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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

ノート:物理学の来歴・1

テキスト=『磁力と重力の発見1‐古代・中世』山本義隆・著(みすず書房2004)

近代自然科学の形成を歴史的に論じる事は、簡単ではない。

とりわけ一般論として論じる限りでは、歴史資料に対するアクセントの置き方により、どのような立場もそれなりに論証される事になり、議論が厳密な形で決着を見ることはない。

近代自然科学の成立根拠といった茫洋たる問題では、それはいっそう顕著である。議論を深化させるには、近代自然科学の成立にとってキーとなる概念に議論を収斂させ、その概念形成を論ずる事が必要とされるだろう。

近代自然科学、とりわけ物理学に限るなら、そのキー概念は、何はさておき「力」である。

実際、天動説から地動説への転換が近代の宇宙像を特徴づけるものではあれ、物理学的な観点からすれば、太陽系の正しい理解は、ただ単に太陽を中心に置く事によってではなく、万有引力を導入し、その力で太陽がすべての惑星を軌道につなぎとめていると考える事によって、初めて可能となった。

すなわち近代科学の端緒と見なしうるのは、力学で言う「力」の明確な把握と物理学の基本構造への「力」の組み込みであり、したがって17世紀の段階では、遠隔作用の発見が、西洋科学という組織における礎のひとつとなったのである。

物理学の歴史は、煎じ詰めると、古代ギリシャの原子論が「充実した物質としての原子」と「空虚な空間」を見出し、2000年後の17世紀に空間を隔てて働く万有引力に行き着き、その後、19世紀に「場」が発見されて「力」は「場」に還元され、そして20世紀の量子の発見を経て、今日の姿をとるに至った、とまとめられる。

その意味では、遠隔作用は今では確かに過去のものになったけれども、しかし近代物理学の出発点が、遠隔力としての万有引力の発見にあったことは、紛れも無い事実である。

17世紀~18世紀の自然科学の激動期において、遠隔力概念の果たした歴史的意義は、決定的であった。

・・・

実際、物質や運動は古代から知られていたのであり、それだけでは物理学は生まれなかった。

機械論的な物質観の確立と力学原理の定礎はデカルトやガリレイに多くを負っているが、しかしデカルトの力学は、衝突による運動の受け渡しのみの可能な貧しい体系であり、ガリレイの力学も「力」概念を欠落させていたため、ガリレイは太陽系を動力学の問題として捉える事はできなかった。

そして、いずれもケプラーの発見の意義を理解できなかった。

ケプラーとフックとニュートンが「力」概念をその中に持ち込んで初めて、太陽系は動力学の対象となり、ケプラーの法則は、その真の意味を見出したのである。このように、近代物理学は「力」の概念を獲得した事によってこそ、豊かな生命を獲得し、勝利の第一歩を踏み出す事ができたのである。

・・・[ノート:物理学の来歴・2]に続く・・・

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資料:生死の海の賦

三教指帰・仮名乞児論4―生死海の賦

http://blog.livedoor.jp/nf9/archives/51468338.html

[生死海の賦]
「(解脱できずに輪廻を繰り返しているわたくしたちの苦しい生死を海に喩えれば)
生死の海は、欲界、色界、無色界の辺在まで続き、遥かに見渡しても極りがない
それはこの世界の外側までも果てしなく広がり、測ることすらできない
海はあらゆる生き物を生み出し、無数のものどもを支配する
大口を開けて、底なしの腹に全ての川の流れを呑み込む
岩壁を打つ激しき波は休むことなく、磯を洗う早波はぶつかり砕けて休むことがない
昼も夜も車のきしむがごとき雷霆の響きを轟かせて陸を叩く
あらゆる種類の数限りなく多くのものが集り群れる
奇異なもの、奇怪なもの、怪しげな異類どもを豊かに生み育くむ

