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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

ノート:物理学の来歴・4

テキスト=『磁力と重力の発見1‐古代・中世』山本義隆・著(みすず書房2004)

プラトンの『ティマイオス』では、はじめに「宇宙の構築者(デミウルゴス)」すなわち「神」が「構築者自身に良く似たものになるように」と望み、「無秩序な状態から秩序へと」導く事によって宇宙を作ったとする、半ば神話的な創世記が語られている。

その詳細はさておき、神が無秩序を秩序に導く事で世界を創ったという事は、プラトンにあっては、理性によって把握されるものとしての幾何学にのっとって、神が物質の根源(元素)を創った事を意味していた。

すなわち火・空気・水・土の四元素の根源粒子は、神によって「およそ可能な限り立派な良いものに」作られたのであり、したがってそれらは、もっとも単純でもっとも基本的な幾何学形状を有していなければならない。

このように論じてプラトンは、それらの根源粒子のそれぞれに多面体を割り振る。

  • 火の粒子=正四面体
  • 空気の粒子=正八面体
  • 水の粒子=正二十面体
  • 土の粒子=正六面体(立方体)

プラトンの言説を詳しく言うと次のようになる。

3点を決めれば平面が決まり、その平面で囲まれた空間として物体が決まる。それゆえに、物体の基本要素は三角形である。

その際、三角形の中で基本となるのは、「正三角形を等分したもの」と「正方形を等分したもの」である。ところが、正十二面体の面である正五角形は、この2種類の直角三角形からは作れないから、正十二面体はまず除外されなければならない。

また、この2種の基本三角形のうち、後者の直角二等辺三角形からは正方形が作られ、それから土の元素の正六面体が構成される。前者の正三角形の半分の直角三角形からは正三角形が作られ、それから正四面体、正八面体、正二十面体が構成され、そのそれぞれに火の粒子、空気の粒子、水の粒子が割り振られる。

このように、火と空気と水の粒子はすべて面が正三角形で、そのため互いに他の粒子の間に入り込む事も、また移り変わる事も容易である。それに対して、正六面体の土の粒子だけは、面が正方形であるため、他の元素への変成が困難であり、それゆえ土はもっとも不活性でもっとも動きにくい。

現代人にとってはただの空想であるが、実を言うとプラトン自身も、現代人とは異なる立場から、この議論は「ありそうな言論である」と繰り返し但し書きをつけており、それが確証された真理である事をみずから否定している。

プラトンにとっては、「真の意味で知ることの出来るもの」、したがって学問的考察の対象となりうるものは、個々の事物と離れて在る永遠の「真実在」としての「イデア」とされているからである。

イデアの世界こそが、「思惟されるもの」の世界、理性の働きによって把握される世界であり、そこにおいてのみ、真に確実な認識が可能である。

それに対して、「可視世界」すなわち人間の感覚が捉える変容に満ちた現象世界は、イデア世界の影でしかなく、したがってそこでは厳密に正しい言論は不可能で、せいぜいが「ありそうな言論」、もっともらしい憶測でしか語れないものなのである。

とどのつまり、『ティマイオス』は、プラトンの思想の本筋であるイデア論からの逸脱であった。

とはいえ、根源粒子に対するこのプラトンの正多面体の理論は、素粒子の世界は3次元ユニタリ変換[SU(3)]に関する対称性を有し、素粒子はSU(3)の既約表現で分類され記述される、という現代物理学の理論と、根本思想において、それほど距離があるわけではない。

もちろん実験的根拠の有無という点でも、数学的精巧さという点でも、プラトンの理論は、極めて原始的なレベルに留まっているものである。

しかしながら、物質世界を究極的に構成していると想定される〝基体〟は、感覚に捉えられないけれども、しかし数学的に単純な構造を有し、したがって数学的に厳密に理解できるはずであるという思想を最初に提起した事において、それは決定的であったといえよう。

そのことを考えれば、プラトンの空想は、2000年先の物質理論のありようを予兆した、と言えないことは無い。

・・・

古代科学の補足として、ヘレニズム科学についても少し言及しておく。

ヘレニズム時代は、各種の科学の目覚ましい発展が見られた時代であるが、こと磁石と磁力については、それほど顕著な知見が得られていない。

その結果といえるかどうかは分からないが、磁力という「力」に対するギリシャ哲学の立場は、大きく2つに分かれることになったと言われる。

一方にはデモクリトス、エピクロス、ルクレティウスらの原子論による説明、そしてエンペドクレス、ディオゲネス、後期プラトン、プルタルコスらによるミクロ機械論的な説明、総じて還元主義の立場からの「近接作用論」が置かれる。

他方にはタレス、初期プラトン、アリストテレスの、磁力を「神的で霊的な能力」と見る見解、そしてガレノス、アレクサンドロスらによる、生命的ないし生理的な磁力観、すなわち有機体的全体論がある。ついでに言えばこれらの議論は、磁力を、それ以上説明の出来ない神秘的な「遠隔作用」として受け入れるものであった。

ヘレニズム時代に起きたこの分裂は、近代において、「重力」をめぐるデカルト機械論とニュートン主義者との対立として再現されることになるが、それはいずれにせよ、1000年以上の後の事である。実際には、ヘレニズム科学の衰退と共に、磁力についての説明もまた、西洋においては、完全に見失われていったのが現実であった。

中世の西洋では、「磁力を説明する」という試みはもとより、「磁石に対する科学的な観察」でさえも見失われていたのである。

しかし、磁石についての関心が薄れたという事ではない。磁力を魔力と見るオリエント神秘主義の影響が強くなった事もあり、磁力の不思議そのものは、「遠隔作用」を認める神秘主義的な観点から、関心を持って注目され続けたのである。

なお磁石どうしに働く「力(引力/斥力)」は、ヘレニズム時代に至っても、知られていなかったらしい。ついでに言えば、古代ギリシャでは、磁石や磁針の持つ指北性も知られていなかったという事が推測されている。実際、羅針盤が入ってきたのは、古代に「磁石の指南性」を発見していた中国からであったのだ。

《付記メモ・科学哲学の参考》当ブログ2008.11.22エントリ[理論負荷性のこと

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