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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

理論負荷性のこと

最近、「理論負荷性」という言葉を知りました。

理論負荷性というのは、科学哲学ジャンルではすでに一般的となっている用語で、ハンソンの『観察の理論負荷性(theory-landnness)』から来ています。

何かのものを観察するときに、その観察者の持っている知識や経験によって、それをどう受け止めるのかが変化することを言うそうです。

ある理論が頭にあると、現実がそういうふうに見える。
理論がないと、そうは見えない。
なぜなら、理論がないと、見ているものの意味に気がつかないからである。
理論なしに、現在起こっているもの、現在見ているものを説明する事は、不可能である…

「観察」は決して客観的ではないのです…

それでも、物事を緻密に説明するとき、科学は《有効な方法&理論》であると大多数の人が認めるものです。そしてそれは、間違っていないのです。もっとも量子力学の世界になると、「緻密」という前提が崩れてしまうのですが^^;

私たちは、物事をまっさらな目で見ているわけではありません。そこには必ず、世界観…思惟分節という枠組みが既にかかっています。それは「無意識の偏見(色眼鏡)」、「無意識下の既成世界」といって良いでしょうか。

思考は言語によって構成される…

《物語の言葉》で世界を眺めるなら、それは神話や伝説に裏打ちされた世界を現出するものとなります。

日本では、各地の神社仏閣が表現する各種の神話世界が、そういうものであります。キリストを信ずるものにとっては、この世は聖書によって裏打ちされた世界であり、イスラムを信ずるものにとっては、アッラーの言葉によって裏打ちされた世界であります。

《物語》と《科学理論》は、使っている言語こそ異なりますが、その実、言語によって裏打ちされた世界を構成している…という《事象》において、根底に共通する部分を持っていると申せましょうか…^^


《付記と続きの考察》

近代の科学、とりわけ17世紀以降の「数学を言語とする科学」については、数学言語の普遍性、抽象性が関与しています。この意味で、現代科学は、人間の感覚を排除する知的世界を構成している、と申せましょう。その《事象》に対して、「理論負荷性」というテーゼがそもそも成り立つのだろうか?…については、極めて微妙なところであると思います。

第一に科学的行為は、観察対象を純粋に数量化するところから始まります。ここで、アリストテレス的な「形相」「性質変化」「目的」といった感覚的性質は、観察対象から完全に排除されます。

第二に近現代の科学的説明は、数学を使って行なうものです。したがって日常言語に伴う様々な日常的な意味説明は排除されます。数学的普遍世界の中での説明となります(その過程で、「理論的存在」が現れれば、それも実験・検証の対象になる訳です。これは人間の感覚的対象ではなく、純粋に理論を突き詰めていった結果の理論的対象です。近現代科学を代表する量子論・相対論は、とりわけそうして発展してきました)。

第三に科学的行為の最後の作業として実験・検証を行なう事になっていますが、これはますます精密化する機械によって計測されるのが普通であり、人間の日常的感覚の入る余地はありません。数学的な原理に基づいて、「機械の中で再現可能な結果」を体験するのみです。

以上、現代科学の特徴を挙げてみると、「理論負荷性」というテーゼでは、人間が出会う1回きりの現象(世界の多様性)の説明については、そもそも科学的なやり方では結論を求める事ができない、という困難が浮かび上がってくるかと思います…^^;

近現代科学の限界は、まさにこの「世界の多元性・多義性・多様性といったものを対象としない」という事にあります。それは科学の対象ですらないのです。「我々の視点に依存する」という行為の意味を問い、解明するものではありません。それは哲学と思想の問題です。

…とはいえ、「心は科学の対象となりうるか」というテーゼは、常に、科学と哲学の境界にあって揺れ動いてきたテーゼであります。

「意識の科学」という事が可能かどうかは、その「意識(心)」というものをどういう普遍的数量に落とすのかという困難と、トレードであるように思います。人間にも動物にも、意識は多様なレベルとしてあり、覚醒時と昏睡時に限ってみても、多様な覚醒状態と昏睡状態とがあるわけです(ましてトランス状態となると、これはいっそう怪奇な代物になりそうな…)。

ここで最初の「理論負荷性」に戻るわけで、無限ループではありますね…^^;


コメント有難うございますm(_ _)m

アムゼル2008/11/23言葉がすべて
さて理論負荷性ですが、哲学のことはよくわかりませんが、日本人は欧米の概念を哲学にかぎらず難しい漢語を用いて翻訳しがちです。<止揚>などという意味不明瞭な概念が「もちあげる」という日常ドイツ語にもとづくものとは、ドイツへ来てドイツ語で生活するまできづきませんでした。<弁証法>などもじつは<対話法>と訳したほうが適切だったでしょう。
つまり日本語による科学、学問はそのような変な漢語概念によっていかに不透明で明晰さを欠いたものになっているかがここからわかります。漢字だけを用いるシナ語などはあいまいさの多い言葉で学問には不向きの言語だと学んでつくづく思い知りました。この<負荷性>などという翻訳も漢字が悪さをしているその一例でしょうか・・・?
それはともかく、要は言語によって世界の切り取り方が違っているということでしょう。そのことは新しい外国語を学ぶたびに体感することです。ドイツ語にはドイツ語の解釈する観念世界があり、シナ語にはシナ語の規定する狭い世界があり、日本語には微細なものを表現するすぐれた世界表出力があります。
さて既成の変な概念に惑わされず自己の思索を深めてゆくことの大切さは、わたしは森有正から学びました。<経験>などというありふれた概念であれほど深く豊かな意味を作り上げた森の凄さは日本の哲学のなかでは稀有の例ではないでしょうか?おそらく森に耽溺したあのころからの内的希求がわたしをここまでつれてきたものと考えています。非力な思考力ですが行けるところまで行こうと決めています。
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