、その地を領有した後、413年に高句麗の南朝朝貢が70年ぶりに再開、及び倭国の南朝朝貢が147年ぶりに再開しています。倭国では女王・壹與が魏に替わった晋に266年に朝貢して以来の出来事でした。山東半島情勢の激変は、東夷諸国に大きな衝撃を与えたのです。なお、当時の倭国は南朝朝貢国で、北朝朝貢の高句麗と対立していました。そのため、朝鮮半島陸路以外のルートを選択せざるを得ない状況でした。最も確実性が高いのが、対馬海峡-朝鮮半島沿岸-黄海-山東半島というルートだったのです。荒れやすい東シナ海を一気に横断するのは、当時の造船・航海技術では殆ど不可能な事でした)

469年、山東半島は北魏の手に落ちました。北魏は光州を設置し、軍鎮を設けて拠点とし、東夷の船舶を厳しく監視しました。そのため、東夷諸国からの船舶が、北魏によって拿捕されるという事態が生じるまでになったのでした。こうして、南朝の北朝封じ込め戦略は、東部戦線において破られていったのです。その後、東夷諸国――柔然、高句麗、庫莫奚(こばくけい)、契丹といった国々――が、北朝に盛んに朝貢しました。特に高句麗は、貢献品の額を倍増していた事が記録に残っているそうです。

次に南朝が国際戦略上の重要拠点であった四川の地を喪失したのが、554年です。四川は吐谷渾、河西回廊諸勢力、柔然などと連絡する西部戦線の地でありました。

589年、南朝滅亡及び隋唐帝国の出現は、冊封を通じて南朝と連動していた諸国にとっては、決定的な打撃でした。柔然、吐谷渾、雲南爨蛮(うんなん-さんばん、雲南にあった南蛮勢力)、高句麗、百済などの南朝諸勢力は、唐代にかけて次々に滅亡したのです。南朝を中心とする冊封関係=国際関係の消失でもありました。

そして、日本では壬申の乱(672)などの激しい内戦や皇族暗殺など、皇室におけるお家騒動が続きました。「中継ぎ」という役割を担う、女帝の時代でもありました(逆に、男系という観点で言えば、大空位時代でもあった)。中央政権の主が、南朝派閥と北朝派閥の間で交替するようになったのです。例えば天智天皇は北朝系、天武天皇は南朝系だったと言われています。

次回に続く(時期未定です)・・・

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