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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

《歴史研究》華夏大陸と海・1

序:古代アジアと海

南船北馬と表現される華夏大陸の風土は、黄河流域に農耕牧畜民をメインとする国々を、長江流域に稲作海洋民をメインとする国々を形成してきました。夏殷周三代の帝国は、この諸国の結節点でもあった中原を舞台に興亡しました。

鉄の登場によって大いに社会変容を遂げた春秋戦国時代(前722-前221)を経過し、〈シナ文明〉の雄として登場してきた秦漢帝国は、いずれも黄河流域の農耕牧畜民が優位に立った父系社会の帝国であり、そこでは儒教優勢の思想が展開しました(※他にも様々な思想があり、特に秦の始皇帝の焚書坑儒を免れて生き延びた道教思想は、次第に儒教と併存・融合してゆき、中央政治の帰趨を決める程の重要な要素となりました。道教思想の源流は、南シナの風土にあるそうです)。

春秋戦国時代がもたらした変化は、殷周時代の国家的土地制度・古代氏族制度の崩壊でした。鉄の流通・鉄の市場による新たなタイプの富裕豪族(宗族制=家父長制を基本とする)が生まれ、自営農民・小作人もまた発生します。春秋戦国時代に展開した多くの戦争と交易の中で、華夏大陸諸国の市場は拡大してゆきました。それは行商人の増加を招き、貨幣制度の運用をスタートさせるものともなりました。

これらを統一した秦帝国は強力な官僚制度を敷き、各地に散在していた数多の豪族・商人・農耕牧畜民、そして諸国家によってバラバラであった度量衡・貨幣制度をも、国家の手で一元管理するようになります。更に秦は万里の長城を築いて塞外の民と化した遊牧民族と対峙し、秦内部の商人と遊牧民族の商人との接触を制限、国家管理貿易を展開しました。

秦は短期で滅びましたが、漢がその後を継承し、更に長期間にわたる強力・細密な国家秩序を築きました。儒教その他の思想が中華思想=華夷秩序として整備されると、漢帝国は、帝国周縁部を東夷・西戎・南蛮・北狄という形で、華夷秩序の世界観の中に組み込むようになります。

華夷秩序の世界観が実際の国際関係として展開したのが、冊封体制でした。この冊封体制は、「朝貢貿易」と呼ばれる国家管理貿易を裏付ける秩序であり制度でありました。

この一方的とも見える制度の中で、古代アジアの海上交易は発達してゆきます。

漢帝国の南方辺境である長江流域には、古代より「百越の民」が居ました。「越人は断髪文身をする」と記録に残されたように、彼らは稲作漁労あるいは河川交易・海上交易によって生計を立てていた民として知られています。

前139年成立『准南子』斉俗篇=「(北方ノ)胡人ハ馬ニ便ニシテ、(南方ノ)越人ハ舟ニ便ナリ」

漢帝国は、西域にあっては遊牧通商民族が栄えたシルクロードを通じて絹馬交易を行ない、南方にあって(あるいは海に面して)は「百越の民」を通じて朝貢貿易を行なったのです。いずれも国家が管理する貿易であり、農業重視、商業軽視のスタイルである事は明らかでありました(※漢の郡国制は秦の郡県制を継承したもので、皇族・官僚から村民に至るまで、その身分と財産が評価・制限されましたが、土地を持たない商人や小作人は身分・爵位が認められませんでした。これも農業重視・商業軽視というイデオロギーによるものでした)。

【朝貢貿易】
大別して、儀礼的交換、官業交易、取引交渉という三つの取引が行なわれたと言われています。官業交易においては、双方の共同体の必要規模に応じて、ほぼ等価の交換レートが決められたと言われています。では利得は何処から発生するのかと言うと、ここで獲得した財貨を市場で再販売する事で発生したのです(取引交渉における売上げ量に依存)。これが公権力と結びついた利潤の源泉でありました。この貿易スタイルは中国独自のスタイルでは無く、広く世界的に行なわれたスタイルでした。一番厳しいとされたのが中国の朝貢貿易ですが、それでも、或る一定の限度内で商人が個人的な利益のために売買する事が許されており、官僚に随行した商人がしばしば規模の大きな私的交易を行ない、私的利潤を蓄積した事が知られています。