その鱗あるものどもは、慳貪・瞋恚・極癡・大欲である
長い頭には端なく、遠い尾には極まりがない
鰭を挙げ尾を打って、口を開いて食を求める
波を吸うときは、離欲の船も帆柱が摧け帆も失われる(貪欲)
霧を吐くときは、慈悲の船も舵が折れ人も沈む(瞋恚)
または泳ぎ(煩悩が起こり)または沈んで(悪心がおさまる)(愚癡)
心はつねに揺れ動いてとりとめなく乱れる
財を貪り食を貪り、心は直きことがない
欲はますます深く、そのために身を滅ぼし家を滅ぼす
鼠や蚕のように貪り喰らい、惻隠の気持ちなど起こらない
千劫の長き地獄の苦しみを忘れて、たった一生の富貴を望む
その羽のあるものどもは、こびへつらい(諂誑)、あしざまにそしり(讒諛、誹謗)、言葉が粗悪で(麁悪)、多言し(噂沓)、かすまびしく(嚾呶)、
驕慢(籧除)で、悪事を働く
翼を整えて道に背き、高く羽ばたいて快楽に赴く
常・楽・我・浄の四つの執着の浦に声高に叫び
殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・邪見の十悪の澤に羽ばたく
正直の実をついばみ、廉潔の豆を啜り食らう
鵬を見、鸞を見ては、拾った腐鼠を奪われまいと威嚇し
犬を捕り鼠を捕って、俯して大声で喚く
または飛び、または鳴いて、目先の欲に囚われ
あるいは生まれあるいは死んで、未来に受けなければならない苦の報いを忘れてしまう
飛び行く先には細い網が張り巡らされ、羽を休める池には罠が仕掛けられ
前からは矢が飛来して頭を砕き、後ろからは弓引かれて血を流すことを
知らないのだろうか

禽獣の類は、憍慢・忿怒・罵詈・嫉妬・自讃・毀他・遊蕩・放逸・無慚・無愧・不信・不恤・邪淫・邪見・憎愛・寵辱・殺害のともがら、争い殺しあう輩である
形を同じくしても心は夫々に異なり、また行いの程度もさまざまである
鋸の爪、鑿の歯あって、慈しみ少なくして穀を食らう
眈々として虎のごとく視て、朝露のようにはかない人生に遊び
怒りの眼差しで獅子のように吼え、夜夢のような現世に戯れる
これに逢う者は悪心が蔓延り、精抜けて、脳を擂り潰され、腸を砕かれる
これを見るものは身慄き、心怖じて、恐れと目の眩みに慄き伏す

かくのごときの衆類が、上は有頂天をめぐり、下は無間地獄にあふれ、
それぞれの場所に櫛のように並び、浦ごとに住処を連ねている
このありさまは筆舌に尽くしがたい
これによって不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒の五戒の小舟も
猛烈な浪に漂って羅刹の津に曳かれ掣かれて漂着する
不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語
不悪口・不両舌・不貪欲・不瞋恚・不邪見の十善の車も
強烈な破壊の力に引かれ車軸をきしませて魔鬼の住処に集り行き交う
[大菩提の果]
このゆえに、菩提心を発し、最上の果報を仰ぐのでなければ
だれが暗黒の生死海の底から抜け出して、広大な法身に昇ることができようか
すべからく生死の漂河に六度の筏のともづなを解き
愛着の波頭に八正道の船を棹さして
精進の帆柱を立て静慮の帆を挙げ
群がる煩悩を忍辱の鎧をもって防ぎ、智慧の剣をもって威し
七覚支の馬に鞭打って速やかに沈淪を超え
四念処の車に乗って高々と迷いの世界を越えてゆけば
未来に成仏し仏の境界を許されること
舎利発が授記を受け
龍女が仏に首飾りを奉って正等覚を成じた吉祥に比べられよう
十地の菩薩の長い修行の道程を須臾に経尽くし
三大阿僧祇劫の遥かな時間を究め尽くして、さとりに至ることも困難ではない
そうした後に十地の菩薩の十重の荷を捨てて、常住不変の真如の理法を証得し
煩悩を転じて菩提を、生死を転じて涅槃を得て、法王の名を浄土に讃える
平等不二の理が顕現し心に親疎の分け隔てなく
如実空鏡・因熏習鏡・法出離鏡・縁熏習鏡の
四つの鏡に喩えられる智慧を身につけて毀誉褒貶を離れる
生滅を超えて常住不変で、増減を越えて盛衰もない
万劫を超えて円寂であり、過去・現在・未来の三際にわたって無為である
これこそ大いなる吉祥である
聖天子の軒帝、堯、羲なども足許にも及ばず
転輪聖王、帝釈天、梵天も全く力が及ばない
天魔、外道も論難し誹ることがかなわず
声聞、辟支がいくら讃えても讃え尽くすことはできない