朝貢貿易を担った百越の民は、海上交易を通じて活動範囲を飛躍的に拡大しました。朝鮮半島、渤海湾、山東半島、江蘇・浙江の沿海地域、福建、広東、越南、海南島、琉球、奄美大島といったように、日本海・東シナ海・南シナ海に至る広大な海域が、越人の活動するところとなったのです。そして一部では、倭人の活動としても記録されるところとなりました(倭人と越人はいずれも海洋の民で、断髪文身などの似たような文化習慣を持っていたとされています)。

※この頃の日本列島においても、大陸-列島間の海上交易が盛んになり、日本列島の各地に、大陸由来の海洋民族コロニーが形成されていったと考えられます。

一方、インド亜大陸では、インダス文明期の古代都市間交易の時代を経て、ガンジス川流域に群雄割拠した諸都市国家(ブッダの時代)、ついでそれらの諸都市国家を統一したマガダ帝国(全盛期=マウリヤ朝・前317年頃-前180年頃)の時代を迎えていました。

マガダ帝国は西アジア・オリエント諸都市との交易を行なっており、古代シルクロード経済の重要な立役者でもありました。交易に乗った品は金属加工製品、陶器、布地等です。特にデカン高原を中心に生産されていた綿製品は、鉄剣と並ぶ高価な商品として取引されていました。

次のクシャナ朝(1世紀-3世紀頃)の時代はカニシカ王で有名ですが、この頃にローマとの貿易が活発化し、南インドを拠点にしてケララの胡椒、マンナール湾の真珠、東南アジアの香料等を輸出していた事が知られています(ローマではその支払いのための金貨に不足する程だったそうです)。

全体的に見て、北インドでは陸路を通じた交易が中心、南インドでは海路を通じた交易が中心でした。南海交易の拠点となったセイロン島は、1世紀には既にギリシアにも知られていましたが、中国でも「獅子国/宝州」という名前で知られていました。

◆〈後シナ文明〉という仮説◆

漢王朝が滅んだのも「漢民族の繁栄」も既に遠い昔となった時代――騎馬民族を中心とする王朝交代の戦乱を通じて、急速に膨張していった「その後の中華帝国」。

漢帝国の遺産を墨守し、或いは都合よく書き換え、或いは「漢民族の歴史」を信仰する、中華なるもの――それを仮に、〈後シナ文明〉と名づけてみたいと思います。

大室幹雄氏の文章に、とても感じるところがありましたので、ご紹介(『遊蕩都市』三省堂1996より):

こうしてほぼ三百年の歴史を生きた長安、謹厳で殺伐な監獄都市から、大周革命で放棄されたのちに富貴花の芳香が鼻を窒ぐ内臓的な遊蕩都市、その懦弱な精神においていかにも小体な工芸品の帝国の首都として、山水愛好癖と造園趣味を現前させた園林都市へと変貌を重ねた長安は「丘墟」に化した。古代以来、天下=世界の中心として多くの帝国と王国の首都が置かれたこの土地に天子皇帝の永遠の宇宙軸、天―天子=皇帝―父―赤子―人民の象徴的哲学的世界樹が立てられることはこれ以降もはや起こらないであろう。けれども、いまのところは転倒して干潟の間を潮汐に漂流している中心軸はいずれ再建されるだろう、約半世紀後に趙氏の北宋王朝(960-1127)によって。だが、その場所は丘墟に帰した長安、上古以来の伝統的な世界の中心ではなくて、いま昭宗と哀帝を弑殺して自身の後梁王朝を建てた朱全忠の汴州(開封)であるだろう。天に二日は無くても、土には分散された複数の権力の併存がありえることを理解できず、むしろ極端に嫌忌したこの文明にあっては、中心の世界樹はつねに立てなおされねばならず、それをめぐって天下=世界が整序されなければならず、それがこの文明の生理であった/あるからである。しかし趙家の北宋王朝がそれを再建した場所は上古以来の伝統的な世界の中心、洛陽でも長安でもなく、隋帝国によって開設され、唐帝国によって維持されてきた大運河の結接点、北方の中原と江淮および江南の南方とを繋ぐ運輸と経済の要衝地汴州であった。そこでは何か新しい文明の傾向が現われるのだろうか?いまひとつだけ明らかなことは、そこに立てられた世界樹がまた打倒されると、今度もまた別の新しい場所に世界樹だけは元のとおりに再建されたことである。なぜならこの中心の世界樹へ不断に回帰するのがこの古い文明の生理であった/あるからである。すなわち、官僚制的専制帝国への永遠回帰――。

華夏大陸と海・2]に続く

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