そうはいっても、大乗菩薩の四弘誓願が未だ達成されないままに
一切衆生は苦海に沈んでいる
そのことを思って仏陀は悲しみ悼み、心を痛めている
ここに本来虚空に等しい無相無形の如来は、百億の国土に百億の化身の仏を出現させた
久遠の過去に成道した法身如来は、釈尊の八相の姿をとり
仏陀は、苦・集・滅・道の四諦の中にその身をゆだねた
仏陀の教えは弟子たちによって多くの国の果てにまで広まり
慈愛の羽檄を無数の衆生に分かち与えた

そうして後に、一切有縁のあらゆる衆生が、風に乗り雲のように集って
天より地より、雨の如く泉の如く
清らかなものも汚れたものも、雲の如く煙の如く
地に下り天に上り、天に上り地に下り
仏陀に帰依するのをお待ちになった
天・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅迦の八部と
比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆は、おのおのまちまちに交わり連なって
仏の徳を讃えて詠唱し
賛嘆の声は鼓を打ち馬が走るように轟きざわめいた
鐘のように遠くまで鳴り響き、花のように連なり翻った
その集いは宝石の彩がきらめくように端正で
車馬の響きは大地を揺るがして盛大であった
目に盈ち耳に盈ち、地に満ち天に満ちた
踵を履み跟を履み、肱を側め肩を側め
礼を尽くし敬を尽くし、心を謹み、心を専らにして

しかればすなわち、仏の不可思議な働きは一音の法輪を転じて衆生の邪見を摧き
三千大千世界を引き抜いて他界へ放り投げ、須弥山をそのまま芥子粒に入れてしまう
甘露の雨を降らせて、誘い誡める
教えの歓びを分かち、智慧をつつみ戒をつつむ
ことごとく天下の太平を詠じて民は腹を打って喜び
ことごとく仏の来臨を頌して地上の為政者の功績も忘れてしまう
無慮無数の国々の来集するところ、有情界の讃仰するところ
これこそ最も尊く、崇め敬われるべきものである
ああ、比類なき仏陀世尊のなんと偉にして雄大なことであろう!
これはまことに吾が師仏陀の残された教え、その真理の一少部分である
かの神仙の小術は世俗の微々たる説に過ぎず
言うべきものもなく、取るに足りるものではない」

理論負荷性のこと

最近、「理論負荷性」という言葉を知りました。

理論負荷性というのは、科学哲学ジャンルではすでに一般的となっている用語で、ハンソンの『観察の理論負荷性(theory-landnness)』から来ています。

何かのものを観察するときに、その観察者の持っている知識や経験によって、それをどう受け止めるのかが変化することを言うそうです。

ある理論が頭にあると、現実がそういうふうに見える。
理論がないと、そうは見えない。
なぜなら、理論がないと、見ているものの意味に気がつかないからである。
理論なしに、現在起こっているもの、現在見ているものを説明する事は、不可能である…

「観察」は決して客観的ではないのです…

それでも、物事を緻密に説明するとき、科学は《有効な方法&理論》であると大多数の人が認めるものです。そしてそれは、間違っていないのです。もっとも量子力学の世界になると、「緻密」という前提が崩れてしまうのですが^^;

私たちは、物事をまっさらな目で見ているわけではありません。そこには必ず、世界観…思惟分節という枠組みが既にかかっています。それは「無意識の偏見(色眼鏡)」、「無意識下の既成世界」といって良いでしょうか。

思考は言語によって構成される…

《物語の言葉》で世界を眺めるなら、それは神話や伝説に裏打ちされた世界を現出するものとなります。

日本では、各地の神社仏閣が表現する各種の神話世界が、そういうものであります。キリストを信ずるものにとっては、この世は聖書によって裏打ちされた世界であり、イスラムを信ずるものにとっては、アッラーの言葉によって裏打ちされた世界であります。

《物語》と《科学理論》は、使っている言語こそ異なりますが、その実、言語によって裏打ちされた世界を構成している…という《事象》において、根底に共通する部分を持っていると申せましょうか…^^


《付記と続きの考察》

近代の科学、とりわけ17世紀以降の「数学を言語とする科学」については、数学言語の普遍性、抽象性が関与しています。この意味で、現代科学は、人間の感覚を排除する知的世界を構成している、と申せましょう。その《事象》に対して、「理論負荷性」というテーゼがそもそも成り立つのだろうか?…については、極めて微妙なところであると思います。

第一に科学的行為は、観察対象を純粋に数量化するところから始まります。ここで、アリストテレス的な「形相」「性質変化」「目的」といった感覚的性質は、観察対象から完全に排除されます。

第二に近現代の科学的説明は、数学を使って行なうものです。したがって日常言語に伴う様々な日常的な意味説明は排除されます。数学的普遍世界の中での説明となります(その過程で、「理論的存在」が現れれば、それも実験・検証の対象になる訳です。これは人間の感覚的対象ではなく、純粋に理論を突き詰めていった結果の理論的対象です。近現代科学を代表する量子論・相対論は、とりわけそうして発展してきました)。

第三に科学的行為の最後の作業として実験・検証を行なう事になっていますが、これはますます精密化する機械によって計測されるのが普通であり、人間の日常的感覚の入る余地はありません。数学的な原理に基づいて、「機械の中で再現可能な結果」を体験するのみです。

以上、現代科学の特徴を挙げてみると、「理論負荷性」というテーゼでは、人間が出会う1回きりの現象(世界の多様性)の説明については、そもそも科学的なやり方では結論を求める事ができない、という困難が浮かび上がってくるかと思います…^^;

近現代科学の限界は、まさにこの「世界の多元性・多義性・多様性といったものを対象としない」という事にあります。それは科学の対象ですらないのです。「我々の視点に依存する」という行為の意味を問い、解明するものではありません。それは哲学と思想の問題です。

…とはいえ、「心は科学の対象となりうるか」というテーゼは、常に、科学と哲学の境界にあって揺れ動いてきたテーゼであります。

「意識の科学」という事が可能かどうかは、その「意識(心)」というものをどういう普遍的数量に落とすのかという困難と、トレードであるように思います。人間にも動物にも、意識は多様なレベルとしてあり、覚醒時と昏睡時に限ってみても、多様な覚醒状態と昏睡状態とがあるわけです(ましてトランス状態となると、これはいっそう怪奇な代物になりそうな…)。

ここで最初の「理論負荷性」に戻るわけで、無限ループではありますね…^^;


コメント有難うございますm(_ _)m

アムゼル2008/11/23言葉がすべて
さて理論負荷性ですが、哲学のことはよくわかりませんが、日本人は欧米の概念を哲学にかぎらず難しい漢語を用いて翻訳しがちです。<止揚>などという意味不明瞭な概念が「もちあげる」という日常ドイツ語にもとづくものとは、ドイツへ来てドイツ語で生活するまできづきませんでした。<弁証法>などもじつは<対話法>と訳したほうが適切だったでしょう。
つまり日本語による科学、学問はそのような変な漢語概念によっていかに不透明で明晰さを欠いたものになっているかがここからわかります。漢字だけを用いるシナ語などはあいまいさの多い言葉で学問には不向きの言語だと学んでつくづく思い知りました。この<負荷性>などという翻訳も漢字が悪さをしているその一例でしょうか・・・?
それはともかく、要は言語によって世界の切り取り方が違っているということでしょう。そのことは新しい外国語を学ぶたびに体感することです。ドイツ語にはドイツ語の解釈する観念世界があり、シナ語にはシナ語の規定する狭い世界があり、日本語には微細なものを表現するすぐれた世界表出力があります。
さて既成の変な概念に惑わされず自己の思索を深めてゆくことの大切さは、わたしは森有正から学びました。<経験>などというありふれた概念であれほど深く豊かな意味を作り上げた森の凄さは日本の哲学のなかでは稀有の例ではないでしょうか?おそらく森に耽溺したあのころからの内的希求がわたしをここまでつれてきたものと考えています。非力な思考力ですが行けるところまで行こうと決めています。